眠ってしまったシェラの頬を、ヴァンツァーは指先でそっと撫でた。
涙の跡。
怖がらせた自覚はある──そのために、したことだ。
だが、彼が感じたのがそれだけではなかったことも間違いない。
「──まったく」
しばらくは起きないだろうが、それでも意識して声を低くした。
苦笑して、縛り付けたままにしていた手首を解放してやる。
赤くなってはいるが、傷はついていない。
すっかり汚してしまったワンピースを起こさないように脱がせてやり、勝手にクローゼットを漁って見つけたタオルを濡らし、身体を清めてやる。
苛めて、哀願させて、それでも指一本触れる気はなかったのに。
「……大したひとだ……」
頭を撫でるようにして額に張り付いた銀髪を剥がしてやると、薄っすらと目が開けられた。
まだ起きないだろう、と思っていただけに、ヴァンツァーは目を丸くして手を止めた。
その手に自分の手を重ね、ぼんやりとした面持ちで頬へと持っていく。
仔猫が擦り寄るように、無邪気に体温を求める。
「……やっと、さわれた……」
「────……」
ふんわりと微笑んだシェラは、そのまますぅっと再び眠りに落ちてしまった。
幸せそうな寝顔のシェラとは逆に、ヴァンツァーはその妖艶なまでの美貌を険しくした。
憎悪すら感じさせるような表情で、奥歯を噛む。
眉を寄せ、シェラに取られたのとは反対の手をきつく握る。
そうして一度、大きく深呼吸をした。
「ただの遊びだ……遊び、なんだ……」
ホテルのレストランで自慢のブレックファストに舌鼓を打ち、食後のコーヒーを楽しんでいたナシアスは、柱の向こうに長身の男を見つけた。
王者の風格と言おうか、威張り散らした子どものようだと言おうか、大股に歩いてくる青年は自然と周囲の空気から浮き上がって見えた。
「やぁ、バルロ。待ちくたびれたよ」
「……お前なぁ」
精悍な顔立ちを思い切り顰めて仁王立ちする男に、ナシアスはおっとりとにこやかな笑みを浮かべた。
「きみもどうだい? どうせ朝食を摂っていないんだろう?」
「当たり前だ。誰かさんの電話で叩き起こされて、うちから小一時間かかる場所に呼び出されたんだぞ?」
「それは気の毒に」
「誰のせいだ!」
声を荒げれば、じっと見つめてくる水色の瞳に、「何だ」と返した。
「もしかして、わたしのせいなのかな?」
きょとん、として小首を傾げるナシアスに、バルロはひどい眩暈を感じた。
実際にナシアスが優雅にコーヒーなんぞを飲んでいる向かいの席に崩れるようにして腰を下ろした。
行儀悪くもテーブルに肘をつき、額を押さえる。
手の間から覗いた金髪の優男は、幸せそうな顔でカップを傾けている。
分かっている、わざとだ。
この優男はこう見えてかなりの狸だから、『わたしは何も知りません。善良な一般市民です』という風を装っているだけなのだ。
分かってはいるのだ。
「……お前、ロクな死に方せんぞ」
「あぁ、それに関しては、ちいさい頃から『腹上死』と決めているんだ」
「……どんな子ども時代だ……」
「幸せそうだろう?」
「それで死なれた方はたまらんぞ」
「『忘れられない恋人』ってヤツかな?」
「そんな自分勝手な『恋人』があるか」
はぁ、と大きくため息を吐くと、ソーサーにカップを置いたナシアスが「そうだね」と呟いた。
眉を聳やかすバルロに、ナシアスはにっこりと笑いかけた。
「朝食を食べるなら、コーヒーお代わりするんだけど」
「……」
もう、どう頑張っても口で勝てる気がしなくなったバルロだった。
半ば自棄になって朝食を胃に詰め込んだバルロだったが、なかなか悪くない味でそれなりに満足してホテルを後にした。
しかし、満足したのは彼の胃袋であって、彼自身ではない。
「まったく、どうして俺が」
運転しながらブツブツ言っていると、助手席の男は呆れ返って嘆息した。
「まだ言っているのか?」
「寛大な俺に感謝しろ」
「惚れた弱みだろう? 仕方ない」
「……」
一瞬、思わず黙り込んでしまったバルロだったが、ふるふるっと頭を振ると、「大体な」と説教を始めた。
やれ日頃の行いがどうだの、あまりにも妹とそれ以外の人間に向ける態度が違い過ぎるだの、果ては礼のひと言も言えないのかだの。
豊かなバルロの声は、狭い車内で聴くには少々響きすぎる。
バルロに面した片方の耳を押さえれば、運転中だというのに「聴いているのか?」とこちらに顔を向けてくる始末。
大袈裟にため息を吐いたナシアスは、「はいはい」と言ってバルロの頬にキスをした。
「────んなっ?!」
素っ頓狂な声を上げ、ハンドルを切り損ねそうになったバルロに、ナシアスは涼しい顔で「危ないじゃないか」と指摘した。
広い公道で車の通行もまばらだからいいようなものの、一歩間違えれば大惨事である。
「だ、おま、なっ、~~~~!!」
「せめて人間の言葉を喋ってくれないかな? それと、運転中は前を見る」
しれっとした顔のナシアスとは正反対に、バルロは異様な速さでバクバクいっている心臓を持て余していた。
おかしな汗をかいている気がするが、どうにか心を落ち着けてナシアスに訊ねた。
「……どういうつもりだ」
「どういうって?」
「だから、今の……その……」
「キス?」
何でもないことのような顔をしているナシアスに、バルロは狼狽を隠し切ることが出来ていない声で言った。
「……何だ、いきなり」
「何って……報酬?」
「──は?」
「だから、迎えの報酬」
「……」
「礼のひと言も言えないのか、と言ったのはきみだろう?」
言った。
確かに言ったが、運転中にキスをしろと言った覚えはこれっぽっちもない。
「そもそも、キスが報酬なんて、お前一体どういう了見をしているんだ」
「喜ぶかな、って思って」
「……」
あーそうですか。
そういう扱いですか。
喜びました、確かに喜びましたよ。
しかし、早朝から叩き起こされて、車で迎えに来させられた男に対する報酬が──しかも、面と向かって告白したこともある男に対して、『別の男と遊んだら足腰立たなくなった』という理由で迎えに来させた報酬が、頬への口づけひとつとはどういうことか。
「……俺はそんなに安いのか」
不貞腐れるように文句を言えば、ナシアスも負けじと返した。
「わたしのキスがそんなに安いと思っているのかい?」
「……」
またしても思わず黙り込んでしまって、違う違う、と首を振る。
「お前はその人を喰ったようなところを直さないと──」
「バルロ」
呼ばれてちらり、と視線を向ければ、聖母のような微笑をたたえた美貌があった。
「ありがとう」
「……」
せっかくの休日だというのに朝からぐったりしてしまったバルロだが、一応釘を刺すことだけは忘れなかった。
「……今回だけだからな」
ナシアスは微笑んだ。
「うん。────その台詞、もう三回は聞いたけどね」
隣でバルロが唇を引き結んだのが分かり、くすくすと喉で笑う。
途端に脇腹がツキン、と痛み、顔を顰めてそこを押さえた。
「どうした?」
何だかんだ言っても心配そうに声をかけてくる男に、ナシアスは首を振った。
「何でも。言っただろう? ハメを外しすぎたって」
腰が痛いんだよ、と片目を瞑れば、ガキ大将がそのまま大きくなったような男は、ふんっ、と鼻を鳴らして前を向いてしまった。
それにやはり笑ってしまったナシアスは、二、三度脇腹を摩るとふぅ、と息を吐き出した。
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