深夜近く。
机で宿題を片付けていたレティシアは、舌打ちしながらドアを開け、ベッドの上へと乱暴に鞄を投げたルームメイトにきょとん、とした顔を向けた。

「まーた随分ご機嫌ナナメですねぇ」
「そう思うなら話しかけてくるな」
「──本気で話しかけて欲しくないときは完全無視するクセに」

机に向き直りポツリと呟く友人に、ヴァンツァーはひくり、と目元を引き攣らせた。

「……レティー」
「あいよ」

押し殺した声にも、レティシアはシャープペンシルを指先で器用にくるくると回しながら問題に取り組む。

「俺は馬鹿が嫌いだが、無駄に聡いヤツはそれ以上に嫌いだ」
「ありがとうよ」
「……なぜそこで礼を言う」
「だって褒めただろ?」

振り向いてにっこりと笑う友人に、ヴァンツァーは思い切り顔を顰めるとベッドへ横になった。
宿題が終わったというわけでもなさそうだが、レティシアは興味の対象を友人へと切り替えた。

「で。どうだったのよ、うさぎちゃんとのデートは」
「そんなんじゃない」
「珍しく真っ昼間に会ってんだから、デートだろうが」
「だから」
「あ、それとも、ヤりっぱなし?」
「……」

いい加減にしろ、という顔をするヴァンツァーに、レティシアは「いーじゃん教えてくれてもー」と唇を尖らせる。
ヴァンツァーの寝そべるベッドの端に腰掛けると、高校生というにはだいぶ大人びた美貌を見下ろした。
やわらかな黒髪にそっと指を絡める。

「──あの銀色のうさぎちゃん、どんな風に啼くんだい?」

反射的に目を瞠ってしまったヴァンツァーは、瞬時に表情を繕った。
しかし、レティシアは大層観察力の鋭い少年だった。
若干強張った頬から首筋に指を這わせ、その耳元に唇を寄せた。

「脈、速くねぇか?」
「……」
「ん? どした。怖い顔して」

にやり、と笑う少年に、ヴァンツァーはゆっくりと身を起こした。
ひと言も発せず、じっと飴色の瞳を覗くようにして見つめる。
しばらくして、喉の奥から掠れた声を押し出す。

「……お前」
「同じこと言ってたぜ」
「え?」
「うさぎちゃん。──I wanna make love with you.
「……」
「お前が言ったんだろう? 『双方対等な立場で』ってさ」

くつくつと喉の奥で笑ったレティシアは、相手の顎を取ると唇が触れそうな距離でささやいた。

「────もう、一方的なのはゴメンだもんな……?」

直後、レティシアの痩身は殴り飛ばすような強さで払い除けられた。
おっと、と危なげなく体勢を整えると、今度はぐっと襟首を掴まれた。
抵抗するでもなくされるがままになるレティシアに、ヴァンツァーは射殺そうとするかのような視線を向けた。

「……どっちが死にたがりだ」

呪詛のように唸る声にも、レティシアはへらり、と緩く笑むばかり。
その襟を掴む手に更に力を込めたヴァンツァーは、しばらく見下ろしていた小柄な少年を突き飛ばすようにして顔を背けた。
自分用の机へ移動し、腰を下ろすヴァンツァー。
足音もさせずに近づいたレティシアは、背後からそっと腕を回した。
抵抗するのも面倒になったのだろう友人に、レティシアは喉の奥で笑いながら呟いた。

「──お前なら、構わねぇよ……」

出来ないことを知っているからこその台詞に、ヴァンツァーは秀麗な額に皺を寄せた。

「……この、ドSが……」

吐き捨てるような台詞に、レティシアはおかしそうに笑って、「今更」と答えた。


目が覚めるとき、無意識に体温を探した。
けれど冷たいシーツ以外何も手に触れなくて、どこか落胆して瞼を持ち上げた。
よく見知った自分の部屋。
薄暗い室内。
時計を確認するのも億劫で、しばらく、ただ天井だけをじっと見つめていた。
再び瞼を閉じ、額の上に腕を置く。
微かな痛みを感じて目を開ければ、手首が紅くなっていた。
あぁ、縛られたんだっけ、とどこか他人事のように思う。
今回のような扱いは、珍しいことではなかった。
もっとひどくされたこともある。
痛みが欲しいと思ったことはないが、縛られている感覚に安堵するのは確かだった。
逃げられず、大した抵抗も出来ない。
殺されても文句は言えない状況に、安寧を覚える自分がいるのだ。

「……まずいな」

自嘲の笑みを口許に刻む。
細く息を吐き出せば、喉が震えた。
忘れていた感覚。
本当に、あの人がいかに健康的で、真っ直ぐな人間だったのかということが嫌というほど分かる。

「困った坊やだ……」

あの青年は、他人の本質を読み取る能力に長けている。
彼に指摘されたことで、頭から否定出来ることなど何もないと言ってもいい。

──紅く、汚されたい。

いっそ心臓に短刀を突き刺し、深く抉りながらやさしく微笑んで「──痛いかい?」と。
そんな風に。
きっとその瞬間、自分はかつてないほどの悦楽に身を酔わせ、精も命も果てさせるのだろう。

「──……参った」

惹かれている──彼に、惹かれている。
それが彼という人間自身に対してなのか、彼の抱える闇に対してなのか。
分からないけれど、そろそろ潮時だろう。
これ以上は、前途ある青年の未来を潰すことになりかねない。
いつやめてもいいと思っている教師という職業──それでも、あの人の応援してくれたそれが、ちいさな楔になる。
手を繋いで、街を歩いて。
買い物をして、恋人どうしのように食事をして。
あの時間に胸をときめかせたのは、事実だ。
彼を見つめる女性たちの熱い視線に、優越感を覚えたのも。
彼の気紛れが続く間そんな関係でいることも、不可能ではないのかも知れない。

────しかし。

「……私のものじゃ、ない」

自分も、彼のものではない──そう扱っては、くれない。
彼は、何かを抱えている。
それが何かは分からないし、訊くつもりもない。
訊いてしまえば、戻れなくなる気がする。
彼の闇を知れば、彼が望むと望まざるとに関わらず、自分の闇も晒してしまう。
けれど、彼がその抱える『何か』のために、最終的な自分の望みを叶えることはないのだ、ということは不思議と感じ取れた。
口では何とでも言うが、彼は実行には移さない──移せない。

「────……本当に、やさしくない……」

だから、──さぁ。

この渇きを、どうやって癒そうか……。


「おはようございます」

月曜の朝、明るくそう声をかけられたシェラは一瞬声が出てこなかった。
不思議そうな顔で首を傾げる柔和な美貌にはっとして、慌てて頭を下げた。

「お、おおお、おはようございます!」

まだ教員ですら、出勤しているものは少ない。
廊下に響き渡る声に、ナシアスは笑いを噛み殺した。

「先生は、今時珍しいくらいに正直な方なんですねぇ」
「……え?」
「隠し事とか、出来ないでしょう。思い切り顔に出るんですね」
「……はぁ……」

思い当たる節があるのか、シェラは淡く染まった頬を掻いた。
そうして、ふと思う。

──あの子は、どうして分かったのだろう……?

自分が、他の男と寝たことが。
少なくとも、顔を合わせたわけではない。
カマをかけた、と言われればそれまで。
馬鹿正直に反応したのは自分だ。
しかし、いくら何でもあのタイミングで連絡が来るだろうか。
無意識に眼鏡を直そうと指を眉間に伸ばし──そこに、あるべきものがないことに思い至る。
もともと視力は悪くないのだから、視力矯正用の眼鏡など必要としない。
だから、今朝まで気づかなかったのだけれど。

「先生?」
「──あ、はい」
「どうかしました?」

ふわり、と微笑む美貌に、シェラも自然と笑顔になった。
ふるふると首を振る。

「いえ、何も」

あまり、気にするのはよそう。
考えれば退けなくなる。
彼は知らないうちに帰ってしまったから、どんな思いをしているのか分からない。
独占欲とは無縁のような子が、どうしてあんな行動に出たのか。
考えれば考えるだけ深みに嵌るのは分かっているから、だから、考えるのはよそう。
彼が眼鏡を持って行ったと決まったわけではない。
そもそも、そんなことをしても、彼には何のメリットもない。
彼は、メリットのないことはしない。
ただ、学校で素顔を晒すのは出来れば避けたかったのだが。

「本当に?」
「はい」
「それならいいんですが」

ナシアスは、そっとシェラの頬に指を伸ばした。

「──少し、無理をさせすぎたかと心配しました」
「──っ!!」

かっと頬に朱を上らせるシェラにおかしそうな笑みを向けると、「それじゃあ」と手を振って研究室へと向かっていった。
残されたシェラは撫でられた頬に触れ、

「……」

よく分からない違和感に、ちいさく首を傾げたのだった。




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