案の定、校内はえらい騒ぎになった。
まずは職員室での朝礼で。
誰だあれは、の大合唱を、校長であるウォル・グリークが根気強く、しかし困った顔で静めたものだ。
教員たちでさえそうなのだから、生徒たちは言うに及ばず。
次は受け持ちの特進クラス。
朝礼での連絡事項は、担任のロザモンド・シリルではなく副担任であるシェラが代わって伝えることが多い。
本日もそうだったわけだが、秀才揃いの特進クラスもしばらくざわめきが収まらなかった。
他のクラスの手前どうにか生徒たちを黙らせ、俯き加減で出席を取り、必要な情報を連絡する。
ちらり、と見たヴァンツァーがおかしそうな顔をしていて、やはりこうなることが分かっていて眼鏡を持ち去ったらしいことを確信した。
さっさと返してもらおう。
こんなことなら予備の眼鏡を作っておくべきだった。
しかしまさか眠っている間に持って行かれるとは思わなかったし、実際なくても何ら支障のないものだから、そんなことにまで気が回らなかった。
本当に、困った坊やだ。
それでも終業式直前のその週は何かと忙しく。
授業はもうないのだが、特別授業やら球技大会やらであちこち動き回っていて、眼鏡を取り返す暇も、新しいものを作りに行く時間もなかった。
その間、廊下で顔を合わせる生徒に端から囲まれ、抜け出すのにかなり苦労した。
そうして、とうとう一学期の終業式の日を迎えてしまったのだ。
式が終わり、今日こそは、とシェラは教材の整理を理由にヴァンツァーを研究室へ呼び出した。
拒む理由もないのだろう。
大人しくあとをついてきたヴァンツァーは、言われるままシェラに眼鏡を返した。
ご丁寧にきちんとケースに入れて持っていてくれたらしく、無傷で戻ってきた。
「まったく……優等生のくせに、手癖が悪いな」
「あぁ、よく言われます」
「きみはこんなことを頻繁にしているのか?」
呆れというよりは教員としてかなり心配になってしまったシェラだ。
しかし、ヴァンツァーはどこか可愛らしい笑顔で首を振った。
「いえ、手が早い、って」
「……あぁ」
そういうことか、と思わず納得してしまったシェラだった。
どうでもいいが今週はかなり疲れた。
教材整理なんて本当はないわけで。
もう帰っていいぞ、と言ったのに黒髪の生徒はそこに居座ったまま。
「……何だ?」
訝しげに問いかけるシェラに、ヴァンツァーはひと言こう言った。
「──バレちゃった」
にっこりと微笑んでいたから、彼が何を言っているのか、シェラは一瞬理解出来なかった。
「ルームメイトに。あなたとのこと」
「──なっ?! まさか、きみ」
「俺は何も言ってない」
「それなら」
「人のせいにしちゃいけません、って幼稚園の先生に言われませんでした?」
「……まるで私がいけないみたいな言い方だな」
「実際そうですから」
「私が何をしたって言うんだ」
ふいっ、と背を向けるシェラに忍び寄り、そっと腰を抱く。
ぴくり、と震えた肩に唇を押し付ける。
「──……あなたが、いけないんだよ……?」
「だから、私が何を」
「I wanna make love with you.」
甘くささやかれた声に、思わず首をすくめた。
ぞくり、と腰に直接響くような低音。
耳にかかる湿った吐息に、勝手に身体が疼き出す。
それほどまでに、彼の声と体温は馴染んでしまっている──そう思ったら、切なくなった。
唇を噛んで眉を寄せると、くすくすと笑う声。
「イケナイ人だ。授業中にまでそんな風に男を誘うの……?」
「なっ」
「物欲しそうな瞳で。薄っすら口許に笑みを浮かべて」
「私は」
「俺とのsexじゃあ物足りなかったのかな? また、お仕置きが必要……?」
「……っ」
服の上から下肢に触れられ、シェラは思わず息を詰めた。
「ほぅら。堪え性のないカラダ……」
ぎゅっと目を瞑るシェラ。
からかうように項に唇を寄せたヴァンツァーは、そこに自分が残したものではない鬱血を見つけて、すっと目を眇めた。
とん、と細い身体を突き放す。
目を丸くするシェラには構わず、彼はソファに腰掛けて長い脚を組む。
「勘のいい男でね。俺が同じ台詞を言ったのを、覚えていたみたいですね」
「同じ……?」
「えぇ。Sexするなら『双方対等な立場で』ってね」
「……」
じっと見つめていると、皮肉に口許が歪められた。
「なに? 気になるの?」
「……別に」
「寝てるよ」
「──っ……」
「同室だし、色々都合いいんですよ」
「……」
「いいだろう、別に。あなただって、他の男と寝ているんだから」
「……私は……」
言い淀んで結局口を閉ざしたシェラに、ヴァンツァーはハッと嘲るように吐き出した。
「『私は』、何?」
「……」
「私は『そんなことしていない』? それとも、私は『いいんだ』か?」
「そんな」
「あぁ、──私は『お前の恋人じゃない』、だな」
「……」
「『お前のオンナじゃないんだ、何したって、誰と寝たって勝手だろう』って?」
「……」
「確かに、その通り」
大袈裟に肩をすくめてみせる。
その小馬鹿にするような態度に、思わずむっとした。
「……だったら、いいじゃないか」
「なに? 開き直るの?」
「私はきみのものじゃない」
「そうだな」
「きみだって、……私のものじゃない」
「そうだ」
「……だったら、別にいいじゃないか」
はっきりきっぱり言い切られた言葉に胸が痛み、シェラは顔を歪めた。
痛めてはいけないのだ。
彼が卒業するまであと半年。
もっと早く彼は飽きてしまうかも知れないのだから。
飽きて捨てられるのは慣れているけれど、だからといって気分がいいわけない。
「えぇ。構いませんよ、別に」
にっこり笑ったかと思ったら、ふいっと横を向く。
大人びて精悍なはずの美貌に翳りが差した気がして、シェラは言葉を探した。
「裏切られることには慣れている──いい加減、飽きてきたけど……」
言葉を見つけるよりも早くぽつり、と呟かれた声に、シェラは思わずかっとなった。
「──裏切る?! 私がか?!」
その本来の気性はどうであれ、普段は物静かなシェラが珍しく大きな声を出すのにも、ヴァンツァーは億劫そうな視線を送っただけ。
──違うとは言わせない。
そう、雄弁に語る藍色の瞳に、拳を固めた。
「自分だって他の男と寝ているくせに、私にだけ誠実さを強要するつもりか?!」
「だから、別にどうでもいいと言っている」
「言ってないじゃないか! どうして私が裏切ったことになるんだ!」
「あぁ、あなたにとっては、同時に何人もの男を銜え込むのは日常なわけだ」
「っ! 人を侮辱するのもいい加減にしろ!」
「侮辱?」
わざとらしく、きょとん、と丸くされる瞳。
直後おかしくもなさそうな、乾いた笑いが室内に響いた。
「──そっちこそいい加減にしろ」
意図的に低められた声に、びくっ、と身を震わせる。
ゆらり、と立ち上がる長身に、一歩引く。
「ちょっとやさしくしてやるとこれだ」
ゆっくりと、近づいてくる薄く笑んだ男。
「……きみが、いつやさしかったっていうんだ」
「心外だなぁ。何度もイかせてあげたのに」
「そ、そんなの別に」
「ヨかったんだろう?」
「……」
否定出来ないシェラにくすり、と笑みを零し、追い詰めた先の壁に手をつく。
「雌の扱いなんて、大して変わらない」
「……」
「やさしく笑って、ちょっと強引に誘って」
「……」
「時々甘やかして、快楽に酔わせて」
「……」
「たまに冷たくしてやると、向こうから擦り寄ってくる」
すっと伸ばした指先で、細い顎を持ち上げる。
不安気に揺れる瞳の奥には、それだけではない色が見え隠れする。
落胆するかとも思ったがそうでもない自分に少し驚き、しかしそんな感情は一切表に出さずにヴァンツァーはシェラの唇に舌を這わせた。
びくりっ、と肩を震わせ身じろぎするが、逃がしてやる気は毛頭ない。
「獲物は獲物らしく、狩られていればいいんだよ」
「……ゃ、っ」
「そう。そうやって嫌がるふりをして、追いつかれるのを待ちながら逃げて」
「……ちが」
長身を押し返そうとし、逆に腕を取られて壁に押し付けられる。
圧倒的な力の差。
今までだって好きなように扱われてきたけれど、こんな風に力ずくで押さえ込まれたことはない。
本当に、逃げる隙さえ与えてもらえない現状に。
「ぃ……い、や……」
「本当に、嘘しか吐かないんだなぁ────感じてるクセに……」
「……」
顔を背ける。
好都合とばかりに、目の前に晒されて耳朶に唇を寄せる。
シェラの身体はどこも敏感だったが、耳や首筋は特に弱い。
また、自分の声にも弱いことを、ヴァンツァーは知っていた。
「イイんだろう……? こうやって、無理やりされるのが」
「……」
「抵抗を封じて、力ずくで犯されるのが好きなんだよな……?」
「そんなこと」
「『思ってません』? ほら、また嘘を吐いた」
「……」
ツ、と指の背でシャツの上から鎖骨をなぞり、今度は指先を胸に向かって下ろしていく。
「──ここ」
ほとんど吐息で喋る低音は情事のときのように少し掠れていて、それだけでも背筋がぞくぞくと騒ぐ。
彼の指の真下にある心臓が、どくどくと忙しなく血液を全身へ送り出していた。
「握り潰してあげたら、あなたはどんな風に啼くんだろう……?」
「──っ、ぁ……」
ぞくっ、と。
足元から力が抜けるが、手首を戒められているおかげで崩れ落ちることはなかった。
「胸を切り開いて、心臓を取り出して」
「……ゃ、ぁ……」
「体液を啜って、やわらかく歯を立てて」
「っ、ん……」
「そうやって……────喰われたいんだろう……?」
やさしい声音でささやかれた瞬間、涙が零れた。
眉を寄せ、きゅっと唇を噛み締める。
堪えようとしても嗚咽が飲み込み切れなくて、ふ、と息を吐いたら溢れて止まらなくなった。
「……ひど、い……」
手首は壁に押し付けられたまま解放されない。
だから、シェラは涙を拭うことも、泣き顔を隠すことも出来ない。
けれど、その戒めがひどいのではない。
「ひどい……そんな……」
しゃくり上げて泣くのを、ただただ見下ろす冷たい瞳。
それをひどいだなんて、思ったこともない。
「……─────そんな風に、扱ってもくれないくせに……」
それこそが。
言葉で嬲って、視線で犯して。
その先にある終焉を待っているというのに。
重ねられる言葉で煽るだけ煽って、そうして突き放すのだ。
想像をかき立て、希った最期をちらつかせながら、結局与えてはくれない。
こんなに苦しいことはない。
その苦しみも甘美と言えば言えたが、願うのはそこから解放されることだ。
この、責め苦のような生から解き放たれること。
それを、望んでいるというのに。
「……ひどい……」
緩んだ戒めに握った拳で胸を殴りつけても、細く見えるのに硬い身体はびくともしない。
「ひどい……」
どんなに望んだって、手には入らない。
彼も。
そして、
「────死にたがり……」
少し笑ったどこかやさしい声で呟いて、ヴァンツァーは嗚咽ごとシェラの唇を奪った。
煩く鳴き喚く蝉の声もどこか遠く。
空調が効いているはずの室内は引き攣れるような喘ぎと吐息で湿度を増し。
行為は性急で。
いつになく荒々しくて。
諸々の感情をそのままぶつけられているような。
「──……ヴァン、ツァ……」
やさしくなんてなくて。
余裕なんてもっとなくて。
お互い初体験の子どもみたいで。
「シェラ……」
それなのに。
いつのときよりも、確かに、────近くに感じられた。
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