朝食の支度を終えたシェラは、エプロンを外しながら寝室へと脚を踏み入れた。
起きたときに空調を調節したから暑くはない。
むしろ実に快適な室温だから、気持ちは分かる。

「──起きて」

枕元で声をかける。
その声音がどこか甘いと、自分でも思う。

「ほーら」

額にかかる髪を指で払っても、綺麗に整った顔は眉ひとつ動かない。

「起きないとご飯抜きだよ」

ちょっと笑って頬を突付くと、ようやく瞼が持ち上げられた。
その奥からは、性格の悪さが信じられないくらいに澄んだ青い瞳。
吸い込まれそうな瞳とは、きっとこれを言うのだろう。
きっと、一日中見ていても飽きない。
その瞳でしばらくぼんやりとシェラの腰の辺りを見つめていたヴァンツァーは、二、三度瞬きをした。

「……俺、寝てた……?」

まだ寝起きの掠れた声でそんなことを呟かれ、シェラは思わず笑ってしまった。

「何言ってるんだ、寝ぼすけ。ぐっすりじゃないか。もう八時だよ」
「……八時……」

子どものようにシェラの言葉を繰り返す。
常の彼からは考えられないくらい無防備な様子に、とくん、とひとつ、心臓が跳ねた。

「──ほ、ほら。服着て。朝食冷めちゃう」

この表情も演技なのだろうか、と思いながら、どこか『それでもいい』と思っている自分がいる。
目が覚めて、ぬくもりがあって、一緒に朝食を食べる人がいる。
今は、それがすべてでいい。
そう思って昨夜ベッドの下に脱ぎ落とした服を拾って渡すと、その手を引かれた。

「──きゃっ」

ぱふっ、とシーツに倒れこむと同時に、更に腕を引かれて腰に手を回される。
寝起きで全然力なんて入っていないはずなのに、突然のことに煩く音を立てる心臓と震える脚のせいで逃れられない。

「ち、ちょっと」
「もう少し、寝る……」

ぼそぼそと呟くと、シェラを腕に囲い込んだまま再び瞼を閉じてしまった。
慌ててしまったシェラである。

「ちょ……寝るのはいいけど、ご飯は食べないと」
「……あとで」
「せっかく作ったのに冷めちゃう」
「あなたの料理は、冷めても美味しいよ」
「……」

食べたこともないくせに、どうしてこの子はこういう殺し文句を平気で口にするのか。
分かっていても、嬉しくなってしまうというのに。
同じ台詞を、どれだけの人間に使ってきたのだろうか。
それでも、寝顔を見せたのは本当か嘘かこの世界であとひとり。
特別なのかな、と思う反面、他にもいるんだ、と落胆する自分がいるもの確か。

「……起きて、ヴァンツァー」

名前を呼ぶと、ゆっくりと瞼が持ち上げられた。
無言で眼下を見下ろせば、しばらくシェラの瞳をじっと見つめたあと、ゆったりと微笑む。
思考がいっぺんで吹き飛ぶような、極上の笑顔だ。

「シェラ」
「……うん?」
「俺さ、不眠症なんだ」

菫の瞳を丸くする。
微笑みながらもその藍色はどこか寂しげで、それが嘘や冗談などではないことを雄弁に物語っていた。

「極端なshort sleeperでね。一時間単位でしか眠れない」
「……」
「こんなに眠ったのは久々で」
「ヴァンツァー……」
「だから、もう少し……眠らせて……?」

あなたの隣で、と両腕で抱きしめられて、シェラは全身から力を抜いた。
ふと見た青年は、もう既に静かな寝息を立てていて、頬を緩めた。
彼がなぜ、突然こんな態度を取るようになったのかは分からない。
近くに感じられたのは肌を重ねているときだけで。
だから昨日は研究室で抱き合っただけでは足りなくて、彼を自宅へ呼んでしまった。
もちろん一緒に帰ったりはしなかったけれど、それでも、見つかるかも知れないという心配よりも、繋がっていたいという思いの方がずっと強かった。
彼もそう思っているのかどうかは分からないけれど、少なくとも、今はこうして胸に抱いて眠ってくれる。
ベッドの上で向かい合わせに。
起こさないように気をつけながら、白い額に唇を寄せる。
ちゅっ、とちいさな音を立ててキスをすると、何だか、すごく幸せな気分になった。
自然と綻ぶ口許をそのままに、シェラも瞳を閉じた。
その瞬間を見計らったかのようにそっと腕に力が込められ、合わさった胸から直接心音が響いてくる感覚に、

「……おやすみ」

安心して、眠った。


結局次に目が覚めたのは昼前で、『朝食』は『昼食』になった。

「シェラ」
「……ん」
「起きないと、ご飯抜きですよ?」

くすくすと笑う声に、重い瞼を持ち上げる。
床に膝をつき、ベッドに腕を乗せて頬杖をついている美青年。
けれど、今日はどこか『美少年』といった方が合うような雰囲気だ。

「……それ、私が言った台詞」
「知らないなぁ」
「ずる……」

ずっとこのまどろみの中にいたくて、シェラはダブルベッドの上でゴロゴロしている。

「まったくこのうさぎちゃんは。──Kissでもすれば起きるのかな?」
「そんなことされたら、気持ち良くて起きられない」
「珍しく正直だね」

ご褒美だよ、と軽く唇を啄ばむ。
そんな甘い恋人どうしのようなやり取りに、シェラは軽く息を吐いて目を開けた。
目の前にある顔は、本当に息をしているのが不思議なくらいに綺麗だ。
男にも『大理石のような肌』という表現を使ってもいいのだろうか。
白く、吸い付くような質感に、誘われるまま手を伸ばす。
温度などなさそうに見えるのにそれはきちんとあたたかくて、滑らかな頬を撫でて髪を梳く。

「どうしました?」
「それはこっちの台詞」
「はい?」
「きみ、どうしてそんなに上機嫌なの?」

言えば、きょとん、と藍色の瞳が丸くなる。

「……俺、上機嫌ですか?」
「は?」
「上機嫌……」
「何だ、その顔で機嫌悪いのか?」
「いや……」

何だか困惑したような面持ちをしている青年に「別にいいけど」と呟きを返し、シェラはゆっくりと起き上がった。
二度寝なんてどれくらいぶりだろう、と思い、はた、と気づいた。

「……よく、眠れた?」

訊けば、一瞬不思議そうな顔をしたヴァンツァーだったが、すぐに口許を綻ばせた。

「えぇ、おかげさまで」
「そう……」

本当に、今日の彼はびっくりするくらいに素直で可愛らしくて、さっきから心臓がめちゃくちゃな動き方をしている。
でも、その心臓の鼓動が心地良い。
こんな風に穏やかに『生きている』と実感出来るなら、それはそれでいいのかも知れない。

「じゃあ、今度こそご飯にしよう。お腹空いた……」
「そりゃあ昨日夕飯も食べずにあれだけ運動すれば」
「──っ! きみはどうしてそういうことを!」
「気持ち良かった」

訊ねるのではない口調に、シェラは軽く眉を上げた。

「人を抱いて、『気持ちいい』と思った」
「……ヴァンツァー?」
「初めてかも知れない」

薄く微笑む美貌を心から綺麗だと思うのに、何だか胸が痛い。
それが切なさなのかやるせなさなのか、それともまったく別の感覚なのか。
眉根を寄せるシェラを見て、ヴァンツァーはくすり、と笑んだ。

「どうしたの? 泣きそうな顔をしているね」
「……」

大きな手で顔を包み込まれ、頬をやさしく撫でられる。
どうしようもなく心地良くて、細く息を吐き出しながら瞼を閉じた。
ねだったわけではないけれど、軽く唇を啄ばまれる。
そのキスにも、胸が熱くなった。

「シェラ」
「……ん……?」

ゆっくり瞼を持ち上げると、彼は綺麗な顔でにっこりと笑った。

「──お腹空いた」


「──本当に、料理上手いんだな」

感心したような口調に、シェラは苦笑した。

「ありがとう。でも、出来たてならもっと美味しかったと思うよ」
「二度目はあなたの方がよく寝てたよ」
「まぁ、それは否定出来ないけど」

綺麗に空いた皿に目を細め、シェラは食後のお茶を用意しようと席を立った。

「コーヒー? 紅茶?」
「コーヒー……俺やろうか?」
「いいよ。お客様は座ってて」
「……やっぱり俺がやる」
「ヴァンツァー?」

重ねた皿を手にしたヴァンツァーはキッチンへと向かった。
あとをついていったシェラは、洗い物までしようとしている青年にぎょっとした。

「い、いいよ! 私がやるから」
「美味しい『昼食』のお礼」
「……いいのに、そんなの」

一緒に食事をしてくれる、ただそれだけで自分はこんなにも救われているというのに。
それがヴァンツァーだからなのか、他の誰かでも同じなのか、それは分からない。
それでも、あの人と別れてから感じる久々の幸福感に、シェラは感謝をしていた。
だから、お礼を言うのはむしろ自分の方なのだ。
しかし、まさかヴァンツァーの手から無理やり皿を取り上げるわけにもいかず、シェラはどうしたらいいのか分からずにおろおろしていた。
ふと藍色の瞳が振り返る。
目をぱちくりさせるシェラに、ヴァンツァーは悪戯っぽく笑って告げた。

「──何だか、新婚夫婦みたいだな」
「なっ──?!」
「赤くなって、初々しいね」

しれっとした顔で洗い物を続ける青年から、シェラはふいっ、と顔を逸らした。

「またそうやってからかう! きみは本当に、性格が大問題だな」
「うん。顔とカラダと頭がいいからね。さすがにそこまで完璧だと逆に気持ち悪いし」
「……自分で言うかな」
「──……でも、悪くないな」
「──え?」

皿を洗い終わり水を止めると、ヴァンツァーはシェラを振り返った。

「コーヒー? 紅茶?」
「紅茶……って、いいよ。本当に、私がやるから」
「平行線だな」

苦笑したヴァンツァーは、「分かった」と肩をすくめた。

「じゃあ、お言葉に甘えるとしましょうか────奥さん?」

ちゅっと頬にキスをして、キッチンを出て行く。

「っ、だ……」

首まで真っ赤に染めたシェラは、喘ぐように呼吸してすらりと伸びた長身に声をぶつけた。

「────誰が『奥さん』だっ!!!!」

食事も終わり、食後のお茶もカップの底が見えるようになった。
テレビもつけていない室内はとても静かで、カチカチと時を刻む時計の音が僅かに響くのみ。
会話が途切れてどれくらい経っただろう。
シェラは先ほどからちらちらと時計を見ることが多くなった。
進んでいく針を見つめては、俯いてため息を呑み込むのだ。

「──さて」

久方ぶりの声に、シェラの細い肩が震える。

「そろそろ帰った方が良さそうだな」
「……」
「あまり歓迎されていないみたいだし」

まぁ、当然か、と自嘲する青年に、シェラは「え?」と声を上げた。

「このあと、何か用事でもあるの? さっきから時計を気にしている」
「──ちがっ」
「悪かった。そうだな。あなたは『俺のもの』じゃない」
「──違う!」

静かに席を立つ青年の前で、シェラは勢い良く立ち上がった。
しかし、『違う』と言い切った自分に困惑しているシェラは、次の言葉を見つけられない。
それを見て、ヴァンツァーが形の良い唇を皮肉に歪める。

「何が違う?」
「……」

俯いてしまったシェラに、深く大きなため息を吐く。
びくりっ、と震える細い肩。
明らかに怯えているその様子に、藍色の眼が眇められる。
リビングへ鞄を取りに行き、まだ立ち尽くしているシェラの横を通り過ぎるときに声をかけた。

「良かったな。これから夏休みだ。俺と顔を合わせることもない」
「……」
「それじゃあ、二学期に」

去って行く背中に、シェラは思わず手を伸ばした。
服の裾を引かれ、ヴァンツァーは立ち止まった。

「なに?」
「……」
「この手は、なに?」
「──っ……」

怒られる。
だって、声が低い。

「……ごめっ」
「謝れなんて言ってないけど」
「……」

何か言わなくては、と思うのに、喉が詰まって声が出ない。
心臓は不自然に乱れ、呼吸もままならず、服を掴んだ手はカタカタと情けないくらいに震えている。

「……」

そうして、結局シェラはその手を離した。
唇を引き結んで黙り込んだシェラに、ヴァンツァーは一瞥を向けただけで部屋を出て行った。


それから一週間が経った。
シェラの受け持つ部は、夏休みの終わりに少し活動があるだけ。
この学校の場合、授業がなければ教員は学校へ行く必要がない。
だから、まるまるひと月は休みがある。

「……」

誰もいない部屋で、シェラは膝を抱えていた。
考えないようにしているというのに、脳裏に浮かんで来るのはいつも同じ顔。
あの人──ではない。
だから、困惑している。
半年前まで──否、ほんの少し前までこういうときに思い出す顔は決まっていて、あたたかい子どものような笑顔に胸を痛めていた。
しかし、今は違う。
今思い出すのは、皮肉で、意地悪で、顔の良さに反比例して性格なんか最悪で。

──それでも、作り笑いでない笑顔は本当に綺麗で。

「──ヴァ……」

名前を呼びそうになって、慌てて口をつぐむ。
毎日、同じことの繰り返し。
外出でもすれば気分が晴れるのかも知れないけれど、今は外に出ない方がいいことも経験上分かっている。
こんな気分のときは、誰かに声をかけられるのを待ってしまうから。
もう、あの生活には戻らない。
あの人と付き合い始めた頃、自分に言い聞かせた言葉。
けれど、それならばこのもやもやとした気持ちは、どうやって晴らせばいいのだろう。
分からない。

──……だって、逢いたいんだ。

どうしようもなく、今……あの子に逢いたい。

「……逢いたい」

声にしてしまったら、どうしようもなく気持ちが溢れてきた。
今。
今、逢いたい。
誰よりも、今、あの子に逢いたい。

「──……っ……」

気づけば携帯に手を伸ばし、勝手に登録されていた番号を呼び出していた。
通話ボタンを押す前に一瞬だけ躊躇し、それでもせめて声だけでも聴きたくて。

トゥルルルル……

トゥルルルル……

トゥルルルル……

カチャッ。

『──はい』

たかだか一週間なのに、その声はもう随分前に聴いた声のような気がして。

「……ふっ……ぅ……」

目の奥が熱くて。 呼吸が上手く出来なくて。
無言のままでいたら切られてしまう、と頭では分かっているのに、言葉が紡げない。
こんにちは、とか。
久しぶり、とか。
元気? とか。
何でもいいから喋れ、と思うのに、声が出ない。
嗚咽で、声が紡げない。

「…………あい、たい」

それでも、ようやくそれだけ口にした。
挨拶も何もなく、ただそれだけが口をついて出た。

「……逢いたい……」

しゃくり上げながらの声に、しばしの間の後、ひと言だけ言葉が返ってきた。

『────遅いんだよ』

少し笑ったその声に、

また、

涙が溢れた。




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