『今から行くよ』
そう、甘い声でささやく青年に、彼がこの部屋に来るまでの時間も待っていられないシェラは「途中の駅で逢おう」と提案した。
そうすれば、かかる時間は半分で済む。
それに、待ち合わせ場所に指定した駅は夏休みでもそれほど人が多くない。
分かった、と苦笑するヴァンツァーとの電話を終えたシェラは、大慌てで身支度を整えた。
鏡の前で髪に櫛を入れたし、普段あまりつけないコロンにも手を伸ばした。
彼が嫌いだといけないから、控えめに。
そうして、笑顔の練習をする。
泣いていたから目は赤いけど、でも自然と頬が緩む。
まるで恋する少女だ、とおかしくなるけれど、だって、逢いたかったのだ。
胸が痛くて、苦しくて、考えるのはやめようと思えば思うほど彼のことを想ってしまって。
それが、今はこんなに胸が軽い。
彼に逢える、ただそれだけのことで、こんなにも自分の心は喜びに震えている。
だから、実際に彼の姿を視界に入れたときは嬉しくて。
「また泣いてる」
「……泣いてない」
「ふぅん。そうか。泣いてたらkissして慰めようと思ってたのに」
「……」
「──で? Are you crying?」
「………………」
むぅ、と唇を尖らせ、目にいっぱい涙を溜めながら零すまいと必死に葛藤しているシェラに、ヴァンツァーは「まったく」と呟いた。
「やれやれ。このお姫様は大層強情で」
「……私は男だ」
「でも好きだろう?」
お姫様扱い、と意地悪く笑う青年に、シェラは別に、と虚勢を張った。
「……私は男だし、お姫様じゃないし、それに──」
続けようとした言葉は、重ねられた唇に意味をなさなくなった。
ちゅっ、と啄ばむようにして離れていった唇。
ヴァンツァーは、シェラの顔を見てまた苦笑した。
「──余計泣かせたみたいだな」
指で涙を拭えば、シェラはちいさく頭を振った。
「あ……逢いた、かった……から」
「嬉しくて泣いてるの?」
少し躊躇ってからこくん、と頷くと、ヴァンツァーはくすくすと笑った。
「今日は珍しく正直だね」
「……どうせ、可愛くない」
「そんなこと思っていませんよ?」
「嘘だ」
「ひどいなぁ。俺こそ正直者なのに」
「……私なんか、可愛くない……」
「ふぅん」
「……何だ、その意味ありげな──」
「可愛いよ」
「……」
「コロンまでつけて」
「……」
気づいていたのか、と目を丸くするシェラの耳に、唇を寄せる。
「……甘くて、美味しそうな香りだ」
「っ……」
「俺のために、つけてくれたんだろう?」
「べ……別に──」
言いかけて、シェラはヴァンツァーの手にした荷物に気づいた。
鞄──というよりも、ボストンバッグだ。
「……どこか、旅行でも行くのか……?」
せっかく逢えたのに、と思って眉宇を曇らせるシェラに、ヴァンツァーは「やっぱり今日は正直だ」と笑いながら首を振った。
「何だ。泊めてくれないの?」
「──え?」
「俺、そのつもりで寮監に『一週間予備校の合宿です』、って言ってきちゃったのに」
「……一週間」
「迷惑?」
慌てて首を振るシェラ。
そんなことない。
そんなこと、絶対にない。
まるで、今まで逢えなかった時間を埋められるようで。
「嬉しい……」
ふわり、と微笑み頬を染めるシェラに、ヴァンツァーは呟いた。
「──まぁ、俺の荷物なんて、ほとんどないんですけどね」
「──……な、に……これ……」
採光の良いリビングへ入ると、ヴァンツァーは『待ってました』とばかりに荷物を広げ出した。
そこには、確かに彼の荷物などほとんどなく。
代わりにお披露目されたのは──。
「え? 何って、────ナース服?」
「……」
さも当然のような顔をしてソファの背にその純白の──やけに裾の短い服をかける。
「ブラックナースもいいかな、と思ったんですけど、ここはやっぱりクラシカルに『白衣の天使』で行ってみようと思って」
「……何で、こんなものを……?」
「何でって、あなたが着るんですよ」
「──はぁ?!」
「俺が着たって仕方ないでしょう?」
「いや、そういう問題じゃ」
「きっと似合うだろうな、って思って、たくさん買っちゃった」
「たく────?」
にっこりと微笑んだ青年は、大きなボストンバッグから次々と衣装を取り出した。
シェラはただ呆然と、皺にならないよう丁寧にたたまれたそれらに目を遣る。
そうして最後に、ヴァンツァーは
「──Now, it’s a Show Time.」
そう言って、バッグの底から高そうな一眼レフデジタルカメラを取り出した。
「あぁ、いいね」
シャターの切られる音に、シェラは戸惑いながらも青年に言われた通りのポーズを取っていた。
まずはナース、と白い衣装に着替えさせられ。
こだわりだ、と言って白い網タイツを穿かされた。
最初は風通しの良いスカートを一生懸命引っ張り、脚を隠そうとしていたシェラだったが、
「脚、綺麗なんだから見せてよ」
と『お願い』されてしまって断れなくなった。
立ち尽くすことしか出来ないシェラに、ヴァンツァーはあれこれ指示を出してはシャッターを切る。
最初は立ったまま。
次は見返り。
ソファの背に手をつかせたり、床に座らせて上目遣いにさせたり。
「──指、銜えて」
「え……?」
「指。銜えて、俺を誘って……?」
「……」
カーペットの上にペタン、と座り込んだ状態で頭上にあるレンズを覗く。
レンズを一枚通しているというのに、何だか直接見られるよりも恥ずかしくて──それは、『観察』されている気がするからなのだ、とあとで気づいたのだけれど──シェラはおずおずと人差し指の先に軽く歯を当てた。
「──Good.」
褒められると、何だか嬉しい。
今日の彼は『ダメだ』とか、『違う』とか、そういう否定的なことは口にしない。
『いいね』とか、『可愛いよ』とか、たくさん、たくさん褒めてくれる。
だから、シェラもつい嬉しくなって。
喜んでくれるかな、と思って、ボタンをひとつ外した。
一瞬シャッターの音が止んでしまったからいけなかったか、と思ったが、ゆるりと吊り上げられた唇が「──イイね……」と微かな欲の混じった声で呟くのを聞いてもうひとつ、外した。
「随分と卑猥な、『白衣の天使』だ」
喉の奥で笑い、レンズから目を外すとしゃがみ込んでシェラの首筋を吸い上げた。
「巧く出来たら、ご褒美をあげるからね」
そう言って、キスマークごと、嫣然と微笑むシェラをシャッターに収めた。
ミニスカポリスになったときはご丁寧に手錠まで用意していて、自分で自分の両手を拘束した。
そうして、黒い網タイツタイプのオーバーニーソックスを片脚だけ足首まで下ろす。
絶え間なくシャッターを切る青年はかなり上機嫌で、それが分かるからシェラも気分がどんどん高揚していく。
イイ写真が撮れると、キスマークをひとつ。
それがカラダのあちこちに増えるたびに、シェラはどこか誇らしげな気持ちになっていった。
レースクイーンの衣装は、下着が見えるのではないか、というほど丈が際どくて。
白地に黒くて細いストライプが入っていて、上下セパレートタイプ。
腹部がかなり開いている。
胸の部分は黒いビスチェが見えるように白地にストライプの布を重ねて紐で編み上げてあり、女性のような膨らみがあれば、とシェラは残念に思った。
そんな表情に気づいたのだろう、ヴァンツァーは「似合うよ」とシャッターを切った。
「……胸、ないし……腰だって」
こういうのは、メリハリのあるボディをした女性にこそ似合うものだ。
ウェストが細いとはいえ、凹凸のある身体をしていない自分が着ても、彼を『誘う』ことは出来ない。
「──腰?」
ツ、と脇腹に指が伸びてきて、シェラはちいさく息を呑んだ。
「いつも通り、感じやすいみたいだけど……?」
跪き、やわらかい脇腹に歯を立てる。
「──っ……」
「ほら、ね?」
下から見上げてくる悪戯な藍色に、シェラの瞳が熱っぽく潤む。
「……ここにも」
「うん?」
「ここにも……キス、して……?」
ただでさえ短いスカートを少し持ち上げ、白い太腿を付け根まで露わにする。
「……Yes, my princess.」
恭しいまでの仕草でシェラの膝裏に手を添え、内腿に紅い痕を残す。
身体は繋がっていないのに、痕跡だけがその色を増していく。
それが何だか妙に艶っぽい気がして、シェラは薄っすらと口許に笑みを浮かべた。
どこか淫蕩なその表情に、ヴァンツァーは「──……Perfect.」とささやいてシャッターを切った。
それからも、セーラー服を着ては座った状態で片膝を抱えて紺のハイソックスを穿いている姿を写真に収め、バニーガールの格好をしては尻尾が強調されるようにソファに片脚を乗せた状態で振り向いてみたり。
ベビードールに至っては、甘めテイストのピンクの花柄ワンピースタイプから、上は前開きで下は紐で結ぶショーツ、色は赤と黒というセクシーなものまで、実に五種類も揃えてあった。
「……こういうの、どこで買ってくるんだ?」
訊ねれば、
「今度一緒に行きましょうか」
と笑った声でシャッターを切る。
「……きみは、こういう趣味があるのか」
「趣味?」
「女の子に、こういう格好をさせて写真を撮るような……」
「──女?」
「……別に私はいいけど……女の子だと、他の人が身につけたものを嫌がる子だって」
「──言いませんでした?」
若干低くなった声音に、シェラはぴくり、と肩を震わせた。
「これは、あなたに似合いそうだと思って買ったものだ」
「……」
「他の誰にも、着させてないし、見せてもいない」
「……私……だけ?」
「そうだよ」
「……私のことだけ、……考えて、選んだの……?」
「そうだ」
「……本当に?」
「疑り深いな」
苦笑する青年に、シェラはもうひとつ質問を重ねた。
「……この、一週間……?」
ドクドクと血液を送り出す心臓を押さえるように両手を胸の前で重ねているシェラに、ヴァンツァーはぞくり、とするような艶のある笑みを浮かべた。
「──そう。この一週間。────あなたのことだけ」
ごくり、と喉を鳴らすシェラに、ヴァンツァーは言った。
「だから言っただろう?──『遅いんだよ』、って」
少し笑って、また、シャッターを切る。
動けなくなってしまったシェラに、「次はメイド服ですね」とレースとフリルで装飾された衣装を渡す。
そうして、ソファの上を見て、実に難しい表情になった。
「……どうしたの?」
背後から問いかければ、やはり目を動かさずに唸るようにして一点を見つめている。
「……ヴァンツァー?」
何か機嫌を損ねるようなことをしただろうか、と心配になってきたシェラに、ヴァンツァーはぶつぶつと呟きを返した。
「え? あぁ、いや……メイド服だから、オーバーニーソックスとミニスカートの間の絶対領域は外せないんだけど、でもガーターベルトも捨て難いな、って悩んでて……」
よく分からない単語を並べる青年に、シェラは小首を傾げて訊ねたものだ。
「……それって、両方やっちゃいけないのか……?」
勢いよく振り向いた青年の、どこまでも冷静なはずの藍色の瞳が輝いていたことを、シェラは見逃さなかった。
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