一週間は、あっという間だった。
家の中で過ごすだけでなく、街へ出掛けたりもした。
人目が気にならなかったかと言えば、そんなことはない。
見咎められれば、言い訳は出来ない。
学校から離れているとはいえ、職場に近い場所に住んでいる教員ばかりではないし、出掛けてくる者がいないとは言い切れない。
生徒たちも、寮生活とはいえ夏休みは親元へ帰ったり、遊びに出掛けたりすることもある。
それでも、普通の恋人どうしのように手を繋いでただ歩いているだけのことが、この上もなく嬉しかった。
見上げれば違わず視線が落ちてきて、ふわりと微笑がもたらされる。
その穏やかな表情が、心を軽くしていく。
どうして最近の彼がこんなにやさしいのかは分からないけれど、好きな人と一緒にいられることは、素直に嬉しいと思う。
──そう、自分は、彼が好きなのだ。
ふと彼がちいさく笑い、なに? と首を傾げる。

「いや、『高校教師』って、こんな感じなのかな、と」

何度かリメイクもされているドラマのタイトルだが、彼がテレビドラマを見ると思っていなかっただけに、シェラは意外に思って目を丸くした。

「まぁ、うちの高校の場合、校長が昼寝した熊みたいな人だからなぁ。あんまり騒ぎにはならない気がするけど」
「熊って……」
「あれ、知りません? 生徒たちの間じゃ、『熊五郎先生』って呼ばれてるの」

そのネーミングがあまりにもぴったりで、シェラは思わず吹き出した。

「確かに。幼稚園の園長先生とか、向いてそう」
「そうそう。体中に子どもたち貼り付けて」
「あはは。ぴったり、ぴったり」

しばらく笑いあっていたが、その声が途切れる。
真夏の炎天下だというのに、シェラは相手の手をきゅっと握った。
視線が向けられているのは分かっていたが、シェラは無言で脚を進めていた。
家へと向かう道。
人通りが少なくなったところで、呟いた。

「……こういうのも、『背徳』って言うのかな……?」

誰かと関係したときに後ろめたさなど感じたことはなかったが、どういうわけか、今その二文字が過ぎった。
微笑みを交わして語り合うことが出来ているというのに、他人から見ればそう映るのだろうか、と。

「──まさか」

どこか吐き捨てるようなその声音に、シェラは顔を上げた。
険しいくらいの表情で正面を見据えて歩いている青年に、声をかけようとして言葉が見つからず、シェラは視線を落とした。

「コレが背徳なら、俺はとっくに地獄へ堕ちている」
「……ヴァンツァー?」
「堕ちた奴はいくらでも見てきたけど、残念ながら俺はまだここにいる」
「……」
「それで気づいたんだけど」

向けられたとろり、と濃い藍色に、ぞくり、と背中が騒いだ。

「道徳って、背いたヤツじゃなくて、背かせたヤツが地獄に堕ちるらしい……」

何も言葉を紡げないでいるシェラにヴァンツァーはにっこりと微笑んだ。

「どっちにしても、堕ちるのは俺だから。別に心配しなくていいんじゃない?」

そんなことを言いたかったわけではないし、そんなことを言わせたかったわけでもないが、繋いでいる手があたたかかったから、シェラはその手に力を込めた。


夏休みも終わり、それでもまだ残暑厳しい九月のこと。
この時期になると、受験対策の補習が本格化してくる。
シェラも英語の講座を設けている。
その中には、授業を受け持っている生徒も当然何人かいる。
特進クラスに対応した内容ではないため他のクラスばかりだが、さすがに推薦ではなく試験を受ける予定のある生徒たちの鬼気迫るほどの熱気というものが感じられるようになってきた。
放課後一時間の補習を終えると、何人か質問に来ることがある。
補習を行った教室で訊かれることもあるし、研究室までやって来る生徒もいる。
この日は後者だった。
ノックの音にドアを開ければ、成長期の少年にしては小柄で華奢な生徒が立っていた。

「こんにちは」

にっこりと笑った顔が満腹の猫のようで可愛らしい少年──レティシア・ファロットだ。
どうぞ、と研究室へ招き入れれば、礼儀正しく「失礼します」との言葉があって、少し驚いた。
快活で授業中も騒がしい一歩手前の賑やかな少年だが、こと理数にかけては抜群に優秀な生徒でもある。

「ミスタ・ファロットは、最近英語頑張ってるね」

席を勧め、当たり障りのない会話を、とシェラはにこやかな笑みを向けた。
理数以外の教科は決して悪くはないとはいえあまりぱっとしない成績だったこの少年は、最近ぐんぐん英語の成績を上昇させてきていた。
そこは授業を受け持つ教員として、素直に嬉しいと思う。

「正直、英語って面白くないって思ってたんですけど」
「あはは、本当に正直だね」
「すいません」
「いいよ、別に。誰にでも好き嫌いとか、苦手なものはあるから」

それがどうして頑張る気になったのか、と訊けば人当たりの良い笑みが返ってきた。

「いや、英語──っていうか文法って、意外とパズルゲームみたいだな、って気づいて。助動詞のあとに動詞の原形が来たり、時制だって、全部で十二通りくらいしかないんだなぁ、って」
「あぁ、そうかも知れないね」
「そうしたら、古文とかやってても、文法ってパズルなんだって思うようになって」
「数学好きが幸いしたのかな」
「そうみたいです。俺のルームメイトがやたらと勉強出来る奴だから、時々教えてもらったりして」
「ルームメイト?」
「はい。特進クラスのヴァンツァー・ファロット。先生、副担任でしたよね?」

一瞬身体が強張ったことが、目の前の少年に伝わっていなければいい、と思い、シェラはにっこりと微笑んだ。

「うん、そう。──あ、もしかして、親戚か何か? ファロットって、珍しい名前だよね」
「いや、全然。赤の他人。俺もこの学校入ってびっくりした。寮の部屋まで一緒だし」

へへっ、と頬を掻く様子が、まだあどけなさの残る彼の容姿に合っていて可愛らしい。
それで今日はどんな質問? と乱れる脈を隠して訊ねれば、少年はにっこりと笑ったままこう言った。

「──先生のsex lifeについて」

あんまり可愛らしい表情で言うものだから、一瞬我が耳を疑って目を丸くしたシェラだった。
しかし、猫のように細められた目の奥が探るように光っていて、冗談を言っているわけではないのだ、と表情を硬くした。

「……何を、言っているのかな……?」
「隠さなくてもいいですよ。ヴァッツ──ヴァンツァーと、寝てるんでしょう?」
「……」
「色々聞いてますよ、『うさぎちゃん』? 先生も、あいつから俺のこと何となくは聞いてるんでしょう? あんまりそういうの、隠す奴じゃないし」
「……そう。きみが……」

取り繕おうとして、諦めた。
この少年に自分たちの関係が露見しているということは、彼の口から聞いている。
同室ということは、彼が寝ていると言っていたのはこの少年のことか。
確かに華奢で、背格好も自分と似ているかも知れない、と思ったシェラだ。
しかし、なぜ今そんな話を、と怪訝な表情を浮かべていると、レティシアが口を開いた。

「あ、何か勘違いしてます? 俺、こんな体型だからよく間違われるけど、タチ専門だから──っていっても、男専門ってわけでもないし」
「……」
「で、別にあいつと寝るな、とか言いに来たわけでもなくて」
「……なに?」

レティシアはほんの少し困ったように笑って、僅かな躊躇のあとで告げた。

「あいつの前で、女の話しないでくれると助かる」
「……え?」
「あいつ、……何て言うか、すげぇ女嫌いで」
「……」
「女の話題が出ると、途端に不機嫌になるんだよ。本当は傍に寄られるのも嫌なんだけどさ。ここ共学だし、その辺は諦めてるみたいだけど」

初めて聞く内容だ。
あの容姿で女嫌いというのは、さぞや苦労していることだろう。
ということは、彼は完全に自分と同じ性癖の持ち主ということか。
それに、何より。

「……山ほどした」
「へ?」
「女性の話題……山ほどした」

事あるごとに、自分は比較の対象として女性を持ち出した。
それは自分の容姿が女のようだ、ということも、女のように扱われてきた、ということもあるのだけれど。
まさか、彼がそういった事情を抱えているとは思わないではないか。
よくよく思い返してみれば、女性の話題を出したときに限って、彼は会話を打ち切らせるように迫ってきていた記憶がある。

「あーまー、しちゃったもんは仕方ないけど。これからは、気をつけて下さい」

ヴァンツァーが聞けば、「自分のことは棚に上げてよく言う」と秀麗な顔を顰めたに違いない。
生徒からの言葉とも思えない内容と口調だが、シェラはそこは気に留めずに僅かに首を傾げた。
それには気づかなかったのか、レティシアはほとんど独り言のように呟いた。

「……最近、ようやく安定してきたんだ」

先生のおかげかな、と微笑む顔は、純粋に友人を心配しているようなものだった。
だから、シェラは少し迷ったけれど、訊いてみた。

「……きみは、彼のことが好きなの……?」
「好きだね」

あまりにもあっさり、あっけらかんと頷かれ、シェラの方が戸惑ってしまった。

「恋だの愛だのって、俺もあいつと一緒でよく分かんないクチだから、『どういう好きなんだ』って訊かれると困るんだけど……まぁ、だからって、別にあいつのこと独占したいとか全然思わねぇし」
「……」
「むしろ、俺はやめておいた方がいいと思うくらいだし」
「……どういうこと?」
「んー。俺、睡眠導入剤にはなれるけど、精神安定剤には程遠いからさ」
「……」

よく分からなくて首を傾げたシェラだ。
対するレティシアはひらひらと手を振った。

「俺のことはいい、いい。それよりあいつ、俺が知ってる限りでこんなに長く続いてるの、先生が初めてなんですよ」
「……そう」
「あいつも、同じ学校の教師に連続して、なんていつもはやらないからよっぽど先生のこと気に入ったんだと思いますけど」
「────え……?」

ともすれば聞き流してしまいそうな台詞だったが、今一瞬、何かとても嫌な予感が脳裏を過ぎった。
レティシアの言葉が確かだとするならば、自分はその人間を知っている気がして、背中を冷たい汗が伝った。
顔が青褪めている自覚はある。
だから、レティシアも気づいたのだろう。
しまった、という顔をしている。
だが、今更取り繕うことも出来ないのだろう。
もしかしたら、シェラは知っているものだと思っていたのかも知れない。
どうするかな、と視線を天井に向けている。
シェラは唇を噛み締めた。
自分はその相手を知っているかも知れない。
でも、知りたくはない──否、知りたいけれど、知らない方がいい。
そんな予感がする。
えてしてこういう悪い予感というものは当たるものだ。

「……誰?」

それでも、知らないままでいるのは嫌で、静寂の支配していた室内にささやくような声を落とした。
喉の奥から、搾り出すように出した声は自分でも嫌になるくらいひび割れて、ひどいものだった。
口の中はカラカラで、逆に握った手のひらは汗をかいている。

「その教員は……誰?」
「知らないなら、その方が」
「教えてくれ」
「……」

自分でも驚くくらい、強い口調だったと思う。
声を荒げたわけではないけれど、その言葉に込められた意思は感じられたのだろう。
レティシアは、「参ったな」と呟いたあと、深くため息を吐いて口を開いた。

「──ナシアス・ジャンペール先生です」




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