「……今日、お時間ありますか?」
レティシアに話を聞いたのが水曜のこと。
一日考えて、金曜の昼、シェラはナシアスに声をかけた。
温和な美貌の生物教師は、人好きのする笑みを浮かべて「えぇ、構いませんよ」と頷いた。
ふたりとも補習があったから、学校を出たのは七時近かった。
とりあえず駅へと向かいながら、生徒たちのことや、補習の内容などを少し話した。
「今日はどこで飲みましょうか?」
何だか『うきうき』と表現するのがぴったりな楽しそうな顔をしているナシアスに、シェラは俯き加減で呟いた。
「……静かなところが、いいです」
一瞬脚を止めかけたナシアスは、ゆったりと笑みを浮かべてシェラの横顔を見下ろした。
最近は、眼鏡こそかけているものの、髪は下ろしていることが多い。
流れる清流のような銀色に向かって、言葉を紡ぐ。
「そういう言い方は、男を勘違いさせますよ?」
「……」
「あなたみたいに綺麗な人にそんな台詞を言われたら、男は誘われているものだと思う」
「……誘ってます」
今度こそ、脚を止めたナシアスだった。
シェラも脚を止め、ほんの少し振り向く形でナシアスの顔を見上げた。
「……そういう意味で、言ってます……」
僅かに震える声を隠すようにして上目遣いで見上げてくる様に、ナシアスは低く喉を鳴らした。
「どうしたんです? 今日は随分と積極的だ」
「……こういうのは、お嫌いですか……?」
怯えるように俯くシェラの顎を取り、ナシアスは嫣然と微笑んだ。
「いいえ。──据え膳喰わないほど、恥知らずではないつもりですよ?」
そしてふたりは、通りへ出るとタクシーに乗り込んだ。
飲みに行くことはあっても、身体の関係を持ったのは一度きり。
しかも、その夜以降はふたりきりで会ってもいなかった。
自分の気持ちを自覚したシェラにとって、彼以外の男と会っているというその事実だけで居たたまれない気分になる。
思い出される夏の日の出来事。
なぜか自分が他の男と関係したことを知っていて、呼び出されて、『お仕置き』をされた。
今では、彼が自分たちのことを知っていた理由が分かる。
ヴァンツァーとナシアスも、関係していたのだ。
「……」
シティホテルの一室。
何か飲むか、と訊ねてくるナシアスに、シェラは硬い面持ちで切り出した。
「──……どういう、つもりだったんです……?」
きょとん、とした顔で振り返るナシアスに、シェラはきゅっと唇を引き結んだ。
睨みつけるような視線を向けている自覚はある。
けれど、ほんの少しであろうと、自分は信じたのだ。
「どうして、……私を抱いたんですか」
一瞬驚いた顔をしたナシアスだったが、美しい笑みをその秀麗な顔に浮かべる。
「どうして、って。好きな人を、肉体的にも欲するのはそんなにおかしなことですか?」
「あなたは私を愛していない」
おかしなことを口走るものだ、とシェラは自分を嘲笑った。
やさしくしてもらえるなら、それが愛情であろうと遊びであろうと構わない、と思っていたのに。
愛された記憶すらあやふやなのに、どうしてナシアスが自分に向ける感情をそうでないと言い切れたのか。
「これは手厳しい」
台詞とは裏腹に、ナシアスはおかしそうに喉の奥で嗤う。
冷蔵庫から取り出したビールの缶を開け、ひと口煽る。
「信じてもらえないんですね」
「……」
シェラが何も言わないのを見ると、軽く肩をすくめてソファへと向かった。
その背中に、シェラは声を投げた。
「──私がヴァンツァーと寝たから?」
ぴたり、とナシアスの脚が止まる。
その動きがすべてを物語っている気がして、シェラは眉を寄せた。
レティシアの言葉を完全に信じていたわけではないし、逆に疑っていたわけでもない。
嘘を吐いても何の得もないから嘘ではないのだろうけれど、勘違いということもあるかも知れない、と。
いくらルームメイトとはいえ──身体の関係もあるとはいえ、他の人間と、それも自分の通う学校の教員と関係していることを話すだろうか、と。
そのすべてが、打ち砕かれた気分だった。
欲しいという言葉も、抱きしめてくれた腕も、やさしい口づけも、すべて、自分に対するものではなかった。
「……私は、身代わりですか」
一体自分が何に対してこんな泣きそうな声を出しているのか分からなかった。
憤るのを通り越して、ただ、哀しい。
散々身体を男たちに投げ与えてきた自分に、哀しむ資格はないのかも知れないけれど。
「それともあてつけ?」
はっ、と吐き捨てるように呟けば、薄氷のような水色の視線が振り返った。
その美貌には、ひんやりとした笑みが浮かんでいる。
「──自惚れないでいただけますか?」
「……」
「身代わり? あなたが? 彼の?」
「……」
「あてつけ。何に対するあてつけです? 彼に? わたしが?」
「……」
ツカツカと歩み寄ってきたナシアスは、俯き加減になるシェラの顎を持ち上げた。
「面白いことをおっしゃるんですねぇ」
「……」
「身代わりだろうが、あてつけだろうが──悦かったんでしょう?」
「……」
「最後には自分から腰を振って、先を促してねだって。あなたこそ、突っ込んでくれる男なら誰でもいいんじゃありませんか?」
「私は」
「ちょっと甘い言葉をささやいて、あなたを欲しがっているふりが出来る男なら誰でもいいんでしょう?」
「そんなこと」
「彼はあなたに『好き』だとか『愛してる』だとか、一度でも言ってくれましたか?」
「──……」
大きく目を瞠るシェラに、ナシアスは嫣然と微笑んだ。
それはたおやかな聖母のそれのようでもあり、熟練の娼婦のそれのようでもあった。
「所詮、あなただって代替の利く抱き人形のようなものでしょう?」
「……」
「知ってますか?」
そっとシェラの頬を撫でる。
その、どこまでもやさしい口調と指先に、なぜか脳裏で警鐘が鳴る。
続く言葉を耳にしてはいけないのだ、と。
聞くな、と声がする。
けれど耳を塞ごうにも身体が動かなくて、滴るような毒に、その言葉に、脳が侵されていく。
「あなたを抱いたあの部屋で、あのすぐ後に、──わたしは彼に抱かれたんですよ」
頬を、ひと筋涙が伝う。
その雫を満足気に眺めたナシアスは、呆然と我を失っているシェラの唇を、己のそれで塞いだのだった。
補習の後、図書館へ寄っていたヴァンツァーは、荷物を部屋に置くと食堂へ向かった。
そこで、いつもは多くの友人たちに囲まれて騒がしいくらいのルームメイトがひとりポツンと食事をしていて首を捻った。
いつもの半分の量しか皿の上には乗っていないのに、その更に半分しか食べられた形跡がない。
「レティー?」
声をかければ、一瞬ぎくり、と表情を強張らせたあと、へらり、と笑みがもたらされた。
「よぉ」
「どうした?」
「何が?」
「風邪でもひいたか? 全然食べてないじゃないか」
「あぁ……」
困ったように笑った友人の向かいに腰を下ろすヴァンツァー。
シチューを口に運びつつ、やはりほとんど食事に手をつけていないレティシアに訝しげな視線を送った。
だが、何も訊かず、自分の食事を続ける。
詮索するような真似は好きではなかったし、この少年は話そうと思えばこちらが訊かなくても勝手にペラペラ喋り出す。
だからヴァンツァーは、優雅なまでに静かな様子で空腹を満たしていった。
「……わり」
ぽつり、と呟かれた声は、夕食時の賑やかな食堂ではほとんど聞き取れなかった。
「え?」
「悪い」
「何が?」
「お前、あんまり隠したりしないからさ」
「レティー?」
「まさか、知らないとは思わなくて」
眉を寄せる友人に向かい、レティシアはシェラに話したことを正直に伝えた。
目を瞠る様子に、やはり話していなかったのか、と内心ため息を吐いた。
「……いつだ」
「一昨日」
「どうして、今まで黙っていた」
「お前がそうやって怒ると思ったから」
「……じゃあ、どうして話す気になった」
レティシアは、天井を仰いで肩をすくめた。
「ふたりが肩並べて学校出て行くの見たから」
盛大な舌打ちを漏らしたヴァンツァーは、ガタンと席を立った。
その、常の彼からは想像出来ない苛立ち、慌てた様子に、周囲の少年少女が食事を手を止めてポカンとしている。
「ヴァッツ」
「それ片付けて、首洗って待ってろ」
傲然と命令して出て行った友人の背を、レティシアは頬杖をついて見送った。
その口許には、ほんのりと楽しそうな笑みが浮かんでいた。
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