──俺の、可愛いうさぎちゃん。
彼は自分のものではなくて、自分も彼のものにはしてもらえない。
分かっているけれど、それでも、そう言ってくれることが嬉しくて、その言葉に溺れていた。
あれだけ綺麗な顔をした子だから、夜を過ごす相手に困ることがないのも分かっている。
年齢の割りに遊び慣れているから『自分だけ』と思わせることも巧いのだろう。
実際、自分は彼の言葉をほんの少し信じ始めていた。
土曜日は決まりごとのように夜を過ごしていたのだから。
違う、信じてしまえば傷つくだけだ、と頭の中で声はするのだけれど、それでもいい、と言う自分も確かに存在した。
メールやデートの回数で愛情の深さが決まるのではない、と言う人もいるけれど、やはり独りでいるのは寂しい。
少しでも一緒にいたい、ひと言でもいいからその声を聴きたい、と思うのは、そんなにおかしなことではないはずだ。
彼もそれに応えてくれたし、『俺の』とささやいて抱いてくれたのだ。
ルームメイトと関係していると告げられたときはショックだったけれど、それでも、レティシアと話してその衝撃は和らいだ。
レティシアは、肉体関係を持っていてさえ、ヴァンツァーを『友人』だと思っていると分かったから。
とても、とても大切な友人だ、と。
──だから他にも、こんなに近くに、彼の体温を知っている人間がいるとは思っていなかった。
「──やっ、……ぃやっ!!」
気づいたときにはベッドへ投げ出され、両手は頭上で戒められていた。
動けないよう太腿の上に乗り上げてきている男の美貌は昏く、口許には嘲笑が浮かんでいた。
「嘘おっしゃい。マゾヒストのあなたが、一番悦ぶシチュエーションでしょう?」
「ちが……ゃ、はなっ」
「そういうつもりで誘っている、と言ったのはあなたですよ」
「私は、ただ」
「えぇ、分かっています。それは口実で、本当はわたしに事の真相を問い糾したかったんですよね」
分かっているなら離せ、と眼で訴え暴れるシェラに、ナシアスはくすくすと笑った。
金髪をかき上げ、ちろり、と唇を舐めるとシェラの服のボタンをひとつずつ、見せ付けるようにゆっくりと外していく。
「──やっ! やめて!!」
「暴れると、余計にきつくなりますよ」
そういう縛り方ですから、とやさしく諭すように告げたが、何かに気づいたようにポン、と手を打った。
「手荒くされる方がいいんでしたっけ」
わざとらしく呟くなり、半分ほど残っていたボタンを引きちぎるようにしてシャツの前を肌蹴させた。
驚いたシェラは眼を瞠り、一瞬抵抗を止めた。
露になる滑らかな肌。
薄い胸は、力いっぱいの抵抗のためか荒い呼吸を繰り返している。
吸い付くようなその質感は、女にもないような色気を放っている。
「……綺麗な肌ですね」
何の感慨も抑揚もない声で呟き、指先でそっと腹部を撫でる。
ぞくり、と肌が粟立ったのは、決して快楽の予感のためではないと経験から知っている。
どうしてこの手をやさしいと思えたのか、今ではまったく分からない。
熱の篭らない指先、ものに触れているような辿り方。
欲しているわけでも、ましてや愛しているわけでもなく、執着すらもない。
ただそこに在る、ということだけを確認するような触れ方だ。
声が違うとか、指が違うとか、そんな瑣末なことではない。
もっと深い部分があの子とはまったく違うということに気づいてしまい、シェラは愕然とした表情で呟いた。
「……ゃ、……さわ、ないで……」
ゆるゆると首を振ると、ナシアスは男でも女でも簡単に虜にするような、幽玄的で美しい笑みを浮かべた。
「わたしも、無理強いをするのは趣味ではないんですけどねぇ」
言いながらも、シェラのベルトに手をかける。
身体を跳ね上げるようにして抵抗するが、細く見えても男の体重に圧し掛かられているのだから、動くはずもない。
「──やっ! やめて、お願い!!」
「暴れながら喋ると、舌を噛みますよ」
「どうして?! 私のことなんて、何とも」
「そうですね。何とも思っていません」
「……あの子と、……私が、あの子と」
「自惚れるな、と言いませんでしたか?」
「……」
シェラの細い腰からベルトを抜き取ったナシアスは、ピンッ、とその両端を引っ張った。
「革ベルトって、いい音が出るんですよねぇ」
「……」
「試してみます?」
知ってると思いますけど、と薄く嗤うのをキッ、と睨みつけるようにして見上げてくる菫色に、ナシアスは喉を鳴らして笑った。
「男の言いなりになっているだけかと思ったら、案外気が強いんですね」
「退いてくだ──」
「バルロも、気の強いのが好きだから」
「────っ!」
派手な反応を返す細い身体。
それは、驚きというよりも怯えに近い。
眼を見開き、唇を噛むシェラに向かって、ナシアスはゆったりと微笑んだ。
「でも、彼はとても健康的な男だ。あなたの満足がいくようには、抱いてもらえなかったんじゃありませんか?」
「……」
「あぁ、それとも、彼とはセックスしていなかった?」
「……」
「身体が疼いたら、その辺の男を漁っていたんですかねぇ?」
「……あなたは、何をなさりたいんですか……?」
探るような視線を向けても、水色の瞳は静かな水面のようにこちらの姿を映すだけで何の感情も浮かべていない。
相手が何を考えているか分からないことほど恐ろしいものはない。
「あの人と、……付き合っているんですか?」
「彼は妹の婚約者です──まぁ、なぜかわたしがしつこく求婚されていますけど」
特に自慢する風でもなく、さらりと流された台詞。
けれど、それが自分に対して突きつけられたものだと分からないほど、シェラは鈍感ではなかった。
「そういえば、妹の見合い話が出たとき、彼にはオンナの影はなかったはずですが」
「……」
「もしかして、それが別れた原因?」
「……」
「彼はあなたにフラれたと言っていましたが……まさか見合い話が出たくらいで、あなたは身を引いたんですか?」
どこか馬鹿にするような口調に、シェラはかつてないほど静かな怒りを感じていた。
ふつふつと、腹の中が煮えるような感覚。
「……あなたには、関係のないことでしょう?」
「まぁ、フラれた直後に出会ったわたしに求婚してくるくらいですからね。大した関係ではなかったんでしょうけど」
「──煩い!」
叫んだ瞬間、涙が零れた。
そんなこと、言われなくても分かっている。
そんなもの、自分が一番良く分かっているのだ。
彼に、あんな太陽のような人に、自分が相応しいわけがない。
分かっている。
だから、自分は彼の元を去ったのだ。
それがどれほど辛いことだったか、どれだけ胸を痛めたか。
眠れない夜が続いて薬に頼ることなど当たり前だったし、彼に似た人影を見かけるだけでも涙が零れた。
携帯を替えてデータを消しても、記憶からは電話番号とアドレスがどうしても消せなかった。
だって、毎日毎日、眺めていたのだ。
電話をかけたら迷惑だろうか。
仕事中にメールをしたら、怒るだろうか。
彼からメールが来ないだろうか。
今から会えないか、と電話をくれないだろうか。
そんな風にいつも、いつも携帯を握り締めていたから、今でもその番号は覚えている。
彼の会社は大きな企業だから、ニュースを見れば名前が出てくることだってある。
しかし社会情勢を把握しないわけにもいかず、そんなときは決まって精神が不安定になった。
それでもどうにか半年過ごして、そんなときに、ヴァンツァーと出会った。
出会った、という言い方は正確ではない。
彼の存在も、名前も顔も、当然知っていた。
話す機会がなかったというだけのこと。
そして、何の因果か身体の関係を持つようになり、最近ではあの人を想って胸を痛めるようなことはなくなった。
ヴァンツァーのおかげで思い出にすることが出来るようになった──否、あの人よりも、彼を強く想うようになったのだろう。
いづれにせよ、あの人との三年間は、ほんの少しの寂しさと微笑みをもって懐かしむことが出来るようになったというのに。
「……どうして、あなたなんかに土足で踏み込まれなくちゃいけないの……?」
自分が、何をしたというのか。
わざわざ傷を抉るような真似をされる、何を。
悔しくて、腹が立って、その感情のままに人を傷つけてしまいたいと思ったのは初めてだった。
「甘言ひとつで靡くくせに、随分なことを言うんですねぇ」
「あのときは」
「酔っていたから? 別にお酒のせいにしてもいいですけど。あなたがわたしと寝たことには変わりない」
「……あなたが、欲しいって」
「言いましたね。でも、ちゃんと教えてあげたでしょう?」
怪訝そうに眉を寄せるシェラに、ナシアスは口端を歪めた。
「──人を見る眼がないと、悪い狼に食べられますよ、って」
おかしくもないというのにおかしそうに嗤う男に好きなようにされるのは我慢がならず、シェラは数度目の抵抗を試みた。
ナシアスはどこか憐れむような目で「無駄ですよ」と嘆息した。
──と、携帯が鳴る。
はっとしたのはシェラだった。
鞄のある方へ視線を向けると、ナシアスもそれに倣った。
一層抵抗が激しくなり、ははぁ、と心得たように呟いた。
「──ヴァンツァーから、ですか」
「……」
「その格好じゃあ出られませんものねぇ。──代わりに出てあげますよ」
「──ゃ、やめてっ!!」
悲鳴のような声を上げるシェラなど無視して、ナシアスはベッドから降りた。
激しく暴れて大声を出すシェラには一切興味をなくしたように、シェラの鞄から着信音の鳴り続けている携帯を取り出した。
「おねが、やめ──」
シェラの必死の訴えも空しく、ナシアスは明るい口調で電話に出た。
「やぁ、こんばんは」
くすくすと笑うナシアスの背後では、シェラが絶望した面持ちで天井を見上げている。
抵抗する気力も失くしたのか、とナシアスはその様子を横目で見ていた。
「えぇ、ちょっと彼が出られないものでわたしが代わりに……え? ここ? 乗り込んで来るつもりですか? 案外野暮なんですね」
意味ありげにシェラに向かって目許を笑ませれば、声は上げないものの、涙を流して戒めを解こうとし出した。
その様子すら楽しんでいるナシアスは、電話の向こうにいる男に、ホテルの場所を告げた。
「三人でするのも、いいかも知れませんねぇ──おや、怖い」
どんな会話をしているのかシェラには分からなかったが、こんな状態の自分を、彼には見られたくなかった。
彼にだけは、二度と「裏切った」などと言われたくない。
好きなのだ、彼のことが。
顔と頭の造りだけは抜群で、性格の悪い、年下の、それも教え子のことが、どうしようもなく好きなのだ。
やさしいのか冷たいのか、全然分からなくて。
年齢に似合わず冷静すぎるくらいに優秀な子で、それなのに時々見せる子どものような笑顔が可愛くて。
それが演技なのか、本心なのか、それすらも分からなくて、でも惹かれて。
この関係もただの興味本位の産物なのだと分かってはいるけれど、それでもいいと──思って、いた。
「……ヴァンツァー」
涙に震える声で、その名を呟く。
これは、罰なのかも知れない。
顔も名前も覚えていない男たちと簡単に身体を重ねてきた自分だから、罰があたったのかも知れない。
あの人のときもそう。
好きになった人とほど、上手くいかないことになっている。
嫌なのに。
彼に嫌われてしまうことが、彼が離れていってしまうことが、こんなにも怖いのに。
いつ自分に興味を失くしてしまうのか。
いつまで、彼の気紛れが続くのか。
気持ちを量る天秤があればいいのに。
そうすれば、どういう態度を彼が好むのか、何をすると嫌われるのか、全部分かるのに。
自分はいくらだって、彼の望む存在になるのに。
────けれど、きっと、もう……。
「ヴァン……」
ぽろぽろと涙を流すシェラに、電話を終えたナシアスは表情なく告げた。
「わたしに抱かれているあなたを見たら、彼はどんな顔をするのでしょうね……?」
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