殴りつけるようなノックの音に、ナシアスはにこやかなまでの笑みを浮かべてドアを開けた。

「やぁ、待ってい──」

言い終わらないうちに、ヴァンツァーはナシアスを突き飛ばすようにして部屋の中へ押し入った。
大股のその歩調からも、一切表情なくナシアスの方を一瞥もしようとしない様子からも、彼の怒りが感じられる。
さして広くもない部屋だ。
すぐに彼はベッドの上に横たわるシェラを見つけた。

「っ、ぁ……ヴァ……」

両手をネクタイでベッドヘッドに括りつけられたシェラは、シャツの前が開かれているとはいえ、衣服は身に着けていた。
それでも秀麗な美貌を思い切り顔を顰めると、怯えた眼で見つめてくるシェラの元へと向かった。

「……ぁ……ごめ、なさ……」

戒められていてさえ、カタカタと震える細い身体。
青褪めた顔には、はっきり恐怖と怯えが浮かんでいた。
何を言われなくとも、彼が大層腹を立てていることは肌で感じられる。
傍に寄れば、全身が凍り付いてしまいそうな、温度の低い怒りだ。

「──シェラ」

涙さえ浮かべた菫の瞳に、ヴァンツァーは常よりも低い声を向けた。
びくり、と震える肩。
戒められた手首の上に自分の手を重ね、軽く乗り上げるようにしてヴァンツァーは訊ねた。

「正直に答えて下さい」
「……」

しばしの間の後、シェラはちいさく顎を引いた。

「あの男に、抱かれましたか?」

これには少し迷ったシェラだ。
自分は、一度ナシアスと寝ている。
だから、この質問に答えるのならば頷かなくてはいけない。

「……今日は、何も……」
「何も?」

本当に? と言外に問う声に、「……キス、された」と消え入るような声で返した。
そうか、と何の感情も見えない声で呟くと、手首の戒めを解く。
ほんの一、二時間だというのに、ひどく久しぶりに解放されたかのように感じる身体。
しかし、そんなものよりも強い安堵にため息を吐き、ゆっくりと起き上がるシェラ。
じっとヴァンツァーを見上げれば、深い藍色の瞳が見下ろしてきて、唇を指でなぞられた。
形を、感触を確かめるように、何か変化がないか確認するように。
それだけなのに、腰から這い上がってくるような疼き。

「……あーあ。ボタン、弾け飛んでいるじゃありませんか」

曝け出されたシェラの腹部にツ、と指を這わせる。
ナシアスに触られたときと変わらないはずなのに、ゾクッ、と身体の内側が騒ぎ出す。

「こうやって、触られたの?」
「……」

躊躇いがちに頷くシェラに、ヴァンツァーは訊ねた。

「──感じた?」

俯くシェラに、ヴァンツァーはもう一度言った。

「俺の眼を見て。正直に答えて下さい」

のろのろと顔を上げたシェラは、真っ直ぐに藍色の瞳を見つめ返した。
綺麗な瞳だ。
深く澄んでいて、吸い込まれそうになる。

「……や、……った」
「うん?」
「……ぃや、……だった」
「触られるのが?」

こくり、と頷く銀の頭。
涙の浮かんだ菫の瞳で、頭上の美貌を見上げる。

「ゃ……きも、わる……きみじゃ、な……」

しゃくり上げるようにして泣き出すシェラ。

「……きみじゃ、なきゃ……や……」

ぽろぽろと子どものように涙を流すシェラに、ヴァンツァーはゆったりと微笑を浮かべた。

「ちゃんと答えられたね──ご褒美だよ」

ささやき、そっとシェラの唇を塞ぐ。
啄ばむようにして離れていったそれに、シェラは眉を下げて訴えた。

「……もっと……」
「欲張りなお姫様だ」

くすくすと笑ったヴァンツァーは、両手でシェラの頬を包み込み、舌先を伸ばして相手の唇を舐め、開かせた。
決して乱暴ではなく、それでも我が物顔で口内を蠢く熱。
ぞくりと騒ぐ背中、ベッドに腰掛けているというのに、身体に力が入らず沈み込みそうになる。
それが怖くて、でも気持ち良くて、しがみつくようにして硬い身体を抱き返した。
甘えるような声が漏れ始めた頃、ヴァンツァーは唇を離した。
なおもしがみつこうとする腕に、あやすようにしてぽんぽんと背中を叩いてやる。
安心したのか、とろん、と色を濃くする瞳に眼を眇めたヴァンツァーは、縋るように服を引く手に視線を落とした。
微かに、眉が寄せられる。

「……随分、暴れたんだな」

そっと取った手首は、真っ赤に腫れて所々擦り切れていた。

「あの……だって」

何か喋らなくては、と開いた口から、微かな呻きが漏れる。
ヴァンツァーが、手首に舌を這わせたのだ。
傷口からじくじくと痛みが広がる。

「ヴァン……」
「痛い?」

頷けば、その同じ場所にちゅっ、と音を立ててキスをされる。
再び舌を這わされ、ピリピリと我慢出来ないほどではないからこそ気になる痛みに顔を歪めた。

「我慢して──俺に黙って他の男と会っていた罰だ」
「……きみだって……」
「また、お仕置きしてあげなきゃ分からないのかな?」
「……別に、嫌じゃないもん」

唇を尖らせる様子に、ヴァンツァーは呆れたように嘆息した。
そうして、わざと眉を寄せてみせた。

「可愛い顔したって、ダメだよ。俺は怒ってるんだ」
「……ごめんなさい」
「反省してる?」

こくり、と頷くシェラの頬を、ヴァンツァーはさらりと撫でた。

「──見せ付けてくれるね」

静かで冷たい声にも、ヴァンツァーはシェラの傷を癒そうとすることを止めない。
壁に寄りかかり、腕を組んでいるナシアスは、その様子を鼻で笑ったものだ。

「随分と甘ったるい……」

まるでおままごとだ、と吐き捨てる。
学校にいるときの柔和な彼とはまるで別人で、シェラはびくびくと身体を震わせてヴァンツァーの服をきつく握り締める。
その手を軽く叩き、ヴァンツァーはすっと立ち上がった。

「きみはもっと面白みのある男だと思っていたよ」
「あんたはもっと頭のいい男だと思ってたよ」
「どういう意味かな?」
「そのままだろう。もう少し遊べるかと思ったけど、あんたもその辺の雌犬と一緒だな」

唾棄すべきものでも見るような視線と口調に、ナシアスは口端を吊り上げた。
けれど、笑っていない。
射抜くような水色の瞳にも、ヴァンツァーは顔色ひとつ変えない。

「……雌犬、ねぇ?」

含みのある物言いに、ヴァンツァーは微かに眉を寄せた。
ナシアスはわざとらしく肩をすくめて見せた。
そうして、慈愛に満ちた表情を浮かべたのだった。

「──実の母親と関係を持って、女を抱けなくなったきみの台詞とは思えないね」

ひゅっ、と息を呑む気配に、シェラはヴァンツァーを見上げた。
ナシアスの言葉の内容よりも、ヴァンツァーの真っ青な顔に驚いた。

「……ヴァン」
「しかも、その事実を知った父親が母を殺し、挙句の果てに自殺したんだろう?」

菫の瞳を大きく瞠り、拳を固く握っているヴァンツァーを仰ぎ見る。
歯を食いしばってはいるが、今にも倒れそうな血色の悪い顔。
その表情が、今の言葉を真実だと裏付けていた。

「罪の意識かな? それとも、愛した女を息子に寝取られたことへの報復かな?」

どっちだと思う? と楽しげに告げるナシアスとは対照的に、ヴァンツァーは全身の震えを止めることが出来ないでいた。

「……っ、……ぁ……」

脳裏に、暑い夏の日の悪夢が甦る。
働き盛りの父の帰りは遅く、夜な夜な母に身体を求められる日々。
学校にいる間だけは心が休まった。
夏休み前の終業式の日、これからずっと家にいなければならないのか、と憂鬱な顔で帰った自分を待っていたのは、変わり果てた両親の姿。
視界を染めるのは、どす黒く変色した夥しいまでの血液。
その血臭と腐臭に、吐き気が止まらなかった。

「──っ……」

胃から込み上げてくるものを、どうにかして抑える。

「ヴァ、ヴァンツァー……?」

心配そうな声で背中を摩ってくる手を強く引き寄せ、細い身体を掻き抱く。
眼は見開かれたまま焦点が合わず、過呼吸に陥り眩暈がひどい。
カチカチと、合わない歯の根が音を立てる。

「ヴァンツァー? ヴァンツァー! 大丈夫?!」

一生懸命に背中を摩ってやるが、骨が軋みそうになるくらいに強く抱かれ、シェラは思わず眉を寄せた。
だが、この痛みを自分が感じることで彼の支えになれるのなら、骨の一本や二本くれてやる、と強く思った。
そうして、正面で薄く嗤っている男を、きつく睨みつける。

「……最低」
「ありがとう」

にっこりと美しく微笑む男は、罪悪感などかけらも感じていないのだろう。

「昔から、人の手のひらの上で踊らされるのが大嫌いでね」
「……この子が、何をしたって言うんですか」
「口の利き方を知らない子どもに対する、躾ですよ」
「言っていいことと、悪いことがあります」
「暴言はお互い様だ」

鼻を鳴らす男を軽蔑のまなざしで睨むと、シェラはヴァンツァーの肩をぽんぽんと叩き、その青白い頬に手を添えた。

「ヴァンツァー」
「……」

のろのろと上げられる顔。
その美貌は憔悴が色濃く、瞳にはいつもの人を喰ったような光がない。
強烈に、『護りたい』という意識が芽生えた。
この、脆く儚い存在を。
大人びて見えても、どれだけ優秀な頭脳を誇っていても、本当は誰よりも繊細なこの子を。

「……大丈夫だよ。私は、ここにいる」

微笑みかけてやれば、二、三度瞬きをした後、ちいさく名前を呼ばれた。
艶やかな黒髪を撫でると、安心したように強張っていた身体から力が抜ける。

「本当に、おままごとだ」

ツカツカと歩み寄ってきたナシアスに反射的にヴァンツァーの身体を引き寄せるシェラ。
そんなシェラに向かって、薄氷のような水色の瞳の男はバサリと何かを投げ寄越した。
ベッドの上に散らばるそれに視線を落とせば、そこには自分たちの姿が収められた写真。

「──……これ」
「ちょっと調べれば、こんなものいくらでも出てきますよ。密会するなら、もう少し人目を憚りなさい」
「……」
「バラ撒きましょうか、コレ」
「なっ──」
「とりあえず学校中に。保護者たちは何て言うでしょうね?」
「……あなただって……」
「証拠は?」
「……」

黙り込むシェラに、ナシアスは勝ち誇ったかのような笑みを浮かべた。

「偶然ですかねぇ」
「……え?」
「その子に、『もう飽きた』と言われたその夜ですよ。あなたたちが夜の往来でキスをして、車に轢かれそうになって気を失ったあなたを彼がどこかへ連れて行った」
「……」
「さすがに後を尾行るような真似はしませんでしたが、もしかして、と思って調べさせてみたら、面白いものがたくさん撮れました」

写真をじっと見つめていたシェラは、押し殺すような声で訊ねた。

「……何が、目的なんですか……?」
「別に何も」
「じゃあどうして」
「面白いかな、と」
「……人の傷を抉って、楽しいですか……?」
「えぇ。とても、ね」

歪んだ笑みを浮かべる温和でありながら冷酷な美貌に、シェラは唇を噛み締めた。

「……奇遇ですね」

そのとき、ポツリ、とヴァンツァーが呟く声が耳に入った。

「俺も、他人にいいように扱われるのは、反吐が出るほど嫌いなんですよ」

言って、ナシアスの足元に何かを投げつける。
落とした視線が瞠られる。

「確かに人目を憚っていたみたいですけど……」

寝ている間までは無理ですよね、と嘲笑を浮かべる。

「苦労しましたよ、気絶させるの。あんた、見かけよりtoughだからな」
「……わたしときみが、一緒に写っているわけでは」
「そうですね。でも、そんな写真を俺が持っているというだけでも、十分でしょう?」
「……」
「まぁ、痛み分け、ということで」

立ち上がったヴァンツァーは、羽織っていたジャケットを脱ぐとシェラの肩にかけた。
そうして、部屋を出るよう促す。

「ま────っ……!」

制止の声をかけようと手を伸ばした瞬間、脇腹の痛みに耐えかねて膝をつくナシアス。
そのまま、床へ倒れこむ。

「──ジャンペール先生?!」

さすがに無視出来ないのか、シェラはナシアスに駆け寄ると心配そうな顔で肩を揺すった。
しかし、呼びかけても、頬を叩いても、ぐったりと意識をなくしているナシアスは目覚めない。
呼吸は浅すぎて、息をしていないのではないか、と思うほど。
青い顔で、額に玉のような汗が浮いている。

「──シェラ、救急車だ」

ひどく嫌な予感がして、ヴァンツァーはシェラにそう言った。
何度か味わったことのある感覚。

そうしてこういうときの嫌な感覚ほど────外れることはないのだった。




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