救急車の中微かに意識を取り戻したナシアスは、病院と医者を指定した。
病院へ同伴したシェラとヴァンツァーは、それがナシアスの主治医なのだと知った。
ジルという名のその医者は、綺麗に手入れされた口ひげを生やした、かなり端正な容貌の男だった。
年齢としては四十を少し超えたくらいだが、外科の教授という肩書きを持っていた。
例がないとは言わないが、かなり若くしての出世であることは間違いない。
そんな彼がわざわざ出迎え、病院に着くなりナシアスは処置室へ運ばれていった。
シェラとヴァンツァーは処置室の外に置いていかれた形になったが、シェラ自身軽いとはいえ怪我をしていることもあり、看護師に手当てを受けていた。
処置室から出てきたジルは、シェラの様子から何かを察したのか、自分に与えられた部屋で休むように言いつけた。
診察室のひとつで、ナシアスが倒れたときの状況やシェラのことなどについてヴァンツァーと話していると、来客の旨が看護師から告げられた。

「──これは、これは」

ほどなくして通された人物に、ジルは軽く礼をした。
慇懃とまではいかないが、それでも年下の男に対する国立大学病院の教授の態度としては破格のものと言えよう。

「こんな時間に、あなたが自ら営業活動とは思えませんが?」
「当然だな。その必要もない」
「でしょうね。それで? 今日は何か?」
「ナシアス・ジャンペールという男が、ここに運ばれたと聞いた」
「──彼が、何か?」
「ちょっとした知り合いだ。今、どうしている」

診察室へ入ってきたときから顔を顰めていたその男とふと目が合い、ヴァンツァーはジルに目礼を送って部屋を出た。
黒い髪、黒い瞳をした体格の良い男の横を通り過ぎるとき、ヴァンツァーはほんの僅かに眉を上げた。
立ったままでいることからも、早口で説明を求める様子からも、苛立ちは見て取れる。
ほのかに、自分が吸うものと同じ煙草の匂いがしたのは、運転中にでも吸っていたからか。
しかし、そんなことはいい、とヴァンツァーは診察室を出てシェラが休んでいる部屋へと向かった。
ナシアスと今の男にどんな接点があろうと、自分には関係ないのだから。


どうすればいいのか、分からなかった。
気づいたら、電話をかけていた。
番号が変わっていることも想定していたが、記憶に残る声が耳に届いた瞬間、微かに胸が騒いだ。
ぎゅっと拳を握って、震える声を抑えつけるようにして病院の場所を伝えた。
応える声音が硬かったから、彼にとってナシアスがいかに大切な存在か感じ取れた。
何でもない、なんて言えない。
けれど、想像していたよりも心は穏やかだった。
それでも、精神的な疲労が酷かったのだろう。
医者の眼からすれば、こちらも十分に治療もしくは休養が必要な有り様だった。
手首の傷を手当てされ、鎮静剤を打たれた。
教授であるジルに与えられた部屋はそれなりの広さがあり、簡易ベッドも備え付けられている。
シェラはそこで眠っていた。
静かに扉が開く。
現れたのは、未成年にはとても見えない、長身と落ち着いた美貌の青年。
その妖艶なまでの造作に、けれどいつもの人を喰ったような笑みはない。
顔色は悪いし、何より瞳に力がない。
どこか子どものような表情。
室内に滑り込んだヴァンツァーは、ベッドの端に腰掛け、さらり、と銀髪を梳いた。
寝息すらも聞こえないくらいに深く眠っているようで、まだ血色の戻らない人形のような顔に眉を寄せた。
白い頬に触れ、上体を倒して色を失った唇を吸い上げる――あたたかい。
それで、この異様なまでに不規則な脈は収まるはずだった。 それなのに気づけば深く舌を絡めていて、苦しそうな吐息が漏れてきて余計止められなくなった。
薄っすらと開かれる瞼の奥から、薬のせいでぼんやりとした菫色。

「……ヴァ、ツァ……?」

掠れた声に、眼を眇めてシェラの頬を撫でた。
すり、と額を合わせれば、「どうしたの?」と声が掛かった。
首を振るばかりの青年に、シェラはくすり、と微笑んだ。

「可愛いな……」
「……やめてくれ」
「どうして? 褒めてるのに」
「男がそんなこと言われて、嬉しいわけないだろ」
「私には言うクセに」
「男に見えませんからね」
「ひどいなぁ」

くすくす笑って黒髪を梳けば、されるがままになっている青年に内心驚きを隠せなかった。
この青年の無防備な姿を見るのは初めてではないが、自らそれと自覚して見せるというのは、今まででは考えられなかった。
自然と微笑が浮かぶ。
こういう感覚を『愛しい』というのだろうか。

「落ち着いたみたいですね」

どこかほっとしたような面持ちになる青年にシェラは思わず笑ってしまった。

「起こしたクセに」
「それはあなたがいけない」
「私? どうして?」
「どうしても」
「教えてくれないのか?」
「えぇ、秘密です」

口端を持ち上げれば、「ケチ」と唇を尖らせる少女のような美貌。

「だから、可愛い顔したってダメだよ」
「『可愛いは正義だ』って、何かに書いてあったぞ」
「何読んでるんですか、あなた」

声を上げて笑う青年。
作ったのではない明るい声に、ひどく安心する。

「……ヴァンツァー」
「うん?」
「……キス、して……」
「こんなところで?」
「人の寝込みを襲った人の台詞とは思えないな」

文句を言えば、「好きだね、キス」と笑われた。

「……好きだよ――――きみのこと」
「……」
「きみは……?」

不安気に訊ねれば、苦笑とも微笑とも違う笑みを浮かべて、ヴァンツァーはシェラの唇を啄ばんだ。

「きみは――」

誤魔化された気がして少し身を乗り出したとき、部屋のドアが開いた。
むろん、 入ってきたのはこの部屋の主だ。

「――おや。邪魔をしたかな?」
「いいえ」

首を振るヴァンツァーに軽く視線を向けたシェラだったが、細く息を吐き出すだけに留めた。

「それで、ジャンペール先生の容態は?」

ジルは肩をすくめた。

「医者には守秘義務がある──まぁ、今は落ち着いているよ」

ジルが語らないことなど、ヴァンツァーにも分かっている。
詳しい説明が返ってくるとは最初から思っていない。
そうですか、とだけ呟き、ベッドから腰を上げた。

「見舞いなら日を改めた方がいいぞ」
「なぜ?」

行くつもりは毛頭なかったが、形だけそう返す。

「馬に蹴られるからさ」

茶目っ気たっぷりに片目を瞑ったジルに、シェラは手を握り込んだ。

「そうでなきゃ、嵐に巻き込まれる」
「嵐?」
「サヴォア製薬の名前くらいは知ってるか?」
「――あの?」
「そう、あのサヴォアだ。彼はそこのトップだよ」
「へぇ」

これは心底感心したような口振りだった。
国内有数の企業のトップと聞けば、年頃の青少年は多少なりとも興味を引かれるのだろう。

「なるほど。それなりに親しくしていた相手が体調を崩したとあっては、製薬会社の社長としては黙っていられない、ってところですか」
「まぁ、そんなところのようだ」
「子どもっぽそうな顔してましたからね、あの人」
「ヴァンツァー……子どものきみがそれを言うのか?」
「失礼な。もう十八だ。結婚だって出来ますよ」
「相手は大企業のトップだぞ」
「忌憚ない意見を受け入れられない狭量な人間は、いずれ引き摺り下ろされますよ」
「ヴァンツァー」

嗜めるようなシェラの口調に、ヴァンツァーはあからさまに顔を顰めた。

「彼もまだ本調子ではないはずだ。医者の前で、あまり興奮させるようなことをしないで欲しいな──少年」

にっ、と医者というよりは熟練のホストのような笑みを浮かべたジルに、ヴァンツァーは嘆息した。

「もう、帰っても?」
「構わないが……」

言葉を切った医者に、ヴァンツァーは軽く首を傾げた。

「くれぐれも、しばらくは安静にしているように──ふたりとも、だ」

それが医師としての言葉なのか、男としての言葉なのかはヴァンツァーには分からなかったが、シェラが真面目な顔をして頷いたので、それに倣って顎を引いたのだった。


ナシアスの病室は、個室になっている。
それも、ホテル並みの快適さを備えた部屋だ。
本人が何と言おうと、エンドーヴァー家の人間を一般病棟などに案内したと知れたら、どんなに歴史のある大学病院であろうと経営は続けられない。
昼間であれば採光も良く、ベッドも看護に適した造りながら高級家具と比べても何ら遜色のないもので、傍にいる男が険しい顔で仁王立ちさえしていなければ大層寛げただろう、とナシアスは苦笑した。
おそらく、話はすべてジルから聞いたのだろう。
守秘義務だ何だと言っても、彼が医者であり、ここが病院である以上サヴォアの薬剤が得られないのは致命的だった。
それくらいの脅しは、この普段は昼寝した虎のような男はやってのける。

──何もかも、巧くいかない。

「美人薄命とは、よく言ったものだね」

笑いながら言えば、ものすごい形相で睨まれた。

「病人相手に、何て顔をしているんだきみは」
「今まで黙っていた人間がどの口でそんなことを言っている」
「きみに告げる必要も、理由もない」

酷い言い草だ、と自分でも思う。
彼が自分のことを心配しているのだということは、嫌というほど分かるのだから。

「ねぇ、バルロ……?」
「──言うな」

ささやくようなナシアスの声を、低めた声で早口に遮る。
水色の瞳に苦笑を浮かべ、ナシアスは穏やかに言葉を紡ぐ。

「何だ。聞いてくれないのか?」
「聞きたくない」
「身体のことを黙っていたから、拗ねてるのかい?」
「煩い。病人なら病人らしく、黙って寝ていろ」
「いいじゃないか。わたしの声を聞けるのも、あと──」
「ナシアス」

ぴしゃり、と。
それでも、病人を労わる思いやりが溢れるほどに感じられ、ナシアスは困ったように笑った。
若干やつれたように見えるその目元や頬に、バルロは内心舌打ちしたい思いだった。

「いつものふてぶてしさはどうした。我が儘の三つや四つ言ってみろ」
「叶えてくれるのかい?」
「言ってみろ、と言っただけだ。それに、いつものお前なら『叶えてくれるんだろう?』と言うはずだぞ」

腕組みして偉そうにふんぞり返る男に、ナシアスはちいさな笑いを漏らした。
痛みはある、けれど、この笑いを無理に抑えようとは思わなかった。

「バルロ」
「何だ」
「────好きだったよ」

静かな病室に響く決して大きくはない声に、バルロは反射的に顔を顰めた。
それを見て、やはりナシアスは笑ったのだ。

「ひどい仏頂面だ。わたしに告白されるなんて、名誉なことだと思わないか?」
「……過去形で告白も何もあるか」

落ち着いた声音ではあるが、ふつふつと怒りが込み上げてきているのも分かる。
鎮痛剤のせいで感覚は麻痺しているはずなのに、ぴりぴりと肌を焼くような感覚。

──それでいい。

そう、思った。

「『好きです』と言ってみろ」
「わたしは嘘を吐くのが嫌いでね」
「──だから、『好きです』と言え」
「……」
「お前は、俺のことが好きなはずだ」
「……」

自信満々に言い切られた言葉に、ナシアスは『まったく』といった顔になった。

「この坊やは……どこからそんな自信が出てくるんだろうね?」
「自信ではなく、事実だ。それから『坊や』じゃない。何度も言わせるな」
「バルロ……」
「言え」
「だから」
「言ってしまえ」
「……」

黒曜石のような瞳が、真っ直ぐに見つめてくる。
怒っているようで、けれどどこか必死で。
見ていると、喉元から心臓にかけてぎゅっと握られるような。
腹部の痛みより微かなはずのそれはひどく鮮明に感じられるというのにどこか甘く、ナシアスは思わず喉を鳴らした。
見つめ返していた漆黒の瞳が、ちいさく揺れた。

「……過去になんて、するな」

さらり、と長い金髪に触れる。
投薬による治療を行えば、副作用によってこの髪は光沢を失い、日ごと抜け落ちていくだろう。
だから、ナシアスは目を伏せた。

「……余命は、半年だ」
「だからどうした」
「──……」
「その半年の間に、画期的な治療法や薬が見つかるかも知れない──いや、見つけさせる」

それは、ジルにも言った言葉だった。

──あいつを助けるためなら、どんなことでもしてみせる。

その言葉に、偽りはない。
どれだけ莫大な費用が掛かろうと、この男が助かるのであればそれでいい。
医学の進歩だとか、病人のためだとか、そんなことは今はどうでもいい。
この男が──ナシアスひとりが助かるのであれば、それでいい。

「バルロ……非現実的だよ」
「間違えるな。半年『しかない』んじゃない。半年『ある』んだ」
「……」

ただただ目を瞠ることしか出来ないナシアスに、バルロはにやり、と口端を持ち上げた。

「ほら。いつもの勢いはどうした」
「……」
「そう大人しくしていると────」

バルロは横たわるナシアスの顔の脇に両手をついた。

「なに──」
「決めてるんだろう?──腹上死」
「──っ?! なに馬鹿な」
「過去形でも何でも、好きだと思った相手なら不足はあるまい」
「馬鹿なことを言うな!」

慌てて身を起こそうとするナシアスの肩をベッドに押し付け、バルロは静かに言った。

「────嫌なら、死ぬな」
「──……」
「俺に抱かれて死ぬのが嫌なら、『こいつだ』と思うヤツが現れるまで生きろ」
「……」

精悍な顔に隠し切れない悲痛な表情を浮かべ、それでもバルロは口許に笑みを刻んだ。

「それまで……俺が、抱き続けてやる────」




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