「──どうかしたんですか?」
掛けられた声に、思わず肩を揺らした。
「……え?」
「さっきから、きょろきょろしてる」
「……何でも、ない」
「本当に不思議なんだけど」
「……何だ」
「そんなに思い切り顔に出るのに、どうして嘘を吐くのかな?」
「……」
俯けば、隣を歩く青年に手を取られた。
病院から大通りまでの道。
深夜を回っているから、人通りはほとんどない。
とはいえ、急なことに心臓が跳ねた。
「ちょっ──」
「気に入らないな」
「……」
「誰のことを、考えているの?」
「……」
微かに怯えたような表情を浮かべ、すっと目を逸らす。
その態度になぜだか苛立ちを感じ、ヴァンツァーは背けられた顎を取り、菫の瞳をひた、と見下ろした。
不安気に揺れる瞳には確かに自分が映っているのに、シェラが見ているのは違う男のような気がした。
「そういえば、さっき誰に電話を掛けていたの?」
「──っ、……」
カマを掛ければ、面白いくらいに素直な反応が返る。
これだけ正直な態度を取るのなら、最初から喋ってしまえばいいものを。
俯いて唇を引き結び、頑なに口を割ろうとしない様子に、ヴァンツァーはポケットから煙草を取り出した。
口に銜えて火をつけ、煙を深く吸い込んではっとした。
注意深く銀色の頭を見下ろすと、しばらくしておずおずとこちらに顔を向けてきた。
「……何を、怒っているんだ……?」
びくびくと、草むらのうさぎのように震える細い身体。
自惚れるわけではないが、この人がこの顔を大層好みとしていることは分かっている。
思い返すだけでも苛々するが、ナシアス・ジャンペールも造作だけを言うならばかなりの美形だ。
本人に自覚があるかどうかは別として、シェラはかなりの面食いである。
おそらく、ジルのような男も好みの範疇に入るだろう。
「怒っているように見えますか?」
ふぅ、と煙を吐き出せば、相変わらずの上目遣いで唇を尖らせる。
そこに思い切り噛み付いてやりたい衝動に逆らうことなく、ヴァンツァーはシェラに口づけた。
「……苦い」
ポツリ、と呟くシェラに、ヴァンツァーは言ってやった。
「──好きなクセに」
病室へ入ってきた人物に、ナシアスはベッドの上で身を起こした。
「……ジル」
この人にしては珍しく、困ったような顔をしている。
ベッドサイドの椅子に腰掛けた白衣の男は、悠然と脚を組んでみせた。
「思い切り泣かれたぞ」
「……アランナが?」
「サヴォアの社長が呼んだようだな」
「彼は、妹の婚約者だからね」
「ほう。お前ともあろうものが、妹に男を盗られたのか」
からかうような口ぶりに、ナシアスは苦笑を返した。
「嫌だな。ちゃんと妹たちのことは応援しているよ」
「そう。──そうやって、お前はみんなを傷つける」
「……」
「痛みが出たら危ないと、言わなかったか」
「……そうだったかな」
「すぐに来いと言ったはずだ」
「そうだったかも知れないね」
組んだ手の上に視線を落とすナシアスに、ジルはあからさまに嘆息してみせた。
「ナシアス」
「うん?」
「────死ぬぞ」
「……」
医者にはあるまじき台詞にも、ナシアスは薄い笑みを口許に浮かべただけ。
「どの道、余命は半年だって言ったのはあなただ」
「モルヒネを投与して痛みを誤魔化してただ死を待つのと、抗癌剤や放射線治療で戦い抜くのとでは、意味がまったく違う。しかもお前の場合は、尊厳ある生のためでなく、投げやりになってすべてをうやむやにしようとして痛みを抑えているにすぎない」
「……バルロと同じことを言うんだな」
「まだ臨床試験中だが、重粒子線治療の効果も期待出来る」
「聞いたことはあるよ」
「保険は利かないが、お前の家なら」
「──ジル。わたしは家の力は使わない」
そんなことをするくらいなら、それこそ死んだ方がマシだ、と水色の瞳に怒りと侮蔑の念が湧く。
ジルは肩をすくめた。
「言うと思った。サヴォアの社長が、全面的に援助してくれるそうじゃないか」
「……彼は、変なところで頑固なんだ」
「断ったら一服盛って眠っている間に全部済ませてやる、と息巻いていたぞ」
そのときの様子を思い出したのか、ジルは困ったように眉を下げた。
製薬会社の社長が一服盛るとは、穏やかではない。
また、強ち冗談でもなかったのだろう。
バルロがやると言ったらやる男なのは、ふたりとも知っている。
しばらく低い笑いが室内に響いていたが、脇腹の痛みに顔を顰めたナシアスにジルが「どうするんだ」という目を向けた。
短くはない沈黙のあと、ナシアスはゆっくりと口を開いた。
「……ねぇ、ジル」
「愛の告白なら聞かんぞ。俺には可愛い妻がいるからな」
これには思わず吹き出したナシアスだった。
「はいはい。娘みたいな歳の奥さんだよね」
「言うな。俺が一番居たたまれないんだから」
「──愛してる?」
ふと真剣味を帯びた口調に、ジルは誇らしげな笑みを浮かべた。
頷くでも、言葉にするでもなく、ただ静かに。
それだけで、十分だった。
ほぅ、と息を吐いたナシアスは、窓の外に広がる星空へと視線を飛ばした。
見ているのは、そのもっとずっと向こう。
きらきらと輝く夜空の星よりも、もっと眩しい存在だ。
「……今まで色々やってきたけど」
「やんちゃ坊主」
くすっ、と笑ったナシアスは、ふわりと微笑んだ。
「──……出来れば、もう少し、────生きていたいと思うんだ」
秋から冬にかけては、受験生にとっては誇張などではなく戦争のような毎日だ。
授業はもとより、補習にも教員生徒問わず力が入る。
週末のたびに実力試験や模試が行われ、その結果と現段階での志望大学の合格率に一喜一憂する姿もそこかしこに見られる。
特進クラスとて、例外ではない。
秀才たちの集まる特別学級だが、それだけに目指す大学もハイレヴェル、ほとんどが国立クラスの大学を志望している。
私立も国内最高峰を志願し、また、毎年かなりの合格者を出してもいる。
ヴァンツァーも、決して受験を楽観視などしていない。
模試の結果では毎回全国で十位以内には入っているが、人生は何が起こるか分からないということを、彼はその年齢では考えられないほどに身に沁みて理解していた。
「……ひとつ、訊いてもいい?」
そっと裸の胸に手を沿わせ、指先に鼓動を直に感じて安心する。
肩口に頬を寄せれば、やさしく頭を撫でられて額に唇が落とされる。
こんな幸せを自分が感じてもいいのか、とシェラはほんの少し戸惑っていた。
「何です?」
この関係が始まったのが春の初め。
今はもう冬本番だ。
年が明ければ、いよいよ全国共通試験や各大学の入試が始まる。
各種推薦入試では、すでに合格通知を受け取っている生徒もいた。
そんな中、ヴァンツァーはほぼ週末毎にシェラと会うことを、控えたりはしていなかった。
半年以上も続いている関係。
最初より格段に甘く、やさしくなった青年にシェラはちいさな不安も抱えていた。
「……きみと、レティシア君は……どんな関係?」
「嫌だなぁ。俺といるときに他の男の話ですか?」
ありえない、とその秀麗な美貌に刻んだヴァンツァーだったが、シェラも引き下がらなかった。
「今も、……寝てるの?」
彼がこういう物言いを嫌っているのは知っている。
嫉妬する素振りを少しでも見せようものなら、即行で相手を切り捨てる男だ。
それでも、どういうわけだか自分は平気な気がして──否、そんなことよりも、知りたかったのだ、結局は。
「──あいつは、薬みたいなものだから」
「……くすり……?」
「合法ドラッグ、ってところかな」
瞬きをするシェラに、薄く微笑む。
「昔、一緒に暮らしていたことのある男の親戚でね。もちろん、お互いそんなことは全然知らなかったんだけど……逃げる俺を、現実に繋ぎとめる楔なんだ」
気付け薬みたいなものですよ、と笑う青年の首に、シェラはきゅっと腕を回した。
「どうしたんです、甘えん坊なうさぎちゃん?」
いつか、レティシアに言われた言葉を思い出す。
──俺は、精神安定剤にはなれないから。
だったら、自分はそれになることが出来ているのだろうか、と考え腕に力を込めた。
相手は年下だというのに、支えられているのは自分の方。
最初は逃げ道でしかなかったけれど、今は誰よりも安心する鼓動とぬくもりをくれる大切な人だ。
「──……溺れるくらい、甘やかして……」
ささやいて、触れるだけのキスをする。
情事の延長というよりは、もっと純粋に相手に触れたいという気持ちが勝っていた。
いくら抱きしめても、どれだけキスをしても、何度身体を繋げても足りないのに、微笑みひとつで満たされたりする。
髪を撫でられて安心し、腕に抱かれて眠ることが何よりの幸福。
──こんな日が、あとどれくらい続くのだろう……?
考えたくないことほど、妙に脳裏を占めてしまうときがある。
振り払おうとしても影のように付き纏い、すべてを覆い尽くしてしまう。
──……あと、少し……もう少し、出来ればずっと、……この幸せが続きますように。
緩く、激しく心ごと揺さぶられ、涙を流す。
その涙を啜られて、吐息すらも奪われて意識を手放す寸前の浮遊感。
怖くなって腕を伸ばせば違わず抱き返され、感じる安堵にまた涙を零す。
年が明けても、ふたりの関係は続いた。
一月が終わり、二月が過ぎ、ヴァンツァーの入試が終わって合格発表と卒業式が行われた。
当然だろう? という顔をして合格通知を見せてきた青年に、なぜかシェラの方が嬉し涙を流していた。
三月も半ばとなり、卒業生は寮を出る準備を進めていた。
──終わりが訪れたのは、桜の蕾が綻びかけたある日のことだった。
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