自分と関係を持った人間は、皆死んでいく。
さすがに全員、というわけではないけれど、十八年という短い年月の中で四人も同じ末路を辿れば十分だ──そのうちひとりは、肉体関係を持ったわけではないけれど。
それでも、わりと長く関係を続けた人間は、死という形で自分の前からいなくなる。
ひとり目は母──父がふたり目となった。
三人目は薬を飲んで。
四人目は──病に冒され、自分はこうして葬儀に参列している。
その死因は異なるけれど、三人までは自分が家に帰ると冷たくなっていた。

「……」

だから、あの人もそうかも知れない。
あの人も、自分の前からいなくなるのかも知れない。

──ドクン。

不規則に心臓が脈打つ。

「……っ、ぁ……?」

知らない。
こんな感覚は、知らない。
両親の死には少なからぬショックを受けたけれど、『これで解放される』という思いの方が強かった。
三人目も同じ。
今回はもう、何の感慨も覚えなかった。
そういうものなのだ、と。
自分の周りの人間は、そうなる運命なのだ、と。
それなのに、今、『もしあの人が』と考えるだけで胸が潰れそうになる。
呼吸が出来なくなる。
額に汗が滲み、背中が寒くなる。
気分が悪くて、会場を出た。
しとしとと降る冷たい雨。
けれど今はその冷気が心地良かった。
新鮮な空気を吸い込み、白い息を吐き出す。
しばらく繰り返すと、ようやく落ち着いてきた。

「……何だ、これ」

呟くヴァンツァーの耳に、どこからか話し声が聞こえてきた。
盗み聞きをする趣味はないが、何となく気になってそちらへ向かって──目にした人影に、一瞬脚が縫い止められたように動かなくなった。
慌てて、壁に身を隠す。
どうして自分がそんな真似をしなければならないのか分からなかったが、反射的に身体が動いていた。

──シェラと、あの男が抱き合っている。

何を話しているのかまでは聞き取れなかったが、そんなことはどうでもいい。
元彼、とでも言うのだろうか。
偉そうな態度、それに見合った体格と肩書きを持った男だ。
わりと端正な容貌をしていた記憶がある。
だがあの男はナシアス・ジャンペールと……と考え、ヴァンツァーは苛立ちのままに固めた拳を壁に打ち付けた。


「……バルロ……さん?」

会場を出て行くのが見えたから、シェラは思わずあとを追った。
何だか少しちいさく見える背中に声をかければ、大きなため息がもたらされた。
それが自分に対するものではないと分かったから、シェラは無言のままでいた。
そのまま、痛いほどの静謐の中で時間が流れる。

「……最期まで、薄情な男だ」

ぽつり、と呟かれた声に、その自嘲すら混じる声音に、目頭が熱くなる。

「あんな、満足そうな顔で死なれたら……文句も言えない」

やつれた感はあったが、それでも、確かにナシアスの死に顔は穏やかで美しかった。

「バルロ……」

振り返った男は、泣いているシェラを見て苦笑した。

「どうした?」

自分でも訳が分からず、シェラは首を振った。
バルロは僅かに口許を綻ばせ、歩み寄るとそっとシェラの頬を拭った。
無骨かとも思える大きな手と指先がやさしいことを、シェラは知っている。
だから、余計に涙が溢れた。

「まったく……こんな場合でなければ口説いているぞ」
「……」

冗談めかした言葉に、シェラは微かに口許を歪めた。
彼が、そんなことをしないのは、知っているから。
別れた相手だから、とか、こんな場合だから、とか、そんなことは関係なく。
彼の心の中には、たったひとりしかいない。
だから、自分を口説いたりはしない。
それが分かっていても、胸は痛まなかった。

「……泣いている女の子は、抱きしめて慰めるのが、あなた流でしょう……?」
「女扱いすると怒る男にか?」
「今だけは、許してあげます」
「言うようになったな」

喉の奥で笑い、そっとシェラの身体に腕を回す。
雨で冷えた身体。
それでも、微かなぬくもりを返すそれが切なくて、バルロは腕に力を込めた。
シェラは厚い胸に頭を預け、静かに涙を流しながら彼の心音を聞いていた。
今だけ。
今だけは。
泣けない彼のために、自分が泣こう。
そう思って、ここ数ヶ月で慣れたものよりずっと逞しい身体をそっと抱き返した。
恋情ではない。
好きだと、今でも思うけれど、でもこれは恋ではない。
愛情に近いのかも知れないけれど、それはどちらかといえば家族愛のようなものかも知れない。

「……いいのか?」
「はい?」

静かに訊ねてくるバルロに、シェラも静かな声を返した。

「こんなことしていると、焼け棒杭に火がつくかも知れんぞ?」

声が笑っているから、シェラもちいさく笑った。

「心外ですね。私みたいなイイ男が、いつまでも独りだと思わないで下さいね?」
「何だ、男が──あぁ、あの少年か。恋人なのか?」
「──どうかな……私は、そうだったらいいな、って思ってますけど」

教え子だったということは分かっているのだろうが、バルロは何も言わない。
理屈ではない、と彼は知っているから。
知識ではなく、実感として。
理屈で恋が出来るなら、きっと彼はこうなることを予感していながら、ナシアスを愛したりはしなかっただろう。
『そんな日は来ない』と自分に強く言い聞かせながら、それでも言い聞かせなければ拭えない不安感と戦い、微笑みあいながら恐怖する日々を過ごしたりは、出来なかっただろう。
バルロは、強い男だ。
事実を事実として受け止め、受け入れることが出来る。
逃げることしか出来ない自分とは違う、と思ったシェラに、声がかけられた。

「お前らしくもない。言ってやってないのか?」

え? と顔を上げたシェラに、バルロはにっと口端を吊り上げた。

「──『さっさと私のことを好きになればいいんだ!』って」
「……」

懐かしいその台詞に、シェラはしばらく目を瞠ったあと、おかしそうに笑った。
バルロも笑ったから、互いの身体を通して声が響く。
そのあたたかい感覚に、シェラはまた、涙を流した。
まだ故人について語り合っている人は多かったが、シェラは会場をあとにした。
バルロは、泣きじゃくっているナシアスの妹に付き添っていた。
やさしい、人なのだ。
自分の方こそ泣きたいだろうに。
また、目頭が熱くなりかけたシェラだったが、視界に入った靴先に見覚えがあって顔を上げた。

「──ヴァンツァー……?」

そこには、傘もささずに立ち尽くしている元・教え子がいた。

「何してるの?」
「……ひどいな」
「え────」

ぐっと腕を引かれ、小道に誘い込まれて壁に押し付けられると荒々しくキスをされた。

「っ、ちょ……ふっ、……」

抵抗しようにも力の差は歴然としていたし、こちらの身体など知り尽くしている青年のキスから逃れることは出来なかった。
嵐のようなキスが収まるのを待って、シェラはどうしたのだ、と問いかけた。
ぼんやりと焦点の合わない瞳で顔を上げたヴァンツァーは、やおら相手のコートの襟元を引くと、首筋を吸い上げた。

「え──っ」

目を瞠るシェラには構わず、コートのボタンを外していく。
勢いで傘を取り落としたため、冷たい雨と肌を切り裂くような冷気を直に感じる。
しかし、それよりも性急にことを運ぼうとしている青年の行動に驚いた。

「ち、ちょっと!」

さすがにどうにかして長身を押し返し、寛げられた襟元を重ね合わせる。
いつ人が通るか分からない。
もう卒業したとはいえ、教え子と往来でこんな真似をしているというのは外聞が悪い。

「ヴァンツァー、どうし──」
「──抱きたい」
「……え……」
「抱きたい。あなたを、今すぐ」

早口で呟いて、再びシェラを壁に押し付ける。
今までただの一度も、シェラの目を見ようとしない。

「ちょっと! どうしたんだ、きみらしくもない!」

大きな声を出せば、ぴたり、と青年の動きが止まった。
のろのろと上げられた顔はなぜか焦燥感と悲壮感が色濃くて。

「……俺らしい……? 何が、『俺らしい』?」
「……」
「自信家で、人を喰ったように笑って、頭も物分りも良くて、いつも冷静──それが、俺?」
「ヴァンツァー……?」
「────……欲しいんだ、あなたが……」
「……」

肩口に額を擦り寄せてくる子どものような青年を拒むことなど、出来るわけがなかった。


あれだけ行為を急いていたくせに「ホテルは嫌だ」と言う青年のために、シェラは彼を自宅へ招いた。
玄関の扉を閉めた瞬間腰を引き寄せられて、息が出来ないほどの激しい口づけをされた。
そのまま、ろくに服も脱がせられないまま抱かれた。
荒々しいけれど乱暴に扱われているわけではない感覚に首を傾げる余裕は与えられなかった。
一度果てても衰えない青年がそのまま行為を続けようとするのを、僅かに残った理性で押し止めてベッドへ誘った。
ほとんど抱えられるようにして寝室へ連れて行かれ、話し掛けようとする前に下肢に顔が埋められて思考が吹き飛んだ。
それからはもう、互いの名前を呼ぶ以外に言葉はなく。
抱き返すために腕を伸ばすことすらも出来なくなって、ようやく、ヴァンツァーの動きが止まった。
荒い呼吸を整えるように、あちこちにキスが落とされる。
春先とはいえ、雨が降っていたこの日はまだまだ暖房が必要なくらい寒い。
空調を入れる暇もなかったが、ベッドの上でふたりは汗に塗れていた。
しばらくして落ち着いてきたのか、ヴァンツァーはシェラの頭を胸の上に乗せるようにして抱きしめた。
シェラも擦り寄るようにして、心音が聴こえる位置を探った。
腕の中に囲い込んだ銀色に、愛しげに指が絡められる。
それはすぐにするり、と指先をすり抜けてしまって、ヴァンツァーはごく微かに目を眇めた。
零れそうになるため息を押し殺して、静かに口を開く。

「たとえば街で偶然会ったら……」
「偶然?」

上目遣いに覗き込んでくる菫に、にっこりと笑みを返す。

「えぇ、偶然。そうしたら、──あなたは俺に声を掛けますか?」

逡巡の後、シェラは口を開いた。

「……きみは?」

思わず喉の奥で笑ったヴァンツァーだ。

「質問に質問を返すと、penaltyが課せられます」
「え? そんなの聞いてな────っ、ぁ……ン……」

脚を撫でられて、敏感になっている身体が勝手に跳ねる。

Punishment……お仕置きだ」

そう言いながらシェラの額に、瞼に、頬に唇に落とされるキスは、泣きたくなるほどやさしかった。

すやすやと安心した顔で眠っている佳人の額に、そっと唇を寄せる。

起きる気配はないが、僅かにシェラの口許が綻んだ気がして、ヴァンツァーは眉を寄せた。
伸ばした指先で頬に触れようとして、その手を握り込む。
代わりに銀髪をひと房指に絡め、唇を押し当てる。
そうして眠っているシェラに、淡く、やさしい笑顔を浮かべてささやいた。

「愛してる……だから、────さよならだ……」

目覚めたシェラは、隣にあって然るべきぬくもりがないことに気づいて身体を起こした。

「……ヴァンツァー……?」

呼んでも当然のように返事はなく。
部屋着を身につけてリビングやダイニングへも行ってみたが、この家のどこにもいないようだった。

「……まったく、相変わらず薄情な子だ」

書置きのひとつくらい残して行け、と文句を言ってあくびを噛み殺すと、気だるい身体を引きずって再びベッドへ潜り込んだ。

シェラが自分の呟きの本当の意味に気づいたのは、それから三日後のことだった──。




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