──その瞬間。

──……さようなら

風の声を、聴いた。

「──ぁ、っ……」
「──シェラ?」

思わず脚を止めて振り返ったシェラに、隣にいたバルロが訝しげな表情を向けた。
人ごみの中の一点を見つめたまま、瞬きすらもしない菫の瞳に、バルロは慎重に口を開いた。

「……いたのか……?」

誰が、とは言わない。
言わなくても、ふたりの間ではそれが誰を指しているのかは自明だった。
薄く唇を開いたまま、喘ぐような浅い呼吸しか出来ないシェラ。

「行かないのか」

街中の喧騒すら耳に入って来なかったのに、その言葉はなぜかするりと流れ込んで来た。
ぎこちなく、首を巡らせてバルロを視界に入れる。
宝石のような紫の瞳は忙しなく揺れていて、バルロは内心で苦笑した。

「行かないのか」

繰り返される言葉。
疑問ではないそれは、『さっさと行け』と言っている。
それは分かる。
お前は追いかけろ、と。
追いかけられない自分とは違う。
お前は、それが出来るのだから、と。

「……」

しかし、シェラはしばらくして首を振った。

「……きっと、人違い」

きゅっと両手を握り合わせる。
その手も、胸の奥も震えている。
それでもシェラは、その感覚に目を瞑ろうとしていた。
所詮、自分は捨てられた人間──置いていかれた、人間なのだから。
彼には邪魔で、不要で、いない方が良い存在なのだ。
だから人違いなのだ、と言い聞かせた。
途端に、盛大なため息が頭上からもたらされる。

「あのなぁ」
「……」
「人違いなら、また戻ってくればいいだろうが」
「……え?」

目を真ん丸にするシェラに、バルロは『仕方ない』といった感じで苦笑した。

「彼でなかったら、また俺のところに戻ってくればいい」
「──そんな」

そんな都合のいいこと、出来るわけがない。
何度も何度も、自分の勝手で振り回すわけにいかない。
彼が消えて、連絡もつなかくて、絶望して、呼吸すら出来なくて──そんなときに縋った手を、握り返してくれた。
自分の勝手で押しかけて、自分の勝手で離れておいて、また、自分の勝手でその手を求めた。
我が儘なんて、そんな可愛いものではない。
結局、自分のことしか考えていないのだ。
そんな愚かな行動に、この人はいつでも付き合ってくれている。

──面白そうだからな。

そんな風に、子どものような笑みを浮かべて。
相手になど不自由するわけもなく、手に入らないものなどない大企業の経営者なのに。
これ以上、この人を裏切ることなんて、出来ない。

「勘違いするなよ?」

シェラのことをよく知っている男は、わざとしかつめらしい顔で告げた。

「最初から、そういう取り決めだっただろう?」
「……」
「俺はあいつを、お前は彼を。別の人間を想いながら、空いた穴を埋めるために一緒にいる」
「……」
「そういう、取り決めだ」

バルロは、『約束』という言葉を使わなかった。
『取り決め』──それは、ある種の『契約』なのだ、と。
そして、この契約は一方的に解除出来るのだ、と。

「誰に義理立てすることもない。次を見つけたらさっさと乗り換える。──そういう話だったろう?」

実際、バルロはシェラ以外の人間と関係を持つことも少なくない──否、どちらかといえば、シェラと関係を持つことの方が少ない。
添い寝をして、ともに朝食を摂り、休日には手を繋いで街を歩く。
そんな、ままごとのような関係。
シェラにしてみれば、なぜバルロほどの人がそんな生活に甘んじているのか正直理解出来なかった。
それでも、今は戻ってきてくれるのならばそれでいい、と関係を続けていた。

「今お前が見つけた人間が彼だったら、追いかければいい。追いかけて、ぶち当たって、玉砕したら──また面倒見てやるよ」
「……」

にっ、と笑う悪戯っ子のような顔に、菫の瞳に涙が浮かぶ。

「その代わり、俺だって次が見つかったらさっさとそっちに乗り換えるんだからな」

そんな風に言って、シェラの涙を拭うその指が、あたたかくて心地良い。
こんな人、他にいない。
やっぱり、自分の眼は確かだった。

「……バルロ」
「何だ」

嗚咽で上手く声が紡げなくなりそうで、それでもシェラは深呼吸して満面の笑みを浮かべた。

「────あなたを、好きになって良かった……」

大好き。
それは、あのときも今も変わらない。
きっと、この先一生だって、この気持ちが変わることはない。
彼と出会い、彼を好きになった自分の人生を、誇りに思う。
本当に、奇跡だ。
偶然──でも、それは必然でもある。

「ありがとう……心から」

頭を下げて顔を上げると、背伸びをして軽く頬にキスをした。

「そんなことをしている間に追いかけないと、見失うぞ」
「そうしたら、また面倒見てくれるんでしょう?」

シェラは冗談めかして上目遣いに訊ねた。

「あぁ。だから、さっさと行って来い」
「──はい」

こくり、と頷き、もう一度おじぎをするとシェラは駆け出した。
休日の雑踏。
上手く歩くことすら出来ない中で、それでも先を急ぐ。
もう、ちらっと見かけた人影を目で追いかけることなんて出来ない。
だから、感覚に頼るしかない。
無駄かも知れない。
人違いかも知れない。

──でも。

そこだけ、色が違った。
そんなわけはないのだけれど、本当にその姿だけ周囲から浮かび上がっていて。
周りの人間の動きが遅く見えた。
だから、その背中目掛けてシェラは力強くアスファルトを蹴った。
勢いのまま、ほとんど体当たりでぶつかった。
それでも長身は揺るがなくて。
服の裾を引いたまま、背中に額をくっつける。
走ったせいで呼吸が荒い。
心臓なんて口から飛び出しそうで、苦しくて──それなのに、シェラは微笑んでいた。
往来のど真ん中。
言うまでもなく、人々から奇異な眼で見られる。
しかし、そんなことは気にもならなかった。
記憶にあるより、背が伸びた。
背中も、逞しくなった。

──そして。

「────まったく」

耳に残っているものより、僅かに低く、艶を増した声。
それでも相変わらず、耳に心地良い低音。
ずっと、ずっと聴きたかったそれに、勝手に目の奥が熱くなる。

「人違いだったら、どうする気ですか?」

呆れ返った声音。
振り返りもしないで紡がれた声は、背中から直接響いてくる。
その振動が、たまらなく心地良い。

「……間違えたりしない」

震える声で言えば、「本当かな?」とからかう口調。
ゆっくりと、長身が振り返る。

「俺じゃなくて、他の誰かでも良かったんじゃ──」

言いかけた言葉は、重ねられた唇に遮られた。
襟を引いて、背伸びをして。
子どもみたいに、重ねるだけの口づけ。
驚いたように瞠られる藍色が懐かしくて、また涙が零れそうになるのを眼に力を入れて我慢した。
真っ直ぐに、焦がれた藍色を覗く。

「間違えたり、しない」

信じろ、と言い切る瞳に、ヴァンツァーはしばし瞬きも返せなかった。
この人は、いつからこんな強いまなざしをたたえるようになったのだろう。
あの頃はいつでも不安気に揺れて、相手の顔色を伺って。

──なんて、綺麗……。

長い銀髪を梳いて耳にかける。
その位置が僅かに低く感じるのは、自分の身長が伸びたからだろう。
時は流れても記憶にあるのと同じようにやわらかな頬に触れても、目を逸らさない。
まるで、一瞬でも目を離したらまたいなくなってしまう、と思っているかのように。

「……やっと、見つけたんだから」

だから、間違えたりしない。
そう告げる声と瞳に、ヴァンツァーはゆったりと微笑んだ。

「──で?」
「え……?」
「彼氏はいいの?」
「……彼氏じゃ」
「じゃあ何、愛人?」
「ヴァンツァー……」
「今の男を放っておいて、どうして昔の男なんて追いかけるの?」
「……」

軽蔑、されたのだろうか。
汚らわしい、と。
色に塗れながら、意外と潔癖で繊細な子だったことを思い出す。
それとも、とっくの昔に捨ててやったのに、何を追いかけてきているのだ、と言いたいのだろうか。

「この手は、なに?」
「……」

ずっと服を掴んだままのシェラの右手。
視線を下ろせば、きゅっと手に力が込められたのが見えた。
ゆっくりと視線を上げて、微かに揺れる紫を覗く。
揺れていても真っ直ぐな瞳を、本当に綺麗だ、と思う。

「──……もう、離さない」

それでも、シェラには彼を失うことは出来ない。
絶対に。
もう、二度と離さない。
そう語る瞳に、ヴァンツァーは唇を持ち上げた。
服を掴むシェラの指をそっと外させ、手を合わせ、ゆっくりと握り込む。
ちいさく肩が震えた。
力は込めない。
逃げたければ、逃げればいい──否、────逃げろ。

「俺といると……────死ぬよ?」

みんなそう。
自分と関係を持った人間は、ことごとくその命を儚くしていった。

「あぁ、死にたがりのあなたにはちょうどいいのかな?」

くつくつと喉の奥で笑えば、ふっと相手が笑ったのが視界に入った。
見れば、揺らがない強固な意思がそこにあった。
ぐっ、と強く手を握り返される。

──逃がしてやらない。

そう、言われている気がした。

「──私は、死なない」
「……」
「私は、────私と、きみのために、死なない」
「……」

呆然と見つめることしか出来ないヴァンツァーに、シェラは強気な笑みを浮かべた。

「きみが好きだから……だから──」

言い終わる前に、握った手を強く引かれ、言葉ごと唇を奪われた。
シェラがしたような触れるだけのキスではない。
深く、呼吸まで奪い尽くそうとするかのような濃厚な口づけ。
嵐みたいなキス。
腰を抱かれ、頭を押さえられ、技巧よりも感情が優先するそれに、シェラも相手の背中を抱き返した。
公衆の面前であることなど、既にふたりの頭の中にはない。
ただ、今はお互いの熱を感じることだけがすべて。
角度を変えて、何度も、何度も。
ようやく解放されると、シェラはくったりとヴァンツァーにもたれかかった。
しばらくして耳に入るようになったざわめきは、きっと人通りが多いから、というだけではないはずだ。

「……誰かさんのせいで、めちゃくちゃ目立ってるな」

シェラが笑いながら呟けば、「あぁ、誰かさんが体当たりしてくるから」とやはりおかしそうな声が返ってきた。

「人のせいにするなよ」
「事実でしょう? 根本の原因は、あなただ」

しれっと言い切ったヴァンツァーは、にっと口端を持ち上げて「で?」と訊ねた。

「俺のことが、何だって?」
「……」
「よく聴こえなかったんですよね」
「それは言い終わる前にきみが」
「周りが煩くて聴こえないなぁ」
「それもきみが」
「──で?」

年齢を重ねて色気を増した精悍な美貌が浮かべる笑みに、シェラは若干たじろいだ。
それでも、今度こそ。
絶対に、繰り返したりしない。

「……す、好き……」
「聴こえない」
「好き」
「もっとはっきり」
「~~~~っ、────好ぅきぃだぁぁぁぁぁっ!!」

肩で息をしながら、『どーだコノヤロー言ってやったぞ』、とでも言いたげなシェラに、ヴァンツァーは破顔した。
腹を抱えて笑った後、真っ赤になっているシェラの耳に音を立ててキスをする。

「──知ってるよ」

今度は軽く唇を啄ばまれ、シェラはむっとして眉を寄せた。

「きみは?」
「うん?」
「……きみから、聞いてない」
「そうでした?」
「──ずるい! 不公平だ!」
「はいはい、怒らない」
「言え!」
「うん?」
「言え! 好きだって言え!」
「どうして?」
「────っ、きみは私が好きなんだ! 絶対絶対好きなんだ!!」

大声を張り上げてそんなことを言うシェラに、ヴァンツァーは我慢しきれず吹き出した。
銀幕のスーパースターでもちょっと見ないような美形が、往来のど真ん中で腹を抱えて笑っている。
かなりの見ものである。
しかし、こういう奇特な人間のことは、そっと遠くからちらちらと見るのが礼儀というもの。
本日この通りにいた人々は、みなそんな礼儀を弁えていた。
苦しそうに腹部を押さえ、シェラの肩を叩いていたヴァンツァーは、「不愉快だ」という声に顔を上げた。
ふんっ、と顔を横に向けているシェラの頬はぷっくりと膨らんでいて、それがまた笑いを誘う。
しばらく笑っていたヴァンツァーだが、どうにかして発作のような笑いを収めると「シェラ」と声をかけた。
ジロッ、と睨まれたが、そんなものは気にもならない。
そうして、彼はにっこりと極上の笑顔を浮かべたのだ。
反射的にシェラの頬が赤く染まるのを、見逃すようなヴァンツァーではない。

「言ったろう?」
「……何をだ」

ご機嫌ナナメなフリをしているうさぎちゃんの耳元で、青年は甘くやさしくささやいた。

────I wanna make love with you.────

~ しあわせに、なれますように・・・ ~




END.

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