可愛い女の子が真夏の海にひとりでいたら、それは男が放っておかない。
むしろ、『ナンパして下さい』と言っているようなものだ。
これは、声を掛けない方が失礼というもの。
遊び相手を探している男どもは、そういう理屈をつけて、女の子を誘うのである。
「かーのじょ」
「かっわいいね~。どこから来たの?」
周りを四人の男に囲まれたソナタは、目をぱちくりさせながらも事実を口にした。
「連邦大学惑星」
「へぇ。じゃあ、結構長旅だったんじゃない?」
「疲れなかった? いつこっち来たの?」
「昨日着きました」
「あぁ、敬語とかいいよ。疲れるでしょう? 俺ら二十歳だけど、高校生くらい?」
「はい」
「家族で来たの?」
「まぁ」
「ねぇ、俺らと泳ぎに行かない? 結構得意なんだよね」
「サーフィンとかどう? オレ、インストラクターの資格持ってるから教えるし」
「むこうに見える無人島に、『蒼の洞窟』って呼ばれてる場所があってさ。すごく綺麗なんだよ。行かない?」
矢継ぎ早に提案を受けたソナタだったが、もちろんこの青年たちの誘いに乗るような真似はしない。
それも、初対面の男たちと無人島なんぞに行って、無事に帰ってこられる保証などひとつもない──むろん、ソナタは護身術の類も身につけてはいるのだが。
どうやって断ろうかなー、と思っていると、背後から名前を呼ばれた。
よく知った声に振り返ると、ヤシの実を持った金髪。
喉が渇いただろう、とジュースを取りに行っていた屋台から帰ってきたのである。
「どうしたの?」
「何かね、ナンパされてるみたい」
他人事のようにそう言うソナタに、金髪美人は「ふぅん」と言ってヤシの実をひとつ渡してやった。
色めきたったのは男たちだ。
「いやー、きみも美人だね!」
「背ぇ高いけど、モデルか何かやってるの?」
「水着着ないの? 美人なのにもったいないよ」
ペラペラと喋る男たちに、碧眼を真ん丸にしたライアンは次の瞬間。
────グシャ。
一瞬何が起こったのか、と奇妙な間が空いたのち、サァァァァァァ、と男たちの顔から血の気が引いた。
「あぁん、もう、ライアン何してるの? 大丈夫?」
「あ……うん、ごめん。何か、びっくりしちゃって」
「ライアン力強いんだから、気をつけないとだよ?」
「うん、ごめんね?」
「わたしはいいんだけど」
いやいや待て待て、と男たちは恐慌状態に陥った。
だって、目の前でヤシの実が潰れた──否、潰されたのだ。
それも、背が高いとはいえ、華奢な金髪美人の手で。
もう、力が強いとか、そういう問題ではない。
そんなこと出来るわけがない。
実の間からジュースが零れ、砂に吸い込まれていくのを夢か幻のように見つめる男たち。
目はカッと見開かれ、顎は外れそうになっている。
「あー、えーと……何でしたっけ?」
次々に話されるから、よく聞き取れなくて、と話しかけてくる金髪碧眼の怪力美人に、男たちは引き攣った笑みを浮かべた。
「「「「い……いいえ~……何でもなかったですぅ……」」」」
そうして、一目散に逃げ出してしまったのだ。
短く息を吐いたライアンの手や水着をタオルで拭ってやっていたソナタだが、これは拭くよりも海に入ってしまた方が早そうだ。
「ヤシの実片付けておくから、海で流してきたら?」
「あぁ、うん」
「珍しいね」
「──え?」
「ライアンが、あんな風にやきもち妬くのって」
「あー……」
あはは、と苦笑いを浮かべる美青年。
「バレちゃってましたか」
「バレちゃってました」
ふふふ、と微笑む美少女に、「かっこ悪いなぁ」と零す。
「びっくりした風を装ってみたんだけどなぁ」
「落としたら、そう思ったかも」
でも、潰さないよね~、とにこにこしている彼女に、ですよね~、と返す彼氏。
「面白いくらいドン引きだったね」
「うん。普通引く」
「え~、ソナタ『すごーい』って思ったけどなー」
まぁ、もったいないなー、とも思ったけど、と小首を傾げる少女に、ライアンはにっこりと笑った。
「うん。だから、おれソナタちゃん好き」
けれど、そこがまた心配なところでもあるのだ。
何にでも興味を持つ少女は、面白いと思ったものには素直に関心を示す。
出会ってたった数時間で彼氏の座に収まった自分が言えた台詞ではないが、女心となんとやら、気が変わらないという保証はどこにもないのだ。
「はぁ……ヤだなぁ……」
深くため息を零した彼氏に、ソナタは「何が?」と訊ねた。
「おれ、かっこ悪いね」
「そう?」
「パパさんだったら、颯爽と登場して『俺の女に何か?』くらいのこと言うんだろうけどさ」
「あぁ、うん。シェラの羞恥心とか無視して、腰抱いてキスとか普通にする」
「でしょ? おれ、そういうの出来ないからさ」
「えー、うーっそだー」
「──ソナタちゃん?」
カラカラと明るく笑った少女は、ツン、と彼氏の鼻の頭を突付いてやった。
「ライアンがかっこいいの、ソナタ知ってるもん。そーゆーのも、出来るんだけど、しないだけだよね。今は『うらいあん』じゃないし」
「──『うらいあん』? 何、それ?」
「制作してるときのライアン。いつもより五割増で強引で俺様で誑しなの」
「……何か、それあんまり褒められた男じゃないような……」
「そんなことないよ。かっこいいもん」
「……ソナタちゃんは、その『うらいあん』の方が好き?」
ちょっと不安そうな顔になる彼氏に、これもまた珍しいなぁ、と思ったソナタは首を振った。
「どっちも好き!」
ひと粒で二度美味しい彼氏なのだ、最高ではないか。
一応好意を口にされた男は、思わず苦笑した。
「──……ライバルが自分って、今までにないパターンだなぁ」
「新鮮だね」
「そうだね」
そうして、ふたりで潰してしまったヤシの実を片付けに行って、一緒に海へと向かったのである。
ひとつになってしまったヤシの実ジュースを半分ずつ飲むのも、何だか仲良しカップルみたいでいいね、と笑うソナタに、ライアンも笑顔で頷いた。
──そんなやりとりを見ていた少年がひとり。
ひと泳ぎしてきて、今はパラソルの下で休憩中だ。
なるほど、ヴァンツァーさんみたいなやり方が出来ないなら、ああすればいいのか、と目から鱗な少年は、自分もヤシの実を潰してみよう、と力を込めてみた。
ちなみに、既に飲み終わっているので食べ物を粗末にするわけではない。
ふぬぬ……ふぬぬ……としばらく粘ってみたのだが、もちろん赤ん坊の頭ほどもある実が潰れるわけもない。
りんごを片手で潰せる男の握力と腕力があるからこその芸当なのだから。
──……あぁ。俺ってやっぱり貧弱なのかな……。
そんなことを思って落ち込んでいる彼氏を、カノンは『可愛いなぁ』と思って眺めていた。
蛇足ながら、ビーチチェアに寝そべるカノンと、シートの上で胡坐をかいているキニアンというのは、もう、このふたりの力関係を如実に表している。
決してカノンが「そうしろ」と言ったわけではないのだけれど、なぜか自然とこういう形に落ち着いている。
ビーチチェアもうひとつ持ってくればいいのになぁ、と思ったカノンだけれど、そんなところも何だか可愛く思えるのは真夏の太陽と海の魔法だろうか。
もちろん本人には言ってやらないけれど、そんな彼氏のことが決して嫌いではないカノンはどこか嬉しそうだ。
「アーリス」
「んー?」
「日焼け止め塗って」
「──え? 出てくるとき塗らなかったのか?」
「海入ったから落ちちゃったよ」
「そういうものなのか?」
日焼け止めなど塗ったことのない少年は首を傾げたが、この真っ白い肌が日に焼けて赤くなっているところなど、想像しただけで痛そうだ。
泣いているカノンの顔は理性が吹っ飛ぶくらい可愛いのだが、痛い思いをさせるのは嫌だった。
だから容器を受け取ったのだが、ファスナーを開けてパーカーを脱ごうとしている天使にぎょっとした。
「──ちょっ! お前、何してんの?!」
「何って、脱がないと塗れないでしょう?」
「手と脚だけじゃないの?!」
「馬鹿なこと言わないでよ。背中が一番面積広いのに、そこ塗らないでどうすんの?」
信じらんない、と眉を顰めたカノンに、キニアンは呆然となった。
そして、ずいっ、と容器を返したのである。
「……なに、これ」
「自分でやって下さい」
「は? 自分で背中塗れっていうの? 馬鹿じゃないの?」
「……じゃあ、シェラさんにやってもらって下さい」
「あのさぁ、いちいち日焼け止め塗るくらいで欲情しないでくれる?」
「ばっ! そんなんじゃないっ!!」
「だったら塗ってよ」
「そ……だっ……じゃ、じゃあ、一回部屋戻って」
「ホント馬鹿?」
この神童に比べたらそりゃあ馬鹿に違いないが、何もそんなに繰り返さなくてもいいではないか。
「何で二、三分で終わることのために、同じだけ歩いてホテル帰って最上階の部屋まで行かなきゃいけないわけ?」
「こ……ここじゃ、嫌だ」
ぼそぼそと喋る彼氏に、「聴こえない」とキレるカノン。
あー、もう! と頭を掻いたキニアンは、シートの上に正座した。
「──俺以外に見せるな!」
「──……」
ぽかん、と口を開けてしまったカノンは、「っていうか空気読め」と赤い顔で睨まれて、余程「お前だよ」と言ってやろうかと思ったが、何となく言いそびれた。
「……でも、アリス。背中焼けちゃうと、ホント痛いの……」
どうしよう、と不安そうな色を滲ませる菫色の瞳に、弱りきってしまったキニアンであった。
「──……分かった。ビーチタオル肩に掛けて脱いで、チェアにうつ伏せになって。背中は塗るけど、前は自分で塗ってくれ」
な? と少し困ったように言われて、カノンはこくん、と頷いた。
乳白色のジェルタイプの日焼け止めは、塗ってもベタベタせず、すぐにさらりと肌が乾くからカノンは気に入っていた。
キニアンは体温が高いけれど、それでも強い日差しに火照った身体にその手はひんやりと感じられて、日焼け止めの冷たさと相まって気持ちが良い。
首、背中、腕と塗り終わり、もう一度パーカーを羽織る。
ファスナーを閉める前に、自分で胸元と腹部にも塗った。
「……脚、塗ってくれる?」
「ん。いいよ」
貸して、と言われて容器を渡した。
キニアンは、空気もタイミングも読めないけれど、とても丁寧に物事を処理するし、決してがさつではない。
日焼け止めのジェルを塗るときも、直接カノンの肌に落とさず、一度自分の手に取って伸ばしてから塗る。
ほんのちょっとの気遣いなのだけれど、大事にされているようで嬉しかった。
「──あれ、もうあんまりないかも」
「え? 逆さにして振ったら?」
「でも、零れるかも知れないし」
「いいよ。そんなに冷たくないから」
「あぁ、うん」
じゃあ、と一応自分の手に向かって容器を逆さにして振ったところ、意外なほど大量に出てきてしまった。
「うわわわわっ」
慌てて容器を起こしたのはいいが、そうするともう片方の手が疎かになるのは仕方のないことだ。
手のひらから零れていく液体に、「悪い」と顔を上げ、キニアンはぴたり、とその動きを止めた。
白い太腿の内側に、とろり、とした乳白色の液体。
自分の手のひらから零れ落ちるそれを、先ほどまではまったく意識していなかったというのに、一度『そういう』風に見てしまうともうダメだ。
「……カ、カノンさん……」
「うん。言いたいことはよく分かる」
「あの、俺、もう片方の脚も塗らないとダメでしょうか……?」
「当たり前」
「その……出来れば自分で塗っていただけると……」
「却下」
「──だっ! おま」
勢いよく顔を上げたキニアンは、にんまりと滴るような笑みを零す小悪魔と目が合ってしまった。
ひくり、と頬を引き攣らせる外見はイケてるやさしい彼氏に、カノンは可愛く『お願い』をした。
「塗ってくれないと、ぼく、今アリスの頭の中で起こってること、ここで再現したくなっちゃうかも知れない」
「──……」
それは男として喜んでいいのか、「はしたない!」と説教すべきなのか、ちょっと本気で迷う。
日焼け止めのジェルを塗ったあと、キニアンがしばらくビーチタオルを被ってぶつぶつ円周率と素数を唱えていたことは、隣のチェアで気持ち良さそうに寝そべっているカノンだけが知っていた。
「あ~、若いっていいなぁ~」
ふふふ、と頬を染めているのは、ツインテールの天使。
パラソルの下には現在シェラひとりだ。
ソナタ同様、妙齢の美女がひとり夏の浜辺にいたら、声を掛けない方が失礼というもの。
「か~のじょ!」
の呼びかけと頭上から落ちてきた影に顔を上げる。
──問題外。
人間観察をしてその人に対して点数をつけてしまうのは褒められたことではないが、もう本能のようなものだった。
そこにいたのは茶髪の男ふたり。
顔は三歩歩いたら忘れそうだし、身体は日に焼けているけれど貧相だし、何よりその軽そうな声の掛け方が気に入らない。
ここで、いきなり隣のチェアにすとん、と座り、冷たい飲み物でも差し出して「飲む?」と笑みでも浮かべられる男なら、考えてやらないこともないというのに。
「ねー、ねー、彼女ひとり? もしかして、彼氏待ち?」
「髪型可愛いね。ビキニとか着ないの? 似合いそうなのに。ってか、色真っ白だね!」
ペラペラと喋る男も、はっきり言って辟易する。
ナンパをする際の台詞回しというのは、どこかにマニュアルでもあるのか、というくらい似たり寄ったりだ。
火遊びをするにも、興味すら沸かないのだからどうしようもない。
シェラは内心のがっかり感は押し殺して、にっこりと笑った。
途端に色めきたつ男たち。
「──四十代のおじさんでも、よろしいですか?」
しかし、口紅を塗っているわけでもないのに赤い唇から零れたのは、男たちにとってすぐには理解出来ない言葉だった。
「よ……?」
「おじ……?」
「こう見えても、四十歳のおじさんなんですが」
よろしいですか? と小首を傾げる様子は、どう見ても二十歳そこそこ。
『おじさん』が『男』なのだということすら、イコールで結ばれない。
しばらく目をぱちぱちさせていた男たちは、「まったまた~」と言ってゲラゲラ笑った。
──あぁ、無理……。
どうにもこうにも、品性のない男というのは癇に障る。
脳みそはミキサーにかけられてドロドロになっているに違いない。
大体、喋り方と食べ方が汚い男に、ろくな男はいない。
「それ、ナンパ回避方法? 可愛いもんねー。ナンパされまくりでしょ」
「でもさ、それじゃ冗談だってバレバレだから、余計に興味引いちゃうよ? あ、それともそういう話題を振ってくれてるのかな?」
「ってゆーか、彼女あれに似てない? 何だっけ? あの女優……モデルだっけ?」
「どっちでもいーけどさー、ほんっと美人だよね~」
チェアに座るシェラのすぐ前の砂の上にしゃがみ込む男たち。
あーめんどくさいなー張っ倒していいかなー、とため息を零すと、すぐ隣に気配が生まれた。
足音など一切しなかったというのに、キシ、とちいさくチェアの軋む音。
よく知った気配に振り返ったシェラは、じっとこちらを見つめていた美貌が、目があった瞬間ふ、と笑みを浮かべたことにちいさく胸を跳ねさせた。
ナンパ男どもの息を呑む気配。
この男の美貌と微笑みは、女性だけでなく男性ですら虜にする。
確かにぽーっと見惚れるほどの美丈夫だが、ただ、ナンパをしてきた男たちが抱いているのは、好意ではなく敵意だ。
人の獲物を横取りする気か、と言いたくて仕方なさそうな表情をしているが、とてもではないが太刀打ち出来ないことも分かってしまう。
ジレンマに支配されている男たちには一瞥すら与えず、美貌の男はシェラにのみ意識を向けている。
「──飲むだろう?」
差し出されたのは、金魚鉢のような大きさのグラスに、フルーツや南国の花の浮かべられたアイスティーらしきもの。
汗をかいたグラスを持っている白皙の美貌の主は、炎天下だというのに涼しい顔をしている。
彼の周りだけ、よく空調が整えられた室内のように、一部の隙もない。
晒された肉体も鍛えられており、文句のつけようがない。
何より、こちらの思考を読んだのか、というくらいのタイミングでの登場と台詞に、思わず感心してしまった。
「すごいなぁ」
内容のわりには平坦な台詞回しに、ヴァンツァーは「何が?」と首を傾げた。
「専門家は健在か」
グラスを受け取ったシェラは、動揺を隠せないでいる男たちに向き直った。
「夫と高校生の子どもがいる四十代のおじさんですけど、本当によろしいんですか?」
最早何語だ、というシェラの台詞に呆然とする男たち。
ヴァンツァーはチェアに寝そべりながら「遊んでやらないのか?」と言った。
ストローから甘いフレーバーティーを啜ったシェラは、呆然となっている男たちをちらっと見た。
「遊んで下さいます?」
長い睫毛をふさふさと上下させて訊ねる性別・年齢ともに不詳の天使。
ナンパ男たちは同じタイミングでヴァンツァーに視線を移し、流された視線にびくっ! と派手に肩を揺らすと、すくっと立ち上がった。
「あ……あはははは! な、何か勘違いだったみたい!」
「じゃ、じゃあね~あはははは!!」
脱兎のごとく駆け出した男たちの背中を見送ったシェラは、頭の下で手を組んで立てた脚を重ねている男に訊ねた。
「妬いた?」
「冗談だろう」
「だって邪魔した」
「したように見えたか?」
「あれでしてないって言うのか?」
「する理由が見当たらない」
むぅ、と唇を尖らせたシェラは、「どういうことだ」と訊ねた。
呆れた顔になった男は、きらきらと陽光を弾く銀色の房に指を伸ばした。
「──お話にもならん」
万が一にも負ける要素がない、と暗に言い切る男に、シェラは『馬鹿か』と言おうとしてやめた。
そうして、もうひと口アイスティーを啜ると呟いた。
「──だな」
せめて、顔か身体かナンパのテクニックか、どれかひとつでも目につく要素があれば良かったのに。
誰が何と言おうと、人間を顔の造作で判断したりはしないシェラだったが、『いい顔』をしている人間というものは、男女問わず魅力的なものだ。
「なぁ、お前、これ買いに行ったとき、ナンパされなかったか?」
興味津々、といった感じで身を乗り出してくるシェラに、ヴァンツァーは「さぁ?」とだけ答えた。
「何だそれ。されたかされなかったか、どっちかだろう?」
「声は掛けられていない──その代わり、湿度が高くて粘着質な気色悪い視線ならいくらでも感じたが」
声は『掛けさせなかった』の間違いだろう、と指摘してやろうかと思ったが、やめておいた。
きっと、その視線は女性のものだけではなかったのだろう。
男に懸想される趣味は持っていない、と断言する男は、実は昔からよく男性にもてる。
羨望と興味だけで済めばいいのだが、「ひと晩だけでいいから」と誘われたことも少なくないはずだ。
本気で嫌そうな顔をしている男に、シェラはくすくす笑いながら問い掛けた。
「じゃあ、私もその『粘着質で気色悪い視線』ってやつで、お前のことを見てみようかな」
「お前には無理だよ」
「どういうことだ?」
首を傾げる天使に、ヴァンツァーは寝そべって目を閉じたまま告げた。
「俺が気色悪いと思わないから」
何だか妙に納得してしまったシェラだった。
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