~ Side ヴァンツァー ~
世界で一番大切な人の子たちは、天使のように愛らしく。
雨にも負けず、風にも負けず、雪にも、夏の暑さにも負けぬ丈夫な身体を持ち。
もうちょっとオブラートに包んで欲しいな、と思うこともあるけれど、正直で、いい子で、思いやりがあって、やさしい心を持っている。
そんな、大事な大事な子どもたちには、誰よりも幸せになってもらいたい。
───そう、幸せに……。
「ところで、あの男のどこがいいんだ?」
結婚式を一ヶ月後に控えたその日。
アトリエで最後の衣装合わせを終えたソナタを、ヴァンツァーは執務室に呼んだ。
シェラは結婚式場のスタッフと衣装や披露宴の話をしているため、ここにはふたりきり。
ソファに隣どうしで座って、隙間は身体半分というところ。
こうして話す機会もそうないから、と実に穏やかな様子で「ちょっとおいで」と声を掛けてきた父の唐突な──というか、今更な台詞にソナタはきょとん、とした顔を返した。
挙式直前の娘にそう訊くのもどうかしているが、不機嫌になることもなく、「まぁた始まった」と思ってくすくす笑っているソナタもどうかしているのかも知れない。
だが、彼女はこう思ったのだ──『あんな男』と言わないのだから、祝福されているに違いないのだ、と。
そう思ったから、正直に答えた。
「だってライアン、パパに似てるもの」
「……」
にっこりと微笑を浮かべる娘に、ヴァンツァーはものすごく嫌そうな顔を向けた。
それは何も花婿のことが個人的に気に入らないからというわけではない。
ヴァンツァーは、それがどんな分野であれ『玄人』という存在には敬意を払って生きている。
また彼自身、『玄人』で在らんとしている。
『デザイナーは趣味』と子どもたちには言われるが、それはシェラと双子が相手の場合に限ってのこと。
趣味なら、もっと楽しいだけで済んでいる。
あちこち駆けずり回ったり、ひっきりなしに電話を掛けたり、山積みの書類とにらめっこをしたりなんてしない。
限られた時間の中で要求された水準、それ以上のことを為すからこそ、対価を得る価値がある。
仕事を楽しめることは幸福だが、楽しいことばかりをやっていても仕事にはならない。
期限のない──責任の生じない仕事など、ありはしないのだから。
あの青年にも、『玄人』の矜持を感じる。
それは、彼の作品を見れば分かること。
彼は自分の『仕事』に絶対の自信を持っている──それが、キニアンとの違いだろう。
同じ芸術家ではあるが、彼らの決定的な違いはそこにある。
ただただ音楽を愛している青年は、自分の演奏を聴く人間に、今はまだ『いえいえ、お代はいただけません』と言うだろう。
しかし、彫刻家である青年は、それがどんなちいさな作品であれ対価を得ずに仕事をすることはないだろう。
職業人としては、立派な態度である。
──しかし。 それとこれとは話が別だ。
男親にとって大事な娘を攫って行こうとする男はみな敵なのである。
その敵に似ていると──否、自分に似ているからこそ、その敵である男を選んだのだ、と言われてしまっては、文句の言いようがないではないか。
狙ってこの台詞を言っているならまだ反論のしようもあるが、ソナタは本心からそう思っている。
それが分かるからこそ、ヴァンツァーは口を噤まざるを得なかった。
けれど、素直に受け入れられないのも男親というもので。
「……どこが」
腕を組み、そっぽを向いて呟く。
憎憎しげな口調というわけではなく、独り言のようでありながらさりげなく訊ねていると感じられなくもない言い方。
『ちょっと教えて下さいよ』とは素直に言えないから、憎まれ口のような言い方になるのだろう。
場合によっては態度を改めないこともない、とでも思っているのかも知れない。
その様子は、シェラが傍にいたら「不遜だ」「可愛くない」と盛大に文句を言われるに違いないが、そんな態度もやっぱり可愛いなぁ、と。
二十歳を過ぎても少女のように可憐な天使は、藍色の瞳を細めて綺麗に笑った。
「だって、女性経験豊富でしょ?」
「──やっぱりダメ」
ちょっと本気でこの結婚反対しようかな、と。 即行で返したあと痛む頭を押さえている父に、ソナタは「あー、違う違う」と首を振った。
「そっか。女性に限定しちゃうからいけないのね。えっとね、──たくさん、人を見てきたでしょう?」
何気ない口調に、はっとするヴァンツァー。
「ライアンは骨格観察が趣味だけど、でも、本当に骨と筋肉だけ見てるわけじゃないと思うの。その人の表情や仕草ひとつにも、内面って表れるから。いつもどんな表情をしているのか、どんな姿勢でいるのか、骨格とか筋肉の癖で分かるんだって」
怒ってばっかりだと眉間に皺が寄ったりね、と人差し指で自分の額を示す。
「シェラもそうだけど、パパもライアンも、その人の顔や目を見れば人物像が把握出来る。それも、かなり正確に」
ヴァンツァーが黙って聞いているので、否定はされていないらしいと感じたソナタは言葉を続けた。
「たくさんの人を見てきて、いいことも、嫌なこともいっぱい経験して──それでも、ソナタのことが好きって言ってくれるんだもん」
こんなに素敵なことってないでしょう? と。
「シェラもカノンもパパもライアンも、ソナタのこと大好きって。言葉でも態度でも、たくさん、たくさんくれるもの。今までにもらったたくさんの幸せ、これからどんどん増やしてお返しするの!」
まるで大輪のひまわりが咲いたような笑顔。
もうすぐやってくる盛夏、光をふんだんに浴びて咲き誇る、太陽の花そのものだ。
──あぁ……綺麗だ。
そう、ヴァンツァーは感じた。
ソナタはいつだって笑顔を絶やさない子だ。
この明るさは誰に似たのか不思議に思うこともあるけれど、傍にいて救われているのも事実。
この子は幸せを受け入れることを、人を幸せな気持ちにすることを恐れない。
世界中みんな幸せになれ! とばかりに。
「……お返し?」
「そーよ。もらいっぱなしじゃ悪いもの」
それが仕事だったとはいえ、数え切れないほどの人間を殺めてきた自分には幸せになる資格などきっとないのだろう。
奪った命の重みに押しつぶされていては仕事にならないが、かといって命を軽く考えたこともない。
ただ、人はいずれ死ぬ。
それが早いか遅いか、どのようにしてその瞬間を迎えるかの違いだ。
だったら自分はどのような死を迎えるのだろうか、とずっと考えていた。
──そんなときに出逢ったのがシェラだった。
シェラは今でも、不安と恐怖に泣くことがある。
何度も、この命を奪った日のことを夢に見るのだ、と。
忘れさせる方法はいくらでもあるけれど、忘れさせないでいるのは自分のエゴだ。
自分のことを忘れてくれ、と言えるほど、強くもやさしくもなれない。
代わりに傍にいて泣き止むまで慰めている自分に、なぜかシェラが「ありがとう」と礼を言い、「手間を掛けてすまない」と謝ることさえある。
そんなのはおかしい。
詰って、罵って、力いっぱい殴りつけて。
二度と顔を見せるな、と言って切り捨てるのが当然なのに。
それなのに、一度手に掛けた男を再び喪うことを恐れて涙を流し、その男の腕の中で安堵して眠る。
器用な生き方が出来ないのはお互い様だが、シェラの場合は傍で見ているこちらの胸が痛む。
「……そうか。お返しか」
そんなシェラの笑顔を見たい、幸せにしたい、と思うことを躊躇わなくなったのは、子どもたちが生まれてからだ。
ぷくぷくとまぁるい、もみじのようにちいさな、ちいさな赤ん坊の手が、きゅっと服の袖を引く。
力いっぱい、こちらの指を握ってくる。
いつだって拳を作って眠っている赤ん坊を見ていると、そのちいさな手に幸福を掴もうとしているように見えた。
掴んだ幸福を離さないように、強く握っているのだ、と。
そんな子どもたちを腕に抱くと、笑顔を浮かべ、握っていた手を開いて腕を伸ばしてくる。
──しあわせを、おひとつどうぞ。
そう、言われている気がした。
都合のいい解釈だ。
自分勝手すぎてため息が零れるほど。
それでも、そんな風に無邪気な笑顔を浮かべ、幸せを振り撒いてはすやすやと眠る子どもたちを見ていると胸があたたかくなった。
きっと、自分はこの感情を奪ってきたのだ。
他の人間が受け取るべきこの、あたたかくて、やさしくて、泣きたくなるほどの幸福を奪ってきた。
だから、幸せになる資格などないというのに。
それなのに、子どもたちはぬくもりと幸せを分けてくれた。
知ってしまったら、感じてしまったら、抱き返すことしか出来なくなった。
拒むことなど出来なかった。
「そう、お返し。いい考えでしょう?」
受け取るべきではないのに、手にしてしまった。
ならば自分には何が出来るのか、考えて、考えて──せめて、シェラとこの子たちは笑顔でいられるように、と思うようになった。
もしほんの少しでも自分に『幸せの取り分』が残っているのだとしたら、それを全部彼らにあげよう、と。
だからもう、自分は恐れない。
幸せになることも、幸せでいることも。
その分はシェラと子どもたちに与えられるのだから、何も怖くない。
それを、まだちいさかった子どもたちが教えてくれた。
かつての自分はどこか後ろめたい気持ちでそう思っていたものだが、ソナタは幸せのお返しをするのだと言う。
「みんな、幸せにしちゃうんだから!」
こんな風に胸の奥をきゅっとつねられるような、くすぐったくて甘い痛みを感じさせる言葉と笑顔を与えてくれるのは幼い頃から何ひとつ変わっていない。
天真爛漫で、時に何も考えてないのではないかと思わせるような言動をすることもあるけれど、それは違う。
目にしたものを歪めずに受け入れているのだ。
自分に都合がいいか悪いかは関係なく、あるがままを受け止め、受け入れることがどれほど難しいか。
それを頭で考えず、心で感じることが出来る子なのだ。
「……俺は、人のことをとやかく言えるほど立派な人間じゃない。いい父親であるつもりも、良き伴侶であるつもりもない」
でも、とヴァンツァーは真っ直ぐ見つめてくる宝石のような瞳に微笑みを返した。
「お前の存在と、それからお前の親であることを許された自分を──心から、誇りに思う」
結婚おめでとう、と頬にキスをしてくる父に、ソナタは太陽のように明るい笑顔を向けて言った。
「ずーっとずっと、大好きよ。パパ!」
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