Happy Summer Wedding

ふたりきりだと、広い家も余計に広く感じる。
子どもたちに彼氏が出来てからはそういう時間も増えた。
けれど、それは決して苦ではなかった。
人の気配や呼吸に敏感な彼らにとって、そう思える相手というのは両手に余る。
ふたりで済ませた夕食のあと、シェラとヴァンツァーはいつものようにリビングにいた。
珈琲と紅茶と。 飲むものは違うけれど、ほっとする時間と空間だ。
どれくらいの時間が過ぎただろう。
何を話していたわけでもないのに、突然くすくすと笑い出した男に、シェラは胡乱気なまなざしを向けた。

「……涌いたか」
「ソナタに、好きだと言われた」
「──は?」
「それが、どういうわけか、ひどく嬉しかった」
「……」

可愛い子どもたちに好きだと言われれば、言われ慣れているシェラだとて嬉しい。
何を今更、という顔をしているシェラに、ヴァンツァーは薄く笑みを浮かべたまま口を開いた。

「あんな風に、こちらの気を引こうともせずにただただ自分の気持ちを伝えるためだけに『好きだ』と言ってくれた女は、ソナタが初めてかも知れない」
「……お前」

娘のことを『女』呼ばわりはないだろう、と喉元まで出掛けた言葉を飲み込む。
その類稀な美貌が災いして、女が──ときに男も──十人いれば十人ともに振り返られる人生を送ってきただけに、ほんの少しでも欲望の混じった感情を向けられると拒絶反応を起こす男だから、仕方ないのかも知れない、と思ったのだ。

「……じゃあ、お前はソナタのことを女性として好きなわけか?」

自分を見ても目の色を変えない、好かれようとしない、そういう女ならば好き、という贅沢この上ない好みを有する男だから、娘とか、親子とか、そういうのは抜きにしてソナタをひとりの女性として見ている可能性がないとは言えない。
問いかけたシェラをじっと見つめたヴァンツァーは、またしてもくすくすと笑った。

「──妬いてる」
「……そんなわけあるか」

馬鹿馬鹿しい、とため息を零すシェラ。
いくら同じ造作をしているとはいえ、娘に嫉妬など──というか、ヴァンツァーごときを相手にそんな感情を抱くわけがない。
寝言は寝て言え、と言い放つシェラを、ヴァンツァーは半ば無理矢理腕の中に引き寄せた。

「ちょ、おい!」
「妬いてない?」
「だから」
「本当に?」
「……」

イライラしそうになりながら返そうとした言葉に畳み掛けるように問われてしまい、シェラは思わず押し黙った。

「俺は、お前が誰を好きになっても、誰と寝ても、妬いたりはしない……でも、お前には妬いて欲しいな」
「……それは、どういう」
「お前のものに、なりたい」
「……」

こつん、と頭を寄せてくる男に、シェラは眉を寄せ、忙しなく視線を動かし、口許をうにうにと動かした。
しばらくそうしていたが、やがてぽつりと呟いた。

「それは……出来ない」
「──……そうか」

静かにそう言った男は、さして感情を動かすこともないままにきっと諦めてしまったのだろう、と思い、シェラは相手の藍色の瞳を覗き込んだ。

「違うぞ」
「……何が?」
「勘違いするな。お前を私のものにするのが嫌だとか、妬くとか妬かないとか、そういうことじゃないからな」

案の定、ヴァンツァーは幼子のようにきょとんとした顔で首を傾げた。
頭は良いのに、どうもこういうことは察しが悪くていけない。
自分のことは棚のてっぺんに上げてそう思ったシェラは、相手の白い頬を両手で包み込み、それこそ子どもに言い聞かせるように言葉を紡いだ。

「お前は……お前の人生は、お前のものだ。私のものじゃない」
「──シェラ?」
「もう人生も半分過ぎたから言うけど。残りの半分だって、お前と一緒にいたいと思っているよ」

驚きに瞠られる藍色に、シェラは「やっぱりな」とため息を零した。

「あのな。何回か言ったと思うし、お前だって知ってると思うが、いけ好かない奴と二十年以上もひとつ屋根の下で暮らせるほど、私は寛大じゃない」
「それは……」

知っているけれど、とらしくもなく口篭る男に、シェラは「言いたいことがあるならはっきり言え」と促した。

「……子どもたちが巣立ったら、熟年離婚とか」
「するか、めんどくさい」
「……」

面倒とかそういう問題なのだろうか、と思ったヴァンツァーだったけれど、これ以上何か余計なことを言ったらひどく怒られる気がして口を閉ざした。

「お前はびっくりするくらい馬鹿だな」

そう言ってぺちぺち、とヴァンツァーの頬を叩いたシェラは、仕方なさそうな苦笑を浮かべた。

「……私が素直じゃないのなんて、知っているだろう?」

困った奴だ、と呟くシェラをしばらく見つめていたヴァンツァーだったが、勇気を出して訊ねてみることにした。

「キスしてもいいか?」
「ダメだって言ったらしないのか?」
「む……」

凄まじい難問にぶつかったような顔をしている男に、シェラは菫色の瞳を細めた。
昔は嫌だと言っても無理やりしてきたのに、と思って、少し意地悪をしたくなった。

「してみればいい。──嫌だったらぶん殴る」

にぃ、と物騒な笑みを浮かべられたヴァンツァーは一瞬迷ったけれど、下唇を啄むようにしてキスをした。
ゆっくり唇を離すが、殴られなかったから嫌じゃなかったのかな、と思って視線で問い掛けると、シェラは吹き出したいのを堪えるような顔つきになった。

「……シェラ?」
「~~~~~っ、ぷっははははっ!!」

我慢しきれなかったのか、腹を抱えて笑われた男は困惑の表情を浮かべている。

「何だ、その、悪戯して叱られるのを待ってる子どもみたいな顔は!」
「……」

あんまりな言い草にちょっと眉を寄せたヴァンツァーだったけれど、まぁいいか、と思ってシェラの腰に腕を回した。
デカい図体をして甘えかかってくる男に、笑いながら「邪魔だ」と言うシェラ。

「嫌ならぶん殴るんだろう?」
「開き直るとはいい度胸だ」
「安心した」
「──ヴァンツァー?」
「残り半分も一緒にいてくれるなら、安心だ」
「……」

おや、と眉を持ち上げるシェラの肩に頭を預けたまま、そっと目を閉じる。

「ソナタが言っていた。今までにもらった幸せを、何倍にもして返すんだ、と」
「返す?」

不思議そうにしているシェラに、ヴァンツァーは娘との会話を教えてやった。

「もらっているのは、むしろこちらなんだがな」
「私もそう思う」
「だから俺も、残り半分使って返そうと思う」
「……」
「子どもたちには彼氏がいるから、とりあえずお前に」
「……とりあえずって何だ、とりあえずって」
「死ぬまでに返済し切れるかな」

そんな風に言ってちいさく笑うから、振動が肩を通して伝わってくる。
たまにはいいか、と思って、シェラもヴァンツァーの頭に軽く頭を預けた。

「無理だな」
「シェラ?」
「私も、仕方がないから、とりあえずお前に返してやる。だから、完済は無理だな」
「……」

自称『素直じゃない』シェラの言葉に、ヴァンツァーは「そうか」と言って肩を震わせた。
笑うな、と咎める声がしたけれど、何だか笑いたい気分なのだから仕方ない。
服を通して伝わってくる体温の心地良さにも、頬が緩む。
あの子たちにもこれから先、こんな日々が待っているならいいな、と。
その幸せを願わずにはいられない。

「それにしても、ちょっと妬けるな」
「うん?」

は~あ、と大袈裟なため息を吐いた聖母は、むぅ、と唇を尖らせるとヴァンツァーを軽く睨んだ。

「だって、カノンもソナタも、『シェラが一番好き~』とか言ってくれてたのに」

その言葉に、ついつい苦笑してしまったヴァンツァーだった。

「ほら見ろ。お前だって子どもたちを彼氏に取られたみたいで」
「──違う」
「え?」

ぷくぅ、と頬を膨らませたシェラは、失礼なのは百も承知でヴァンツァーを指差すと、そのまま相手の胸をトントン、と叩いた。

「お前だ、お前」
「……俺?」
「そうだ。カノンもソナタも、お前に似てるからって理由で彼氏選んでるんだぞ? まぁ、カノンは認めないかも知れないけど」
「──……」

思わず瞠目したヴァンツァーには気付かないようで、シェラは「あー、もー」と嘆いている。

「結局お前も一番か」
「も……?」
「も。シェラ『が』じゃなくて、シェラ『も』一番好きなんだ、あの子たちは」

『が』と『も』じゃだいぶ違うんだ、彼氏と張り合うつもりはないけれど、何だかんだお前にはここでも勝てないのか、と。
あー、嘆かわしい、とわざとらしく言い放つシェラを、ヴァンツァーはぎゅぅぅっと抱きしめていた。

「痛い、痛い痛い痛いっ」
「そうか」
「邪魔」
「俺も一番か」

人の話を聞かず、「悪くないな」などとちいさく笑う男に、「お前、腹立つ」と眉を寄せるシェラ。

「今更」
「ちっ」

舌打ちはやめなさい、と窘めた上で、ヴァンツァーはこつん、とシェラと額を合わせた。

「でも、俺にとっての一番はお前だから、やっぱり『シェラが一番』だと思う」
「……」

何だか嬉しそうにそんなことを言う男に、シェラはたっぷり五秒ほど固まってから、はぁぁぁぁぁぁ、と魂ごと身体の中のものすべて吐き出すようなため息を吐いた。

「お前、そんっなに私が好きか」

呆れたように、『頼むからちょっとは否定してくれ』と言いたげな口調で訊ねたシェラに、ヴァンツァーは少し考えてから「うん」と返した。
ほんの一瞬だけ間があったのは、迷ったからではない。

「好きだよ」

自分自身に確認するように、自分の中の自分に「そうだよな?」と訊ねるように頷いたあとの告白に、シェラはからかうための言葉を失った。
ふわふわと夢見るように甘い、春の陽だまりのような声でそんなことを言うから。
くっつけていた額を離してシェラの顔を見たヴァンツァーは、軽く目を瞠ったあと目許を和らげた。

「なぜ泣くんだ?」
「……うるさい」
「いつもなら、真っ赤になって『馬鹿』って」
「煩い! 年のせいだ、年の!!」

あーもーやだ止まれ! と目を擦ろうとしている手を取って、ぽふん、と胸に抱え込む。

「嫌なら見ないから」
「……」
「お前は、やっぱりよく分からないな」
「……お前はやっぱり、失礼な男だな」

悪態をつけば、くすくすと笑う声がぴったりと耳をくっつけている胸から響いてくる。
シェラは、これがとても好きだった。
この男の、心の声を聴いている気になれるから。
本当は何を考えているのかなんて分からない。
人は嘘を吐くし、信じたいと思うことと、信じることはまるで違う。
言葉を尽くしても分からないことだってある。
それはとても寂しくて、一緒にいるのに孤独を感じることもあるけれど。

「お前が何を考えているのか、まるで分からないことなんてしょっちゅうで」

私もだよ、と言う代わりに、逞しい胸に頬をすり寄せた。

「それでも、少し分かってきたこともある」
「……なんだ」
「たとえば、子どもたちが一緒にいなくても、俺ひとりに対して笑顔を向けてくれたり」
「……」
「強がりなお前が、さっきみたいに嬉しくなると泣いたり」
「……」
「色んな顔を見せてくれる」

あの世界では、怒った顔と警戒する表情、──最期のときに、絶望を浮かべるそれしか見たことがなかった。

「新しい表情を見るたびに、生きてて良かったと思える」
「……っ」

奥歯を噛んだシェラは、どんっ、とヴァンツァーの胸を殴りつけた。
そんなことをしてもびくともしないのは知っているし──その事実にほっとする。

「……二度と、私なんかに負けるなよ」

握った拳が小刻みに震えている。
その拳を包み込むようにそっと手を添えて、「分かった」と頷いた。

「それが、お前の望みなら」
「お前はいつもそう言う……お前の望みはないのか」
「あるさ。ひとつだけ」
「言え」
「お前が、いつでも笑っていること」
「……」
「だから、お前の望みがそれなら、俺は叶えるよ」

どんなことをしても、と言って、銀色の頭に唇を落とす。

「……絶対だな」
「あぁ」
「約束だぞ」
「分かった」
「破ったら」
「針千本?」
「馬鹿! 離婚だ、離婚!」
「あぁ、そうか」

それはちょっと嫌だなぁ、とは思ったけれど。

「それが、お前の望みなら」
「だから違う! ほんと馬鹿かお前!!」
「シェラ?」
「さっきから黙って聞いていれば、誰を好きになっても、誰と寝てもいいとか……そういうときは、『絶対離さない』とか、『一生傍にいろ』とか言うものだろう?! 『専門家』の意地はどうした!!」

紅くなってむくれている美貌を、きょとん、となって見つめ返す藍色の瞳。

「なんだその顔は」
「いや……それだとプロポーズみたいだな、と」
「嫌なのか?」
「え?」
「だから、嫌なのか、するの」
「シェラ?」
「だいたいお前、私にプロポーズしたか?!」
「たぶん」
「自信満々に『たぶん』とか言うな!」

むぅ、と唇を尖らせて怒っているところを見ると、『プロポーズしたか、してないか』が問題らしい。
ということは、きっとして欲しかったということなのだろう。
まったくもってヴァンツァーには訳が分からなかったのだけれど、はっきりそう言ったらもっと怒るのだろうな、ということは分かった。

「お前、もしかして」
「『プロポーズして欲しかったのか?』とか訊いたらぶっ飛ばすからな」
「……」

『あ、やっぱり』と思って黙り込む気配を感じて、シェラも『やっぱりな』と内心ため息を吐いた。
むぅぅぅぅ、とめいっぱい唇を突き出して、眉を寄せ、ぽかぽかとヴァンツァーの胸を叩きまくっている。
別に痛くはなかったし、何とも可愛らしい仕草だったのでそのままにしておいても良かったのだけれど、 放っておくと殴る力がどんどん強くなることが分かったヴァンツァーだったので。

「シェラ」

甘さを乗せた声で名前を呼べば、ぴたり、とシェラの手が止まった。
シェラはこうして名前を呼ばれることが好きらしく、ほんのり頬が紅くなっているのがたまらなく可愛い。
軽く俯き加減になっている顔に両手をそっと添わせて上を向かせる。
視線は外されたままだったけれど、じっと見つめていたらやがておずおずと瞼が持ち上げられた。
長い睫毛に縁られた、宝石のような紫の瞳。
どこまでも深く澄んだ瞳は、感情が昂ぶっているときは赤みが、落ち込んでいるときは青みが強くなる。
今は、忙しなく揺れて青みがかっている。
どれほどやさしくしても、どれほど言葉を重ねても、この瞳が喜びだけを浮かべることはないのだろう。

「お前の言うプロポーズがどんなものなのか、俺には分からない」

いつも不安と隣り合わせのこの色が、少しでも明るくあればいいのに。
ソナタのように、愛されることを当たり前のように受け入れられればいいのに、と。

「だが、もし先ほどの台詞がそうだとしたら、俺には言えない」

大きく瞠られる瞳が翳り、より青みを増す。
嘘でも、シェラの喜ぶ言葉を言ってやることが出来ればいいのに。
相手が欲しがる言葉を与えてやることなど造作もないはずなのに、ヴァンツァーにはなぜか出来なかった。

「……どう、して……?」
「俺は、怖いのかも知れない」
「──ヴァンツァー……?」
「お前は律儀だからな」

そう言って、壊れ物を扱うようにして華奢な身体を懐に抱え込んだ。

「俺が何か……気持ちや、望みを口にしたら、それを叶えてくれようとするんじゃないかと思って」
「……いいじゃないか、別に」

ヴァンツァーは静かに首を振った。

「決めているんだ」
「………………なに、を?」

こわごわと、聞こうかどうしようか迷いに迷って、それでもやはり聞かずにはいられずに口にされた疑問。
聞かれなければ答えずに済んだのに、と思ってしまう自分はやはりずるいのだろうか、とヴァンツァーは軽く目を伏せた。

「もう、自分のためにお前を利用しない、と」

ぶるり、とシェラの身体が大きく震えた。
分かっていた反応だというのに、ツキン、と胸が痛むのを感じたヴァンツァーだった。
人を殺めて罪悪感を覚えたことはない──もちろん、それが罪だということを頭で理解していても、だ。
それなのに、『殺めさせてしまった』意識だけがずっと消えてくれない。

「もう二度としないと、そう決めている」

あのとき、おとなしく殺されておけば良かったのに。
そうすれば苦しいのは自分ひとりで済んだのに。
どうして強くなってしまったのだ、と喉元まで出掛かる言葉を何度も呑み込んだ。
救われることで罪悪感を覚える日が来るとは、想像もしていなかった。

「俺は、お前が望む限り傍にいる──それは絶対だ」
「ヴァンツァー……」
「だが、俺から『傍にいてくれ』と言うことは出来ない」
「……」

『始まり』と『終わり』を決めるのは、シェラでなければならない。
シェラが手を伸ばした、あの再会の瞬間が『始まり』だとしたら、いつか来る『終わり』も、シェラの手で。
その手を握っていられるのか、それとも離れてしまうのかは分からないけれど。

「だから、そういう意味では、お前の望むようなプロポーズはしてやれないのかも知れない」
「……」

きゅっとヴァンツァーの服の胸の辺りを握り、ちいさく首を振るシェラ。
嫌だ、と言いたいのかも知れない。
本当に、いつからこんなに可愛らしい仕草をするようになってしまったのだろうか、と思ってヴァンツァーは目許を緩めた。
最初は同じ空間にいるだけでもビクビクしていたというのに。
ほんの少しでも触れると、飛び上がって驚いていた。
触れられることを恐れず、今みたいに甘える様子を見せてくれるようになるまで、長い時間をかけてきた。
この時間が、もっと続けばいい。
背筋を伸ばして前だけを見据えている戦士が、ほんの少し寄りかかることの出来る大樹のようであれたら。

「それでも、もしもお前が『誓い』を欲しているなら」
「……いるなら……?」

不安気に見上げてくる美貌。
安心させるように、そっと頬を撫でてやった。
けれど、その表情はどこか硬いまま。

「幸せにするよ」

それがどんな形かは分からないけれど。
シェラが笑顔でいられる日が一日でも多くなるように。

「だが、私は」
「お前にその気がなくても」
「──……」
「俺はお前を幸せにするよ」

だから笑ってくれ。
そう告げる男に、シェラは真剣な顔をして言った。

「ヴァンツァー。私は人殺しだ」
「……」
「どんな理由をつけても、それは変わらない」

真っ直ぐに目の前の男を見つめるその瞳は、朝焼けの朱金を帯びた紫色。

「だから、私が幸せになんてなっていいはずがない」
「……」
「きっと、この考えは一生変わらないだろう」
「シェラ……」
「──でもな」

怖いほどに真剣だったシェラの表情が、ふわり、とほどけた。
子どものようには綺麗に笑えない。
けれど、痛みや切なさを抱えながら、それでも人は微笑むことが出来る。
それは、とても大きな力だ。

「でも……──だから、私はお前を幸せにすることにした」
「──シェラ?」

決意に満ちた声音に、ヴァンツァーはただただ目を瞠った。
それ以外出来ずにいる男に、シェラはにっこりと微笑んだのだ。

「お前にその気がなくても、私はお前を幸せにするよ」
「……」
「うん。なかなかいい言葉だな」

くすくすと笑い、ぽんぽん、とヴァンツァーの肩を叩く。
何と返せばいいのか分からず口を噤んでいる男に、シェラは言った。

「私はな、ヴァンツァー。今、とても幸せなんだ」
「……」
「奇跡が起きて授かった子どもたちは、こんな私を愛してくれて。その子どもたちを愛してくれる人たちがいる。『幸せ』も、『愛情』も、私にはどこか遠い世界の物語のように現実味がなかったのに、あの子たちは愛し、愛されることを知っている。親はなくとも子は育つ。それは実感として知っている。けれど……でも、たぶん、一度も受け取ったことのない感情を、与えることは出来ないと思うんだ」

どういうことだ、という顔をしている男に、シェラはそっとキスをした。
ほんの微かに触れるだけのそれに、ふたりとも自分の心臓がやけに細かく震えているのを感じた。

「……つまりな」

上目遣いにヴァンツァーの瞳を見つめたシェラの頬は、ほんのりと紅く染まっている。

「どうやら、私はお前のことが好きらしいんだ」
「……」
「それも……ずっと、ずっと前から」

まるで内緒話でもするような、秘密を打ち明けるようにちいさなささやき。

「お前は、私が笑っていることが望みだと言った。私もそうだ。初めて見たときはびっくりして、知らない人間みたいで怖くて……でも、何だか、すごく……どきどきしたんだ」

──だから、もしかしたら。

「その頃から……好き、だったのかな……?」

よく分からないんだが、と軽く首を傾げるシェラを、瞬きひとつせずに見つめている藍色の瞳。

「それでな。思ったんだ。人の幸せを奪ってきた私が、幸せになるのは良くない……良くないんだが」

ふんわりと、花が綻ぶような笑みがその美貌に浮かぶ。

「人を、幸せにするのはいいんじゃないか、って」

奪ったものを、当人には無理でも、せめて誰かに返せるように。
そもそも罪滅ぼしをすること自体が許されるのかどうかも分からないが、その機会が与えられるのだとしたら。

「私の一生かけて、今度は誰かを────」

言い終わる前にきつく抱きしめられてしまって、軽く息が詰まる。

「……ヴァンツァー?」

返事はなかったけれど、腕の力がもっと強くなった。
さすがに苦しかったのだけれど、自分のものよりもずっと逞しくて強い身体が、ちいさく震えているのを感じて目を瞠った。

「ヴァンツァー……おま」
「……いいのだろうか?」

ささやきと同じほどのちいさな声で紡がれた言葉も、喉に絡まるように震えている。
何が? と問う代わりに、シェラは広い背中をそっと抱き返した。
訊かなくても、分かる気がしたのだ。
自分もそうだから。

「……いいんじゃないか?」

ヴァンツァーは、迷う自分によくそう言ってくる。
不思議なもので、人からの言葉だと素直に受け入れられることがある。

「そうか……」

きっと、この先も『幸せになりたい』と思うことはない。
そんな風に思ってはいけないということは、百も承知している。
けれど、もしも誰かを幸せにすることは咎められないのだとしたら。

「……シェラ」
「……ん?」

腕の中の身体は折れそうなほどに細いのに、そのぬくもりは溢れるほどにこの胸を満たしてくれる。
こうして溢れた分まで返すことは許されているのだとしたら。

「シェラ」

もう一度名前を呼んで、深く息を吸った。

「……幸せにする」
「……うん」

抱き返す腕に力を込めたシェラを、更に強く掻き抱く。
いつか、ひとつに還れるそのときまで。
この誓いだけは、絶対に違えることはない。
全身全霊、己のすべてをかけて。

────……幸せに、なろう。

うん、と頷きが返った瞬間、想いは堰を切って溢れた。




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