カノンに言われるまま、巨大マグロが刺身になっていくのを待っていたキニアンだが、よく考えるとあんなに大きなマグロが列席者全員分の刺身になるのって結構時間がかかるのではないか、と思い至った。
ちらり、と恋人にお伺いを立てようと思って視線を送ると、見事に顔を逸らされた。
「……」
馬鹿だ鈍感だと言われていても、可愛い恋人にシカトされるのはかなり堪える。
大切な妹の結婚を寂しく思い、けれど同じだけ喜んでいたカノンを、きっと幸せにするのだ、と。
そう決意したばかりだというのに。
──……ヴァンツァーはどうやって、あんな風に明るくて幸せな家庭を築いたんだろう。
ちらっと視線を向けると、だいぶ離れたところにいたというのに目が合った。
「あ……」
どきっ、と心臓が跳ねる。
やましいところなんてなかったが、ただ、とても勘の鋭い人だから、今自分の考えていることが伝わってしまったら恥ずかしいな、と。
そう思ったから、つい視線を逸らしてしまった。
あまりにもあからさまな態度に、感じが悪かったんじゃないか、とすぐにはっとしてもう一度ヴァンツァーに視線を向けた。
「──っ!」
結構な距離があったのに、すぐ目の前に妍麗な美貌。
足音などまったくしなかった。
「どうした?」
「え?」
「さっきから、俺を見ている」
自信過剰だと言われても仕方のない台詞。
人の注目を浴びることが多いくせに過剰な視線に晒されることを嫌う男だから、その台詞は冷淡であるのが常だ。
しかし、ヴァンツァーがキニアンを見る瞳というのは、決して冷たいものではない。
お気に入りの青年の視線が、純粋に気になったのだろう。
「あ……すみません、俺」
「気に障ったわけじゃない。ただ、何か言いたいことがあるんじゃないかと」
思っただけだ、と薄く笑う。
あぁ、やっぱりかっこいいな、とほぼ同じ高さにある美貌を見つめるキニアン。
「似合ってるな」
「え……?」
「タイ。カノンは喜ばなかったか?」
「……何も」
ふるふると首を振って苦笑する青年に、ヴァンツァーもちいさく笑った。
「照れてるだけだよ」
「だと、いいんですけどね」
褒める、褒めないに関しては人のことは言えないキニアンだったので、軽く肩をすくめるに留めた。
「魚が取り分けられるまで、まだ少し時間がありそうだな──付き合ってくれるか?」
差し出されたシャンパンのグラスを受け取り、
「──喜んで」
とキニアンは笑みを浮かべた。
「──で。あれはデキてるのか?」
「……女王」
「デキてないわけがないな」
「女王」
大真面目な顔をして会場の一角を見ているジャスミンを、ケリーが肘で小突く。
「なんだ」
「なんだじゃねぇよ」
「デキてるだろう、あれは」
「お前さんとジンジャーほどじゃねぇと思うけどな」
「わたしたちは無二の親友だ」
「あちらさんは、歳の離れた兄弟ってとこだろうよ」
「いや、あのヴァンツァー・ファロットが家族以外に微笑みかけているんだぞ?」
「だから、兄弟なんだって」
「なぁ海賊。ヴァンツァーの弟が、あんなに可愛いと思うか?」
「俺もあんな弟なら可愛がるね」
「それはわたしも同感だ」
「お前さんの場合、玩具だろうが」
「何を言う。シェラの子どもはわたしの子どもも同然。子どもの彼氏は、やっぱり子どもと同じじゃないか」
「是非ともダニエルに聞かせてやりたい台詞だね」
そんな規格外夫婦の横で、カノンはぷっくりと頬を膨らませていたのである。
「みなさーん! お刺身のお味はいかがですかぁ~?」
司会者の問いかけに、「「「最っ高!!!!」」」の声が返ったのは言うまでもない。
刺身というものは、ただ切ればいいわけではない。
刃の入れ方、角度、タイミング、シンプルだからこそ、職人の業が光る。
「では、肉が焼きあがるまで、ちょっとした余興といきましょうかね」
刺身を待つ間に、列席者たちもだいぶ言葉を交わすことが出来ただろう。
会場のあちこちで何人かのグループを作って談笑していた列席者たちは、どんな余興だ、と興味を示してさざめいた。
「可愛い花嫁さんと美味しい料理でにこにこになった皆さんには、次はハラハラを体験していただきまっSHOW!」
ジャン!! というレティシアの声とともに、スポットライトがある一角を照らし出した。
そこには、ふりふりエプロンも可愛らしい聖母の姿。
「なんと、この美しいご婦人カッコ便宜上カッコ閉じが────ドン!! ナイフ投げをしちゃいます!! もちろん、的は生身の人間です!! やだ、お刺身がもう一品出来ちゃうかも知れない!!」
──……シーン……。
「あー、いい感じにワタシの声が通るようになりました。ご静聴、ありがとうございますペコリ」
レティシアの話を聞くために口を噤んだ人間など誰ひとりとしていないが、会場が静まり返ったのは本当のことだ。
しかし、理由は真っ二つに分かれている。
『その1.いやいやいや、ナイフ投げとかないだろう、サーカスじゃあるまいし!』
『その2.ん? 何を今更そんなものを余興だとか言ってるんだ?』
この会場にいる誰がどっち組かは想像に難くないと思われるが、司会は構わず言葉を続けた。
「さぁ、それではどなたか的になってくれる方はいらっしゃいませんか?」
司会者の問いかけに、静かな会場からは「は~い」と可愛らしい声が響いた。
「──ちょっ、カ、カノン?!」
手を上げてスタスタ高砂の方へ向かっていくカノンに、キニアンは目を剥いた。
もちろん、キニアンは『その1』組だ。
「ぼくが的やる~。立ってればいいんでしょう?」
「いえいえ。ただ立ってるだけじゃつまらないので、両手に風船を持っていただきます」
「え、そんな大きい的でいいの?」
「まぁ、余興ですから」
ふぅん、とレティシアの言葉に小首を傾げるカノンだったが、そのとき、若いお嬢さんはご存知ないかも知れない懐かしの『ちょっと待ったコール』がかかった。
「だ、ダメだそんなの!!」
真っ青な顔をして駆け寄ってきた青年は、背後からぐいっ、とカノンの肩を引き寄せた。
「危ないじゃないか!」
「危なくないよ。シェラが投げるんだもん」
ね~、と可愛らしい笑顔を浮かべるカノンに、シェラも「ね~」と微笑んだ。
「間違って怪我とかしちゃったら、どうするんだよ!」
これには思わず吹き出したカノンであった。
ちなみに、ジャスミンやケリー、リィとルウも吹き出しては互いを小突きあって「怪我だって」「何をどう間違えられるというんだ」とコソコソ言っている。
『その2』組の、実情を知っているものにとっては、百パーセント安全な余興だということが分かっている。
けれど、知らないものにとってそれは命がけであった。
「……お、俺が的やります」
「え、やめなよ。危ないよ?」
「危ないから俺がやるんだろ!」
珍しく必死になっている彼氏に、カノンは内心で「そういう意味じゃないんだけどなぁ」と呟いた。
シェラの腕を知っていて、安心しきっているカノンには危険はない。
けれど、恐怖心のあるキニアンが的になったのでは、いざというときに動いてしまうかも知れない。
さすがに投げてしまったナイフの軌道を変える術は持たないシェラなので、そうなると危険が生じてしまう──まぁ、実際危なくなったらルウ辺りがどうにかするだろうが。
「……シェラ。別に、誰が的でもいいんでしょう?」
「うん。いいけど、動くと死んじゃうから動いちゃダメだよ?」
可愛らしい表情で小首を傾げる聖母に、キニアンは『涼しい顔して死ぬとか言わないで!』と心の中で涙を流した。
「なっ、いいわけないだモグフゴッ!」
「ぶどうパン美味しいわね~、あなた~」
「ほまっ……はにふっ……」
「やだぁ。口にもの入れたまま喋らないでちょうだい」
軽蔑にも似た冷たい眼差しを送る稀代のヴァイオリニストに何ひとつ反論出来なかった真面目一徹の巨匠は、手近にあったグラスを取ると、口いっぱいに頬張ったパンを流すために勢い良く中身を空けた。
パンと飲み物すべてを胃に収めると、彼はふらり、と椅子に倒れ込んでそのまま寝息を立て始めた。
「ん? あらやだ。これお水じゃなくて焼酎じゃないの」
すーすーと、眠っている顔は可愛らしい印象のある夫を見つめると、少女のようなヴァイオリニストは「ま、いっか」と気を取り直して余興に目を向けたのだった。
「残念です……未来ある若者が、こんなとことで命を落とすなんて……」
──縁起でもないこと言わないで下さい! あなた医者でしょ?! しかも結婚式なのに!!
レティシアの泣き真似にそう返したかったキニアンだが、最早それどころではない。
十本ほど用意されたペティナイフを、「どれがいいかな、どれがいいかな♪」とどこかウキウキした様子で吟味しているシェラからちょっとでも目を離したら、その隙に本当に死んでしまうかも知れないとでも思っているのかも知れない。
背後には長身のキニアンより更に大きな一枚板。
両手には可愛らしいバルーンアートの世界のスーパースターなねずみとその彼女がいた。
彼の極限まで高まった緊張感にまったくそぐわないねずみたちは、ふよふよと空調の風に吹かれて揺れている。
対照的に、キニアンの喉はカラカラで、呑み込む唾すら出てこない。
少し離れたところでは、カノンが腕を組んでその様子を見つめている。
「ちょっと意地悪だったんじゃないか?」
す、と音もなく隣に寄ってきた男の問いかけに、カノンは軽く唇を尖らせた。
「……別に、ぼく何もしてないもん」
「アルが代わるって言い出すように仕向けたくせに」
ちいさく笑う父に、カノンは更に唇を尖らせた。
「……父さん、アリスのこと好きでしょ」
「うん」
「……」
「可愛い」
「……」
むぅぅぅぅ、と顰めっ面になっても可愛らしい王子様に、ヴァンツァーはやはり笑みを零した。
そして、ハラハラを通り越して心臓が口から飛び出る寸前の青年を、慈しむまなざしで見つめたのだ。
「ああいう無垢なものには、どうしようもなく惹かれる」
「……」
その気持ちはよく分かる気がしたカノンだった。
傍にいると、自分の中の悪いものや醜いものが、浄化されていく気がするのだ。
「あげないよ──って、言わないのか?」
ちょっとからかうような視線を向けてくる父に、カノンはつん、と顎を逸らした。
「今更そんなこと言わなくても、ぼくのだもん。──あ。どーしてもって言うなら、たまにだったら貸してあげてもいいよ? その代わりちゃんと返してよね」
「じゃあ、キスしてもいい?」
「──っ……!」
一瞬目を瞠ったあと、ぐっ、と眉を寄せて威嚇の表情を浮かべるカノン。
「……アリスが、いいって言ったらね」
これには思わず微笑みが浮かんだヴァンツァーだった。
「お前も可愛い」
思わず口をついて出た言葉に逆らうことなく、ヴァンツァーはカノンを懐に収めた。
「……何だよ、それ」
「お前も、シェラとしていいよ」
「はぁ? 言われなくてもしますけど、っていうか、アリスが頷くの前提なわけ?!」
「事後承諾だったら、結構楽にイケると思うが? 危機感薄いし。──『しちゃった♪』とか言ったら、案外」
「──だ、ダメ! 事前に決まってるでしょ?!」
「じゃあ、あとでやってみる」
「……」
何だかとても上機嫌な父の様子に、カノンは疲れたようにため息を零した。
ソナタの結婚が嬉しいのか、それとも飲まないとやってられなくて結構飲んだ結果がコレなのか。
「とうさ」
──パァンッ!!
声を掛けようとして、途端に響いた破裂音に振り向くカノン。
「「「「──おおおおおっ!!!!」」」」
見遣った先では、キニアンが左手に持っていたスーパースターの風船が消えている。
そして、キニアンの顔からも、表情が消えている。
青いとか、血の気が引いているとかではなく、ひたすら真顔だ。
「ね? 大丈夫だったでしょ?」
「……」
シェラの問い掛けにも、何も返さない。
口数は少ないけれど礼儀正しい彼としては珍しいことである。
「あれ。もう投げちゃったんだ。父さん見てた?」
「あぁ」
「どうしたの、アレ」
「随分ゆっくり投げたんだな」
「え?」
「余興だから、他の列席者にも分かるように投げる必要はあったんだろうが……自分に向かって刃物が飛んでくる軌道が見えたら、それは素人だったら怖いだろうよ」
随分と可哀想なことをする、とどこまでもキニアンを案じる口調のヴァンツァーであったので、カノンは声を張り上げた。
「シェラ~! ぼく見てなかった!! もう一回投げて~!!」
はっとしてこちらに目を向けてくるキニアンに、とてもとても美しい笑みを浮かべるカノン。
「アリス、頑張れ~~~!!」
笑顔でぶんぶん手を振ってくるカノンを見て、絶対に応援されてないということだけは分かったキニアンだった。
本当に気遣っているなら、カノンはシェラを止めるだろう。
何だかんだいって、やさしいやつなのだ──たぶん。
「じゃあ、今度はミミーちゃんね♪」
ナイフを一本選ぶと、喉を潤すため傍らのグラスを空けた。
「──ちょっ! シェラ、それおさk」
──スタン。はらり。
さすがに抗議しようとして、今度は先程とは違う意味で声をなくしたキニアンだった。
「あれれ? ちょっと失敗」
てへへ、と舌を出して頬を掻くシェラ。
ナイフは、キニアンの首のすぐ脇に刺さっている。
何本か髪も切れたのだろう。
肌を傷つけてはいないが、本気で『俺、今日死ぬかも知れない』と思ったキニアンだった。
「うわぁ……そうだった。シェラって結構Sなんだった」
普段やさしいから忘れそうになるけど、と呟くソナタに、ライアンが首を傾げる。
「わざと外した、ってこと?」
「うん。まぁ、その方がお客さんも盛り上がるけどね」
「……アー君、お兄ちゃんの前で粗相しなければいいけど」
見ているこっちだってちょっと危ない。
「今度は風船狙うね?」
──……今は狙ってなかったってことですね……?
にこにこしているシェラの言葉の真意に気づいてしまったキニアンは、かっこ悪くてもいいからちょっとほんとに勘弁してもらおうかな、と思い始めた。
「ん~、二本一緒に投げれば当たるかなぁ?」
──何にですか!! 俺ですか?! 一本目のはまぐれですか?!
もーほんと無理! と軽く涙目になったキニアンに、救いの手らしきものが述べられたのはそのときだった。
「──代わろう」
いつの間にかシェラの背後に立っていた男は、華奢な身体にふわりと腕を回すと手にしていたナイフを取り上げた。
振り仰いで睨みつけてくる菫色の瞳に、笑みを零す。
「余興、だろう? 俺もやりたい」
「私がアー君と遊んでるんだ」
──ふるふるふるふるっ。
高速で首を振る青年を見て、ヴァンツァーは「ほら」と呟いた。
むぅ、と唇を尖らせたシェラは、本当に残念そうな顔をしてその場をヴァンツァーに譲ってやった。
「じゃあ、これ投げて。はい」
そう言ってシェラが差し出してきたのは、どこから取り出したのか刃渡り八十センチにも及ぶ青龍刀だった。
ずっしりと重いそれを受け取ったヴァンツァーは、ちょっと首を傾げた。
「どうしてこんなものが?」
「リィとレティシアに剣舞をやってもらう予定だった」
「予定?」
「『だいぶ時間が押してるから、巻きでお願いします』ってお告げがあった」
「お告げ?」
「あれは天の声だった」
大真面目な顔をして頷くシェラだったが、ヴァンツァーは「あぁ、だいぶ飲んだんだろうなぁ」と思うことにした。
そして、真っ青な顔でこちらを凝視している青年に目を遣った。
「だ、そうだ」
「……」
「まぁ、外さないから」
「……」
「安心しろ」
そう、やさしく微笑む男に、キニアンはダメ元で言ってみた。
「……あの」
「ん?」
「あ、あの……」
喉が張り付いたように声が出ない。
それでも、死ぬ気で声を出さないと、本当に死ぬ気がしたキニアンだった。
「何だ?」
「あの……俺、何でもするんで、そっちのナイフにしてもらえませんか……?」
ヴァンツァーの持つ青龍刀から、先ほどシェラが吟味していたペティナイフに視線を移す。
「これ?」
「……はい」
「こっちが好きなのか?」
「いや、好きとかじゃなくて」
「ふぅん。──何でもする?」
「俺に、出来ることなら……」
かっこ悪いのは分かっているが、さすがにかっこつけて死ねるほど馬鹿ではない。
「しかも何か、皆さんいつの間にか食事に戻ってますし……」
刺身を堪能したあとは、新鮮な赤身を使ったミニ漬け丼が振舞われているらしい。
最早キニアンは食事どころではなかったが。
「じゃあやめるか?」
「あ、や、でもカノンが」
見てなかったって言うから、と。
本心を言えば今すぐやめたいところなのだけれど、せっかくの余興を楽しめないのでは可哀想だ。
自分は全然まったくこれっぽっちも楽しくなんてなかったけれど、ちょっとでもカノンが楽しめるなら死ぬ目に遭うことくらい我慢出来る──と、思う。
そんな青年の心情を感じ取ったのか、ヴァンツァーは「分かった」と頷いた。
「巻きの声も掛かってるみたいだし、このナイフ全部投げて終わりにしよう」
「──はっ?!」
「シェラが二本投げたから、あと八本だな」
「ちょっ!!」
何でそうなるんだ!! と叫び出したかったキニアンだが、ヴァンツァーは手馴れた調子でナイフお手玉を始めた。
その間に、レティシアはキニアンに風船を追加で持たせたのだった。
「はい、ひとーつ、ふたーつ、みーっつ」
そして、危険度A級のジャグリングをした状態のまま、レティシアの掛け声に合わせて一本、二本とナイフを投げるたび、びくとも出来ない青年の耳に破裂音が響いていく。
しかし、シェラのときと違ってナイフが見えない。
ヴァンツァーは手慰みのようにジャグリングをしたままに見えるのに、風船が割れていくのだ。
何の気配もしないのに、板にナイフが刺さる音と破裂音だけが響く。
それはそれで、耳の良いキニアンにとっては脅威だった。
──ドキドキドキドキドキドキドキドキ。
──ドクドクドクドクドクドクドクドク。
瞬きすら出来ず、食い入るようにヴァンツァーの動向を見つめるキニアン。
神経を研ぎ澄ませている青年の耳に、それが届いたのは偶然だろうか。
「……あーるー晴れた~ひーるー下がり~……ドナドナドーナード~ナ~」
──ちょっと、肉焼きながら何歌ってんですか!!
片手ずつで牛と豚の丸焼きを作っているヨセフに心の中でツッコミを入れるが、食事に舌鼓を打ちながら風船が割れるたびに申し訳程度の拍手をくれる列席者の耳にはきっと届いていないのだろう。
「さぁ、残すところあと三つとなりました! めんど……せっかくですので、最後は大技、三ついっぺんにどうぞ!!」
いくら何でも無理だろう、と思ったキニアンだ。
残っている場所は、左手にひとつ、頭上にひとつ、そして、右脚に括りつけられて脇腹にひとつ。
てんでバラバラな位置にあるものを一度にだなんて、いくらヴァンツァーでも……と不安になる。
「信じろ」
「──ヴァンツァー……?」
「狙った獲物は外さん」
に、と口端を吊り上げる様子に、キニアンは反射的に頷いていた。
ナイフを三本とも右手の指の間に挟んだヴァンツァーは、今までに比べたらほんの少し表情を引き締めて見せた。
「怖かったら目を瞑っていろ。──すぐに終わる」
「……いえ。大丈夫です」
「そうか。いい子だ」
褒められてちょっと嬉しくなった青年は、僅かに口許を綻ばせた。
「さぁ、それでは最後の大技! それぞれ別の場所にある風船を見事すべて割ることが出来るのか、それとも──?! 皆様、どうぞワタシに続けて『さん、に、いち』の掛け声をお願いいたします」
パチパチパチと拍手が起こり、レティシアはマイクに向かって声を張り上げた。
「それではいきます────さん!」
「「「「──さん!!」」」」
「にぃ!」
「「「「──にぃ!!」」」」
「いーちー!!」
──そのとき、それはふわり、と風に乗ってやってきた。
きゅぅぅぅぅ。
「「「「──あ」」」」
ヴァンツァーが振り返るのと、ナイフがその手を離れるのとは、ほぼ同時だった。
──パァンッ!!
威勢の良い破裂音が場内に響くと、会場は一瞬静まり返った。
磔にされている青年を見やれば、彼の身体の周りにあった風船は綺麗さっぱりなくなっていた。
破裂音はひとつに聴こえたが、どうやらすべての風船を同時に割ったらしい。
「「「「……──おおおおおっ!!!!」」」」
そして、沸き起こる拍手の洪水。
それに驚いたのか、はっとしたようにキニアンに目を向けるヴァンツァー。
見遣った先の青年が軽く涙目になっている理由は、おそらく。
「……せ……──せめてこっち見てて下さい!!」
「あー、うん。悪い」
自分に非があったのは間違いないので素直に謝ったものの、だって何だかいい匂いがしたから、とそちらを指差す。
「アー君、かーわいそ~」
せっかくお前のこと信じてたのに、と肘で小突いてくるシェラに、さすがに困った顔になるヴァンツァー。
「……俺にも、食欲というものがあったらしい」
「ほぅ。私の料理には食欲がわかないということか」
「お前の料理は美味い。だがあれは仕方ないだろう」
ほら、とまた指差すのは、ドナドナの丸焼き。
とても香ばしい匂いがする。
シェラはちょっと呆れた顔になった。
「……お前、よくあの歌を聴きながら食欲わくな」
「食べ物に罪はない」
そんなやり取りをしているふたりの前に、キニアンはふらふらとした足取りでやってきた。
「お疲れ様、アー君」
「あ、はい……」
ほとんど屍のようになりながらも、律儀にぺこり、と頭を下げる。
「おかげで盛り上がりました」
「……それは何よりです」
力なく笑みを浮かべると、ふらりと身体が傾いだ。
ヴァンツァーに縋りつくようにしている青年は、ゆっくりと顔を上げるとこう訊ねた。
「で……俺、何をすればいいですか?」
「え?」
「ナイフに替えてもらったので……何すれば、いいですか?」
肩揉みでも運転手でも何でもいいです、とどこまでも生真面目な様子にいっそ感動したヴァンツァーは、「じゃあ」とにっこり微笑んだ。
「キス」
「あぁ、キスですね。はい………………──はいっ?!」
慌ててヴァンツァーの肩に手をついて身体を起こす。
「あんまり長引かせるのも悪いし」
「いや……俺、そういうのは」
「……何でもするって言ったのに」
しゅん、としょげた様子で俯く男に、シェラは痛む頭を抱え、キニアンは慌てふためいた。
「あ、あの、すみません、俺!」
「何でもするんだろう?」
「………………」
たらたらと冷や汗を流したキニアンだったが、「ほらほら」と期待に満ちた瞳で見つめられ、覚悟を決めた。
──ええいっ!!
ちゅっ。
硬く閉じていた目を開くと、何だか驚いた表情をした美貌と出会って面食らった。
「え……ヴァンツァー? あの……しましたけど……?」
「あぁ……」
ぱちぱち、と瞬きをした男は、ぽつりと呟いた。
「しろとは言ったが、まさか唇にするとは思わなかった……」
「~~~~っ?! ほ、頬でいいならそう言って下さいよ!! おおお、俺、死ぬほど恥ずかしい思いでしたのに!!」
真っ赤な顔で狼狽する青年に、ヴァンツァーはきょとんとした顔で返した。
「いや、でも、カノンが言ってもいつも頬とか額だったから」
「え、えええ、あああああ!! カ、カノン!!」
慌ててそちらを向けば、ぷっくりと頬を膨らませてツーンとそっぽを向いている。
「まぁ、アー君も結構飲んでるからね」
「シ、シェラ! 笑ってる場合じゃ」
「私もちゅー」
華奢な身体からは想像も出来ない強い力で襟を引かれると、頬に触れる唇の感触。
──ちょ、みんな飲み過ぎ!!
やんや、やんやと盛り上がる会場に、キニアンの心の叫びは掻き消されてしまったのだった。
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