アベルドルン大陸『中央の華』と称される大国デルフィニアは、タンガ、パラストとともに『大華三国』と呼ばれている。
難攻不落と名高い白亜の宮殿はコーラル城といい、その壮麗な美しさはデルフィニアに住む人々の誇りでもあった。
『獅子王』と呼ばれる国王は立派な体躯を誇り、戦場では軍神のごとき強さでありながら人柄は鷹揚で、笑顔は人懐っこく、こちらも国民たちにとっては誇るべき賢王と言えた。
気候は温暖で作物は豊かに育ち、各領地を治める領主たちも領民を虐げることはなく、デルフィニアが誇るディレドン、ラモナ両騎士団は大陸最強との呼び声も高い。
──デルフィニアは、豊かな国だ。
誰もがそう口にする。
それは、何も軍事や物資だけのことではない。
芸術面でも、決して他国にひけは取らない。
デルフィニア王室が抱える宮廷楽団はどの音楽家の腕前も見事なものだったが、中でも天才との誉れ高い演奏者がふたりいる。
まだ年若い、二十歳になるかならないかの青年たちだ。
そのひとりであるヴァイオリニストの青年は、月の光を紡いだかのように見事な銀髪の主だ。
ふわふわとやわらかな髪に、紫水晶もかくや、という菫色の瞳の美青年で、彼の姿を目にしたものはこぞって彼を天使と讃えた。
いつでもにこにこ笑っている彼が紡ぎ出す音は、明るく、華やかで、聴くものの心を浮き立たせるような華麗さだった。
『天上の音楽』と賞賛される音を奏でる青年が──しかし、なぜか今は眉間に皺を寄せて演奏をしていた。
コーラル城の一室、彼に与えられた部屋で練習をしていたのだが、その天使の美貌に似つかわしくない舌打ちを漏らすと、彼は部屋を抜け出した。
ヴァイオリンを手に向かった先は、城下町の様子が一望出来る展望スペース。
途中出会った衛兵には驚いた顔をされたが、「月が綺麗なので」と笑顔を向けると、ドギマギとした様子で衛兵は道を譲った。
ただの音楽家が相手であれば衛兵も首を振っただろうが、青年は国王と王妃のお気に入りということもあり、城内での移動はかなりの自由が許されていた。
また、彼が言った言葉に嘘はない。
開けたテラスからいつもよりひと際大きく見える満月を見上げ、ヴァイオリンを構える。
真夜中に近い時分。
人の気配はほとんどなく、風が木の葉を揺らす音が時折聞こえる程度。
その静寂を破るでなく、更に深めるような哀切感に満ちた短調の音楽を奏で始めるも、途中でぷっつりとやめてしまった。
その美貌は苛立ちに歪み、強く握りしめた弓を大きく振り上げた。
「──やめろ」
低く、静かな声が耳に届く。
カツカツ、と、石造りの部屋に響く靴音。
振り返らずとも、声で分かる。
月光から生まれた天使のような青年は、鬼の形相を浮かべて奥歯を噛み締めた。
やがて、天使に声をかけてきた人物の姿が浮かび上がった。
色素の薄い茶の髪と、新緑を思わせる澄んだ瞳。
騎士団の男たちと並んでも遜色ないほどの長身ではあったが、身体つきはずっと細身だ。
簡素な部屋着に身を包んでいるが、着飾ればご婦人方が歓声を上げるだろう、端正な容貌の青年だった。
こんな夜中に城内を歩くには不釣合いな、何だか大きな箱を手にしている。
「気に入らないことがあると楽器に当たるのは、お前の悪い癖だ」
「……煩い。ぼくに指図をするな」
唸るような天使の声に、長身の青年は肩をすくめた。
「カノン。何かあったのか? 今日の定期演奏会でも調子悪そうだったし、陛下や団長たちも心配して」
「煩い!」
いつも微笑みを絶やさない天使からは想像もつかない、悲鳴のような絶叫に、長身の青年は目を丸くした。
「カノン……?」
「出て行け! キニアンに話すことなんてない!」
ふいっ、と背を向けて拒絶を表してくる天使に、青年はため息を零した。
「弾けよ。付き合う」
それだけ言って手にしていた大きな箱から取り出したのは、チェロだった。
「は? 何言ってんの? 誰がそんなこと頼ん」
「俺にはお前の考えていることは分からない。けど、お前の音なら分かる」
「……」
「好きなように弾け。合わせる」
部屋の端においてあった椅子に腰掛け、調律を行う。
実にぶっきらぼうな物言いと、何とも自信に満ちた声音。
彼こそが、デルフィニア宮廷楽団が誇るもうひとりの天才──否、カノンにとっては、彼こそが、真実その賞賛に値すべき唯一の存在だった。
どれほど多くの人間から認められようと、真の天才の前では自分の演奏など塵芥にも等しい。
劣等感ではない。
この稀代のチェリストに、劣等感など抱こうはずもない──次元が違うのだ。
羨望でも憧憬でもない。
あるとすれば、失望。
彼と並ぶことの出来ない己の音に対する、闇よりも深い孤独と失意。
出会ったばかりの頃は良かった。
ただただ、彼の紡ぐチェロの音が好きで。
無愛想な外見とは似ても似つかない、やさしくてあたたかい音。
華やかな分、時折高慢にもなりがちなカノンの音を、『こらこら』とやさしく諌めながら支えてくれる彼の音が、大好きだった。
──今だって、好きだ……。
胸がグジグジと疼いて、痛くて、持て余した感情を音に転化する。
演奏を始めると、ちいさく笑う気配がした。
手は止めず、カノンはチェロを構える青年を睨みつけるように視線を向けた。
「好きだな、パガニーニ」
ごくごくちいさく、演奏の邪魔にならないように呟くと、彼も弓を構えた。
お手本のようなボウイング。
彼の父親は、三国一のチェリストと言われる男だった。
『神の右手』とも称されるそのボウイングを受け継いだ青年の音はこの上もなく正確で、几帳面で生真面目な性格がそのまま表に出ている。
かといって、堅苦しいわけではない。
あまりやらないが、時々とんでもない『遊び』をしては、聴くものに驚きと興奮を与える。
雑味の一切ない重音とか、左手での高速ピチカートとか、美しいビブラートのかかったフラジオレットなど、まさに弦楽器奏者の理想とする演奏を、彼は何でもないことのように行なってしまう。
カノンにも、同じような演奏は出来る。
テクニックだけであれば、間違いなくふたりは比肩する存在であった。
同い年ということもあり、扱う楽器は異なるが、よき好敵手でもあると、デルフィニアの王族や貴族たちは認識しているようだった。
そんな賞賛を笑顔で受け止めながら、カノンの心は沈み込むばかりであった。
技巧では決して劣らない──けれど、音が決定的に違う。
実際聴いているものたちが分かっているのかどうかは知らないが、カノンにとってそこには雲泥の差がある。
今もそう。
カノンの音に合わせる、と言っておきながら、彼は自分の音を変えたりしない。
変えるのは──変えさせられるのは、カノンの音だ。
先へ先へ行ってしまおうと、キニアンの音を置いていってしまおうとして弾いているというのに、少しも離すことが出来ない。
ムキになってがむしゃらに弾けば、睨みつけた男は普段ほとんど動かない口許に仄かな笑みを浮かべていた。
からかっているのではない、楽しんでいるのだ。
普段は取り澄ました貴婦人のような音を出すカノンが、今は感情も露わに、まるで喧嘩をしているかのような音を出している。
けれど、キニアンは決してそれに対抗したりはしない。
凡庸な奏者であれば見せつけられた技巧に対抗心を燃やし、──勝手に自滅する。
けれど、キニアンは違った。
同じほどの技巧を持ちながら、張り合う気などさらさらないのだ。
まるで、師が弟子の腕前に感心するかのように、ただただカノンの音を受け入れている。
それが腹立たしくて、カノンは更に自分の音に没頭していった。
──もっと速く、もっと巧みに。
このチェリストが、平静など保っていられないように。
そう思って演奏しているというのに、ある時点でふと気づいてしまうのだ。
合わない、と。
自分の奏でる音と、キニアンの奏でる音。
融け合うことのない音に、気づいてしまう。
合わないように弾いているのだから当たり前なのだが、その音を『嫌だ』と思う自分がいることに、カノンは気づいてしまう。
そして、不協和音の原因が自分であることも、分かってしまう。
キニアンの音に耳を傾ければ、いつもと何ら変わりない穏やかさがそこにある。
どれほどの超絶技巧曲を弾いていても、いつでも音を支配しているのは彼の方で、彼が楽器や曲に主導権を渡しているところなど見たことがない。
それは、今このときでも同じ。
カノンに合わせると言っておきながら、そんなつもりはないかのように、自分のスタイルを崩さない。
けれど、その真意が分かってしまうから、カノンは深くため息を吐いた。
そうして、張り合うことをやめた。
チェロの音に耳を傾け、認め、そこに自分の音を重ねていく。
見遣ったキニアンは、少し目を丸くしたあと、穏やかに微笑んだ。
乗せられてやるのは癪だったけれど、それでもカノンは思った。
──……あぁ、綺麗な音だ。
思うように弾けず、雑味ばかりが目立っていた先ほどまでの音とはまるで違う。
まさしく、『天上の音楽』に相応しい壮麗な音。
だから、曲も変えた。
演奏を止めることはなく、元の曲の流れのままに、次の曲へ。
カノンがどんな曲を弾くかなど分からないはずのキニアンは、少しも慌てることなくその変化についていった。
それが悔しくもあり、また当然だ、とも思った。
これくらい出来る男でなければ、自分は認めない、と。
いつの間にかカノンの美貌には挑戦的な笑みが浮かんでおり、『喧嘩』ではなく『駆け引き』を楽しんでいる顔つきになっていた。
短くはない演奏を終えると、カノンはツンと顎を逸らしてキニアンを見下ろした。
「嘘吐き。何が『合わせる』だよ」
「合わせただろう?」
「どこが。結局ぼくが合わせたんじゃないか」
「あぁ──でも、お前が出したかった音は、出せただろう?」
嫌味な男だ、と。
それがこちらを揶揄するための台詞だったら、カノンはそう思っただろう。
けれど、このチェリストにそんな意図はまったくないのだ。
「お前は、素直なくせに捻くれてるからな」
「何それ」
「せっかく綺麗な音なのに、もったいない」
きっとこれも本心なのだろう。
けれど、カノンは思い切り顔を顰めたのだった。
綺麗なんかじゃない。
彼の音と比べて、自分の音は雑で、浅くて。
特に最近、思うような音が出ない。
だから余計に、キニアンの音と比べてしまって、己の才能のなさに嫌気が差していたところだった。
「何か、悩み事か?」
「別に……」
返した言葉に嘘はない。
悩みなんてない。
ただ何か、うまく言葉に出来ないモヤモヤとしたものが、胸の内に巣食っているだけ。
それが何なのかは、自分でもよく分からないのだ。
「なぁ、お前……」
俯いたカノンに、少し躊躇ったような声が掛けられた。
顔を上げれば、そこには困ったような、戸惑ったような顔がある。
「なに」
「いや……」
「はっきりしてよ」
「……お前、さ……その……好きなヤツとか、いるのか?」
「──は?」
唐突な内容に驚き、菫色の瞳を瞠るカノン。
対するキニアンは、バツが悪そうに目を逸らした。
「なんとなく……そんな音がする」
どんな音だよ、と悪態をつけば、キニアンは少し首を傾げた。
「時々何かに焦っているみたいに荒くなるのに、ドルチェはやたら甘くて……」
聴いているこちらが赤面しそうになる音だ、と言われても、カノンには何のことだか分からない。
「分からないなら、いい」
首を振る青年に、カノンはツカツカと歩み寄った。
見上げてくる若葉色の瞳を覗き込むように顔を近づけると、反射的に身を引く青年。
「『いる』って言ったら?」
「……え?」
「好きな人、いるって言ったら、どうなの?」
「どう、って……」
別にどうも、と目をぱちくりさせるキニアンに、カノンは柳眉を吊り上げた。
「──自分だって、貴族のお姫様と結婚するんでしょう?!」
「はぁ?!」
これには思わずガタンッ、と音を立てて椅子から立ち上がったキニアンだった。
その勢いに、カノンの方がきょとん、としてしまっている。
「え……ち、違うの……?」
「何だそれ。どこからそんな話が」
「え、だ、だって……バルロ様が」
「団長?」
「イヴン様だって」
「独騎長も? 大体、何であの人たちの口から俺の結婚話が出るんだよ」
「え……?」
あれ、あれれ? 困惑して視線を彷徨わせているカノンに、キニアンは大きくため息を吐いた。
「あの人たちが何でお前にそんな話したのか知らないけど、結婚なんかしないよ」
「……でも……でも、アリスご婦人方に人気あるし」
「──あ、やっと呼んだ」
「え?」
「名前。お前、機嫌悪いと名前で呼ばなくなるからな」
分かりやすい、と苦笑する青年から、つい、と目を逸らすカノン。
「だって……アリス、名前で呼ばれるの嫌いだって……」
「お前ならいいよ」
「……」
カノンは思い切り顔を歪めた。
こういうところが嫌なのだ。
そんなことを言われたら、まるで自分が特別なんじゃないか、と勘違いをしてしまう。
きっと本人に意図するところなど、何もないのだ。
「……アリスなんか、嫌いだ」
「そうか。──俺は、お前のこと好きだけどな」
「──えっ」
限界まで目を見開いたカノンは、みるみるうちにその白い肌を紅く染めていった。
それに気づくことなく、キニアンは月が見える展望スペースへと向かった。
「あの月と同じ。普段は全然手が届かないところにいるのに、今みたいに、時々近くに寄ってきてくれる」
「……」
「何か、警戒心の強い野兎が、安全だと分かって近寄ってきてくれるみたいで」
嬉しい、と。
きっと、その言葉にも他意はないのだろう。
言葉通りの意味しかないに違いない。
ちいさな動物を可愛がるのと同じ、ただ、それだけ。
チクッ、と微かに痛んだ胸が、ジクジクとどんどん熱を持って膿んでいくようだった。
痛くて、苦しくて、胸を押さえて思わずうずくまった。
気づいたキニアンが、慌てて駆け寄ってくる。
「──おい、大丈夫か? 具合でも」
「触るなっ!!」
強い拒絶の言葉と態度に、キニアンは伸ばしかけた手を引っ込めた。
そうして、大きく目を瞠る。
「……ぼくに……さわる、な」
ポタポタと。
宝石のような瞳から、幾筋もの涙が零れ落ちている。
月光に照らされたそれも宝石のようだったが、汗が背中を伝う感触を、キニアンは確かに感じていた。
やけに心臓が煽る。
「どうし」
「さわるな……」
気候は温暖だというのに、カタカタと寒がっているかのように震える細い肩。
キニアンは、思い切り顔を顰めた。
「──触る」
「ちょっ」
短く宣言したキニアンは、床に膝をつき、ぐっとカノンの肩を引き寄せた。
心臓が止まる思いのしたカノンだった。
呆けて一瞬固まったが、抱きしめられているのだと理解するや思い切り抵抗した。
「や……やだ、離せ!」
「嫌だ」
「はなっ」
「離さない」
余計に力を込められ、苦しいくらいの抱擁に、カノンの目からまた涙が零れた。
「怖いとか、嫌だとか、ちゃんと口にして言えよ」
「い……嫌だ、って……言ってる、のに……アリ……はな、て、く、な……」
「それは却下だ」
何とも自分勝手な台詞に、カノンはぽろぽろと涙を零すばかりだった。
「……こわ……」
「何が」
「やっ……」
「だから何が」
宥めるように髪を撫でてやれば、余計にしゃくり上げる息遣いが強くなってしまった。
しばらく喋れそうにないな、と内心で嘆息したキニアンは、無言でカノンの髪を撫で、ポンポンと背中を叩いてやった。
泣いているからか、体温が高い。
『あたたかい』というよりは明確に『熱い』と感じる相手の体温に、もしかして熱でもあるのかと心配になったキニアンだった。
だから、昼間の演奏会でも調子が悪そうだったのかも知れない。
「カノン、お前熱」
「うっさい」
「……」
ぐすぐすと鼻を啜りながら悪態をついてくる様子に、キニアンはまたため息を吐いた。
離せだ何だと暴れたりはしなくなったけれど、やはりちょっと熱い気がする。
「なぁ」
「嫌いだ……アリスなんか……」
嫌いだ、と繰り返しながらも、肩に顔を埋めて背中に手を回してくるカノンに、キニアンは首を傾げた。
この態度はまるで。
「お前、もしかして──眠いのか?」
赤ん坊が眠くてぐずっているのと似たような印象を受けたからそう言ったのだけれど、ガバッと顔を上げたカノンは兎のように紅くなってしまった目でキニアンを睨みつけた。
「このっ」
ぶん殴ってやろうと振り上げたカノンの手は、より大きな手に掴まれてしまった。
どんな音でも自在に出せる手は、指が長くて、爪の形も綺麗で、カノンは時々見惚れそうになることがあった。
「こら」
ちいさい子を窘めるような声音。
振り上げた手は掴まれ、引き下ろされてしまった。
「俺のことなんて殴って、お前の手怪我したらどうするんだよ」
「気にするところそこなわけ?! 大体、ぼくが怪我したって、アリスに関係ないでしょ?!」
「あるよ。お前の音が聴けなくなったら嫌だからな」
「……は?」
ぱちぱち、と目を瞬かせると、溜まっていた最後の涙が零れ落ちた。
それを指で拭った青年は、駄々っ子をあやすようにカノンの頭をポンポンと叩いた。
「お前の音好きなのに、万が一指でも傷付けたらどうするつもりだよ」
「……は? え? すき……?」
「何だよ」
「え、アリスが……ぼくの、おと……?」
「そうだけど?」
キニアンは『何だ今更』といった顔をしているのだけれど、カノンには訳が分からなかった。
「何で……? ぼくの音、全然綺麗じゃないのに……」
「は? 誰がそんなこと言いやがった」
何やら憤慨しているような面持ちになった青年に、カノンはただひたすら目をぱちくりさせていた。
「誰が何言ったか知らないけど、お前の音は綺麗だよ」
「……うそ」
「嘘じゃない。薄く氷の張った湖とか、無色透明な水晶とか、そういうの弾いた音がする」
「……なに、それ」
「冷たくて脆いのに、よく響く」
「……」
「触ったら壊れそうだな、と思って支えてやると、『余計なお世話だ』って高い所に飛んで行って……でも、『早くここまで来い』って感じで、こっちのこと待ってるんだよ」
「……」
「何かそういうの、可愛いなぁ、って」
珍しく愉しそうに笑う男に、カノンは困惑するばかりだった。
自分の音はキニアンと違って甲高くて、深みがなくて、一緒に演奏しているとみすぼらしいばかりで大嫌いなのに。
「あ、もしかしてお前そんなでたらめなこと言われたから、調子悪かったのか?」
「……」
違うけれど、あまり違わない気もする。
他人に言われたわけではない。
カノン自身が、そう思っていたというだけのこと。
「お前、意外と神経細いからな」
「……意外とは余計だ」
「今度団長に、神経図太くする方法聞いてみろよ」
「……公爵様に向かってそんな口きいたら、首飛ばされちゃうよ」
「大丈夫だろ。お前、可愛がられてるし」
よしよし、と、また頭を撫でられて、何だかその子ども扱いに腹が立った。
「……それで慰めてるつもりなわけ?」
「え?」
「ぼく、子どもじゃないんだけど」
「あぁ、うん。知ってるけど」
「じゃあやめてよ!」
「でも、陛下とか団長に頭撫でられると嬉しそうだったから」
「ずっと年上じゃん!」
ぷんすか怒って頬を膨らませる天使に、ひとたびチェロを置くと天才音楽家の片鱗すら見えなくなってしまう青年はきょとん、とした顔で首を傾げた。
「どうすればいい?」
その音と同じく生真面目で誠実な好青年は、むむむ、と眉を寄せている天使に訊ねた。
「キス」
「──へ?」
「こういうときは、キスして慰めるものでしょう?」
「キ──はぁ?!」
素っ頓狂な声を上げる青年に、カノンは更にむくれた。
「出来ないって言うの?!」
「出来るか!」
「何でよ!」
「な……当たり前だろ!」
「だから何で!」
「だっ……」
思わず言葉を切って視線を彷徨わせるキニアン。
その顔は、夜目にも明らかなほどに紅く染まっている。
「……そういうのは、好きな子にしてもらえ」
「別に慰めるくらい」
「俺が嫌なんだよ!」
その言葉には、少なからずショックを受けたカノンだった。
そうだ、自分は、この無愛想で口数少なくて、でもやさしくて、音楽の才能に溢れた青年のことが──好きなのだ。
「……すき」
ぽつり、と呟く。
言ってみて、あぁ、そうなのか、と納得した。
「すき……」
「そうだよ。好きな子と」
「……好き」
呟いて、ぎゅっと相手の服の裾を握る。
「え?」
「……好き……だから、嫌い、に……ならな、で」
またぽろぽろと涙を流し始めた天使にびっくりして目を丸くするキニアン。
「は?!」
「ぼく、のこと……きら、に……」
ならないで、と訴えれば、舌打ちが聞こえたあと、唇に熱が触れた。
押し付けるだけの口づけに、カノンは目を瞠った。
「なるかよ」
怖いくらい真剣な瞳に、カノンは「ふえぇぇ」と泣き出した。
「な、ちょっ! なんでまた泣くんだよ!」
泣き止むんじゃなかったのか、と弱り切ってしまった青年は、「ごめん、ごめん」と言いながらカノンの背中を撫でている。
「もう……お前……キスされるの嫌なら、最初からそう言えよ……」
ぐったりとした様子で呟いた青年に、カノンはふるふると首を振った。
「……や、じゃない」
「は? だって泣いて」
「もっかい……して」
「……」
「してくれなきゃ……アリスに手篭めにされたってバルロ様に」
「俺殺されるだろ!」
真っ青になっている青年を、じーっと見つめるカノン。
はぁぁ、と肺の中の空気を全部吐き出すようなため息を吐いたキニアンは、もう一度、唇を軽く触れ合わせた。
「ぼく、子どもじゃないんですけど」
「そうですね」
「もっとちゃんとしてよ」
「無理」
「……」
また泣き出しそうになるカノンを見て、キニアンはガシガシと頭を掻いた。
「俺が止まれなくなるから、無理」
「──……え?」
「今だって、いっぱいいっぱいなんだよ」
「……なんで?」
「何で、って……」
純粋そのものの瞳で見上げてくるカノンに、「あー、もう!」と叫び出すキニアン。
「お前のこと、好きなんだよ!」
ぽかん、としてしまったカノンである。
「お前は、そうやって俺のことからかって遊んでるつもりかも知れないけど、俺は」
「好き」
「そう、俺はお前のこと」
「ぼくも、好き」
「そう、好き────はい?」
「ぼくも……」
アリスのこと好き、と言って、相手の胸に飛び込むようにして抱きつくカノン。
「は? え?」
「ぼくも好き」
きゅううぅぅっと抱きしめられたキニアンは、みるみるうちにその象牙色の肌を紅く染めていった。
「……嘘だろ?」
「失礼な」
「だって……なん」
「理由なんか、知らない」
「……」
「でも好き」
ちょっとはにかんだ嬉しそうな声を耳にして、知らず身体が震え出す。
「……カノン」
「んー?」
「……キスしたい」
「さっきから言ってるじゃん」
からかうような顔つきで見上げれば、真剣なまなざしが落ちてくる。
『トクン』なのか『ゾクン』なのか分からないけれど、胸と背中が震える。
近づいてくる端正な顔をもっと見ていたい気もしたけれど、カノンは目を閉じた。
さっきよりも長く触れ合う唇。
舌先で舐められて口を開くと、するり、と熱いものが入ってきた。
「ん……」
初めての感触にゾクゾクして、相手の服を引っ張るカノン。
歯列をなぞられ、舌を絡められると、どんどん身体が強張っていく。
「アリ……」
うまく息が出来なくて、キニアンの肩をぽんぽんと叩く。
気づいたキニアンは唇を解放してくれたが、まだ物足りないような顔をしていた。
「苦しかったか?」
「……ちょっと」
「でも、初めてじゃないだろう?」
「……」
かあぁぁぁっと頬を染めるカノンを見て、思わず「マジか」と呟くキニアン。
途端に自分の経験のなさが恥ずかしくなってきたカノンだったのだけれど、何だか痛いくらいに強く抱きしめられてしまって驚いた。
「アリ」
「悪い、ちょっと……落ち着く」
ちょうど耳に当たっている胸から、トクトクトクとすごい速さの鼓動が聴こえてきて、カノンは目を丸くした。
「ちょっと……舞い上がった」
「……」
「悪い」
何度も謝ってくる青年に、不自由な体勢ながらカノンは首を振った。
「ね……アリス……もっかい」
ツンツンと服を引っ張っておねだりをするが、反応がない。
どうしたんだろう、と見上げた青年の顔は、カノンではなくどこか遠く──展望スペースの入り口を見つめている。
「アリ」
声をかけようとしたら抱擁を解かれてしまい、ぺたん、と床に座り込むカノン。
スタスタと歩いて行ってしまうキニアンを見て、何か悪いことでもしてしまったのか、と心配になったのだけれど。
「……何してるんですか?」
元々低い声なのに、まるで地獄の底から湧き出てくるような声音で、入り口に向かって話しかけているキニアン。
何をしてるんだろう? と首を傾げたカノンだったが、次の瞬間ちいさく悲鳴を上げて顔を真っ赤にした。
「バ、バババ、バルロ様?! イヴン様に、ナシアス様まで!!」
「陛下もいらっしゃるぞ」
呆れた声で呟くキニアンに、カノンは目を白黒させた。
『俺は悪くない』という顔をしているこの国の筆頭公爵と、困ったように頬を掻いている独騎長、「だからやめようと言ったのに」とバルロを叱っているラモナ騎士団長に、大きな身体を一生懸命ちいさくしている様子がどこか微笑みを誘う国王。
そうそうたる面子を前に、カノンはぽかん、と口を開いていた。
「で、皆さん揃って何してるんですか?」
言葉遣いは丁寧なのだけれど、いつもは穏やかなはずの青年の額に青筋が見える。
「うむ。美しい弦楽の調べが聴こえてきたので、つい誘われてな」
もっともらしいことを言う国王に、バルロはむっつりとした顔で頷き、イヴンとナシアスもこくこく頷いてそれにならう。
やましいところはないのだ、と言いたいらしい面々に、キニアンは珍しくにっこりと笑った。
「そうですか。で、『そこだ、押し倒せ』と仰ったのは、どなたです?」
「なっ」
「「「「………………」」」」
カノンの驚愕とは反対に、無言を貫く国の重鎮四人。
「どなたですか、──独騎長?」
「分かってるなら聞くなよ!!」
あー、もう! と床を殴りつけ、小麦色の頭をガシガシと乱暴に掻き毟るイヴン。
「何であの距離で聴こえるんだよ」
「音楽家の端くれですから」
しれっとした顔で言ったキニアンだったけれど、カノンの耳に届いていないことは明らか。
彼の聴力は、常人とは異なる域に達しているのだった。
「まったく……大国の要人方が、揃いも揃って」
「面目ない」
素直に頭を下げる国王と、相変わらずふんぞり返っている公爵、笑って誤魔化そうとしているタウの男と、困ったように微笑んでいる柔和な美貌の騎士団長。
それぞれを思い切り睨みつけてやったあと、ため息を零したキニアンはカノンの元へと戻っていった。
呆然としているカノンの頭をよしよし、と撫でてやり、愛用の楽器を渡してやると、キニアンも自分のチェロを片付けた。
「行くぞ、カノン」
呼びかけられて我を取り戻したカノンは、小走りに部屋の入口へと向かった。
そして、床に膝をつくと、むすっとした顔の公爵にこう言ったのだ。
「バルロ様、お願いがあります」
「……何だ」
難しい顔をしているものの、崩れそうになる相好をどうにかして保っているという感じだ。
この天使のような少年が、みな可愛くて仕方ないのである。
「あの……今度ぼくに、閨事を教えて下さい」
頭を下げてお願いをするカノンに、一同叫び出しそうになるのを何とか堪えた。
あんぐり、と口を開ている面々に気づいていないらしいカノンは、ちょっと困ったような顔で言葉を続けた。
「ぼく、キスもまともに出来なくて……バルロ様はご経験が豊富でしょうから、今度、その、男の悦ばせ」
「──却下だ」
「うえっ!」
後ろからぐいっと引き寄せられて、カノンは目を丸くした。
「ア、アリ」
「団長、分かっていると思いますけど、そんなことしたら」
「ロザモンドにでも言うか? ふん、そんなもの、痛くも痒くも」
「いえ、妃殿下に、カノンが団長に手篭めにされた、と」
「──殺されるだろうが!!」
「もちろん、シェラとヴァンツァーにも──あぁ、そうすると、食事時も、就寝時も、気の休まる暇がないですね。ご愁傷様です」
こんなにも屈託のない笑みを浮べているこの青年を、今まで見たことがないデルフィニアの重鎮たちは、『頼まれても何もしません』と無言のうちに誓わされたのだった。
半ば無理矢理キニアンに手を引かれるようにして歩いているカノンは、置いてきてしまった国王たちを心配そうな顔で振り返っている。
「アリス、ひどいよ」
「どっちがだ」
「だって」
「あのなぁ!」
立ち止まった青年は、頭半分は低い位置にある菫色の瞳をひた、と見つめた。
「好きです、付き合って下さい、それと俺はやきもちやきなので他の男とあんまり喋らないで下さい、触ったりしたら噛み付きます」
ぽかん、としているカノンの前で、「ここまで言わないと分からないのか」とブツブツ言いながら、紅くなった顔を腕で隠そうとしているキニアン。
「……ねぇ、アリス」
「何だよ」
「噛み付くの?」
気にするのはそこか、と頭が痛くなる思いのした青年だったが、じと、と睨──もうとして、見上げてくる天使のような顔が可愛くて思わず目を逸らした。
「お……男は、狼なんだからな……噛み付かれたって、文句は言えないんだぞ」
我ながら恥ずかしい台詞を口にしたものだ、と直後盛大に後悔したが、カノンがむぎゅっと抱きついてきたので吹き飛んでしまった。
まだ目は少し赤かったけれど、にっこりと微笑んだ天使は嬉しそうな声でこう言った。
「──ちょっとバルロ様に触ってくる」
「は?!」
言うが早いか、キニアンの制止を振り切るようにして駆け出したカノンは、数十分前までの苛立ちと悲哀に満ちた表情とは真逆の、この上もなく嬉しそうな顔をしてデルフィニアの重鎮たちの腕に飛び込んだのだった。
END.