──垂れ流されているお前の霊力は、それを狙った妖を引き寄せる。
ゆめゆめ油断するなよ。
主にそうきつく言い含められていたのだが。
「ちょっとお使いに出てきただけなのに……」
息を切らして走りながら、青年は背後の妖気に気を配った。
行きは何ともなかったのだ。
仕事に向かった主の代わりに、馴染みの薬師の元を訪ねて薬草を受け取って。
確かに、思ったよりも時間がかかってしまって、今は夕暮れ間近だけれど。
──逢魔が刻には、結界の外へ出るな。
ごめんなさい、先生、と心の中で謝罪する。
お使いひとつまともに出来ないのでは、何のためにお傍にいるのか分からない。
せめて、薬草だけは無事に届けなくては、と肩から斜めに掛けた鞄に触れる。
この先の辻を曲がれば屋敷も見えてくる。
屋敷の中に入ってしまえば、低級な妖程度ではその周囲に張り巡らされた結界を越えることは出来ない。
「あと、少し……」
妖どもの気配は、息を切らして走っている青年のすぐ後ろに迫っている。
父親の血のおかげで足には自信があったが、二足歩行では思うように走れない。
かといって、最近とんと変化も出来ないし、したらしたで戻れない。
このままでは、追いつかれるまでに間に合うかどうか。
不思議と恐怖は感じないが、おとなしく喰われてやるのはごめんだった。
──あの辻を曲がれば……。
と、青年の目に、何やらこちらに向けて走ってくるものが見えた。
ちいさな、ちいさなそれは、金色の光を纏った彼の式神。
「──え、お、お前?!」
屋敷の警護を命じていたはずのそれが、青年に向けて駆けてくる。
青年の両手に収まってしまうちいさな身体だとは思えないほど、その足は速かった。
あっという間に青年の元まで駆けてくると、青年を己の背後に庇うかのように四肢を踏ん張り、妖どもに対峙した。
ウーッ、と毛を逆立てて威嚇するが、妖たちは臆する様子もない。
むしろ、仔犬の式神すら、その牙にかけようとしているようであった。
「だ、ダメだ! 危ないから下がるんだ!」
青年が言っても、妖との壁になるように立ったちいさな身体は動かない。
──ウヌカラ先ニ、喰ロウテクレヨウゾ……!
膨れ上がる妖気の濃さに、半分妖の血が流れている青年ですらも顔を顰めた。
雲が出ているわけでもないのに、辺りは黒い霧が立ち込めたように薄暗く、黄昏はあっという間に闇に覆われていく。
こんなに瘴気が濃いのでは、人間の世界にも悪影響を及ぼしてしまう。
一体、一体の力はそれほど大きなものではないが、それが十も二十も集まれば、青年にとっては十分脅威であった。
突如襲いかかってくる妖たちに、仔犬の式神も飛びかかっていく。
あんなちいさな身体ではすぐに殺されてしまう、と悲鳴を上げそうになった青年だったが、予想に反して仔犬の式神は善戦していた。
小回りの利く身体で縦横無尽に駆け回り、妖どもの身体に牙を突き立てていく。
「……すごい」
感心したように呟いた青年だったが、はっとして頭を切り替えた。
善戦しているとはいえ、数の上では圧倒的に不利だ。
また、いくら牙を突き立てようと、ちいさな傷を与えるだけでは妖を屠れはしない。
青年は自分に呼べる他の式神を頭に思い浮かべ──喚ぼうとして口を閉ざした。
──式神とはいえ、お方様は女性だから……。
こんな危険な目に遭わせるわけにはいかない、と青年は表情を引き締め意識を集中させた。
──思いだせ。
耳に残る、主の言葉。
その声音、響き、印の結び方、すべてを正確に記憶している。
「──我、伏して願い奉る」
何時いかなるときも、揺らぐことなく直立するその姿を。
ひた、と前を見据える瑠璃色の瞳を。
ひと目で心奪われるほどの、──己に対する絶対の自信を。
「其は力。我は契約せし者也」
──今のお前では、虎を喚べば仔猫が出てくるのだろうな。
からかうようにそう言って笑った主。
ならば、虎を喚んで見せようではないか。
強く、強く、脳裏に描く。
雄々しき姿、獣の王。
──そう、一度、書物の中で見たことのある、あの。
「我が声に応え給え!」
ゴウッ! という地鳴りのような風が、木々の葉を揺らすどころか大木の根までをも持ち上げようとする。
一瞬で消えた竜巻の中から現れた姿に、青年は目を瞠った。
真白き毛並み、雄々しき肢体。
身の丈は熊ほどもある、巨大な獅子のようなその姿。
「……強そう……」
自分で喚び出しておきながら、ほとんど初めてまともな召喚が出来たことに、青年は驚いていた。
白い獣の出現に、集まっていた妖たちはたじろいだようだった。
妖たちを威嚇するでもなく悠然と立つ獣は、首だけを巡らせて青年に目を向けた。
黄金に輝く瞳の美しさに、青年はただただ見入った。
『──お前さんが、俺を喚んだのかい?』
脳裏に直接響いた声に、青年は目を丸くした。
言葉を操れるほど高位の式神を喚べたらしい。
見た目とは裏腹な気安い口調に、青年は一瞬呆気に取られたものの、すぐに頷いた。
「──あ、は、はい!」
足元に駆け寄ってきた金色の仔犬を抱き上げ、無事であったことにほっとする。
『で、あいつら追っ払えって?』
「あ、はい。お願い出来ますか?」
『まぁ、あれっくらい楽勝だが』
言葉を切ってじーっと青年の目を見つめた獣は、グルル、と喉を鳴らした。
『……お前、貴人の縁者か……?』
「はい?」
『それだけじゃねぇな……狼……犬神の血も、引いてやがるな』
「……はい」
やはり、半分とはいえ、妖の血を引いた自分では、使役するに足りないと判断されたのだろうか。
青年は怯みそうになってはっとした。
──はったりでもいい。侮られるな。
主の言葉を思い出し、ぐっと腹に力を入れる。
睨むかのように見つめれば、白い獣は『ま、いっか』と呟き、青年が拍子抜けするほどあっさり妖に向き直った。
「……あの」
『こっちの世界に喚び出されんのも久々だし、承りましょう』
伝法な口調とは裏腹な仰々しい言葉でもって、獣は青年の命令を受け付けた。
そしてすぐさま、咆哮を上げて妖の群れに襲いかかって行った。
何だかよく分からないが、とりあえず戦ってくれる強そうな式神を喚ぶことが出来てほっとした青年は、腕の中にいる金色の式神の頭を撫でて言った。
「屋敷へお戻り」
これには猛抗議した式神である。
決して青年に危害を加えたりはしないが、腕の中でジタバタと暴れようとする仔犬に、困った顔になってもうひとつ命じた。
「先生に、知らせておくれ」
あの白い獣は強そうだ。
しかし、自分の喚び出した式神の力が、どこまで通用するのかは分からない。
式神を喚んだ以上は、この場を離れるわけにもいかない。
召喚した式神が倒されるようなことがあれば、自分も無事では済まないのだから。
最悪、命に関わることもある。
「先生も、もうお戻りになるはずだから」
頼んだよ、と仔犬を地面に下ろせば、名残惜しそうな顔をしたものの、ちいさな身体は風のごとく、屋敷へ向かって駆け出した。
──キィィィィィン……。
仕事を終え、内裏からの帰り道、鋭い耳鳴りに男は顔を顰めた。
「結界が……? いや」
意識を集中させれば、遠くの景色が脳裏に流れ込んで来る。
場所は屋敷のすぐ近く。
妖の群れに追われて逃げる、水干姿の青年。
「……やれやれ」
日が落ちるまでには戻れと、あれほど言っておいたのに。
「帰ったら仕置だな」
どこか愉しそうな顔つきになった男は、馬の姿をした式神を呼び出し、その背に跨った。
結界の張られた屋敷の中にいなくとも、万が一にもあの青年が傷つくことはないだろうが、向かおうとしている方角に何やら物騒な気配も増えた。
知らない気配ではないが、だからといって安心は出来ない。
現場への道すがら、ちいさな獣がこちらに駆けてくるのを見つけた。
金色の毛並みをした仔犬は、あの青年の式神。
姿は仔犬だが忠誠心は大層篤く、主人を放って我ひとり逃げてくるとは思えない。
大方、青年の方が逃したのだろう、と察しがつく。
「やれやれ」
また、ため息を零す。
「外見で判断するよう躾けたつもりはないんだがな」
そういえば、「普通の犬ですか?」と聞かれたことがあったことを思い出す。
己の喚び出した式神の力量も把握出来ない召喚士がいようとは。
男を見つけるなり吠え始めた仔犬に、男は馬の足を緩めることもなく「行くぞ」とだけ告げて馬を駆った。
驚いたことに、仔犬の足は馬のそれと変わらないどころか、それよりも速いくらいだった。
いくらもしないうちに現場に着いた男は、空で妖と戦っているモノを見て「やはり」と呟いた。
そして、おそらくそれを喚んだのだろう青年を視界に入れ、ほっとすると同時にちいさく笑みを浮かべた。
男を連れてきたことで命令は果たしたと思ったのか、主の元へ駆けて行こうとする仔犬を男は呼び止めた。
低く唸って文句を言う仔犬に、男は「まぁ、待て」と言う。
「主の力になりたいのだろう? しかし、その器では些か不利であろう」
馬の式神を還し、しゃがみ込んだ男は、仔犬の額に手をかざす。
警戒する仔犬に、「だから待て」と呆れた声を零す。
「お前の霊力に見合った器を作ってやろうというだけだ。その姿では動きにくかろう」
要らぬ世話だ、と言いたげな目で睨んでくる仔犬に、男はため息を零して「主にその警戒心を分けてやれ」とぼやいた。
「分かった。お前の器を新しく創り変えることはせぬ。あれが創ろうとしていた器を、そのまま再現しよう。良いか、ここは休戦といこう──わたしも低級の妖ごときにあれを傷つけられるのは我慢ならぬからな」
その声と鋭くなった双眸に本気を感じ取ったのか、仔犬は僅かながら警戒を緩めた。
仔犬の額に手をかざし、男は口の中で呪を紡いだ。
強い金色の光が仔犬を包み込み──そして。
「──ほぅ」
感心した声の男の目の前には、美しくも雄々しき金色の獣が現れた。
青年の持つ翡翠の瞳よりももっと鮮やかな緑柱石の瞳、裂けた口から覗く鋭い牙。
「金色の犬神か」
美しいな、と弟子でもある青年の喚び出した式神に、満足そうな笑みを浮かべる男。
「さぁ、その牙で妖どもを屠って来い──あぁ、待て。どうせなら、あの妖どもの力、お前の主に渡してやれ」
式神と術者は魂で繋がっている。
式神を討てば術者も傷つくように、式神が取り込んだ力は術者のそれとなる。
「お前の主は、また無自覚に大物を召喚してだいぶ疲労しているはずだからな」
言われるまでもない、という顔をした金色の犬神は、力強く地面を蹴って主の元へと向かった。
白銀の獣と黄金のそれと、ニ体の式神は圧倒的な強さで妖どもを屠っていった。
金色の犬神の出現に青年は驚いたようだったが、すぐに自分に襲い来る妖の手を逃れることで手一杯になった。
強い霊力を持った巨大な獣二体の出現ですぐに決着はつくかと思われたが、しかし分が悪いと判断した妖どもは、退散するどころか仲間を呼び寄せ始めたのだった。
これに男は苦い顔になった。
「……やはり綻びが生じている」
本来、京の町は御所を中心として、朝廷の抱える陰陽師たちの結界と、霊獣の力で護られている。
高位の妖はいたずらに人と事を構えることを良しとせず、低級の妖ならば彷徨ううちに浄化されるのが常であった。
それがここ最近いやに妖の出現頻度が増し、人の世へも大なり小なり影響が出ていた。
人為的に京の町に妖が喚び込まれていると考えた方が自然だ。
おかげで男は長時間陰陽寮に拘束されることとなり、少しばかり鬱憤が溜まっていた。
だからついつい、屋敷に帰るとあの純情な青年で遊んでしまうのだった。
血なのか性格なのか、彼の周囲の空気は神聖な霊場のように清々しく落ち着くのだ。
「幕府だろうが朝廷だろうが、どちらでも良いわ……」
下らない争いに、こちらを巻き込むな、と言いたかった。
己の分を弁えておとなしくしておれば良いものを。
弟子の成長を見守ろうと高みの見物を決め込んでいた男だったが、「やれやれ」と呟くと軽く目を伏せた。
己の矜持にかけても仕事は完璧に遂行するが、実はこの男、大層な面倒くさがりだった。
厄介事は出来るだけ他人に押し付けて、本当は気儘に暮らしたいのである。
しかし、負けず嫌いな上に、他人の仕事に穴があると無性に気になる性質で、やめておけばいいのについつい手を出して自分で解決してしまい、結果仕事が二倍にも三倍にも増えるのであった。
実に損な性分である。
この場にいる妖どもも、弟子の式神二体に任せても良かったが、あまり長引けば召喚者の体力がもたないこともある。
特に本人が無自覚なので、突然糸が切れたように倒れてしまう可能性がないとは言えない。
あとでたっぷり恩を売ってやろう、と男は形の良い唇に笑みを刻んだ。
一度深呼吸をし、やがてゆっくりと開かれた双眸はどこまでも澄み渡り、大気の流れすら読み解く力に溢れる。
「──我、伏して願い奉る」
決して大きくはないが、大気を震わせよく響く低音の声。
その場の空気すら支配する、絶対の力。
「我を加護する十二の神よ。其は力、我は契約せし者也」
詠うように紡がれる言葉、舞うように刻まれる印に、大気が呼応する。
ザワザワと木々が騒ぎ、風が渦を巻いて男を囲む。
「古の縁に依りて、汝が力、我が前に示せ……」
男の周りから、瘴気が薄れていく。
「其は陽、其は蒼、其は木にして龍王也」
パチパチと、男の周囲に火花が散る。
印が結ばれるたびに、その火花は大きく、強くなり、やがて雲を呼び雷となった。
「疾く我が声に応え給え────東方守護・青龍!」
──ズドーーーーーーンッ!!
凄まじい稲光と雷鳴とともに、龍の王は男の前に姿を現した。
「……我を使役したくば、言葉通り地に伏してみよ」
冷徹な白皙の美貌を彩る菫の瞳は、男を射殺さんばかりの強さで見下ろしている。
十二単に身を包んだ雪白の髪を持つ妙齢の美女──青龍に、術者である男はくっと口端を持ち上げて笑った。
「呑気にしていると、お前の気に入りが殺されるぞ」
ほれ、と男が顎で示した先を見つめた青龍は、ひっ、と息を詰めた。
白き獣と金色の犬神に護られてはいるが、青年に向かって次から次へと集まってくる妖の数は尋常ではない。
「──なっ、なぜ私を喚ばぬ!!」
「あの式神どもでは、己が戦うことばかりで、主を護ることまで気が回らんだろうな」
「何を呑気な……──ええいっ!!」
都を一望するほどに高く舞い上がった青龍は、天空に手をかざすと巨大な雷雲を呼び寄せた。
雷とは、すなわち『神鳴』また『神也』──陽の気を帯びた、正しき気の流れを導くもの。
放たれた稲妻は、正確に妖だけを屠って場を治めた。
青龍の呼び寄せた雲も、周囲に濃く立ち込めていた瘴気も、すぐに何事もなかったかのように消え去った。
「──……あ、あれ」
パチパチ、と若葉色の目を瞬かせた青年は、勢いよく天から舞い降りてくる美女の姿に目を丸くした。
「──お方様」
「なぜ真っ先に私を喚ばぬのだ!!」
もうもう! と癇癪を起こしたように柳眉を吊り上げて憤慨している青龍に対して、どうしてここに、と訊ねようとして、青年は主の姿も視界に入れた。
「先生!!」
さすがに疲労の色は濃かったが、ぱあぁぁ!! と顔色が明るくなる。
「来て下さったんですね──あ、もしかして、この犬神……」
「あぁ。お前の式神だ。霊力に見合った器を用意してやった」
「ありがとうございます!」
良かったな、と微笑んで豊かな毛並みの首っ玉に抱きつけば、体長は青年と変わらぬほどに大きくなった犬神は、大きく長い舌で主の頬をペロペロ──否、ベロンベロンと舐めまくった。
青年にとっては懐かしい毛繕いの仕草に、知らず緊張していた身体から力が抜けた。
『なんだ、しかもこいつお前んとこのかよ』
音もなくやってきた白い獣は、呆れたような、感心したような声を発した。
「久しいな──白虎」
師である男の言葉に驚いたのは、他でもない召喚者たる青年であった。
「──び、白虎って、あの?!」
あまりの驚きように、男は思わず首を傾げた。
「お前が喚んだのだろう?」
「そうですけど……まさか白虎だなんて」
「何のつもりで喚んだんだ」
「だって、先生が『虎を喚んだら仔猫が出るだろうな』なんて仰るから、今度は失敗しないように虎を喚ぼうと思って……確かに、書物で見た白虎の姿は想像しましたけど、まさか本人だなんて……」
正確には白虎は虎ではなかったが、やはり自覚もなしに四聖獣の一体を喚び出したらしい弟子に、男は大仰に肩をすくめて見せた。
いくら呪文を覚えていたとて、並の使い手に十二天将は応えない。
また、気まぐれな風の気質を持つ白虎は、凶将たるその苛烈な神気と相まってなかなかに扱いづらい。
よく最強の言霊である名を口にせず、『虎っぽいもの』という想像だけで西の守護聖獣が喚べたものだ。
本当に、自覚さえすればこの上もなく召喚士としての才に溢れているというのに。
「このような野蛮な獣を喚ばずとも、私を喚べば事足りたものを」
喚んでもらえなかったことが相当悔しいらしい青龍に、「でも」と青年は思わず眉を下げた。
「お強いとはいえ、お方様は女性ですから……あまり危険な目に遭わせるわけには」
言った途端、朝廷では『鉄面皮』で通っている稀代の陰陽師が、我慢しきれずに思い切り吹き出した。
「え、せ、先生?」
手近な木に寄りかかって腹を抱えている主に、青年は目をぱちくりさせた。
『お前、これが女に見えんのかよ……』
呆れた声を出す白虎に、グルゥゥゥ……と金色の犬神も困惑したような声を発した。
「あ、あれ?」
まだよく分かっていないらしい青年に、陰陽師の男は腹を抱えたまま「なるほどな」と呟いた。
この青年は、本当に外見に惑わされやすいらしい。
「だから、『お方様』なわけか」
ようやく得心がいった、という顔つきで笑っている師に、青年はひたすら困惑した顔を向けている。
「え? だって……お方様、男なんですか?」
「我ら龍族は伴侶によってその性を変える。伴侶が決まるまでは未分化といって、男でも女でもない」
「お方様は、その『未分化』ということですか?」
『こんな愛想も色気もねぇ、乳臭いガキの、どこがオンナだっていうんだか』
「無礼ぞ白虎!!」
『やるかい? ま、お前じゃ俺に勝てねぇけどな』
「──っ!!」
五行で言うところの木の気質を持つ青龍と、金の気質を持つ白虎では、相性が良いわけがない。
両者は相克の関係にあるのだから。
一触即発の雰囲気に、白虎を喚び出した青年はおろおろするばかりであった。
「お前のその姿がいらぬ誤解を生んでいるのだ。いつまでその姿でいるつもりだ」
男がこつん、と青龍の額を小突くと、ポンッ、という既視感を覚える音とともに、その姿が消えた。
「え、あ、あれ────ええええええええええええええぇぇぇぇ?!」
目玉が零れ落ちそうなほど目を見開き、口もあんぐりと開けている青年の視線の先には、自分の腰ほどの背丈しかない、振分髪も可愛らしい八歳くらいの幼女がいた。
「お……お方様……?」
「な、何をするのだ、この無礼者っ!!」
声も随分と高く、舌っ足らずになっている。
銀髪の幼女はぴょんぴょん跳ねて男をぽかすか殴っているが、軽く手のひらで受け止めている男は「はいはい」とまったく取り合おうとしない。
「うぬぬ……半妖風情が、どこまでも我を愚弄するか……」
「あ、俺も半妖です」
涙目になって陰陽師を睨みつける幼い青龍に、犬神の血を引く青年はあっさりと言った。
慌てたのは青龍だった。
「そ、そなたは良いのじゃ! そなたは貴人の子。我ら十二天将の中核を為す資格も持った子ぞ!」
「いや、俺そんな御大層なものじゃ……」
「こんな性悪の半人半妖とは、そもそもの霊格が違うのだ!!」
「その半人半妖を婿にしたいと言ったくせに」
美貌の陰陽師がくっ、と唇を持ち上げて告げれば、青龍は真っ赤になって否定した。
「婿にしたいなどとは言っておらぬ! 人と妖の間に生まれたにしては霊力が強く、それなりに見目も良いから、どうしてもと言うなら婿にしてやらぬこともないと……それなのに、『成長して出直して来い』などと、不遜なことを言いおって!!」
我はこれでも齢六十ぞ! と男に飛びかかる様子は、父親か、歳の離れた兄に遊んでもらいたがっている子どものようでしかない。
ふたりとも大層美しい顔立ちをしているので、並べばこの上もなく眼福ではあったのだが。
「あぁ……それで『子どもの戯言』ですか」
主の言葉を思い出し、青年は苦笑した。
でも、と青年は青龍と視線を合わせるためにしゃがみ込んだ。
「お方様は、先生の言葉に従って成長した姿でこちらにいらっしゃってたんですね」
「なっ、わ、我は青龍……龍王ぞ! こんな男の言葉に従ったりはせぬ!」
「そうなんですか?」
「そうだとも! た……ただ、この姿では、いくら霊格が高く強い霊力を持とうとも、人間というものは外見だけで子どもを侮る傾向にあるようだから……だからっ」
「お方様は、先生のことが大好きなんですね」
くすくすと笑う青年に否定の言葉を返そうとする青龍だったが、すぐに口を噤んでしまった。
言霊の力に縛られる霊獣は、嘘を吐くことが出来ない。
真っ赤になって俯いてしまった青龍に、青年はやさしい瞳を向けた。
「俺は、先生もお方様のことがお好きだと思いますよ」
にっこりと微笑んだ青年に、青龍は菫の瞳を零れんばかりに大きく見開いた。
「ほ……本当か……?」
「はい。先生は、きっとご成長されたお方様があんまりお美しいので、照れてらっしゃるんです」
「おい、勝手なことを言うな」
「そ、そうだろうか……?」
「えぇ、きっとそうです」
「おい」
もみじのようにちいさな手を取って青龍を説得する青年に、当事者たる陰陽師は心底嫌そうな顔を向けた。
「だ、だが、あやつは私に『出直して来い』と……」
「本当に、そんな風に仰りましたか?」
「む……?」
顎に指をあてて考えこむ姿は大層可愛らしく、右に左に首を傾げるたびにさらさらと銀髪が揺れる。
「……大きく」
「はい?」
「──そうだ。『大きくなったらな』と言って、私の頭をぽんぽん叩きおった!!」
思い出した!! と頬を膨らませる青龍に、青年は「ほら」と言って微笑んだ。
「先生は、お方様がご成長されるまで待っているよ、と」
そう仰ったんですよ、と言えば、青龍は頬を染め、感動にうち震えたようになった。
「まことか!! あれは私を馬鹿にしたわけではないのか?!」
「違いますよ。先生、気に入らない相手なら、無視するか、再起不能になるまでこてんぱんに叩きのめすかしますから」
「だから本人を前に勝手なことを言うな」
パシン、と、手にした扇子で青年の肩を叩く男。
「わたしは子どもを相手にする趣味はないぞ」
「お方様は見た目が幼いだけではありませんか。先生ともあろう方が、見た目に左右されるなど」
「……お前にだけは言われたくないがな」
胡乱な目つきで抗議してくる主に、青年は首を傾げ、やがてポン、と手を打った。
「お方様。お方様は先程未分化と仰りましたが、龍族の方は何歳くらいで伴侶を迎えられるのですか?」
「今がその時期ぞ。齢六十で、龍族は成年となる。そもそも、我ら龍族は伴侶によってその姿を変えるゆえ、伴侶に出逢うまでは皆、振分髪の幼子の姿……それを、大きくなれなどと無体なことを……」
明らかな断り文句ではないか、と大きな瞳いっぱいに涙を溜める様子に、青年は少々主を咎める顔つきになった。
「先生は、そのことをご存知でしたか?」
「龍族の生体なぞ知るか」
つい、とそっぽを向く主に、青年はため息を零した。
素直じゃないんだから、と呟くと、ジロリと睨まれ結構な力で顎を掴まれると、そのまま口づけられた。
喉奥に熱の塊が流れ込んできて一瞬苦しくなるが、喉元過ぎれば何とやら、疲労がすっかり回復しているのを知り、青年は困った顔になったものの礼を言った。
「ありがとうございます……でも、お方様の前でこのようなことは」
じーっとこちらを見上げてくる様子に、青年は理由を説明しようと口を開きかけた。
「──何だ。それは力を移しているだけだったのか」
肩の力を抜いた青龍に、青年は目をぱちくりさせた。
「白拍子の格好なぞさせているから、慰み者にしているのかと」
「──お、お方様!!」
何てことを仰るんですか! と赤くなったり青くなったり忙しい青年に、青龍は両手を腰に当ててため息を零した。
「それならそうと言えばいいものを」
「人聞きの悪いことを言うなと言っただろうが」
「それで察せというのは無理な話ぞ。まったく、貴人の子を慰み者にしようなどと不届きなことを考えているならこの手で天罰を与えてやろうかと思っていたのに」
それから青龍は青年に目を向けた。
「お主は、まだ力の制御が出来ぬのだな」
「……お恥ずかしながら」
「ならば、力の回復には精を受けるのが一番ぞ」
「……せ、せい?」
「うむ。子種のことだ」
「こ──?!」
可愛い顔してさらっととんでもないこと言い出したぞこの人、と。
青年は目を白黒させた。
「汗や唾液などの分泌物にも力は含ませられるが、如何せん薄いゆえ」
大真面目な顔でものすごいことを口にする青龍に、青年はどうしていいのか分からなくなった。
「ほら、だから言っただろう?」
とても、とてもとても甘くやさしい声で耳元にささやいてくる主に、青年はビクーッ! と背を緊張させた。
「わたしはお前のためを思ってしていたことなのに」
「……」
いや嘘ですよね? と言いたいのに、後ろから抱きすくめられて耳元に顔を寄せられてしまうと、焚き染められた香の良い薫りと低音の美声に、背中がぞくぞくしてしまう。
犬神の血のおかげで大層耳の良い青年にとって、彼の主の声は一種毒でもあった。
「お、おおお、お方様が見て」
「公認らしいぞ」
「いやいやいや!! 白虎と俺の式神も」
「意気投合したらしく、どこぞかへ消えていった」
「──は?!」
見れば、確かに二体の式神の姿がない。
白虎はともかく、あの忠義心篤い犬神までがいなくなろうとは。
「さて。では早速屋敷に戻って続きをするか」
にっこりと、とても魅力的な笑みを浮かべた主の様子に、不穏なものを感じて仕方のない青年。
「お、お方様!!」
縋るような目を向ける青年に、振分髪の可愛らしい姿をした龍族の王は美しい笑みを浮かべて手を振った。
「今度、力の使い方を教えてやろう」
今からだっていいじゃないか! という心の中の悲痛な叫びは、誰にも届くことはなかったのだった。
END.