ファロット家の三男坊は、無類の本好きである。
誕生日やクリスマスのプレゼントに「何が欲しい?」と聞かれると、「くまさんのぬいぐるみ!」とか「シェラのおかし!」とか、「ぞうさんのすべりだい!」とか答える兄妹たちの中で、毎回決まって
「──ご本!!」
と答えるくらい、本に囲まれていれば幸せだった。
お伽話や星座にまつわる神話が特に好きで、言語は問わない。
問わない、というよりも、彼は辺境宇宙の方言からコンピューター言語まで、およそ『言語』と名のつくものであれば何でも読めた。
「フーちゃん、今日は何読んでるの?」
長兄に話しかけられたフーガは、兄と同じ菫色の瞳を頭上に向けた。
深く澄んだ瞳を見ても、彼が利発であることが知れる。
「この前『アラビアン・ナイト』読んだから、今は『伊勢物語』」
カノンは思わず目をぱちくりさせた。
弟が、物語であれば読む本の内容と言語を問わないのは知っていたが、あまりにもかけ離れている。
兄の不思議そうな表情を正確に汲み取った少年は、「父さんの書斎にあるやつ」と付け加えた。
「『伊勢物語』って古文だよね? ぼくも授業で少し習ったことがあるけど……現代語訳?」
「ううん、原文」
「……フーちゃんって、そういうのも読めるんだっけ?」
「字は読めるよ。草書体だから、癖の強いところはちょっと読みづらいけど、辞書使えば読めるから大丈夫。書いてあることも分かるんだけど、恋の話が多くて……そういうのはよく分からない。やっぱり『アラビアン・ナイト』の方が面白かったかな」
「……ちなみに『アラビアン・ナイト』は、共通言語?」
「え、アラビア語だよ? だって『アラビアン・ナイト』だもん」
「……」
さすが、母国語を話すライアンと平然と会話出来るだけのことはある。
カノンも記憶力は抜群に良いので語学は得意な方だったが、共通言語以外には、ふたつ、三つの言語を生活に支障ないレヴェルで操れる程度だ。
フーガのように、『とりあえず文字に見えるものは何でも読める』といった無差別の才能はなかった。
カノンが「すごいね」と褒めたら、「そんなことないよ」と首を振った。
小学校に上がる前の子どもが謙遜することを覚えているのかと驚いたものだが、そうではなかった。
「ぼく、絵文字とか顔文字って苦手なんだ……みんな、あれが読めるんでしょう? そっちの方がすごいよ」
あれだけは何が書いてあるのかよく分からない……と肩を落とす様を見て、思わず抱きしめたカノンだった。
フーガは不思議そうな顔をしていたものの、よしよしと頭を撫でられたら少し嬉しそうな顔になったので、カノンがまた力いっぱい抱きしめたのは当然のことだ。
「『伊勢物語』も、もうすぐ終わっちゃいそうだね」
「次の本は『イソップ童話』だったから、そっちの方が面白いかも知れない」
「フーちゃんは本が大好きだね」
「うん。本を読むと、遠い星のことや、昔の出来事も知ることが出来るから」
「歴史が好きなの?」
「うーん、どうかな? 歴史が好きって言うより、色んなお話してあげると、アリアとリチェが喜ぶんだ。『伊勢物語』はたぶんよく分からないと思うから、やっぱり『イソップ童話』のお話をしてあげようかな」
そう言ってふんわりやさしい顔で微笑む弟の頭を、カノンは何度も何度も撫でてやった。
本を読むことが苦にならず、言語理解力も抜群に高いフーガなので、小学校に上がってからも勉強はよく出来た。
分からないことは父に聞けば何でも答えてもらえた。
学校の先生の授業よりも分かりやすくて、「先生になれば良かったのに」といつも思っていた。
──けれどその日は、ちょっと違ったのだ。
「兄さん、教えて欲しいことがあるんだけど……」
小学校に上がって、『お兄ちゃん』から『兄さん』へ、呼び方が変わった。
もっとちいさい頃は『にーに』だった。
四人揃って「にーに!」と言って駆け寄ってくる姿は、悶えるくらい可愛かった──いや、もちろん今だって可愛いのだが。
どんどんシェラに似てくる硬質な美貌は、笑えば花が綻ぶように可愛いというのに、今はすっかりひそめられている。
「この前のテストなんだけど、どうして不正解だったのか、よく分からないんだ」
言って見せられた答案に、カノンも首を傾げた。
テストの科目は算数で、唯一バツがついた問題は掛け算の文章問題だった。
計算式を見ても、答えを見ても、数字はきちんと合っているのにバツがついている。
「合ってるよ?」
「うん。合ってるんだけど、間違いなんだって」
「何だ、それ?」
問題文はこうだった。
『6人に りんごを 3こずつ あげます。りんごは ぜんぶで 何こ いりますか?』
フーガの書いた式は、
(式)6×3=18 (答え)18こ
何度読み返しても正解だと思うのに、これでは不正解だというのだ。
式にも答えにも、バツがついている。
フーガの答案の中で、不正解だとされたのはこの部分だけだった。
「先生は、正解を教えてくれた?」
「ううん。それを考えてくるのが宿題だって……でも、ぼく分からなくて……悔しくて……」
綺麗な菫色の瞳に、薄っすらと涙が浮かぶ。
きっと、学校でも今みたいに泣きたい気分だったのだろう。
間違ったならともかく、合っているのに間違っているという意味が分からない。
この年齢の少年にしては格段に落ち着いており、明晰な頭脳を持っているといっても、感情の波がないわけではない。
むしろ、年齢に見合わない広すぎる視野を持ったフーガの心は、とても繊細だと言えた。
今にも零れそうな涙をそっと指で拭ってやったカノンは、申し訳なさそうに眉を下げた。
「……ごめん、フーちゃん。ぼくもお手上げだ……算数とか数学は得意な方なんだけど」
「……ううん。兄さんは、悪くない」
ふるふると首を振ったフーガの黒髪を、カノンはやさしく撫でてやった。
「仕方ないから、最終手段を取ろう」
真ん丸になった菫色の瞳に、カノンは大きく頷いた。
「──というわけで、教えて下さい」
ぺこり、と頭を下げるカノン。
フーガは少しばかり居心地悪そうにしていたが、兄に倣ってお願いをした。
愛息子ふたりに頭を下げられた男は、藍色の瞳を丸くし、次いで苦笑した。
夕飯前のリビングには、現在ヴァンツァーとカノンとフーガの三人だけがいる。
シェラとキニアンは食事の用意をしているし、アリアとリチェルカーレはロンドと一緒に部屋でお絵描きをしていた。
ソナタとライアンは、もう少ししたらやって来るだろう。
「……これは、責任重大だな」
大袈裟に、けれどその言葉が重くはならない程度の軽い口調でそう言った男は、フーガから問題と答案が一緒になったテスト用紙を受け取った。
ヴァンツァーにテスト用紙を渡したあとも、フーガはどこかもじもじ、そわそわとしていた。
「フーガの字は綺麗だな」
「ぁ……ありがとう」
几帳面な性格をしているフーガは、とても丁寧な字を書く。
少し緊張した面持ちだった少年は、褒められたことで僅かに頬を緩めた。
ヴァンツァーは軽く答案に目を通すとフーガに質問をした。
「こういう問題を解くときはどう式を組み立てるか、授業で習ったか?」
「……うん。文章問題の式を書くときは、先に書いた数字についている単位が、答えの単位になるんだって。だから、たぶんこの式がバツなのも、単位が『人』の方が先にきてるから、それだと答えが『18人』になっちゃうってことだと思う」
「納得したか?」
父の問いかけに、フーガは首を振った。
「説明は分かったけど、不正解になる理由が分からない。だって、その説明だと、もし単位のない計算問題だったら、ぼくの書いた式は正解なわけでしょう? これは掛け算の問題だけど、もしこれが割り算の問題で、『12人を3人ずつ組みにすると、何組出来ますか?』って問題だったら、式を立てるときに『組』なんて出てこないと思うんだ。それって、ただの言葉の解釈でしょう? 計算と関係ないと思うんだけど……」
淀みなく理由を告げる息子に、ヴァンツァーは「なるほど」と呟いた。
「俺はフーガの立てた式と答えを不正解だとは思わないし、確かにただの計算問題だったら正解だと思うが、この問題文から立てる式としては満点の書き方とも言えないかな」
「……どういうこと?」
少し唇を尖らせている息子の問いには直接答えず、ヴァンツァーはテスト用紙を指さした。
「フーガは、自分の組み立てた式の意味は分かるか?」
「意味?」
「そう。『6×3』の意味だ」
「それは、6を3回──あっ!」
「分かったか?」
霧が晴れたように、菫色の瞳はきらきらと輝いていた。
「6人に3こずつなんだから、ひとり3こずつで、つまり3こを6人分繰り返さないといけないんだ。だから先生は、先に書いた単位が答えの単位になるって言ったんだ」
「そうだな」
「だから、本当は『3×6=18』って書かなきゃいけなかった!」
「それで満点だ」
よしよし、とさらさらの黒髪を撫でてやると、フーガは嬉しそうに微笑んだ。
けれど、すぐに表情を曇らせた。
「……でも、数字は合ってても、バツなのかなぁ……?」
「正直、採点する教員によって違うだろうな。俺は、フーガの答案を不正解にする必要はないと思う。この答案を不正解だとするなら、少なくとも問題文の中に『単位が分かるように式を組み立てなさい』とか、『掛ける数と掛けられる数が分かるように式を組み立てなさい』といった文章を書き加えるべきだ」
「うん……」
納得したような、していないようなフーガの頷きに、ヴァンツァーはもう一度項垂れている息子の頭を撫でてやった。
「もし俺が教員だったら、マルにはしただろうな。でも、きっとその式を立てた理由を聞くと思う」
「理由?」
「あぁ。テストは授業の理解度を見るためのものだ。そもそも、掛け算の文章問題で式を立てるときに、先に書いた数字の単位が答えの単位になるという理由が分かっていないなら、その授業は失敗だからな。まだ小学生だからと思って詳しく理由を説明せず式の立て方だけを単純に伝えたのかも知れないが、少し乱暴なやり方だな。きちんと理由を説明していれば、フーガは理解出来ただろう?」
「うん」
「ただ、どこまで説明をするか、生徒の理解度がそれぞれ違うから判断が難しいところではある」
「だから、先生によってマルにするかどうかが違うってこと?」
「あぁ。──本当は、誰が教えても一緒じゃないといけないんだが……」
苦笑するヴァンツァーを見て、フーガはまた「むぅ」と唇を尖らせた。
「そんな計算の仕方、ぼく教わったかなぁ」
一度見聞きしたことは忘れないカノンが、ぽつりと呟いた。
忘れないとはいっても、常にすべての記憶が表に出ているわけではない。
カノンの頭の中は父の書斎のように整理された本棚になっていて、好きなときに好きな本を開けば思い出せるようになっているのだ。
けれど、『小学校の算数の授業』という本から『掛け算の文章問題』という項目を開いてみても、どうにもフーガの言っているような内容を教わった覚えがない。
「二十年も経てば、教え方も、教科書の内容も変わるさ」
「でも、父さんは知ってるんでしょう?」
「カノンたちのときもそうだったが、子どもたちが使う教科書は一度すべて目を通しているからな」
教科書だけではない。
育児書もビジネス書籍と同じくらい真剣に読む男なので、教育のトレンドなども頭に入っている。
だから、ヴァンツァーはフーガの答案を指さして言葉を続けた。
「それから、答えまで不正解だとされているのはやりすぎだ。答えの数も、単位も合っている。式と答えなら式を重視すべきだが、答えは答えだ。点数配分も式と答えの両方に割り振られているんだから、答えはマルにすべきだ。ここに関しては、次の授業のときに先生に伝えておいで。式が間違っていたら答えも間違いにするとは、言われなかったんだろう?」
頷いたフーガだったが、その愛らしい顔はとても不安そうだった。
「……それでも間違いだって言われたら……?」
「他の先生に言ってみなさい」
「──他の先生?」
目を丸くするフーガに、ヴァンツァーは頷いた。
「他のクラスの担任でも、他に算数を受け持っている先生でもいい。連邦大学惑星の教員は、生徒のどんなちいさな疑問にも答える。納得がいくまで議論すればいい」
「議論……」
「偉そうなことを言っているが、俺の考えが間違っている可能性だってあるからな」
「そんなこと」
「何が正しいかを証明することは、正しくないことを証明するのと同じくらい、とても大変なことなんだ」
「……え?」
「少し難しいか?」
こくりと頷く黒い頭。
よいしょ、とフーガを膝の上に乗せると、ヴァンツァーはゆっくりと言葉を操った。
「たとえば……そうだな。このマグカップは、上から見ると丸いだろう?」
「うん」
「それをこうすると……どんな形に見える?」
カップの持ち手に指を掛け、フーガの目線と水平になるように持ち上げる。
「──あ、長方形!」
「そうだな。だから、『カップが丸い』というのは、正しいけれど、正しくないんだ」
「……見方によって、違ってくるってこと?」
ヴァンツァーは、また黒い頭を撫でてやった。
「見方は、考え方ということだ。俺のものの見方と、フーガの先生のものの見方は違うかも知れない。それまで自分が正しいと思って生きてきたことでも、他の人の考えと照らし合わせてみると、自分が間違っていたことに気づくときが来るかも知れない」
自分はそこから逃げてきた。 気づいたことに目を瞑って、楽な方へ逃げて──逃げたのに、息が出来ないくらい苦しかった。
「悔しいと思うのはいいことだ。後悔していい」
「……父さん?」
「人間は、後悔しか出来ない。あのときああしておけば良かった、と必ず思う──でも、それでいいんだ」
じっと耳を傾けて聴いている息子に、そっと笑みを向けた。
「後悔出来るということは、間違いを犯したときよりも、今は成長しているということだからな」
だから、たくさん間違えていいんだ、と言って、またフーガの頭を撫でてやる。
「怒られると思ったか?」
「──え?!」
びっくりしたように、シェラと同じ菫色の瞳が丸くなる。
「それとも、失望されると思った?」
「……」
「俺に答案を見られたくなくて、カノンに相談したんだろう?」
「……」
どんどん項垂れていった黒い頭が、やがてコクン、と頷きを返してきた。
「……この前のテスト、満点だったから……今回のは一問間違えちゃったし、残念って言われるかと思って」
「よく出来ていると思うぞ」
「……シェラも、『満点なんてすごいね』って言ってくれたから」
「今回もきっと、褒めてくれるよ」
「でも」
一瞬顔を上げて、また俯いてしまう。
「でも……やっぱり満点の方がすごいもん」
軽く唇を尖らせる。
聞き分けが良く、怒ったり我が儘を言ったりすることなどほとんどないフーガがこういった表情をたくさん見せるのは珍しい、と。
ヴァンツァーはそのことをどこか嬉しく思った。
いつだったか、シェラに「お前の笑った顔は好きだ」と言われたことがある。
無口で、無表情で無感動な男が、嫌味や作り笑いでなく、楽しそうに笑っているのを見るのが好きだ、と。
それはきっと、今の自分のような感覚なのだろうな、とヴァンツァーは思った。
「満点が取れるのは、確かにすごいことだ」
ほらやっぱり、という顔になるフーガに、緩く首を振る。
「でも俺は、もし間違えてしまった問題があったら、その理由を見つけようと頑張るフーガの一生懸命さの方が、ずっとすごいと思うよ」
「──……え?」
「『一問くらいならいいや』って思わないフーガは、きっと、次に同じような問題が出されたら間違えないだろう?」
「……たぶん」
「ほら。そうやって頑張っていたら、結果的に満点は増えて行くと思うぞ。だから、満点を取ることよりも、諦めないで一生懸命頑張ることの方が、ずっとすごいんだ」
そう言ってまた、頭を撫でる。
今日一日でどれくらい撫でてもらったか分からなくて、テストでは間違えたのにたくさん褒めてもらって、何だか知らないけれど勝手に涙が浮かんできてしまったから、フーガは目元をぐいっと拭った。
「……次の授業のときに、先生に話してみる」
「そうか」
「うん」
少し赤くなった顔で、フーガはにこっと笑って父に抱きついた。
向かいのソファで黙って成り行きを見守っていたカノンは、『やっぱり父さん、かっこいいなぁ』とこっそり思ったのだった。
半年に一度くらいは、無性に『かっこいい』ことを再認識したくなるときがあるのだ。
しっかりもので、シェラに対してもどこか遠慮がちなところがあるフーガが、父にはめろめろに甘えている。
そんな様子を見るのが、たまらなく好きなのだ。
それから、膝の上で頭を撫でられているフーガが何だかとても羨ましかったので、あとで自分も『旦那さん』に甘えよう、と心に決めたのだった。
週明け、フーガは誰よりも先に、ヴァンツァーに算数の答案用紙を見せた。
そこには、訂正した式と、本当は正しかった解答に、青い花丸が書かれていた。
冬が近くなると、シェラは編み物に精を出す。
四つ子が生まれてからは、一生懸命になりすぎてヴァンツァーに毛糸を取り上げられるくらい、たくさん、たくさん編み物をした。
今は子ども用の手袋を編んでいる。
これまではミトンの手袋だったけれど、絵本に出てきた五本指の手袋をアリアとリチェルカーレがねだったため、シェラがほくほく顔で編んでいる、というわけだ。
末の娘たちの手袋は、赤い糸で編んでいる。
色白で銀髪の娘たちには、濃い赤がとてもよく似合う。
手の甲の部分には白いうさぎさん。
手袋が出来たら、同じ意匠のニット帽だって編んであげるつもりのシェラだった。
「──さぁ、出来たぞ!」
余裕で手のひらに収まってしまうくらいにちいさな手袋を満足気に眺めると、シェラは娘たちのいる子供部屋へと向かった。
「あーちゃん、りっちゃん。手袋を編んだから、つけてみてくれる?」
大好きなシェラからもらえるものは何だって嬉しいが、今回はどうしても欲しかったものだからその喜びもひとしおだ。
少女たちは、色違いの瞳をきらきらさせて駆け寄ってきた。
四つのちいさな手に、編み上がったばかりの手袋をはめてやる。
うさぎさんが気に入ったらしい娘たちは、大きな瞳が零れ落ちそうなくらい目を見開いて、頬を紅潮させている。
そんな娘たちに微笑み、シェラはこう言った。
「手を握ってみて」
すると、娘たちは、
──きゅっ。
と、シェラの手を握った。
アリアはシェラの右手を、リチェルカーレは左手を。
それぞれ両手でしっかりと握る娘たち。
「…………………………………………」
固まってしまったシェラを見上げ、アリアとリチェルカーレは不思議そうな顔で首を傾げた。
そんなふたりの姿にようやく我を取り戻したシェラは、足元から頭の先まで震えるような感覚を覚え。
「あーちゃんとりっちゃんはそれでいいっ!!」
と、大きな声で叫んで力いっぱいちいさな身体を抱きしめたのだった。
可愛い、可愛い娘たちの、凶悪に可愛い様子を思い出しながら、シェラはまたもや編み物をしていた。
今度のものは随分と大きい。
子どもたち六人に手袋が行き渡って、最後に編んでいるそれはアイボリーの糸。
ふんふん最高の気分で鼻歌を歌っているシェラの前に、淹れてきたばかりの紅茶のカップを置いてやるヴァンツァー。
自分は珈琲のカップを持って、シェラから少し離れて座った。
機嫌が良さそうなシェラの気配を感じ、ヴァンツァーもまた口許を綻ばせる。
彼自身は静かに本を読み始めた。
子どもたちは既に夢の中。
長男と長女は夕食後、夫と一緒にそれぞれの家に戻っていった。
ふたりだけで、ほとんど音のない時間を過ごす。
この時間が、ヴァンツァーはとても好きだった。
気配を感じるだけの静かな時間も好きだったし、次にシェラがどんな言葉を口にするのか待つのも楽しい。
やさしい沈黙が、どんな素敵な変化をもたらすのか。
それを待つのがとても好きだった。
「出来た!!」
はさみで毛糸を切り、完成を宣言するシェラ。
久々に生まれた音と声に、ヴァンツァーは顔を上げた。
「はい、どうぞ」
これはとことん上機嫌らしい、とこっそり思いながら、ヴァンツァーはシェラから手編みの手袋を受け取った。
しげしげと眺めると、こう呟いた。
「あぁ、やはりお前は巧いな」
一瞬首を傾げたシェラだったが、遠くを見るようなヴァンツァーのまなざしに思い当たることがあったのか、途端に不機嫌になった。
「やっぱりあげな──」
「やだ」
取り返そうと手を伸ばしたシェラから、手袋を遠ざけるヴァンツァー。
シェラはちょっと固まって、やがて眩暈を感じて額を押さえた。
「やだ、って……子どもか、お前」
「これはもう俺のものだ」
「いや、だから……──ふんっ。本当は、違う色のがいいんだろう」
「違う色?」
「紺とか黒の毛糸で編んだやつ!」
ふいっ、と顔を背けるシェラに、ヴァンツァーは首を傾げた。
そうして、随分長いこと考えた結果、「あぁ」と呟いた。
「やきもちか」
「──誰がっ!」
やっぱり返せ! と手を伸ばすが、手袋は両方とも男の手を覆ってしまっていた。
少しチクチクとする、けれどやわらかくあたたかな感触。
シェラに編んでもらうのは初めてではない。
手袋も、セーターも、マフラーもたくさんもらった。
どれもこれも暖かくて、身につけると何だか幸せな気持ちになった。
そんな感情が、顔に出ていたのだろう。
やわらかく微笑むヴァンツァーを目にして、シェラは「返せ」と言えなくなってしまった。
「……手を握ってみろ」
大きさは間違っていないはずだが、ここ数年ヴァンツァーの手袋は編んでいなかった。
そういえば、四つ子が生まれた年に編んでやって以降は、セーターとかマフラーばかりだった気がする。
意外と久しぶりだったんだなぁ、と思っていたシェラだったが。
──きゅっ。
何だか既視感を覚えて、視線を下げた。
菫色の瞳をぱちぱちと瞬かせる。
左手の指先に、毛糸の感触。
あったかいなぁ、とそんなことを考えた。
それから、ゆっくりと顔を上げる。
また、ぱちぱち、と瞬きをすると、向かいの男も同じような仕草をした。
藍色の瞳が、黒い睫毛の向こうから現れたり、消えたりする。
見つめ合って数秒後。
まるで天啓にでもあったかのように、ヴァンツァーの目が大きく見開かれ、肩がびくりと震えた。
衰えを知らぬ身体がソファから跳ねるように逃げ出そうとするのと、シェラが逞しい首っ玉に飛びつくのとはほとんど同時だった。
「──ぅっ、く……」
胸からソファに倒れこみ、思わず呻くヴァンツァー。
結構な勢いで飛びかかられたので、ぶつかった背中と、ソファに強く打ち付けた胸が痛い──が、それどころではない。
「シ、シェラ、やめっ……」
うつ伏せになっているヴァンツァーの肩を掴み、ぐいぐいとすごい力でひっくり返そうとするシェラ。
それに必死に抵抗する男は、焦りながらも頭の片隅はどこか冷静で、『殺し合ったときですら、こんなに真剣にシェラを拒んだことなどなかったかも知れない』と思っていたりした。
「ぉいっ、や……ゃめ」
いつもと完全に立場が逆だが、シェラはギラギラとした瞳で、抗うヴァンツァーを振り向かせようとしていた。
力の差は大きいはずなのに、本気で抵抗すれば相手を殴ってしまうため思うように動けないヴァンツァーだったので、シェラのものすごい熱意に負けそうになる。
「ほんっ……や……」
鼻息を荒くしているシェラと、ソファにうつ伏せて抗っているヴァンツァーを見ると、まるでシェラが生娘を手篭めにでもしようとしているように見える。
「シェ────っ!」
しばらく格闘したのち。
「──ふん、私の勝ちだ」
舌なめずりでもしそうな勢いで、ヴァンツァーの身体をひっくり返したシェラは硬い腹の上に跨り、マウントポジションを取った。
下敷きにされた男は思い切り顔を背け、腕で顔を覆っている。
「あぁ、抵抗されると燃えるな」
私も男だったか、と少々黒い笑みを浮かべたシェラは、ぐっとヴァンツァーの腕を掴んだ。
まだじたばたと抵抗していた男だったが、腕の隙間から覗いた横顔を見つめ、シェラは満足そうに唇を持ち上げた。
「『色が白いからよく映える』──お前の得意な台詞だったな」
そっくり返すぞ、と耳元でささやけば、「くそっ……」と珍しく悪態が吐かれる。
「随分と口が悪い。『せっかく可愛いのに、台無しだ』」
くすくす、と。
いつも自分がされている分の意趣返しも込めて、力いっぱいからかってやる。
だって、白い頬と黒髪から覗く耳が、ほんのりと紅くなっているのだ。
眉は悔しそうにきつく寄せられ、シェラはゾクゾクと背中を震わせた。
一生の不覚だ、と言わんばかりの──いや、今にも舌を噛み切って死にそうなくらいの表情をしているヴァンツァーを、捕食者の瞳で見下ろすシェラ。
「恥ずかしいのか?」
「……別に」
「紅くなって……お前にも、こんな可愛いところがあったんだな」
「煩いっ」
声を荒げるのもまた珍しくて、シェラは河原できらきら光る石を見つけた子どものような目になった。
顔色はおろか、心拍数だとて自在に操れるはずの男が、素で赤面している。
こんなの、滾るなという方が無理だ。
「ほらほら。からかったりしないから、こっちを向け」
いい子だから、と行ってぽんぽんと軽く肩を叩いてやると、余計に顔を背けられた。
──ヤバい……相当ソソる……。
まるで拗ねているようなその仕草にゾクゾクっと脊髄を鋭い刺激が走り抜け、シェラは軽い興奮状態に陥った。
「……なぁ、機嫌を直せ。ちょっと可愛いと思っただけなんだ。だってお前、アリアやリチェと同じことをするから」
そう言うと思い切り眉が顰められて、勝手に唇が持ち上がる。
「なぁ……こっちを向けったら」
まるで誘惑でもするように甘ったるい口調でそうささやき、耳に音を立ててキスをした。
ちいさく肩が震えるのが分かって、本当に何か悪いことをしているみたいでたまらなくなった。
もしかすると、ヴァンツァーの目には自分がこういう風に映っているのかも知れないと考えると、何とも言えない気持ちになる。
──……これは、ちょっと……。
マズいなぁ、とシェラは眉を寄せた。
そのとき、びくっ、と腰の下のある身体が跳ねた。
顔を隠すのもやめ、信じられないものでも見るようにシェラを見つめるヴァンツァー。
「……おま」
「黙れ」
「だが」
「煩い」
鋭く男の言葉を制したシェラは、こう続けた。
「それ以上喋ったら──本当に突っ込むぞ」
「…………」
どういう意味かは、聞かなくても身体が分かっている。
腹の上にあるシェラの中心は、明らかに反応していた。
ヴァンツァーは別に、突っ込まれることを恐れて口を閉ざしたわけではない。
あまりにも飾らないシェラの言葉に、思わず言葉をなくしてしまっただけだ。
けれど、シェラはちょっと不満そうな顔になった。
「ふん。やっぱり私に突っ込まれるのは嫌なんじゃないか」
「……言葉を選べ」
「挿入?」
可愛らしく首を傾げての言に、余計に眩暈がしたヴァンツァーだった。
何だかぐったりしてしまって、身体から力を抜いてソファに沈み込んだ。
「何だ、抵抗しないのか?」
「……好きにしろ」
「いや、そう言われると、今の私は本当にやるぞ?」
生まれて初めて抱きたいと思ったのが、可愛い女の子でなく自分よりも立派な体格をしたイイ歳の男だというのが何とも残念だが、シェラは割りと本気だった。
「いい機会だから、脱・童貞でもしてみたらどうだ」
「…………」
『抵抗しません』といった感じでソファに身体を投げ出しているヴァンツァーの台詞に、シェラは思い切り顔を顰めた。
「……私が童貞なのは、お前のせいじゃないか」
「だから、俺が捨てさせてやるよ」
「……言ってることがかっこいいんだか下らないんだか、真剣に悩む」
「どうせならいい方に取ってくれ」
言葉遊びのようなやり取りに、シェラは大きなため息を零した。
「萎えた」
「嘘吐け」
まだ反応したままだというのに、なぜそんなあからさまな嘘を吐くのか。
女のような顔をしていても、男の身体で誤魔化せるわけがないというのに。
「違う。お前を抱こうかと思っていた気分が萎えたんだ」
「……」
喜べばいいのか残念に思えばいいのか、ヴァンツァーの表情はなかなか複雑だった。
「まぁ、正直言えば突っ込ん……挿入してはみたいんだが」
「……どっちでも一緒だ」
綿菓子しか食べたことがありません、といった感じの繊細でやわらかく、上品な美貌の天使の口から、なぜそんなあけすけな台詞を聞かなければならないのか。
どこで育て方を間違えたんだろうか、とヴァンツァーは真剣に悩んだ。
昔はちょっとからかっただけで顔を真っ赤にして怒っていたというのに。
突付くとパンチを返してくる仔猫のようで、とても可愛らしかったのだ──まぁ、今がそうではない、というわけでもないのだが。
「でも、ほら、私は女性相手にも経験がないからな。きっと、お前を抱いたら流血沙汰だ」
「別に、初めてでもない」
つい言ってしまってから、ヴァンツァーははっとした。
何だか、周囲の気温が十度くらい下がった気がしたからだ。
先ほどとは違った意味で、シェラの方に顔を向けられない。
「……初めてではない……だと?」
「……」
「お前まさか、単位と引換に」
「するか」
「じゃあ商談を」
「こちらの世界ではない」
言えば、シェラは低い声で「そうか」と呟いた。
不承不承といった感じではあるが、納得はしたようである。
「男に抱かれるのは、気色悪いと言っていなかったか?」
「仕事だ」
「気持ち良くはなかった?」
「男を抱こうが抱かれようが、女を抱こうが中に出そうが、快楽を覚えたことなどない」
「一度も?」
「反応はするさ。生理現象だからな」
「……ふぅん」
不服そうな声に、きっと唇を尖らせているのだろうと思い、ゆっくりとシェラに顔を向けるヴァンツァー。
思った通りの顔が頭上にあって、ふ、と笑った。
「お前は違う」
「……お前がそう言って微笑めば、誰もが信じたんだろうな」
「あぁ」
「少しは否定しろ」
「お前に嘘は吐かない」
「……」
「本当だ」
ふわりと微笑んで、手袋をしたままの手でシェラの頬を包み込む。
あたたかな感触に、シェラは深く、深くため息を吐いた。
「……ヴァンツァー」
「なんだ?」
「……やっぱり、したい」
どこか思いつめたようなシェラの表情に、ヴァンツァーは更に笑みを深めた。
シェラの頬に添えていた手を、首の後ろに回す。
軽く引き寄せれば、抗うことなく色素の薄い美貌が近づいてくる。
「……──いいよ」
薄く唇を開き、艶然と微笑んで唇を触れ合わせる──直前。
「「──……しぇーらぁ~……おしっ」」
眠そうな目を擦りつつ寝室から出てきたアリアとリチェルカーレだったが、すぐその後ろからついてきたロンドとフーガの手で慌てて目隠しをされてしまった。
「んー……ろんちゃん……?」
「ふーちゃぁん……?」
「シェラは今ちょっと忙しいみたいだから、ぼくたちと一緒におトイレ行こうね」
「「いそがしい……?」」
「あぁ、ちょっと大事な用があるみたいなんだ。ぼくたちでもいいだろう?」
「「うん。でも、どうしてめかくし……?」」
子どもには見せられないモノがあるから、と言いたかったロンドとフーガだったのだけれど。
「「……ほ、ほら! 冒険だよ!」」
『冒険』の響きにはしゃいだ妹たちと一緒に、そそくさとリビングを出ていったのだった。
ソファの上で絡みあったまま固まっていたシェラとヴァンツァーだったが、しばらくして大きなため息を零した。
「……今度こそ萎えた」
「こんな目立つところで盛るからだ」
「私のせいみたいなことを言うな」
「違うみたいなことを言うな」
呆れたようなヴァンツァーの声音に、シェラはぷっくりと頬を膨らませた。
そうして、宣言するようにこう言ったのだ。
──いつか絶対、孕ませてやるっ!!
END.