さわやかに晴れ渡ったある日の午後。
日は高く昇り、真っ青な空に、真っ白な雲が浮かんでいる様子がとても美しい。
タウ谷の森外れの草原では、《ヤギ》の群れがのんびりと紅く熟れた木の実を食べている。
《ヤギ》とはいわゆる《エサ》の別名だ。
《エサ》──つまり、《狩られる者》だ。
《エサ》には他にも《ヒツジ》や《ウサギ》といった種があるが、《狩る者》たる《オオカミ》がもっとも好むのがこの《ヤギ》だ。
なぜならば──。

あらしのよるに?

「シェラ。おばあちゃんへのおみやげ、取れたか?」

声をかけるのはリィという名の絶世の美少年だ。
美少女、と言っても差し支えないくらいに美しい少年。
太陽と同じく金色に輝く髪に、宝石のような緑の瞳をしている、群れで一番足の速い少年だ。
《ヤギ》であることが不思議なほど、その細い身体は生命力に溢れている。
《オオカミ》と対峙して逃げ切ることができるほどに足が速い《ヤギ》など、リィのほかには長老であるルウくらいのものだ。

「リィ。うん。でも、もうちょっと」

背後から声を掛けられて振り返ったのは、リィと同じほどに美しい、それでもその性質は正反対の美少年だ。
こちらは、しとやかな仕草と外見から、リィよりも更に少女のように見えてしまう。
長い銀髪と菫色の瞳は、月の精霊のように清浄な空気を内包している。
このふたりは《ヤギ》の中でも特別美しいが、この美しさが《ヤギ》の特徴だった。
《オオカミ》が好んで《ヤギ》を捕食する理由。

「もうちょっと、って……」

リィはシェラが抱えている木の実の量を見て、目を丸くした。

「おばあちゃんは、そんなにたくさん食べないぞ?」

シェラの両腕いっぱいの紅い木の実に、リィは苦笑した。

「え? あ、あれ? いつの間にこんなに……」

自分がどれだけの量を取っていたのか分かっていなかったように首を傾げるシェラの様子に、リィは呆れたように笑った。

「まったく。ただでさえお前は速く走れないのに、そんなに持ってたら《オオカミ》の恰好の餌食だ」
「……ごめんなさい」

しゅんとうなだれるシェラに、リィはちょっと焦った。

「こらこら、怒ってないぞ! ほら、半分持ってやるから!」
「ありがとう」

ふんわりと微笑んだシェラはとても綺麗で、その笑顔が大好きなリィはにっこりと笑った。
──と、そのとき。
雨雲が急に広がって、真っ青だった空の色を染め替えていった。

「──こりゃまずいな。シェラ、帰るぞ」

よく見ると、つい先程まで木の実を食べていた仲間の姿がなくなっていた。
みんな村へと帰っていったのだろう。
いつもならば天候の変化には敏感なリィだが、今日は少々風邪気味で鼻が利かないのが災いした。

「おれたちが一番最後みたいだ」

言うなり、リィは駆け出した。
さすがに群れ一番の俊足の持ち主だ。
そのちいさな身体は、転がるように緩やかな丘陵を駆け下りていった。

「あ、ま、待って」

シェラも慌てて後を追いかけようと駆け出した。
が、元々走るのが苦手なのに、今は両手に持った木の実を庇ってよけいにうまく走れない。
何度も転びそうになりながら、懸命に坂道を下る。

「シェラ、早くしろ! 雷も落ちるぞ!!」

リィの言葉通り、空はもう真っ暗になっていた。
遠くの空は、ときどきピカピカ光っている。
ゴロゴロと空が鳴るのが恐ろしくて、シェラは余計に焦った。
ポツリ、ポツリ、と身体に当たるだけだった雨水が、急に叩きつけるような土砂降りになった。
風もビュウビュウと吹き荒れ、シェラの細い身体を吹き飛ばしそうだ。
視界が悪いし、前に進むこともままならない。

──ズバンッ!!

ものすごい音がして、シェラのすぐ後ろに雷が落ちた。
その音と衝撃に驚いたシェラは、「ひゃっ」っと首をすくめて丘を滑り落ちていった。


どれくらい走っただろうか。
シェラは丘の下に壊れかかった小屋を見つけた。
やっとのことでその中に逃げ込む。
もちろん真っ暗で、何も見えない。
床に這いつくばり、手探りで座れそうな場所を探す。
外では風がゴウゴウと鳴っており、当分治まりそうにない。

──ピカッ! ガラガラズドンッ!!

「きゃあ!」

また、近くで落ちた。
シェラは寒さもあり、身体を震わせて膝を抱えた。

「……リィ……」

泣きそうな声で親友の名前を呼ぶ。
いつでも自分を助けてくれる、とても頼りになる友達だ。
そのとき、ガタッ、っと大きな音がして、誰かが扉から入ってきた。
ビクッ、と身を震わせたシェラは、「誰だろう……?」と耳を澄ませた。
特に身元を知らせるような音はしなかったが、甘い香りが漂ってきた。

──あ。《ヤギ》の匂いだ……仲間か。

入ってきた者から漂ってくるそれは、自分と同じ《ヤギ》が纏う独特の花の香りだったので、シェラはほっとして声を掛けた。

「すごい嵐ですね」

と、息を呑む気配。

「──……先客がいたのか。気付かなかったな」

見知らぬ仲間は、とても低い声の主だった。
聞いたことのない声なので、他の谷の《ヤギ》なのかも知れない。

「私もついさっき飛び込んできたところなんです。すごい雨で……すっかりずぶ濡れ」
「まったくだ。食事の途中だったんだがな……」

そう呟くと、その低い声の主は注意深く床に腰を下ろした。
脳裏に思い描くのは、自分を怯えた目で見つめる《エサ》の姿。
精気を取り込むため身体を繋げようと組み敷いた途端に嵐がやってきたのだ。
おかげで精気は取り込めないまま、《ヤギ》の移り香だけが残ってしまった。
厄介なことに、《ヤギ》の香りは雨くらいでは流れてくれない。
無条件に《オオカミ》の欲情を誘う《ヤギ》の香りが身体から離れず、鬱屈は溜まるばかりだった。
そう、低い声の主は、ヴァンツァーという名の《オオカミ》だった。

「それは残念でしたねぇ……私はお腹いっぱい食べましたけど」

気の毒がる声の主からも、自分に纏わりつく《ヤギ》と同じ香りが漂ってくる。
自分とは違い、《ヤギ》から精力を取り込むことに成功したようだ。

「それは羨ましい」

今日見つけた《ヤギ》は、好みのうるさい自分の眼鏡に適う珍しい存在だったのに、と思うと、余計に飢餓感が募る。

「あなたが来てくれて、ホッとしました」
「……そうだな。嵐の夜に、こんな真っ暗な小屋にひとりでは気が滅入る」

さして人との会話を好む方ではないが、嵐の夜にはあまり良い思い出がない。

「ところで、どちらにお住まいですか?」
「あ、ああ。俺はスケニア谷に」
「スケニア?!」

シェラは飛び上がりそうになった。
スケニア谷とは、《オオカミ》が多く住んでいるところだ。

「……あっちの方は、危なくないですか?」

自分たち《ヤギ》にとっての天敵がいる場所に住んでいるなんて、と心配になる。

「そうか? まぁ、多少寒さが厳しくはあるが、悪くはない」
「ふーん……度胸があるんですね。私はコーラル山です」
「それは羨ましい。コーラルには美味い《エサ》がたくさんある」

コーラル山には、特に《エサ》の中でも美しく、極上の部類に入る《ヤギ》が多く住んでいるのだ。

「私はタウ谷の方が美味しいものがたくさんあると思いますけど……」

タウでしか育たない紅い木の実は、《ヤギ》たちの大好物だった。

「ああ、あそこの《エサ》は格別だな」

好物の木の実を求めて美しい《ヤギ》たちがやってくるタウ谷は、《オオカミ》たちにとってはまたとない狩場だ。

「ほんと。甘くて、味が濃いんですよね」

太陽の光をたっぷり浴びて育った木の実は、格別の味だ。

「そうだな」

《ヤギ》の精気は他の《エサ》に比べて美味い。
甘くて濃密なその精気は、ほんの少しだけでも血が猛る。

「言っても詮ないが、あそこの《エサ》が今ここにあったらな」

ため息を吐く《オオカミ》。

「その気持ち、すごくよく分かります。私もたくさん走ったから、またお腹空いてきちゃいました」
「せめて、さっき食べていたら」

と、唐突にヴァンツァーがちいさく笑った。
シェラは首を傾げる。

「そういえば、俺は昔《エサ》をとるのが下手で……今では効率的な手を見つけたんだが、あの頃は母から『もっと食べろ、もっと食べろ』、としつこく言われたな」
「私もですよ。食べられるときにしっかり食べておかないと、いざというときに速く走れないからって」
「ああ、俺のところもまったく同じ言い方をしていたな。走れないと生き残れない、と」
「あはは。まったく一緒。でも、私はお母さんじゃなくて、おばあちゃんですけど」
「ほぅ……?」
「母は、私が幼いときに……」

相手の声が沈んだのが分かったのか、ヴァンツァーは僅かに目を伏せた。

「……そうか。俺の母も、もう随分前に」

シェラは薄く笑った。

「そうですか。なんか、私たちって似てますね」
「そうだな。真っ暗でお互いの顔も見えないが、案外見た目も似ているのかもな」

言ってはみたものの、すぐに内心でそれを打ち消したヴァンツァー。
瞑目する。
自分とは声の高さが違う。
細く、鈴が転がるような声をした相手が、自分と同じ体型をしているとは思えなかった。
どちらかといえば《エサ》に近い印象を受ける声だが、仲間にそういった声の主がいないわけでもない。
また、そういう者に限って狩りが巧いときている。

──ピカッ! ゴロゴロガラッ!!

激しい稲光と雷の落ちる音で、小屋の中は真昼の明るさになった。

「ひゃあっ!」

シェラは頭を庇って下を向く。
恐る恐る顔を上げ、室内の様子を窺う。
しかし、もう小屋の中は元のように真っ暗だ。

「……あ、あの。私、つい下を向いてしまいましたけど、私の顔、見えたでしょう? 似てましたか?」

シェラが雷のせいだけではない激しい動悸を抑えて訊くと、ヴァンツァーは肩を竦めた。

「いや。俺も目を閉じていたから何も……」

彼の鼓動も速くなっている。
嵐の夜も、雷の音も苦手なのだ。

──ピシッ!! ゴロゴロガラッ、ピシャ!!

小屋全体が震える。
シェラは思わず、といった感じで何かにつかまろうと腕を伸ばした。
と、壁や板ではない、自分と同じ肉体の感触。
冷え切った身体に、温かい熱が伝わってくる。
少し、ほっとした。
が、それでも気まずい感じがしてきた。

「あ、ご、ごめんなさい! 私、この音に弱くて……」
「実は俺もだ」

ヴァンツァーは気恥ずかしいのか、苦笑した。

「──何か、私たちって似てると思いませんか?」
「ああ……。他人とこんなに話をしたのは、初めてかも知れない」

シェラは嬉しくなってにっこりと笑った。

「そうだ! どうですか。今度、お天気のいい日に一緒に食事でも」
「一緒に……?」

面食らったヴァンツァーだ。
仲間内にそういう趣味を持った者がいないとは言わないが、人に見せるような行為ではない気がするのだが。
しかも、相手の声があまりにも綺麗だから、そういった状況を楽しむとも思えなかった。

「だめ……ですか?」

呟く声があまりにも寂しそうで、ヴァンツァーは否と言えなくなった。

「……いや、構わない」
「良かった」

ほっとした声があまりにも幸せそうだったので、ヴァンツァーは断らなくて良かった、と思った。

「嵐の夜は苦手だが、今日は悪くない」
「ええ。私もそう思います」

と、ゴウゴウと唸っていた風が治まったようで、外には静けさが戻ってきた。
それでも、もう日が暮れたのか小屋の中は真っ暗だ。

「──治まったか」
「本当だ……。それじゃ、とりあえず明日のお昼なんてどうです?」
「ああ。嵐の後は、特に天気が良いからな」
「会う場所は?」
「この小屋の前では?」
「決まり! あ、でも、お互いの顔が分からなかったりして……」

ヴァンツァーはクスッ、と笑った。

「合言葉でも作るか?」

こどもの遊びだが、何だかそれも悪くない気がしてくる。
他のどんな仲間よりも、気が合う存在に出会えたような。

「合言葉……」

シェラは少し考え込む顔つきになった。

「私たちの合言葉は、決まってますよね?」

悪戯っぽい訊ね方。 ヴァンツァーはシェラの意を汲み取ったのか、口端を吊り上げた。
そして、ふたり同時に口を開く。

「「あらしのよるに」」

長く座っていたため足が痺れたシェラより先にヴァンツァーが小屋を出、しばらくしてからシェラが外に出た。
帰る方向は正反対。
雲の切れ間から覗く星明りが、《ヤギ》と《オオカミ》の姿を見つめていた──。  




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