あらしのよるに?

谷を駆け下りてくるヴァンツァーに気付いた《オオカミ》たちは、いきなり飛び掛ってきた。
美味そうな《ヤギ》と一緒にいながら喰いもしないことに憤りを感じながら。
ヴァンツァーを殺せば──少なくとも動けなくすれば、一緒にいた《ヤギ》は自分たちのものだ、と思っているのだ。
この雪山ほどではないがスケニアにも冬が近い。
ひとりでも多くの《エサ》を捕食する必要がある。
《ヤギ》よりも《ヒツジ》や《ウサギ》の方が数も多いし捕まえやすいが、いかんせん見目も味も違う。
それも、ヴァンツァーが一緒にいた《ヤギ》は見たこともないくらいに美しかった。
あの《ヤギ》が手に入れば、しばらくは飢えから逃れられるだろう。
殺さないように、精気を搾り取らないように注意しながら回復を待ってまた抱けば、何人かの《オオカミ》が生き延びられる。
喰う気もない男の手元に置いておくには、あまりに惜しい《エサ》なのだ。
だから、《オオカミ》たちはヴァンツァーに向かっていった。
ヴァンツァーが圧倒的に強いことは分かっているが、倒したときの報酬を思えば賭けに出るのも悪くないように思えた。
レティシアはそれを促しも、止めもしなかった。
どちらも彼にはできない。
それでも、そのときが来れば自分がヴァンツァーの相手をするだろうことは分かっている。
どうせなら、ヴァンツァーが仲間を全滅させるか、逆に殺されるかしてくれればいいのに、と思う。
そんなレティシアの眼前で、死闘が繰り広げられる。
《オオカミ》たちは手に手に小太刀やナイフなどの武器を持っている。
比べてヴァンツァーの武器は、片手につかめるだけの小石のみ。
それでも、多勢に無勢だろうとヴァンツァーは負ける気がしなかった。
自分の実力を鑑みれば、レティシア以外の相手はどうとでも捌けるし、負けられないという気持ちが一番大きい。
ひどく、頭が冴えている。
いつのときよりも冷静な自分がいる。
恐怖感など微塵もない。
どれほど敵が多くとも、そんなことはヴァンツァーを恐れさせたりしない。
間合いも連携も考えずにがむしゃらに飛び込んでくる《オオカミ》たちなど、敵のうちにも入らない。
一斉に飛び掛ってきた最初の一団を、手にした礫で一掃する。
手加減などしない。
どれも急所を一発で捉えていた。
白銀の雪の上に、鮮血が飛び散る。
それを見ても、レティシアは顔色ひとつ変えない。
隣に立つバルロも同じだ。
ヴァンツァーは至極淡々とした様子で、倒れた《オオカミ》が手にしていた小太刀を拾った。
自分の手に馴染んだ武器ではなかったが、雑魚を散らすには十分だった。
僅かに怯みつつも、《オオカミ》たちはヴァンツァーに向かってきた。
自分を鼓舞するように大声を張り上げて。
ヴァンツァーひとりに対して、その数およそ十名。
しかし、足場の悪さも手伝って、ひとりひとりの動きや速度はまちまちだった。
《オオカミ》たちの間を縫うように疾走するヴァンツァー。
それだけのように見えた。
ただ、走っただけ。
《オオカミ》の列を抜けたヴァンツァーは、呼吸ひとつ乱さずに雪の上に立っている。
ちらちらと舞い落ちる雪が、彼の黒髪と黒い服に映える。
あまりに静かなその男の背後で、《オオカミ》たちは崩れ落ちた。
血が飛び散ったわけでも、手足や首が切り落とされたわけでもない。
それでも、急所を正確に捉えた傷口からドクドクと流れ出す血液が雪を溶かし、血の熱さで湯気が立つ。
ヴァンツァーは、返り血ひとつ浴びていなかった。
その白皙の美貌は冴え渡ったまま、さながら雪の結晶のようだった。
もの言わぬ骸と化した《オオカミ》たちに一瞥を与えることもせず、ヴァンツァーは残りの敵に目を向けた。
次いで自分の手に視線を落とし、軽く、首を傾げる。

「……身体が思うように動かんな」

呟きが届いたのだろう。
《オオカミ》たちはざわめき出した。
一歩身を引く。
それは、本能的な恐怖だった。
《ヤギ》を手に入れるにはこの死神を倒さないといけないわけだが、勝手に足がすくむ。
と、レティシアが場違いなほどに陽気に笑った。

「そりゃあそうだろうよ。《エサ》喰ってねぇし、こんな寒さだし」

ヴァンツァーはレティシアをひた、と見つめた。

「ようやく御大のご登場か?」

秀麗な口許に薄く笑みを浮かべる。

「どうせなら、最初からお前がくればこいつら無駄死にせずに済んだかも知れんぞ?」
「ラスボスはダンジョンの最奥って相場は決まってんの」

レティシアはにやりと笑った。
視線を上げる。

「──ちなみに、お姫様は城の一番高い塔に幽閉されてるもんだぜ?」
「俺が悪役か?」
「手に入れたもん勝ちだろ?」

おどけた様子のレティシアに、ヴァンツァーがすっと目を眇めた。

「──行け」

手下にそう指示を出すと、レティシアはヴァンツァーに向かって跳躍した。
いつの間に抜刀したのか分からないが、ふたりの間で鋼がぶつかり合う。
武器は同じ小太刀。
薄ら笑いを浮かべているレティシアとは違い、ヴァンツァーの顔にほとんど表情はなかった。
華奢な身体からの一撃は、目を瞠るほどに重い。
小太刀を挟んで睨み合ったのは、ほんの数瞬のことだったろう。
両者ともに相手の間合いから離れた。
その隙に、十数の《オオカミ》たちが雪山を駆け上がっていく。
舌打ちしてそれを追いかけようとしたヴァンツァーに、レティシアが再度攻撃を仕掛ける。
反射的にそれを止められたのは、偶然としか言いようがない。

「余所見してっと、怪我するぜ?」
「……レティー」

《オオカミ》たちが確実に雪山を駆け上るのを背中に感じる。
これ以上、一歩も進ませるわけにはいかないのに。
レティシアを退けることができるかどうかも分からないし、たとえできたとしてもそのときには《オオカミ》たちは確実にシェラの元へ辿り着いている。
バルロとレティシアを残した《オオカミ》たちは、全速力で上を目指しているのだから。

「お前の相手なら、あとでいくらでも……」

だから今は退いてくれ。
それを聞いたレティシアは苦笑して剣を引いた。
一瞬前まで感じていた闘気も殺気も霧散する。

「ま。痛み分け、ってことで。勘弁な?」
「レティー……?」

訝しげな顔になったヴァンツァーの耳に、ズズズッ、という音が入った。
頭上から聞こえるそれに、レティシアから視線を逸らして空を仰いだ。

「────……っ」

放心しかけたヴァンツァー。
直後全身が緊張する。
冷や汗が吹き出た。
《オオカミ》たちが駆け上がった雪山の上の方が、かたまりとなって崩れかかっている──否、崩れた。

「おまえ──」

足音も消せない動きをする配下の《オオカミ》すべてが、一度に雪山を駆け登ればどうなるか、レティシアは分かっていてそうしたのだ。
崩れ出した雪は、どんどん周囲の雪を巻き込んでいく。

「この続きは、また会えたらな」

邪気のない笑みを浮かべると、レティシアは山全体、大気までをも震わせる轟音になった雪崩に巻き込まれないように逃げ出した。
バルロの姿はいつの間にかなくなっている。

「……」

離れていくレティシアの背中を茫然と見送りそうになったヴァンツァーだが、もうもうと煙を上げながら崩れてくる雪の生み出す轟音に、はっとして上空を仰いだ。

「シェラ!!」

振り返った先では、懸命に走る《オオカミ》たちが雪崩と一緒になって落ちてくる。
すぐに視界は真っ白に染まった。
ゴウゴウと音を立てて滑り、崩れる雪山。
雪とはいえ、かたまりにぶつかれば命はない。
巻き込まれれば窒息する。
どれだけ速く走ろうとも、自然の脅威の前に《オオカミ》たちはあまりにもちっぽけだった。
否応なしに雪に呑まれる。
それは、ヴァンツァーとて例外ではない。
他の《オオカミ》たちと一緒に雪崩に巻き込まれる。
それでもヴァンツァーはシェラを呼ぶことをやめない。
しかし、呼ぶ声は掻き消された。
自分の耳にも、自分の声が届かない。

──ドドドドドーッ!!

山まで崩れるのでは、という地響きに聴覚は麻痺した。
いっそ音がなくなってしまったのではないかと錯覚する。
視界も意識も真っ白に塗り替えられながら、それでもヴァンツァーは一心に叫び続けた。
声が嗄れるほど。
喉が張り裂けるほど。
ただ。
ただ、呼び続けた。

誰よりも、何よりも大切なひとの名。

 

 

 

 

 

『             』

 

 

 

 

 

意識を失いかけた耳に微かな音。

「──……ァン、ツァ……?」

喉が押しつぶされたように、声が出ない。
肺から空気が漏れ出るだけの、呼気の音。
その音よりも微かな音が、確かに耳に入った気がした。
雪の上にうつ伏せていたシェラが僅かに首を持ち上げた瞬間。

──ゴゴゴゴゴゴゴッ!!

耳をつんざくすさまじい音。
はっとして気力を振り絞り、首をめぐらす。
見知った姿が見えず、その名を呟いた。
途端に大地震が起きたような揺れ。
雪穴の天井が崩れてくる。
シェラは肺に息を溜めて叫んだ。
それはほとんど声にならない声だったけれど、それでも叫んだ。
──呼ばれたから。
絶対に、あの微かな音は自分を呼ぶヴァンツァーの声だったから。
だから同じように名を呼んだ。
ここにいる。
大丈夫。
自分はここにいる。
けれど、あなたは?
あなたは今、どこにいるの?
今確かに自分の名を呼んだあなたは、無事でいるの?
肺まで凍りそうな寒さに、まともに息が吸えない。
咳き込みながらも、シェラはヴァンツァーの名を呼ぶことをやめなかった。
重い身体を引きずる。
力の入らない腕で、揺れる雪の大地をつかもうとする。
頭上から雪のかたまりがボロボロ落ちてきた。
このままここも崩れるのか。
ヴァンツァーの一部になることもなく、彼のいないところで死ぬのだろうか。
それは違う、と思った。
それは、いけない、と。
ない力を振り絞って、這い出るようにシェラは雪穴から顔を出した──瞬間、天井も足元も崩れた。
もがく。
押しつぶされそうな雪の重みを感じ、呼吸ができず窒息しそうになる。
でも、まだ自分は死ぬわけにいかない、と手足をばたつかせた。
と、気が遠くなりかけたそのとき、シェラの顔が雪の上に出た。

「──ぷはっ……」

肺に空気が行き渡る。
いくらか雪も一緒に吸い込んでしまい、咳込む。
その振動で、シェラの背中に積もった雪がさらさらと崩れ落ちる。
だいぶ動けるようになり、腕で身体を支えるようにして起き上がる。
足も雪から抜き出すことに成功した。
崩れた雪の上に膝と両手をついた体勢のシェラに、徐々に視界が戻ってきた。
しかし、まだ霞がかかったようにぼやけている。

「ヴァンツァー……?」

あたりはシン、と静まり返っている。

「……ヴァンツァー……? どこへ行ったの……?」

少しでも辺りが見渡せるようにと、シェラは雪山を這いずりながら登っていった。

「……まさか、あの雪崩に……」

最悪の展開を脳裏に思い描いたシェラの目に、思いがけないものが映った。
純白であるはずの世界が違う色に染まっていた。
完全に戻らない視力ではそれが何なのか分からず、シェラは何度も瞬きし、目をこすった。

「────……あ……」

ぽかん、とした顔のシェラの前に現れたのは、美しい緑の大地だった。
気付くとあれだけ吹雪いていた雪はやんでおり、空は明るくなってきていた。
頭上を覆う曇天の切れ目から光が差し込む。
緑の大地の上は、真っ青に晴れ渡っている。

「あ……あぁ……っ」

紫の瞳を驚きに瞠り、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
その頬は喜びに笑みを形取り、緑の森を映す瞳は涙に濡れている。

「あ……あった……あったんだ……あったんだ!! 緑の森!!」

雪の上に立ち上がろうとしたが、力が入らず倒れ込む。
ぽふっ、とやわらかくシェラの身体を受け止める雪。
先程までは命を奪う脅威だったのに、今はまるで真綿のよう。

「ヴァンツァー、ヴァンツァー、早く。あったよ……あったんだよ、緑の森! 早く……ヴァンツァー!!」

雪の衣が剥がれ、剥き出しになった鋭い岩に縋るようにして立ち上がり、周囲を見渡す。
視界はほとんど雪だけだったが、シェラはこの景色のどこかにヴァンツァーがいると信じて疑わず、その名を叫び続けた。
それから何日も雪山を捜し続けたが、シェラの前にヴァンツァーは現れなかった。
髪も服も真っ黒だから、白い雪の中にいれば目立つはずなのに。
シェラは、空腹感も忘れてヴァンツァーを捜し続けた。
緑の森は目の前にあっても、ヴァンツァーがいないのでは意味がない。

──先に、行っちゃったのかな……。

どれだけ捜しても見つからなかったので、シェラは次第にヴァンツァーはもう緑の森へと辿り着いてしまったのではないか、と思うようになった。
だから、雪山から下りて緑の森へと向かった。
本当はこの道のりも一緒に辿るはずだったのに、と思うと寂しかったが、先にヴァンツァーがあたたかい森の中で休んでいるのならば、それでいいと思った。
何度も自分を助けてくれたヴァンツァーは、きっとひどく疲れているだろうから。

──この森にいれば、いつかヴァンツァーと会えるかも知れない。

そう信じて、シェラは何日も、何日も歩き回った。
さまざまな生き物が話しかけてきても、ヴァンツァーのことで頭がいっぱいだったからろくに返事もできなかった。
おいしそうな木の実も、芳しい花々も、まったく目に入らなかった。
ただただヴァンツァーに会いたくて、シェラは森を彷徨い歩いた。
いつの間にか、春が訪れていた。
シェラの身体は疲れ果ててボロボロだった。
着ているものは擦り切れて裸同然だったし、ほとんど何も口にしていないので元から華奢な身体は痩せ細ってしまった。

「……きっとヴァンツァーは、もう……」

やはりあの雪崩のときに死んでしまったのだ。
そう思うと、生きる気力も湧いてこなかった。

「もう……いいや……」

力なく木の根元に横たわったそのとき。
突然、木の上で《リス》の大声がした。

「ちょっと、ちょっと大変! 森の外れに《オオカミ》が出たの!!」

途端に賑やかになった頭上の生き物たちの会話に、目を閉じかけていたシェラは跳ね起きた。

「《オオカミ》……!」

間違いない、ヴァンツァーだ。
シェラは立ち上がると、走り出した。
ついさっきまで這う気力すらなかったのに、今は何でもできる気がする。
ヴァンツァーが生きている。
それが、何より力になる。
《リス》たちが話していた《オオカミ》がいるという野原に向かって、夢中で走った。
残っている力を全部出し尽くす勢いで、シェラは懸命に足を前に出した。

「ヴァンツァー……ヴァンツァーが生きてる……っ!!」

瞳はきらきらと輝き、その天使のような顔に笑みが戻った。
どれくらい走っただろうか。
見晴らしの良い丘の上に立ったシェラは、遠くの方に人影を見つけた。
背の高い、黒ずくめの立ち姿。

「ヴァンツァー……ヴァンツァーだっ!!」

自分が見間違えるわけがない。
嬉しくなったシェラは、全速力で丘を駆け下った。
きっと、いつのときよりも速く走れている。
自分の方に近付いてくる気配に気付いたのか、《オオカミ》は目線を上げた。
その藍色の瞳は淀んだように濁り、焦点は定まらず、妖艶な美貌には一切の表情がなかった。
まるで、人形のような少年──否、青年だ。
年は二十歳にも満たないのだろうに、少年らしい瑞々しさや若々しさ、覇気といったものが感じられない。
感情も、意識もまったくないかのように見える。
ただ、彼は自分に向かって走ってくる人影が、《エサ》であることだけは認識していた。
それも、ただの《エサ》ではない。

「……《ヤギ》……」

《エサ》の中でももっとも稀少な種族。
その精気の味は、他とは比較にならないほどに濃密で甘い。
たった一度の交わりで、渇いた身体の隅々まで力が満ちる。
しかも、信じられないことに極上の《エサ》は、ほとんど下着しか身につけていないような有様だった。
引き裂かれたような申し訳程度の布地から、折れそうに細く白い肌を惜しげもなく晒している。
その姿はひどく、征服欲をそそった。
《オオカミ》は目を眇め、乾いた唇を舌で舐めた。
それだけの仕草が、何とも言えず淫靡だった。

「ヴァンツァー!!」

そんな《オオカミ》の様子に気付かないシェラは、目に涙を浮かべて転びそうになりながら走ってくる。

「────ごちそうだ」

うっとりとした表情でささやくと、《オオカミ》もまた走り出した。
広く美しい草原の両側から、《ヤギ》と《オオカミ》が互いだけを視界におさめて走る。

「ヴァンツァー!」

何の躊躇いもなく、捜し求めたひとの胸に飛び込むシェラ。
首に腕を回すとすぐに、少し痩せた、それでも自分よりずっと逞しい腕が抱き返してきた。
久々に感じた懐かしい体温に、涙が零れた。

「ヴァン──」

笑みを浮かべて名前を呼ぼうとした口は、荒々しく塞がれた。
びっくりして目を瞠り、押し返そうと胸に手をついたが、力の限り走ったシェラにそんな余力はなかった。
息ができなくて、頭がくらくらした。

「ヴァン、やっ──」

何が何だか分からないうちに、呼吸すらさせてもらえないシェラはひどい頭痛に襲われ、意識を手放した。
気絶する寸前まで見ていた眼前の顔はヴァンツァーに違いないのに、やさしかった藍色の瞳は恐ろしく感じた《オオカミ》のそれと同じに変わっていた。

──友情のキスは額って、言ってたのに……。

シェラが考えられたのは、それだけだった──。  




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