シェラは、森の外れの洞穴の中で目を覚ました。
仰向けに横たわったまま、二、三度瞬きをして視界を取り戻す。
「……ぅ、ん……?」
ゆっくりと身体を起こすと、洞穴の入り口にはヴァンツァーがいた。
シェラが意識を取り戻したことに気付いた《オオカミ》は、感情の宿らない瞳で《ヤギ》を見つめた。
「あ……」
やはり生きていたのだ、と思い、シェラは感激のあまり涙を流し、自然と綻びる口許に手を当てた。
「ヴァンツァー……」
嬉しくて、嬉しくて、シェラはヴァンツァーにぎゅっと抱きついた。
「生きていたんですね。良かった……」
ヴァンツァーの肩に顔を埋めていたシェラは、その肩が震えていることに気付いた。
もしかしたらヴァンツァーも自分との再会を喜んで泣いているのだろうか、と思い、顔を上げたシェラの前の美貌は、予想に反して笑っていた。
喉の奥でくつくつと笑う《オオカミ》。
「見かけによらず、随分と積極的な《ヤギ》だな」
言われたことの意味が分からず首を傾げたシェラの顎を、ヴァンツァーの手が捉える。
「──そんな風に誘っていたのでは、身がもたんだろうに」
吐息がかかるほどの近距離で、そうささやくヴァンツァー。
更に困惑を深めたシェラは、きょとんとして瞬きをした。
「ヴァンツァー?」
呼ばれても返事もしない相手に、シェラは更に話しかけた。
「ねぇ、ここはどこ? こんなところで何をしているの?」
せっかく気持ちの良い風が吹く緑の森にやってきたのだから、こんな暗い洞穴にいることはないのに。
「あ……もしかして、私の介抱をしてくれていたんですか? ごめんなさい。迷惑かけて」
項垂れるシェラを、ヴァンツァーは鼻で笑った。
「別に。大事な《エサ》が逃げないように見張っていただけだ」
シェラは咲き誇る菫のような瞳を、真ん丸にした。
「《エサ》? それって、私のこと? ヴァンツァー、どうしちゃったんですか? 私ですよ、シェラですよ?」
肩を揺すってくるシェラの手を煩そうに払い除けるヴァンツァー。
「さっきから馴れ馴れしく何なんだ、お前は。『ヴァンツァー』というのは、俺のことか?」
「ヴァンツァー……? 冗談でしょう? とぼけているの? それとも本当に私が分からないの?」
たたみかけるように話すシェラを、ヴァンツァーは嫌悪感も露わに切れ上がった瞳で睨みつけた。
「よく喋る《ヤギ》だな……。お前のことなど知らん。────まぁ、自分のことも分からないんだがな……」
どこか諦めたような退廃的な雰囲気。
シェラは全身から力が抜けていく思いがした。
「だが、ひとつ覚えていることがある」
思い出したように付け加えるヴァンツァーに、シェラは身を乗り出した。
「な、なに?」
期待に目を輝かせるシェラの頬に、そっと手を這わせるヴァンツァー。
そして、ゆったりとその美貌に笑みを浮かべた。
思わず見惚れてしまいそうになる。
「──……《ヤギ》は、一番の好物だよ」
いっそやさしいくらいのささやきにも、シェラは目の前が真っ暗になる気がした。
「そんな……せっかく、会えたのに……」
目にいっぱいに涙を溜めるシェラ。
その天使のような顔は、痩せてなお美しかった。
むしろ、青白く見えるほどの肌は、凄絶な色香すら放って見える。
《ヤギ》の持つ甘い香りは、涙で体温が上がったことにより、一層強くなる。
「こんなに美味そうな《ヤギ》には、初めて出会う。お前の精気は、さぞ甘いのだろうな」
シェラの頬に触れていた手を、首筋にまで下ろす。
そこにかかる銀髪を、ひと房指に絡めた。
「今夜は満月だ。せっかくのごちそうだからな。この髪と同じ光の下で抱いてやろう」
そう言って、舌なめずりする。
その仕草は、背筋が寒くなるほどに淫靡だった。
シェラは息を呑んだ。
「ねぇ、ヴァンツァー、お願いだから思い出して! 私たち、友達だったんですよ!」
ヴァンツァーは、嘲るように笑った。
「頭は元気か? 俺は《オオカミ》で、お前は《ヤギ》──《エサ》だ」
傷ついた表情になりながらも、シェラは必死でヴァンツァーに訴えた。
「本当なんです! 一緒にピクニックに行ったり、お喋りしたり。……本当は、ここにだって一緒にくるはずだったでしょ?」
シェラはヴァンツァーの手を取った。
「ねぇ、ヴァンツァー。思い出して。私の顔を良く見て。私たち、秘密の友達だったじゃないですか!」
シェラが語りかければ語りかけるほど、ヴァンツァーの顔は不機嫌そうに顰められていった。
「ヴァンツァー! 私たち、友達でしょう?!」
「うるさい」
痺れを切らしたヴァンツァーは、シェラの肩をつかむと地面に押し倒した。
あまりに乱暴なそのやり方に、強く背中を打ったシェラは痛みに息が詰まった。
「喚くな。──あぁ、お前、初めてで不安なのか? 安心しろ。おとなしくしていれば、お前にもそれなりにイイ思いをさせてやる」
妖艶なヴァンツァーの表情は、今まで一度だってシェラに見せたことのないものだった。
シェラを《エサ》扱いすることだって、一度もなかったのに。
あの極限の雪山の中でも、最後まで頑なに拒んでいたのはヴァンツァーの方だった。
「……あの雪崩のショックで……」
何もかも、忘れてしまったのだ。
生きていることが奇跡のような大きな雪崩。
無事だったとはいえ、ヴァンツァーは一切の記憶を失ってしまったのだ。
シェラとの思い出も、何もかも。
そう思うと、シェラはやるせない気持ちになった。
「あのときは、ヴァンツァーにならいいと思った……。でも……でも今のヴァンツァーはヴァンツァーじゃない!」
もがいて抵抗するが、ヴァンツァーの方がずっと力が強い。
難なくシェラを押さえ込んでしまう。
「やだっ」
「抵抗しても、煽るだけだと知らないのか?」
「や……やだっ! 絶対嫌だ! ただの《オオカミ》になんか、絶対嫌っ!」
怖くなって暴れるが、ヴァンツァーはボロボロになっていたシェラの上着を、易々と引き裂いてしまった。
洞穴の入り口は、もう薄暗くなりかけている。
夕日はほとんど沈んでしまい、空は藍色に染まっていく。
露わになった白い肌に手を這わせながら、ヴァンツァーはシェラの耳元でささやいた。
「もうすぐ、満月がのぼるぞ」
クスクスと笑うその様子は、ひどく残虐なものに映る。
組み敷いた相手の表情を窺ったヴァンツァーは、にやりと笑った。
「泣いているのか? まぁ、無理もないが逆効果だな」
シェラの両手首を片手で纏め上げると、ヴァンツァーは白い首筋に顔を埋めた。
ビクビク震え、ぎゅっと目を瞑ったシェラは、今までのすべてを後悔した。
こんな風に死ぬのは、絶対に嫌だと思った。
友達のヴァンツァーが生き延びるためなら何でもするが、ただの《オオカミ》になってしまったヴァンツァーに精気を吸い取られるなんて、絶対に嫌だ。
「……こんなことなら、この森で会わなければ良かった……」
身体を探られながら、ポツリと呟く。
また一筋、シェラの目から涙が零れる。
「こんなことなら、あの山を越えなければ良かった」
顔を歪め、歯を食いしばる。
しかしヴァンツァーはそんなことに頓着しない。
ただ、目の前の肌の感触を楽しむことに没頭している。
シェラは唇を噛み締め、溢れる涙を堪えようとした。
こんな風に弱いところを《オオカミ》なんかに見せることは、絶対にしたくなかったのだ。
「こんなことなら……いっそ」
つかまれた手や、全身に力を込める。
漏れそうになる嗚咽を、何とか飲み込む。
肺に空気を溜めた。
「──いっそあの嵐の夜に、あなたと出逢わなければ良かった!!」
涙ながらに絶叫すると、ヴァンツァーの動きがピタリ、と止まった。
「……お前……今、何て?」
茫然としているヴァンツァーを睨みつけ、シェラは言った。
「あなたと出逢わなければ──」
「違う、その前だ!」
苛立ったようなヴァンツァーに、シェラはびっくりして瞬きを返した。
「え? だ、だから、あの嵐の夜に……」
「嵐の夜に……?」
どこかで聞いたことのある響きなのか、ヴァンツァーはシェラを押さえつけることをやめて、記憶を辿り出した。
その隙にゆっくりと身を起こすシェラ。
シェラに対する興味を一切失ったように瞳を彷徨わせるヴァンツァーを、じっと見つめる。
「あらしの、よるに……あらしの……」
ボソボソと口の中で呟くヴァンツァー。
その様子を心配そうに見守るシェラ。
しばらく考え込んでいたヴァンツァーが、ふと宙の一点を見つめて視線を止めた。
「そうだ……あれは確か、嵐の夜……」
ヴァンツァーの脳裏に、さまざまな思い出が次々と流れていった。
「私たちの合言葉は、決まってますよね?」
「「あらしのよるに」」
「忘れて? 何でしたっけ?」
「……今度、いつ会う?」
「じゃあ、私たちだけの秘密ですね」
「……お前、いいのか?」
「何がです?」
「俺のような《オオカミ》と付き合っていて……」
「俺は────《ヤギ》のお前ではなく、お前が好きだ」
「ヴァンツァー……」
「私は、ヴァンツァーと話していると、嫌なことみーんな忘れられるんですよ」
「俺もだ」
「私を食べて終わり、っていうのも、ありますよ?」
「──……それができれば、一番簡単だな」
「ふたりなら、何でもできそうな気がしませんか?」
「……そうだな。どうせ行くしかないんだ。──きっと、緑の森はある」
「うん」
「──緑の森は……ある」
ふわり、と微笑んだヴァンツァーの目は、いつもシェラを見つめていた穏やかなものに戻っていた。
数回瞬きをすると、シェラの姿を目にとめた。
そして、大きく目を瞠り、自分が着ていた上着を大急ぎで脱いだ。
「ヴァン──」
行為を再開されるのだろうか。
一瞬にして怯えたような目に戻ってしまったシェラに、ヴァンツァーは今脱いだ服を突きつけた。
「──……頼むから、着てくれ」
シェラを見ないように懸命に目を逸らしている。
首を傾げたシェラは、自分の身体を見下ろす。
確かに自分は服を着ていないが、それが何だというのか。
同じ男どうしなのだし、別に困ることは何もない。
「ヴァンツァー?」
「シェラ。頼むから」
困ったように目を逸らし続けるヴァンツァーの顔を覗きこんでいたシェラは、直後ぱぁぁっと顔を輝かせた。
「ヴァンツァー!」
戻ったのだ。
今、自分の名を呼んだ。
確かに『シェラ』と呼んでくれた。
それに、先程までの無表情も、退廃的な雰囲気も消えていた。
思わずシェラは抱きついた。
「ちょっ──」
驚いたのはヴァンツァーだ。
それはまずい。
かなりまずい。
ただでさえ空腹なのに、そんなに密着されると非常に困るのだ。
「シェラ!」
「ヴァンツァー! ヴァンツァー!」
涙ながらに自分の名を呼ぶシェラは、まったく話を聞いてくれない。
首に抱きついてくる腕の強さは、その細さからは信じられないほどに強い。
「ずっと……ずっと、あなたを待っていたんですよぉ……っ」
「……」
そう言われてしまっては、ヴァンツァーには何の言葉も返せない。
ただ、慰めるように、宥めるように頭を撫でてやる。
本当は背中をさすってやりたいのだが、それは少々危険なのでやめておいた。
そうでなくても、何も身につけていない肌どうしが触れ合っているというのに。
雪山の上にいたときと同じくらい、ヴァンツァーは葛藤していた。
しばらくそうしていたが、しゃくりあげていたシェラの呼吸が戻ったので、ヴァンツァーは名残惜しさは感じるものの、ふたりの間に隙間を作った。
そして、脱いだ自分の服を再度渡す。
まだよく分からない、という顔をしているシェラの頭に、無理やり服をかけた。
自分は背を向ける。
「いいから。頼むから、早く着てくれ」
懇願も露わな声に、シェラは首を捻りつつもヴァンツァーの服に袖を通した。
今まで身につけていたものだから、その服はとてもあたたかかった。
「……全然大きさが合わないんですけど……?」
袖口から手が出てこず、シェラは何回も袖を折った。
「……元から細いのに、あまり食べていなかったんだろう」
着替えたシェラを振り返ったヴァンツァーは、シェラの頬や服に隠れた腕に触れる。
しかし、それは先程までの熱っぽい触れ方ではなく、恐々と壊れ物に触るようだったので、シェラは何も言わなかった。
「ばかだな……」
「ヴァンツァーを見つけなきゃ、って思って……」
「だから、ばかだって言うんだ」
何だか泣きそうなヴァンツァーの声。
「俺を見つける前に、自分が死んだらどうするんだ……?」
責めるようにシェラを見据える。
彼は怒っていた。
「食べることなんて、思い浮かばなかったんですよぅ……」
しゅんとして項垂れるシェラの頭を、ヴァンツァーはそっと引き寄せた。
「……ばかだな」
呟かれたヴァンツァーの言葉は、シェラというよりも自分自身に向けられているもののような響きをしていた。
「本当に、目が離せない……」
ヴァンツァーの腕のやさしさと、抱きしめられるあたたかさが嬉しくて微笑んだシェラ。
しかし、抱き返そうと回した手に触れる背中が冷たいことに気付いた。
「……寒くないんですか……?」
顔を上げれば、日はすっかり沈んで洞穴の外は暗くなっていた。
「大丈夫。──少し、頭を冷やさないといけないからな」
ヴァンツァーの浮かべる苦笑の意味が分からずに首を傾げるシェラ。
「外へ、行こうか」
促されるまま洞穴の外に出ると、低い空には大きな月が煌いていた。
「うわぁ……!」
歓声を上げたシェラは、月に向かっていくように野原を走った。
「シェラ、夜道を走ったら──」
みなまで言う前に、シェラは何かにつまづいたように転んだ。
「……」
一瞬動きを止めたヴァンツァーだったが、苦笑するとシェラの元へ向かった。
「ててて……」
ゆっくりと地面に手をついて身を起こすシェラの横に、ヴァンツァーがやってきた。
感心したように目を丸くしている。
「……よく、何もないところで転べるな」
「あ、今ばかにしたでしょう。分かるんですからね!」
頬を膨らませる様子に笑みを深めると、ヴァンツァーは小高い丘の上にシェラを連れて行った。
やわらかな月の光に包まれながら、ふたりは丘を登っていく。
一番高いところに腰を下ろし、ふたりはただただ月を眺めた。
今までに見たどんな月よりも、大きくて美しい。
本当に、嫌なことは全部忘れられるような、凛と冴えた月。
「綺麗だな」
ほぅ、とヴァンツァーがため息を吐く。
こんな言葉が邪魔になるくらい、夜空の月は美しかった。
「本当に……」
シェラも陶然として呟いた。
「ずっと、シェラと一緒に月を見たかった」
傍らのシェラに視線を落とすヴァンツァー。
月光がシェラの髪をより輝かせている。
それを見て眩しそうに目を細める。
「私もですよ。やっと、見られましたね」
シェラはヴァンツァーに向かってにっこりと微笑んだ。
とても穏やかな笑顔だ。
何に脅かされることもなく、ただ微笑んでいられる場所。
辺りは静寂に包まれていた。
虫の声すら耳に入らない、静かな場所。
それでも隣には、大切なひとがいる。
それは、何と幸福なことだろう、とふたりは思った。
「いい夜だな」
ヴァンツァーが呟くと、シェラは頷きを返した。
ふわり、と蕾が綻ぶような笑顔を見せたシェラは、ヴァンツァーの肩に頭を預けた。
安心したら、少し眠くなってきたのだ。
「ねぇ、ヴァンツァー。私たち、もうずっと一緒にいられるんですよね?」
「あぁ。ずっと……ずっと、一緒だ」
シェラの頭の上に、頬を落とすヴァンツァー。
それ以上、ふたりの間に言葉はいらなかった。
寄り添うふたりの前で、月はどんどんその高度を増していく。
月の光に照らされ、ふたりの影が伸びて重なる。
ふたりは安らぎに満ちた表情と心で、月を見つめていた。
想うのは、ともに美しい月を見つめる相手のことだけ。
ふたりの心がぴったりと重なる。
──ずっと、このひととこうしていたい……。
そんな願いを叶えるかのように、月は静かに、音もなく昇っていく。
その月は遠く、コーラル山や、スケニア谷からも見ることができた────。
END.