あらしのよるに?

翌日は、夕べの嵐が嘘のように晴れ渡った。
小鳥も元気にさえずっている。
チチチ、と高い声で鳴く鳥の声が何だか自分の気分の高揚を示しているようで、シェラは自然と笑顔になって森の道を歩いていた。
向かうのは、勿論約束したあの小屋だ。
肩にかけたお気に入りのショルダーバッグには、《ヤギ》の好物である紅い木の実がたくさん入っている。
今日は天気が良いので、丘に登って食事をしたらきっと美味しい。
それも、新しくできた友達と一緒となると格別だろう。
あの人はどんな姿をしているのだろう。
低い声だった。
少し硬質な、けれどとても甘い、綺麗な声。
思い出しただけで、ちょっとドキドキするような。
思わず抱きついてしまった身体も、自分のような貧相なものではなく、鍛えられていて、背も高いようだった。
身体の大きな《ヤギ》はあまりいないけれど、ウォルやイヴンのような例外だって、ときにはいる。
話し方もとても穏やかだったし、きっとやさしいひとだ。
抜けるように白い肌をしたシェラだったが、その頬は期待のためか薔薇色に染まっている。
ずっと『新しい友達』のことを考えていたから、小屋までの道のりはあっという間だった。
小屋の前で、シェラは辺りをキョロキョロと見回した。
まだ誰も来ていないことが分かったシェラは、ちょっとした悪戯を思いついた。
小屋のそばにある、大きな木の陰に隠れたのだ。
シェラが来たのとは反対の林から、長身の少年がやってきた。
ヴァンツァーだ。
暗い小屋の中では分からなかったが、彼は素晴らしく美しい少年だった。
どちらかといえば青年に近い、精悍な美貌の主。
かと思えば、なまめかしいほどの色気も兼ね備えている。
短い黒髪と涼しげな藍色の瞳をした、色白の少年。
日に焼けてはいないのに、弱々しい感じは一切しない。
《オオカミ》というと粗野な感じがするが、どこか上品で物腰も穏やかそうな印象を受ける。
それでも彼ら《オオカミ》が、生きるために《エサ》の精気を必要とすることに変わりはないのだけれど。
ヴァンツァーの美貌は、《エサ》を落とすのに非常に役に立ちそうだった。
女性ならば誰もが見惚れるだろうし、男性ですら感嘆せずにいられないほどだ。
選り好みさえしなければ、彼はまず飢えることはないだろう。
《オオカミ》としては、誰もが羨む容姿の持ち主であった。
シェラとは違い、《エサ》は現地で調達するヴァンツァーは、手ぶらで小屋の前に来た。
と、木の陰に誰かがいる気配がする。
どうやら自分の方が遅かったようだ。
声を掛けようとしたヴァンツァーの前でふわり、と風が吹き、シェラの銀髪が風になびく。
それを見たヴァンツァーは、一瞬息を止めた。
《オオカミ》の中で、あれほどまでに美しい銀髪を持つ者は見たことがない。
聞いたことすらない。
なぜか胸が騒ぐ────否……血が、騒ぐ。
ヴァンツァーのいる方が風上で相手の匂いまでは判別できないが、妙に惹かれる。

──あれは、《オオカミ》だろうか……?

元々足音をさせずに歩くヴァンツァーだったが、一層の注意を払って木陰に近付いた。

「──……あらしの、よるに」

決して大きくはない、しかし良く通る声で合言葉を口にした。
それを耳にしたシェラは、嬉しくなってにっこり笑顔になった。

「あらしのよるに!」

ひょこん、と木陰から飛び出したシェラと、大木の前に立っていたヴァンツァーが対面する。
太陽の下での、初めての邂逅。
ふたりは、互いの姿を見て、言葉を失った。

《狩る者》と《狩られる者》は、互いをそれと認識できる。
──どんな姿をしていようとも。
それは、その種族に生まれついたことで当然に備わる本能だから。
ひと目見れば、その者が自分の《エサ》である、と、また自分を食べる者である、と分かってしまう。

《オオカミ》と《ヤギ》

それは、どうあっても変えることのできない、自然界における絶対の──『掟』だった。


穏やかな日差しが照らす坂道を、シェラとヴァンツァーが登っている。
ふたりの様子は実に和やかだ。

「あはは。本当にびっくりしましたよ。あなたが《オオカミ》だったなんて」
「俺もだ。まさかお前が《ヤギ》だったとはな」

ふたりの間にギスギスとした空気は流れていない。
この日差しのような穏やかさそのものだ。

「ほんと……《オオカミ》と一緒にお昼ご飯を食べる約束をしたんですから。知らなかったこととはいえ、今でも信じられません」

シェラが苦笑すると、ヴァンツァーも似たような顔になった。

「俺だってそうだ。食事を一緒に、というからおかしいと思った。──あのときに気付くべきだったな」
「……後悔、してらっしゃいます?」

不安げな菫の瞳が見上げてくる。 ヴァンツァーは軽く頭を振った。

「いや。ただ、《エサ》を横目に《エサ》を食べるような」

言い終わらないうちに、ぷっつりとヴァンツァーは口を閉ざした。

「──悪い。失言だったな」

自嘲気味に口許が歪む。
シェラはふるふると首を振った。

「気にしてませんよ。あなたが私を食べるつもりなら、さっき小屋の前で食べていたでしょう?」

可愛らしく小首を傾げて微笑む。
自分を熱っぽく見つめる瞳や、逆に敵視するような視線ならば慣れているヴァンツァーだったが、このように他意なく微笑まれるのは滅多にないことだった。
だから、僅かに戸惑う。
銀髪の《ヤギ》が非常に自分好みだったこともある。
今まで見た《ヤギ》の中で、一番美しいと断言できる。
昨日逃がした《ヤギ》などとは、比べ物にならなかった。
それは、シェラにとっても同じことだ。
《オオカミ》は粗野で、粗暴で、残酷で、無慈悲で、《エサ》と見ると目の色を変えて飛び掛ってくる、と教わっていたのだが、目の前の若い《オオカミ》は違う。
《ヤギ》の中でも見ないくらいの美しい顔立ちだ。
瞳は理知的だし、あまり表情は動かさないが、冷酷さや残忍さは感じない。
むしろ、やさしいひとのような印象を受ける。
まだ自分と同じくらいの年の少年なのに、どこか老成した雰囲気の、大人っぽい少年。
少年《オオカミ》にこんなことを言うのはおかしいかも知れないが、『紳士的』という表現が馴染む。
それが、自分を油断させるための演技とも思えないのだ。

「──友人は大切にしろ、と教わった」

ふとヴァンツァーが口を開く。

「私もですよ。よくおばあちゃんに言われました。友達だけは、大切にしなさいって」
「あぁ。俺は母に、同じ言い方で言われた」

シェラがちいさく笑う。

「私たちって、雷が苦手なところといい、本当に良く似ていますよね」
「そうだな」

ヴァンツァーも穏やかに微笑んだ。
それから更に、ふたりは山を登っていった。
山の頂上で昼食にしようということらしい。
ただ、ヴァンツァーの『食事方法』を考えると、早々に別れた方が良い気がしないでもないのだが。
そんなことはまったく考慮に入れていないシェラは、ズンズンと山道を登っていく。

「頂上に着いたら、おいしいお昼ご飯ですよ!」

シェラが背後のヴァンツァーを嬉しそうに振り返る。

「……そうだな」

曖昧に苦笑を返すヴァンツァー。
まさか、《ヤギ》が木の実を食べている横で《エサ》の精気を取り込むわけにもいかない。
その前に、山頂に《エサ》がいるかどうかも問題だ。
昨日の《ヤギ》だとて、ようやく見つけた三日ぶりの糧だったのだ。
自分の好みのうるささにも嫌気がさすが、味気ない《エサ》では腹持ちが悪いことも経験上分かってしまっている。
元々好きな行為ではないし、三日、四日食べなくても死にはしないが、身体が動かなくなるのは困るのだ。
そうこうするうちにもふたりはどんどん山道を登っていくが、ヴァンツァーは少々気が滅入っていた。
それもこれも、前を歩く《ヤギ》がいけない。
この《ヤギ》は、自分が《狩られる者》だという自覚があるのかないのか、信じられないような薄着をしているのだ。
袖のない上着により二の腕は剥き出しであったし、その丈の短い上着は腹部を完全には覆い隠せていない。
しかも、下肢を覆うズボンは、スラリと長く伸びた脚の大腿部が見えるほどの短さだ。
靴は足首までのブーツであるが、布で隠れていない面積の方が多い気がする。
非常に目の遣り場に困る恰好を、この魅力的な《ヤギ》はしてくれているのだ。

「……お前、なぜそんな恰好をしている?」

思わずヴァンツァーは訊ねてしまった。
何か会話をしていないと、とても理性を保てそうにない。
ただでさえ、《ヤギ》特有の甘い香りが鼻腔をくすぐっているというのに。

「え? この恰好? 変ですか?」
「変というか……あまりに薄すぎはしないか?」

シェラはそう言われて首を傾げた。

「私の親友はこんな感じの恰好をしていますけど? あ、それに、私とても足が遅いので……」
「足? 何か関係があるのか?」
「ちょっとでも薄着をして身体を軽くすれば、少しは速くなるかな、って」

困ったように笑うシェラを見て、ヴァンツァーは嘆息した。
呆れているのだ。

「その程度の重みで足の速さが変わるほど、お前は筋力がないのか?」
「え? 薄着しても変わらないんですか?!」

シェラの方がびっくりしている。
絶句しかかったヴァンツァーだ。

「──鉛の鎧を着込んでいたわけでもなかろうに……。《ヤギ》は《オオカミ》にとって一番のごちそうだ。そんな無防備な恰好でよく今まで生きてこられたな」
「ああ、それは長老たちによく言われます。でも、私って割と運が良いみたいで。《オオカミ》と会うのも、実はあなたが初めてなんです」

藍色の瞳を丸くするヴァンツァー。

「……それは、奇跡的な運の良さだな」

好みのうるさい自分ですら食指が動くのだから、《エサ》ならば何でもいいと思っている連中にとってはまたとない極上の獲物のはずだ。

「はい。あなたに会って、運の良さに自信が持てました」
「俺と?」

こくり、と頷くシェラ。

「あなたみたいな《オオカミ》なら、ばったり会っても安全ですもんね」
「……」

にっこりと屈託なく微笑まれ、口を閉ざすしかなくなったヴァンツァー。
たとえ一瞬でも「美味そうだ」と思ったなんてことを口にしたら、この笑顔は見られなくなるのだろう。
そう考えたら、とてもではないがそんなことは言えそうもなかった。
ヴァンツァーは俯き加減でシェラの後ろを歩いていたが、姿が見えなくとも優秀なヴァンツァーの頭は勝手な想像を始めてしまう。

「────っあ、やっ……やだっ、ん──」
「も……む、り……っん、ぁ──」
「ヴァン──ぉねが、ね……っ、ああっ!」

『想像』、ではなく『妄想』が正しいらしい。

「……………………」

耐え切れずに涙を流すシェラの姿を想像してしまい、本格的にまずいと思い始めたヴァンツァーは、山道の岩肌に頭をガンガン打ち付けた。
その音に気付いたシェラはびっくりして背後を振り返る。

「な、何してるんです?!」

シェラは慌ててヴァンツァーに駆け寄る。

「……何でもない」
「何でもないって……あ~あ、額、切れちゃってますよ?」

シェラはショルダーバッグからハンカチとバンドエイドを取り出した。

「ちょっとしゃがんで下さい」

背の高いヴァンツァーの手当てをするのに、立ったままではやりづらい。
ヴァンツァーは大人しく腰を下ろした。

「……そんなものを持ち歩いているのか?」

不思議がるヴァンツァーに、シェラはにっこりと笑った。

「私、足が遅い上にそそっかしいので、よく転ぶんです。おばあちゃんが、いつも持ってなさいって」
「そうか……」

気のない返事をするのも当然。
ヴァンツァーの目の前には、やわらかそうなシェラの首筋。
歯を立てたい衝動に駆られる。
そこから目を逸らすのが実に大変だった。

「はい、おしまい!」

言うとシェラはぴょん、と立ち上がった。
今度は同じくやわらかそうな太ももが目に入る。

「……」

思わず頭を抱えたヴァンツァーだった。

「頭、痛みます?」
「いや……」

ある意味ひどい頭痛がするが、それは傷のせいではないので否定しておく。

「もうすぐ頂上ですよ。登っちゃいましょう!」

腕を引かれ、立ち上がらせられる。
あまり立ち上がりたくないヴァンツァーだったが、手を繋いで引っ張られているのでどうすることもできない。
それに、シェラの手は、振り解くにはあまりにもあたたかかった。
そうしてふたりは、山頂へと辿り着いたのである──。  




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