なぜだか足取りの遅いヴァンツァーをやっとのことで引っ張って、ふたりは岩山のてっぺんへとやってきた。
眼下には広々とした平原が広がっている。
青々とした草原に、赤や黄、橙の斑点が見えるのは咲き誇る花だろう。
「ほら、ここからタウ谷が見えますよ」
ヴァンツァーに背を向け、タウ谷のある方向を指差すシェラ。
三歩ほど先にいるシェラの脚ばかり見ているヴァンツァーは、タウの方などこれっぽっちも見ていない。
「あぁ、あそこへはよく《エサ》を──」
ぼーっとしていたヴァンツァーだが、はっとして首を振る。
「エサ?」
くるりと振り返って傾けられる銀の頭。
さらりと流れる絹糸に指を絡めたら気持ちが良さそうだ。
「……いや。あんなところに《エサ》なんて食べに行かない……」
「ほんとに?」
探るような視線。
菫の花よりも深い、しかし澄んだ色の瞳。
「あぁ……特に、《ヤギ》は今まで食べたことがない……」
明らかに言い訳と分かる言葉と物言い。
それでも、「《ヤギ》なんか嫌いだ」、「《ヤギ》なんか美味しくない」と思わないとやってられないのだ。
「そうですよね。……じゃあ、お弁当にしましょうか」
シェラはやわらかな草の上に腰を下ろした。
と、ヴァンツァーを見上げる。
「お弁当は?」
「……」
「そういえば、《オオカミ》は《ヤギ》や《ヒツジ》を食べる、とは聞きますけど、やっぱり頭からバリバリいくんですか?」
「いや……」
動揺して目が泳ぐ。
仲間の《オオカミ》に見られでもしたら、いい笑いものだ。
無口、無表情、無感動で、《オオカミ》でも異質なほどに群れることを嫌うヴァンツァーなので、こんなに内面を露わにすることはまずないのだ。
「ふぅん」
相槌を打ったシェラは、自分の隣をポンポン叩いて座れと示す。
僅かに躊躇った後、ヴァンツァーは仕方なくそこへ腰を下ろした。
ふわり、と《ヤギ》の甘い香り。
くらり、と眩暈を起こしそうになる。
「具体的に、どうやって食べるんですか?」
「寝るんだ」
即答してしまい、自分の言葉にぎょっとして口許を押さえる。
相当脳がやられているらしい。
まともな判断が下せない。
「寝る? 寝るって、一緒にですか? それだけ?」
「……あ、あぁ……」
言ってしまったものを覆すことはできないので、ヴァンツァーは弱々しく頷いた。
嘘は吐いていない──シェラとの認識の間に大きな溝があることは承知していたが。
シェラは不思議そうに首を傾げる。
自分たち《ヤギ》だとて、植物の命を奪って生きている。
獰猛だと言われる《オオカミ》が寝るだけで生きていられるのなら、全然怖くないではないか、と思っているのだ。
それとも、仲間の《ヤギ》たちは、何か勘違いをしているのだろうか。
本当はやさしいはずの《オオカミ》を、恐ろしいものだと思い込んでいるのだろうか。
「──……俺のことはどうでもいい。食事を取れ。俺は……昼寝でもする」
そう自分に言い聞かせるように宣言すると、ヴァンツァーは《ヤギ》に背を向けて横になった。
「そうですか? それじゃあ」
シェラはショルダーバッグの中から、大好物の紅い実を取り出した。
「う~ん、おいしそう!」
シェラは青い空や見渡す限りの草原を楽しみつつ、パクパクと実を口に運んでいく。
「あの、もう寝ちゃいました?」
傍らの《オオカミ》に声を掛けてみる。
「良かったら、一緒に食べませんか? おいしいですよ、この実」
落ち着くまで、これ以上一瞬たりともシェラを視界に入れてはいけない、と自戒したヴァンツァーは、寝たふりをしている。
「……気持ち良さそうに眠ってる……起こしちゃ悪いな」
全然気分は良くないし、眠ってもいないが、あえて無視して狸寝入りを決め込む《オオカミ》。
できるだけそっとしておいてもらえるとありがたい、というのが彼の本音だ。
そんなヴァンツァーをよそに、シェラは持って来た実をすべて胃袋に収めた。
そして、大きく伸びをする。
「ふぁ~、お腹いっぱい。気持ちいいから、私も寝ようかな」
そのままゴロリと横になろうとして、彼は『いいこと』を思いついた。
そっと立ち上がると、足音をさせないように歩いて、背を向けているヴァンツァーの正面へ向かった。
──たしか、一緒に寝れば、お腹いっぱいになるんだよね。
ひとつ頷くと、シェラはヴァンツァーの胸の中にその身を潜り込ませた。
ヴァンツァーは反射的に飛び起きそうになった。
しかし、《ヤギ》はそんな《オオカミ》の様子に気付きもせず、すぐに健やかな寝息を立て始めた。
近いし、良い匂いがするし、手を出したいし、で、これはもう拷問だった。
そろり、と目を開けたヴァンツァー。
シェラが眠っていることを確認する。
銀の長い睫に覆われ、今はきらきらと光る紫の瞳は見えない。
細く通った鼻梁も、ちいさな赤い唇も、薔薇色の頬も、とにかくすべてが美味しそうなのだ。
間近で見ても真っ白な肌は滑らかでシミひとつないし、そよぐ風に揺れる銀髪は陽光を弾いて煌いている。
「……」
思わずゴクリ、と喉を鳴らしそうになった。
こんな経験はしたことがない。
きっとこの《ヤギ》は、今まで食べた者たち以上の極上品だ。
これを食べれば、しばらく《エサ》を探さなくても良いだろう。
それは間違いないことのように思われた。
「……」
しかし、この《ヤギ》と話していて楽しかったり、ほっとしたりするのも、また事実なのだ。
そのとき、ふわり、と吹いた風にシェラの髪が流され、隠れていた耳が露わになる。
やわらかそうな耳朶。歯を立てたら、きっと楽しい。
どんな反応を返してくるのかも見てみたい。
ちょっとだけ、かじってみたい衝動に駆られる。
──あなたはお友達ですから、耳くらいならどうぞ。
幻聴まで聞こえてくる始末だ。
こんなに堪え性のない男だったのか、と自分を笑いたくなりながらも、そろそろ我慢の限界だった。
大体、こんなに無自覚な《ヤギ》がいることがいけない。
どこの世界に、《オオカミ》の隣で寝る《ヤギ》がいるのだ。
もう、最後はひとのせいだ。
ヴァンツァーはその形の良い唇を薄く開き、そっとシェラの耳に近づける。
差し出した舌が、ほんの少し、シェラの耳朶に触れた。
「──ゃんっ」
ピクリ、とシェラの肩が震えた。
咄嗟に身を引くヴァンツァー。
「くすぐったぁい……」
ふふっ、とちいさく笑いながら、シェラは薄く目を開いた。
壮絶な艶。
──これは、俺の堪え性以前の問題だろう……。
むしろ、ここまで耐えられている自分は、すでに聖人君子の域に達しているに違いない。
そう思ったヴァンツァーの前で、シェラはゆっくりと身を起こした。
「私くすぐったがり屋で……特に耳はダメなんです」
奇妙な顔をしているヴァンツァーを見て、シェラは首を傾げた。
「どうかしました? 私の耳が何か?」
「──いや……」
「そうですか? じゃあ、そろそろ行きましょうか」
「そうだな」
早く離れるに越したことはない。
そうだ。目の前にいなければ、耐えるも何もないのだから。
我ながら良いことを思いついた、と考えるヴァンツァーの前を、シェラは足取り軽やかに歩いていく。
その動きを、ついヴァンツァーは目で追ってしまった。
さっきの反応を見てしまったら余計に耳は気になるし、二の腕も太ももも気持ち良さそうだし、思考はあらぬ方向へと向かうばかりである。
「──……こんなもの、我慢できるか」
ヴァンツァーは舌打ちすると、シェラのところへ駆け寄った。
足音はせずとも、気配に気付いたシェラが振り返る。
「何か?」
ふたりは山道の途中で立ち止まった。
やわらかく煌くシェラの銀髪も、澄んだ菫の瞳も、何だか《ヤギ》というよりも神々しいもののような気がしてきて、ヴァンツァーは一瞬言葉に詰まった。
「い、いや……ひとつ、大事なことを忘れていた」
らしくもなく、声が震える。
鼓動は異様な速さで、不整脈ではないかと思われた。
無意識に握った手は汗ばんでいて、やはりこれも小刻みに震えている。
「忘れて? 何でしたっけ?」
きょとんと首を傾げる仕草は確かに可愛いが、今手を伸ばせば二度と会えなくなるんだ、とヴァンツァーは自分に言い聞かせた。
今喰うか、この先まだ会えることを選ぶか。
シェラから視線を逸らし、俯き加減でヴァンツァーは口を開いた。
「……今度、いつ会う?」
シェラはヴァンツァーを見つめて、にっこりと笑った──。
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