あらしのよるに?

朝のコーラル山では、《ヤギ》の長老・ルウがみんなを集めて何か話している。
長老、とはいっても、非常に美しい青年だ。
長い黒髪に、海のような青い瞳、真珠のように淡く輝く白い肌。
この世のものとは思えない美しさだ。
造作だけを言うならば、リィやシェラの方が美しいかも知れないが、この青年は独特の雰囲気を持っている。
見る者すべてを自然と惹きつける魅力を。
それが、彼を長老たらしめている所以かも知れない。
ある種の絶対的なカリスマ性。

「でね、この辺はまだ暖かいけど、北の方はもうかなり寒いんだ。だから、これから冬に向かって、《オオカミ》たちが本格的に僕たち《ヤギ》を狙ってくると思うんだ」

見た目とは裏腹の、こどもっぽい喋り方。
少し、舌っ足らずな印象を受ける。
それでも皆、慣れているのか、長老を尊敬しているのか、真剣に耳を傾けている。

「特に《エサ》の中でも、僕たち《ヤギ》は腹持ちがいいらしいからね。これからが一年で一番危険な時期ってことになる。油断しないでね?」

おっとりした話し方で言われても正直説得力に欠けるのだが、皆長老の一言に気を引き締めたようである。

「なるべく、ひとりで行動しないように心がけて、群れで動くように」

と、言っているそばから、シェラはこっそり集会を抜け出そうとしている。
それに気付いたシャーミアンが声を掛ける。

「シェラ、どこへ行くの?」
「えっ? いえ、あの、その……」
「何か怪しいですわっ!」

ポーラが可愛らしい顔を険しくして詰め寄ってくる。
怒っている、というよりも、シェラが心配なのだ。

「べ、別に何も……」

シェラが行く先をちらちら窺い、仲間たちの追及も逃れられず、とやっていると、ジェームスがやってきた。

「こんなところで何をしているんだ?」
「シェラがどこか行くみたいだから」
「どこへ行くんだ、シェラ」

六つの目が一斉に自分に注目したので、シェラはおどおどしながら口を開いた。

「いや、あの、ちょっと、パラスト峠で約束があって……」
「パラスト峠~?!」

ジェームスが大きな声で叫ぶ。
慌ててジェームスの口を押さえ、周囲を窺うシェラ。
長老たちにばれたら連れ戻されるに決まっている。

「何馬鹿なこと言ってんだよ! あそこは、この間真っ昼間に《ヤギ》が《オオカミ》にやられたところだぞ?! この頃じゃ『昼飯峠』とも呼ばれてるんだからな!!」
「ひとりじゃ危ないわ」

ポーラが、涙ぐんだ顔で覗き込んでくる。

「でも……約束したから」

照れていたのか、俯き加減で話していたヴァンツァーのことを脳裏に描く。
あの《オオカミ》は、決して怖くないし、乱暴でもない。
皆が心配するようなことは起こらないのに。
何とかシェラはひとりで行こうと試みた。

「こらこら。何騒いでるんだ?」

そこへリィが来た。

「リィ! シェラがひとりでパラスト峠に行くって言うの!」

ポーラが泣きつく。
女の子の涙に弱いリィは、困った顔でシェラに向き直る。

「ひとりは危ないんじゃないか?」
「……約束、したから。破りたくない」

約束を何よりも大事にするリィだ。シェラはきっと分かってくれると思った。

「なるほど。それなら、ジェームス辺りを連れていけよ」
「え?」

シェラは目を丸くする。

「戦闘面はまだまだ修行が必要だけど、《オオカミ》には詳しいし。まぁ、ちょっとした案内役にはなるだろう」
「まだまだって何だよ!」
「お前なぁ、そういうでかい口は、おれに一発でも入れてから叩け」

ぐっと詰まるジェームス。

「おれが行ければ一番いいんだろうけど、これからちょっと会議なんだ」
「いつも面倒くさがってるのに」

シェラは少し笑った。

「仕方ないさ。群れの存続に関わる重大会議じゃな」

じゃあ、ジェームスと一緒に気をつけて行ってこい、と言うと、リィは長老たちの元へと走っていった。
仕方なくシェラはジェームスと出発した。
パラスト峠への道を歩きながら、ジェームスはため息ばかり吐いているシェラにしきりに話し掛けた。

「いいか、シェラ。お前はそんな顔してるけど、俺がついてきて良かったんだからな。《オオカミ》のことなら何でも訊いてくれ。──って、またため息かよ」

シェラは黙ったままだ。
《オオカミ》は《オオカミ》でも、あの《オオカミ》は違うのに、と言いたくても言えない。
だって、食べるつもりだったらいつだって自分を食べることができたのに、全然そんな素振りを見せない。
一緒に寝るだけでいいなら言ってくれればいいのに、それすら遠慮するような思いやりのあるひとなのだ。
自分を友達として扱ってくれる。
《オオカミ》だって、怖いひとばかりではないのだ。

「俺は《オオカミ》に詳しいだけじゃなくて、何度も見てるんだ。《オオカミ》なんてさ、近くで見ると、目はギラギラしてて、口は下品に歪んでて、鼻は不細工で、見てくれも性格も、本当にどうしようもない奴らばっかりなんだ」

大体、あのひとのことを何も知らないくせに、ひどいことばかり言うジェームスに、シェラはそろそろ我慢の限界を迎えようとしていた。

──そんなことない! あのひとはすごくやさしくて綺麗なんだから!

何度も喉から出そうになった言葉だ。

「あのなぁ、シェラ。《オオカミ》っていうのは」
「ジェームスぅ……」

ふと立ち止まり、項垂れるシェラ。

「え? あ、どうした?」

シェラの正面に回り込む。

「あ、あのね……」

もじもじとして恥らっているシェラの頬は、熟れた木の実のように赤い。

「何だよ。ほら、言ってみろ」
「うん……あのね、あの……おトイレ……」
「はぁ?」
「だ、だからっ! 用を足したいの!」

真っ赤な顔で上目遣いに訴えてくるシェラは、そこら辺の雌よりも可愛い。
ジェームスも、ついドギマギしてしまう。

「じゃ、じゃあ、一緒に」
「やだぁっ!」

悲鳴のような声を上げるシェラ。

「シ、シェラ?」
「そ、そんなの、恥ずかしくて死んじゃうよぉ……」

涙の浮いた瞳はきらきらとしていて、同じ雄なのは分かっていても眩暈を起こしそうになる。

「わ! 分かった! ここで待ってるから、とっととしてこい! 気をつけろよ?!」
「ありがとう! 絶対こっち向かないでね!」

にっこりと笑ったシェラにへらっ、と笑みを返し、ジェームスはシェラに背を向けた。
シェラは「しめた」と思い、草むらに入るまでは普通に歩いていたが、青く茂る草を踏みしめると、少しずつそろそろと足音を忍ばせてジェームスから離れていった。

──そして、一気に猛ダッシュした。

元々走ることは大の苦手のシェラだ。
足がもつれ、何度もつまずきそうになった。
上手い呼吸の仕方など分からないし、そんなことを気にしている余裕もなかった。
心臓は勢いよく血液を送り出し、肺はキシキシと痛む。
喉だって痛いし、足首の痛みも尋常ではない。
それでも、シェラは懸命に走った。
ジェームスから離れた。
パラスト峠には、自分を待っている友達がいるのだから。
後で怒られたって知らない。
約束を破りたくないし、ジェームスがいたら絶対に《オオカミ》を怖がって、彼にひどいことを言ったり、攻撃したりするかも知れない。
彼はやさしいひとだけれど、攻撃されたら《ヤギ》を食べてしまうかも知れない。
お腹いっぱいになるには寝るだけでいいのだろうけれど、食べられないこともないのだろうから。
目の前で仲間を食べられたら、きっと自分だってショックを受ける。
それは避けなければならない。
自分はひとりでも大丈夫。
今まで、彼以外の《オオカミ》には遭ったことがないから。

──大丈夫。


どれくらい走っただろうか。
もう息の吐き方が分からなくて、目も霞んできた。
と、遠くの木陰に見慣れた黒い影。
間違いない。
友達の姿を見間違えるはずがない。
こちらに気付いた影は、何だか慌てた様子で駆け寄ってくる。

──もうちょっと。頑張れ、私の足。もうちょっとだから。

倒れ込みそうになったシェラの身体は、がっしりとヴァンツァーの腕の中に抱きとめられた。

「おい! お前、どうした?!」

地面に膝をついて、シェラが手足を伸ばせるようにしてやるヴァンツァー。
荒い呼吸を繰り返すシェラは、何も返すことができない。
薄い胸は忙しなく上下しているし、身体中汗で濡れている。
手や足は小刻みに震えているし、血色が悪い。

「──まさか、《オオカミ》に襲われたのか?!」

汗で頬に張り付いた銀髪を剥がしながら、焦燥感でいっぱいの声で訊く。
青ざめた顔で覗き込んでくる友達に、シェラは首を振ることで答えた。
ヴァンツァーはシェラに両手で口を覆わせ、二酸化炭素を吸い込ませる。
過呼吸の応急処置だ。
しばらくそうして呼吸を繰り返すと、会話ができるまでにシェラは回復した。

「だい、大丈夫……ちょっと、急いで、走って……きた、だけですから……」

それでもまだ大きく上下するシェラの胸。
息を吸うたびに胸に痛みが走る。
それでも、友達に会えたシェラの表情は晴れ晴れとしている。
約束も守れたし、余計な争いも生まなかった。
ちょっと疲れたけれど、自分もやればできるのだということが分かった。

「走って……?」

訝しげな顔になるヴァンツァー。
自分はかなり早くここに着いたので、待ち合わせの時間まではまだかなりある。
そう急ぐこともないだろうに。

「えっと……シェラのことが、心配だから、ついていく、っていう仲間がいて……まいてきました」

あっ、とシェラは今更気付く。

「私の名前、シェラ、っていうんです」

話をするのも辛いだろうに、シェラは本当に嬉しそうに微笑みながら名乗った。

「女の子みたいで、おかしいでしょう?」

ヴァンツァーは首を振った。

「綺麗で、やさしそうな名前だ。よく似合っている」

シェラははにかむように笑った。

「俺はヴァンツァー」
「強そうな名前。──でも、何か変ですね。今頃お互いの名前を言い合うなんて」
「そうだな」

呼吸の治まったシェラの身を起こしてやる。
手を引いて導き、草の上に座らせる。

「あの、ずいぶんお待たせしちゃいました?」

遅刻はしていないと思ったのだが、ヴァンツァーは自分より早くにここにきていたようだ。

「いや。ついさっき来たところだ」

それは嘘だった。
近くに《オオカミ》がいないか確認するために、早く出てきたのだから。
だから、シェラが《オオカミ》に襲われたのでは、と思ったときは自己嫌悪した。
シェラはそれに気付かず、「良かった」と笑った。

「とにかく仲間がうるさくて。今から《オオカミ》と会うなんて言ったら、大変なことになってましたよ」

クスクスと困ったように笑うシェラ。
隣に腰を下ろしたヴァンツァーも、苦笑している。

「俺もだ。《ヤギ》と友達だなんて、群れの仲間には絶対に言えない」

それも、極上品だ。
間違っても他の《オオカミ》の目に触れさせるわけにはいかない。

「じゃあ、私たちだけの秘密ですね」

シェラは唇の前に指を立て、小首を傾げてヴァンツァーの瞳を覗き込んだ。
その悪戯っぽい仕草と表情に、ヴァンツァーはドキリとした。
この辺が、この《ヤギ》の性質の悪いところだ。
無自覚にこんなことをやってのける。

「……お前、いいのか?」
「何がです?」
「俺のような《オオカミ》と付き合っていて……」

自分が言った「付き合う」という言葉にまで動揺してしまうヴァンツァー。
他意はないのだ。
こんな風に時間を過ごしていて、という意味なのだから。
それでも、妙なことを考えてしまう。

「あはは、そんなこと」

一笑にふされた。

「あなたこそ、いいんですか? 私のような《ヤギ》と付き合って」
「……」

一瞬、「お前がいい」と言いそうになり、言葉を飲み込んだがために妙な間ができてしまった。

「ヴァンツァー?」

名前を呼ばれ、大きく肩を震わせる。

「……やっぱり、嫌ですか?」

悲しそうに紫の瞳が曇る。
反射的に頭を振ったヴァンツァーだ。

「……だからこそ、秘密の友達なのだろう?」
「そうか。そうですよね。仲間に言えるようじゃあ、秘密じゃないですもんね」

ふたりは微笑みを交わし、立ち上がると森の中を散歩した。
ふたりの間で、会話が尽きることはなかった。
それはお互いの一身に関わる趣味だったり、好みだったりと他愛ないものだったけれど、時折相手の意外な一面を垣間見ることができて楽しかった。
たとえば、ヴァンツァーは手先が器用で、シェラに花の冠を作ってやった。
──真似をしようとしたシェラはすぐに茎を切ってしまい、ヴァンツァーに笑われた。
シェラは細い腕に似合わず木登りが得意で、ヴァンツァーの前でスルスルと巨木に登って見せた。
──ヴァンツァーが目の遣り場に困ったことは言うまでもない。
楽しい時間というものは、刹那の間に過ぎてしまう。
ふたりは時間の許す限りたくさんお喋りをすると、また会う約束をしてそれぞれの群れに帰っていった──。  




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