あらしのよるに?

翌日、スケニア谷で《オオカミ》たちの集会が開かれた。
半円になって集まっている《オオカミ》たちの正面にいるのは、金茶の髪と瞳の少年レティシアだ。
左の目に額から頬にかけて広がる大きな傷。
かつて目を抉られ、今は義眼が入っている。
それを除けば、色白で細身の小柄な少年で、可愛らしい印象すら受ける。
群れの中心にいられるような風貌はしていない。
年齢的にも、成人した経験豊富なおとなをさし置いて、リーダーの地位についている。
しかし、彼は群れでもっとも強い《オオカミ》だった。
敏捷性の高い身体からの一撃は、目にとまることすらない。
細くとも、その身に潜む力はすさまじいものがある。
片目が見えないから、と油断していると、殺されたことにも気付かずにあの世行きだ。
だから、レティシアがリーダーであることに文句を言う《オオカミ》はひとりもいない。
実力でその地位にのし上がった少年だ。
──本人のやる気はともかくとして。

「──ってーわけだから。これからの狩りは失敗すんなよ。もうこの辺一帯はかなり寒波がきてるからな。今のうちに、少しでも腹持ちのいい《エサ》探しておかねぇとだ。気ぃ引き締めていけよ」

本人の言葉にさらさら力強さが感じられないのだが、スケニアの冬の厳しさを知っている《オオカミ》たちは、「おうっ!」と勇ましく返事をした。

「手始めに、今日は早速タンガが丘で《ヤギ》狩りだ」

レティシアの言葉にぎょっとしたヴァンツァーだ。

「──レティー。あそこにはあまり《ヤギ》はいないだろう?」

今日シェラと会う約束をしているタンガが丘に、ぞろぞろと《オオカミ》たちが来たのでは困るのだ。
自分だとてレティシアに次ぐくらいの実力は持っているが、不安材料は少ないに越したことはない。
シェラに対して食指の動かない《オオカミ》など、いるわけがないのだから。
レティシアとは昔から友人であるヴァンツァーは、何とか気を変えてもらおうと試みた。

「何を言っている。だから狙うのだろうが。あそこはゴツゴツした岩ばかりだが、その岩の間に生えている木の実が、《ヤギ》にとっては美味いらしい。俺が見たところ、必ず数人の《ヤギ》が来ている」

バルロがにやり、と獰猛な笑みを浮かべた。

「なるほど。で、具体的にどういう作戦で狩るんだ?」
「珍しいな。お前が狩りに参加するなんて」

レティシアが目を丸くする。 ヴァンツァーはひとりの《ヤギ》に対して大勢で襲い掛かるような真似をするのを嫌っているので、ほとんど単独で行動しているのだ。

「参加するかどうかは分からん。ただ、お前たちが騒いでいる近くでは、落とせるものも落とせん。邪魔にならないように、動きを知りたいだけだ」
「うわー。すげー厭味。お前で落とせないオンナってどんなだよ!」

レティシアがゲラゲラ笑っている。

「あはは。ま、いいや。バルロ、あんたたちはいつものように《ヤギ》を追う役だ。そっと近付いて、引き止めて口説け。次はカルロス。あんたたちは《ヤギ》の退路を断て。はさみうちだ」

といったように、口々に指示を出していく。
そして、レティシアはにやり、と笑った。

「──後は、みんな楽しんでくれ」

《オオカミ》たちが空気を揺るがすような大声で答える。

「……」

無言でその様子を見ていたヴァンツァーは、何とかシェラだけでも逃がしてやる方法がないかと頭をめぐらせた。
レティシアがどれだけ有能な男かは、嫌になるほど知っている。
彼の容姿からして、ひとりで動いた方が遥かに効率が良いのに、群れの全員が飢えないだけの《エサ》の居場所を探り出し、見事な采配で落としていく。
これまでは特に気にも留めていなかったレティシアの指導力だったが、今ではそうもいかない。
時間は、そう残されていないのだ。


シェラがタンガが丘にやってきた。
ところが、辺り一面濃い霧が立ち込めていて、自分の足元すら見えない始末だ。
ヴァンツァーが来ても気付けないかも知れない。
待ち合わせ場所にした目印の木も、どこにあるのか分からない。
シェラがキョロキョロ周囲を見回していると、《オオカミ》たちが丘を登ってきた。
何も知らないシェラは、ヴァンツァーの訪れを今か今かと待っているわけだが、少し丘を下って迎えに行こうと思ってしまったのがいけなかった。
レティシアたちのすぐ近くまで、丘を下ってしまったのだ。
霧の向こうに黒い人影が薄く見える。

「ヴァンツァーかな……?」

目を凝らしてみると、黒髪ではなく金茶の頭が見えたのでびっくりした。
この気配は《ヤギ》でも《ヒツジ》でもない──間違いなく《オオカミ》だ。
ヴァンツァーのようにやさしい《オオカミ》かどうか分からない。
シェラは慌てて岩陰に隠れた。

「あちゃー。風向きが悪くて、《ヤギ》の匂いが全然分かんねぇや……近くに居るのは分かってんだけどなぁ」

《ヤギ》特有の甘い香りよりも、気配を探った方が早いと判断したらしい。
レティシアの感覚は非常に鋭敏だ。
絶対に背後にひとを立たせない。
そんなレティシアに、シェラの存在が感知されるのは時間の問題かと思われた。
実際、レティシアはどんどんシェラの隠れている岩陰に近付いている。
シェラもその気配を感じているのか、震えながら縮こまっている。

──と、そのとき。

「レティー」

聞きなれた低い声がした。

──ヴァンツァーだ。

シェラはほっとして、少しだけ肩の力を抜いた。
それでも、まだ息は詰めている。

「あんだよ。この辺に《ヤギ》がいそうなんだ。ちょっと黙っててくんねぇか?」
「頂上の方に《ヤギ》がいた。俺の好みではないから譲る」

レティシアは猫のような飴色の目を真ん丸にした。

「お前ねぇ。あんま選り好みしてっと、そのうち喰いっぱぐれるぞ?」
「その気になれないんだから仕方ないだろうが」

不服そうに顔を顰める友人に、レティシアはケラケラと快活な笑みを送った。

「ま、イイ子探せよ」

ポン、とヴァンツァーの肩を叩くと、丘の頂上を目指して走り出した。
その後姿を見送ってほっとしたヴァンツァーは、シェラの方を振り返って心臓が止まるかと思った。
何と、バルロが今にもシェラに飛び掛ろうとしているではないか。
その気配に振り返ったシェラは「あっ!」と言ったきり、恐ろしくて身動きが取れなくなってしまった。

──ヴァンツァーと違う。この《オオカミ》は、怖い……っ!

ヴァンツァーは盛大な舌打ちを漏らすと、地面から小石を拾って弾丸のように指で弾いた。
手応えを確認する間もなく、ヴァンツァーはシェラの手を引いて霧の中へ駆け出した。
逃げる途中、シェラは《ヤギ》の悲鳴や《オオカミ》の怒鳴ったり唸ったりする声を聞いた。
タンガが丘は、まるで戦場だった。
その中を、シェラとヴァンツァーはしっかりと手を繋いで走り続けた。
やがてふたりは、ちいさな洞穴を見つけ、その中に飛び込んだ。
走るのが得意ではないシェラは、心臓や肺が口から飛び出しそうになっている。
全身が心臓だ。
ドクドクと、耳にまで血流の音が聞こえる。
それでも、まだヴァンツァーと繋いでいる手はしっかりと握られており、安心する。
全身霧と汗でびしゃびしゃで、繋いだ手も汗ばんでいるが、ふたりともそんなことは気にしていない。
シェラの隣に腰を下ろしたヴァンツァーも、さすがに息を切らしている。
こんなに必死になったのは、初めてかも知れない。

「……良かった。お前が無事で」

先に呼吸が整ったのは、当然ながらヴァンツァーだった。
岩肌に背を預け、目を閉じて呟く。
冷たい岩肌は、火照った身体に気持ち良かった。

「ありがとう、ヴァンツァー。何度も助けてくれて」

仲間を傷つけてまで守ってくれた。

「……当然のことをしただけだ」
「当たり前の《オオカミ》は、《ヤギ》を追いかける方ですよ」

──あんなに、ギラギラとした目で。

「それもそうだな……。だが、俺は────《ヤギ》のお前ではなく、お前が好きだ」

相手のことは見ずに、ぽつりと呟く。
シェラの傍は、心が休まる。
ときどきびっくりするような言動をするが、それも新鮮で楽しい。
後は刺激的過ぎる服装をなんとかしてくれれば、もっとほっとできるのに。

「ヴァンツァー……」

シェラは、照れたのか下を向いてしまった。
まだ、手は繋いだまま。
ふとヴァンツァーが顔を外に向ける。

「静かになったな。霧はまた濃くなってきたが……」
「おかげで見つからなくて済んだじゃないですか」

ヴァンツァーは、ゆっくりとシェラに視線を移した。

「……本当は、この丘にお前を呼んだのは、今夜が満月だからだ」
「満月ですか?」

再び外へ視線を投げるヴァンツァー。
霧で何も見えないのは分かっているが、夜空に浮かぶ月を見上げるような仕草。

「ここから見える月は、とても綺麗なんだ。お前の髪と同じ、綺麗な銀色で……どうしても見せたかった。その月を見ていると、嫌なことなんか、みんな忘れられるんだ」

ほんの少し寂しさの滲んだ、やわらかい声。
どんな嫌なことを忘れたいのか、シェラには分からない。
自分はいつも仲良しの仲間と楽しく暮らしてきた。
そりゃあ《オオカミ》に襲われた仲間の話を聞くこともあって、悲しかったりはするけれど、それでも毎日楽しかった。

──ヴァンツァーは、違うのかな……?

シェラは、繋いだ手に力を込めた。
ヴァンツァーが振り返る。

「今夜は月を見られそうもないけど……私は、ヴァンツァーと話していると、嫌なことみーんな忘れられるんですよ」

ふわりと微笑むシェラ。
大きく藍色の瞳を瞠るヴァンツァー。
胸が、詰まる。
嘘でも、慰めでも、嬉しかった。
だから、笑顔を返した。

「俺もだ」

シェラは更ににっこりと笑った。

「また満月、見に来ましょうね」
「あぁ」

走って熱くなった身体は、すでに冷えてしまった。
霧のせいで肌寒い。
それでも、繋いだ手から温もりが伝わってくる。
だから、ふたりはずっと手を繋いでいた。
やがて、谷底から湧いてくる霧が、岩山を白く包み込んでいった──。  




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