あらしのよるに?

ダンガが丘で騒動のあった翌日、コーラル山の麓では、《ヤギ》たちが何やら騒いでいる。
仲間の雌《ヤギ》が、身体中傷だらけになって帰ってきたからだ。

「アランナ!!」

ナシアスが妹に駆け寄る。
アランナの着ているものは破れたり、土で汚れたり、ひどい有様だった。
結い上げていた髪もボロボロで、白い手足は泥で汚れている。
顔は泣きはらして目は真っ赤だ。

「一体どうしたんだ?!──まさか、《オオカミ》に?!」

真っ青な顔で悲鳴を上げるナシアス。
瞳だけが、たぎるような怒りに燃えている。

「お、お兄様、あの、確かに《オオカミ》に襲われましたけど」
「やっぱり!」
「あ、で、でも、何もされてませんわ!」
「本当か?! お前まさか、わたしを心配させないように」
「本当です! お兄様が落ち着いて下さい!!」

妹に諌められるナシアスの肩をリィが叩く。

「アランナの言う通りだ。ちょっと落ち着け」
「あ、あぁ……」

ナシアスに代わってリィがアランナにことの次第を訊ねる。

「あ、はい。タンガが丘で、《オオカミ》の群れに襲われました」
「あそこに《オオカミ》の群れが出たって話は、今まで聞いたことがないな」

首を傾げるリィ。

「他の山の《ヤギ》たちと一緒だったのですけれど、《オオカミ》は群れで来たので大変でした」

そのときのことを思い出したのか、アランナの目に涙が溜まる。

「どれくらいやられた?」

集まっていた《ヤギ》たちの間からウォルがルウと一緒にやってくる。

「分かりません! 自分が逃げるだけで精一杯でしたもの!」

アランナは自分の傷を見せるように、腕を突き出した。

「冬が近いから、奴らも必死なんだな……」

リィが苦い顔をする。

「あっ!」

アランナが鋭い声を上げる。

「どうした? どこか痛むのか?」

ナシアスが不安げな顔で妹の身体を支える。

「いいえ! わたくし、逃げる途中でとんでもないものを見ました!!」
「とんでもないもの?」

ルウが先を促す。

「それが、あの騒ぎの中を、《ヤギ》と《オオカミ》が仲良く手を繋いで逃げてましたわ!」
「《ヤギ》と《オオカミ》が?!」

途端に集まっていた《ヤギ》たちが色めき立つ。

「まさか! 嘘だろう?」
「わたくしも最初は信じられませんでした! 思わず逃げる足を止めてしまいましたもの! しかも、じっと見たら、その《ヤギ》がシェラじゃありませんか!!」
「はぁ?! シェラが?!」
「本当かよ?!」
「でも、そういえば、あいつこの頃ふらふら出掛けるよな……」
「何だって《オオカミ》なんかと……」

不安は伝染する。 群れの《ヤギ》たちは、どうすればいいのか分からず、長老に助けを求める視線を向けた。
ルウがゆっくりと辺りを見回した。

「──ところで、シェラは今、どこにいるのかな?」


スケニア谷でも、《オオカミ》たちが集まって昨日の狩りの話をしている。
霧のせいでまったく成果が上がらなかったことで、みんな文句たらたらなのだ。
レティシア自身、ここまで狩りがうまくいかなかったことはなかったので、イライラしている、というよりも困惑していた。
《ヤギ》たちが自分たちの動きを察知していたわけはない。
それは断言できる。
実際、いいところまでいったのだ。
ただ、《ヤギ》も逃げることに必死だったことと、霧で《ヤギ》の匂いが分からなかったこと、同じく霧で視界が悪かったことなどが失敗の要因だろうとは分析できる。
それでも、失敗は失敗だ。

──それに、ちょっとした邪魔も入った。

レティシアはバルロに声を掛けた。

「なぁ。ヴァッツはどこ行った?」
「夕べから見ておらん!」

バルロは肩の傷を手当てしながら、忌々しげに受け答えをする。

「ふぅん……」

器用に片眉を持ち上げると、気のない返事をした。
群れることを好かない性分の彼がこの場にいないことは珍しくない。
しかし、バルロほどの手練れを易々と足止めできるような使い手が、昨日の《ヤギ》の中にいたとはどうしても思えない。
肩を砕かぬ程度に、それでもしばらく動けなくなるように加減した礫の一撃だった。
しかも、霧のために相当視界は悪かったはずだ。
気配を探ることに長けている者でないと、こうも上手くはいかない。
──気配と礫を操ることにかけて、ヴァンツァーの右に出る者はいない。
それは、レティシアにしても同じこと。
他の技ならばともかく、それだけは彼に敵わないのだ。
やったのがヴァンツァーなのかどうかは分からない。
やられたバルロ自身、目の前の《ヤギ》に気を取られていたから自分に傷を負わせた者の姿など見ていない。
それでも、可能性は低くないように思われた。

「ちょっとヴァッツ探してきてくれねぇか?」

配下のひとりにそう指示を出し、レティシアは手近な岩に腰を下ろした。


コーラル山の麓では、《ヤギ》たちがシェラを囲んでいる。
地面に座らされたシェラは、自分を見下ろす仲間の顔をチラチラと見遣った。
心配そうな顔をしたシェラのおばあちゃんのカリン、一度シェラにまかれた経験からか怒り顔のジェームス、今にも泣きそうな顔のポーラなど、みんながじっとシェラを見つめている。
立っている者と座っている者の位置関係からか、睨みつけられているような気がしたが、シェラはわざと明るい声で話し掛けた。

「あれ? みんなどうしたの? そんな怖い顔して」

誰も何も言わず、シェラをじっと見下ろしたままだ。
シェラは乾いた笑いを漏らした。

「あの、私が何か……?」

何も分かりません、というように首を傾げると、ルウがゆっくりと口を開いた。

「シェラ。君、《オオカミ》と仲良くしているんだって?」

はっとしたシェラだ。

「《ヤギ》が次々と襲われているときに、《オオカミ》と仲良く手を繋いでいたというのは、本当の話?」

責める口調ではなく、ただ事実を確認する声音。
表情も、いつものルウと同じでとてもやさしい。
だからこそ、逆にシェラの胸は痛んだ。

「……嘘でしょう? シェラ、嘘よね?」

シャーミアンが泣きそうな顔で詰め寄ると、シェラは静かに答えた。

「……本当だよ」

その言葉に、カリンおばあちゃんは泣き崩れた。

「あのひと──あの《オオカミ》、すごくいいひとなんだ! 全然危険でも、乱暴でもなくて!」

シェラは必死で訴えた。
むしろ、ヴァンツァーは寂しがり屋で、繊細なひとなのだと思う。
《オオカミ》全部が彼のようではないのだろうけれど、少なくとも彼は違うのだ。
しかし、シェラの訴えは届かない。

「何考えてるの?! 《オオカミ》は私たちを襲うのよ?!」
「どうかしちゃったんじゃないか?!」

シェラも必死に弁解した。

「そういう《オオカミ》もいるかも知れないけど、彼は違うんだ! それに、一緒に寝るくらいだったら、してあげたっていいじゃない!!」
「何言ってるんだ! シェラ、お前自分の言っていることの意味分かってるのか?!」
「ジェームス」

ルウが真っ赤な顔をしてシェラに殴りかかりそうな少年の肩を引いた。
力を入れているようには見えないのに、ジェームスはピクリ、とも動けなくなった。

「シェラ。君はちょっと、勘違いをしているみたいだね」

ルウはシェラの前に膝をついた。
紫の瞳には、涙が溜まっている。
ルウはそれを指で拭ってやると、やさしく頭を撫でてやった。

「……勘違い……?」

ぎこちなく首を傾げ、ルウの瞳を覗き込む。
青くて澄んだ、綺麗な瞳。
ヴァンツァーの瞳だって、同じように深く澄んだ藍色だ。
目を見ればそのひとのことが分かる、とちいさいころから言われていた。
それなら、ルウと同じように綺麗な目をしたヴァンツァーは、いいひとに決まっている。
なのに、みんな《オオカミ》だというだけで、ちっとも彼のことを分かろうとしてくれない。
それが一番、悔しかった。

「ルウ……ヴァンツァーは、とてもいいひとなんです……みんなが言うような、ひどいひとじゃない……」

拭うそばから、ポロポロと涙が零れる。

「うん。シェラがそう言うんだから、きっとそうなんだと思うよ」
「だったら」
「でもね、シェラ」
「……」

ルウの声は大きくなかったけれど、とても真剣だったから、シェラは口を閉ざした。
くしゃり、と銀髪を撫でると、ルウは泣き笑いの表情を浮かべた。

「《オオカミ》が、生きるためにぼくたち《エサ》の精気を必要としていることは、覆せない事実なんだよ」

シェラは大きく目を瞠った。

「──……精気……?」

初めて聞くその響きは、シェラの頭からしばらく離れなかった。


その頃、スケニア谷ではやはりヴァンツァーが仲間たちに囲まれていた。
悠然と岩に背を預けて佇んでいるヴァンツァー。
その美貌には、何の表情もない。
群れの《オオカミ》たちを背にしたレティシアに、ヴァンツァーは声を掛けた。

「随分ご大層なやり方だな」
「まぁ、これもお前の実力を買ってのことだと思ってくれ」

おどけた調子の言葉に、ヴァンツァーはつまらなさそうに鼻を鳴らした。

「でもよ、俺の気持ちも分かってくれって。あの霧で獲物を捕まえそこなったのに、お前がその手助けしてんだもんよ」
「……」

眉ひとつ動かさず、ヴァンツァーはレティシアを見つめている。

「すげー可愛い銀髪のお嬢ちゃんだって?」

一歩一歩ヴァンツァーに近付いていくレティシア。
テレテレとしただらしのない歩き方なのに、まったく隙がない。
ヴァンツァーの一歩手前で、ピタリと足を止めた。

「──美味かった?」

瞬間、レティシアの背が岩肌に叩きつけられた。
色めき立つ《オオカミ》たちを、レティシアは片手をひらり、と払うだけで下がらせる。
ギリギリと襟を締め付けてくるヴァンツァーの力は、容赦がない。
その藍色の視線のあまりの鋭さに、レティシアは思わず笑ってしまった。

「──ったく。イイ目してやがる。射殺されそうだな」
「へし折られたくなければ、余計なことは言うな」
「何だよ。味見もしてねぇの?」

締め付けが更にきつくなる。
止められていても、仲間たちが闘気を剥き出しにしてくる。

「……あいつだけでいい。あの《ヤギ》だけは見逃せ」

妥協案を提示しようというヴァンツァー。
レティシアは絞め殺されそうになりながらも、まだ薄笑いを浮かべている。
苦痛を感じていないようだ。
若きリーダーは、ポンポンとヴァンツァーの肩を叩いた。
話をしたいのだろうから、ヴァンツァーは僅かに緩めてやった。
それでも、絶対に油断はしない。
この男は、その気になればどんな体勢からでも相手を殺せる。
これだけの接近を許している時点で、ヴァンツァーも一か八かの賭けに出ているようなものだった。

「そのお嬢ちゃんを見逃すとして、だ。そのオトモダチのお嬢ちゃんに俺たちのいる場所や、いつどこに狩りに行くか、とかどういう作戦なのか、ってなことが筒抜けになっちまったら、俺たち飢え死にするんだぜ?」

肩をすくめたいらしいレティシアに、ヴァンツァーは冷笑を送った。

「あの《ヤギ》だけ、と言ったはずだ。他はどうなろうと構わん」
「情報は漏らしません?」
「俺がその情報を知っている必要もない」

元々群れがどう動くのか、といった情報は、ヴァンツァーが訊かない限りその耳に入らない。

「お前、そのお嬢ちゃんに利用されてんじゃねぇの?」
「……」
「昨日だって、霧のせいにするにゃあ、ちょっとばかり首尾が悪すぎた。お前に情報提供した途端にあのザマだ」
「あいつに頼まれて聞き出した俺が流したとでも?」

首を振るレティシア。

「別に頼まれなくたっていいんだ。お嬢ちゃんを助けたい、と思えば、お前は自主的に聞き出すだろうからな」
「……」
「お嬢ちゃんは、それを見越していたかも知れねぇな」

僅かに藍色の視線が揺れた。
と、腹部に衝撃。

「……レ……ティ────」

ヴァンツァーの身体がズルズルと崩れ落ちる。
自分よりも大きな男の身体を軽々と抱きとめたレティシアは、何の感動も浮かんでいない顔で仲間を見た。

「こいつ、谷底の穴にでもぶち込んでおけ」  




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