あらしのよるに?

現在シェラは、一本の木の根元に紐で繋がれている。
あの後、ルウからすべてを聞いた。
《エサ》とはどんなものなのか、《オオカミ》たちはどうやって生きる力を得ているのか。
もちろん、それまでシェラが考えていたようなものとはまったく違った。
『寝る』とヴァンツァーが言っていたのは、そういう意味だったのだ。
自分は何と世間知らずなのだろう、とシェラは恥ずかしくなった。
同時に、やはりヴァンツァーがどれだけ《オオカミ》として規格外かを思い知らされた。
《ヤギ》の身体からは甘い匂いがする。
仲間を識別するのに役立つ匂いだ、とシェラは思っていたが、ルウは別の意味があると言った。
その匂いを嗅ぐと、《オオカミ》には突発的に発情期が訪れるのだという──自分の意思とは無関係に。
ヴァンツァーは、自分と会っているときにそれをずっと抑えていたことになる。
ルウに言わせれば、そんなことはあり得ないのだという。
生きるために必要な行為だから、我慢をする機能がそもそも備わっていないのだ。
言われてみれば、時々ヴァンツァーの様子がおかしなことがあった。
目を逸らしたり、隣に座るのを躊躇ったり。
シェラは愕然とした。
何気なく寄り添ったり、ヴァンツァーに触れたりしたことは、全部彼にとって辛いことだったのだ。
知らなかったでは済まされない。
知っていなければならないことだった。
知っていて、当然のことだった。
何よりも悲しいのは、自分が無知であったことで友達に辛い思いをさせたことだ。
ヴァンツァーの素振りはとても自然に見えて、それがすさまじい葛藤の賜物なのだと思うと、馬鹿な自分が本当に嫌になる。
自己嫌悪の塊になったシェラに、ルウはやさしく声を掛けた。

「──たぶん……その彼氏は、本当にシェラと友達になるつもりだったんだと思うよ」

そうでなければ、気の遠くなるような苦労をしてまで己を律したりしない。
それだけ告げたルウは、もう随分前にシェラの前からいなくなったわけだが、シェラはその言葉を何度も頭の中で反芻した。
そう、信じたかったからだ。
自分と友達でいたかったから、辛い思いも我慢してくれた。
話していると嫌なことを全部忘れられる、と言ってくれたのは嘘じゃない。
好きだ、と言ってくれたのは、嘘なんかじゃない。

「でも……」

夜の闇の中、誰もいない場所でシェラは呟いた。

「私は《ヤギ》だもんなぁ……みんなの言う通りだ」

ポツリ、ポツリとシェラは独白を続ける。
誰も、聞いてくれるひとがいない言葉。
だから、誰も否定してくれない言葉。

「そういえば、ヴァンツァーはタウ谷の《エサ》は格別だって、言ってた……」

あのときはヴァンツァーを《ヤギ》だと思っていたから、紅い木の実のことを言っているのだと思っていた。

「そうか……あの匂い……」

ヴァンツァーを仲間の《ヤギ》だと勘違いした匂いは、彼が《ヤギ》を襲ったときについたものだったのだ。

「──……嘘、吐かれちゃったのかな……」

声に涙が混じる。
膝を抱えて項垂れる。
と、そこへカリンがやってきた。

「シェラ。起きてるかい?」
「おばあちゃん……」

ゴシゴシと目を擦り、シェラはおばあちゃんを見上げた。

「寝ていられなくてね……。お前に、話しておく方がいいと思って来たんだよ」
「……なに?」
「お前の、お母さんのことだ」
「お母さん?」

シェラの母親は、随分前に亡くなった。

「あぁ。あの子はお前といつも一緒にいた。お前を、誰よりも愛していた」
「うん……。覚えてるよ。なんとなくだけど……」

生きているときのことや、かけてくれた言葉はなんとなく。
シェラは母親の死に顔を見させてもらえなかった。
シェラが母に会ったのは、骨になってからだったのだ。

「あの子は、《オオカミ》に殺されたんだ」
「え?!」
「精気を全部吸い取られてね……。元々、身体の弱い子だったから、耐えられなかったんだろうよ」
「……」
「そのとき、最期の力を振り絞って《オオカミ》の片目を抉ってやったらしい。あの子の遺体の傍に、目玉が落ちてたんだ」

シェラは心の中で、「そうだったのか」と呟いた。
空が白々と明け始める頃、長老を先頭に数人の《ヤギ》たちがシェラの元へやってきた。

「やぁ、シェラ。どうかな。一晩、冷静に考えた?」
「えぇ……まぁ……」
「僕もいろいろ考えたんだけどね。シェラが親しくなった、っていう《オオカミ》の彼氏に、もう一度会ってみない?」
「え? ヴァンツァーとですか?!」

紐で繋がれていなければ、飛び上がっていただろう。
どういうわけでそういう話になったのか。

「うん、そう。つまりね、《オオカミ》たちが君を利用するつもりなら、反対にこっちが利用してやればいいんだ」

ルウはにっこりとそんなことを言い出した。
シェラは困惑した。
昨日の夜と、言っていることが違う。

「君はにこにこしながらその彼氏と会って、彼らの群れのいる場所、群れの数、彼らが絶対に行かない場所や何かを聞き出してくるんだ。そうすれば、君は今まで通り僕たちの仲間だよ。どうかな?」

背後に《ヤギ》たちを従えたルウは、片目を瞑って見せた。
シェラはしばらく無言で考え込んだ。

「分かりました。やってみます」

力強く、頷いた。


スケニア谷の穴に閉じ込められたヴァンツァーは、意識を取り戻すと腹部を押さえた。
舌打ちを漏らす。
あんな見え透いた挑発に乗るなんて、らしくないにもほどがある。

「だが……」

呟きは穴の壁に当たって、思ったよりも響いた。
だが、まったく心当たりがないことを言われても、動揺などするわけがない。
天然かと思っていたあの態度がすべて、計算だとしたら……。
違う、と打ち消してみても、すぐに疑念が湧いてくる。
そんな自分が嫌で、ヴァンツァーは思い切り土壁を殴った。
違う。 あの瞳は違う。
そんな小細工ができる目じゃない。
あの手のあたたかさは、違う……!
信じたい。
話していると嫌なことをみんな忘れられる、と言ってくれた、あの言葉を。
また一緒に満月を見よう、と言ってくれたときの、あの笑顔を。

──……信じたい、のに。

と、ヴァンツァーのいる穴に向かって、いくつもの足音が近付いてくる。
顔を上げると、《オオカミ》たちがズラーッと並んでいる。

「よう、ヴァッツ。頭、冷えたかい?」

レティシアだ。
本当に失敗した、と思う。
片目の見えない彼ならば、組み合いさえしなければ、勝てなくとも負けはしないものを。

「お前の処分が決まったぜ」
「へぇ」
「《オオカミ》の掟に従って、死刑だ」

そんなことだろうと思っていたヴァンツァーだ。
だからどうした、と言いたいくらいの気分だった。

「けどよ。お前は一応俺のオトモダチだからさ。チャンスをやるよ」
「……」
「お前が仲良くなった可愛いお嬢ちゃんに、もう一度会ってこいよ」
「それで?」

ただ死ぬ前に会わせてやる、だなんて殊勝なことをこの男が考えるわけがない。

「お前は、やさしそうな顔をして、《ヤギ》のことをいろいろ聞き出してこい」

お定まりの状況すぎて、笑うこともできない。

「お前が奴らの動きを聞き出してくれれば、俺たちは毎日《エサ》に困らねぇってわけだ」

一瞬、レティシアは頭がおかしくなったのだろうか、と思ったヴァンツァーだ。
たとえ今回シェラと会って《ヤギ》の活動範囲について訊いたところで、そんなものが二度、三度と繰り返され、そのたびに仲間が餌食になっていたら、シェラだとて気付く。
それとも、レティシアはシェラを馬鹿だと思っているのだろうか。

「いいかい、ヴァッツ。チャンスは一回だからな。もし、また裏切るようなら、今度は容赦しねぇ。どこまでも追いかけて処刑する。──それが、《オオカミ》の掟だ」

今度こそ笑い出しそうになったヴァンツァーだ。
必死で笑いを噛み殺す。
よもやレティシアの口から、「裏切る」という言葉が出てくるとは。
これは本格的におかしい。

「──……分かった。もう一度、あの《ヤギ》に会ってみよう」

ヴァンツァーは初めて、己の表情のなさに感謝していた。


雨上がりのパラスト峠に、シェラとヴァンツァーがやってきた。

「お、遅くなっちゃって、ごめんなさい」
「いや。俺も今来たところだ」

どこかぎこちないシェラと、平然としているヴァンツァー。

「ど、どうしますか。今日は……?」
「この下の谷川まで、降りてみるか?」

ほんの少し、口端を上げて微笑む。
いつもと変わらないヴァンツァーの様子。

「えぇ……そうしましょうか」

シェラは自分の態度が怪しまれないかを気にしすぎて、余計におかしな態度になっていた。
それでもヴァンツァーはそんな様子に全然気付いていないようで、シェラは少しほっとした。
ふたりは、足場の悪い峠の崖道を、ゆっくりと降りていった。
ヴァンツァーが先に降り、シェラに手を貸してやる。
滑り落ちそうになるシェラを抱きとめることも、少なくなかった。
その様子を一目見ようと、森の生き物たちがザワザワと後をついてくる。
《ヤギ》たちは、遠くの崖の上からふたりの様子を見ている。

「シェラのやつ、うまくやれるかな?」
「あれが相手の《オオカミ》か? 何か、全然《オオカミ》っぽくないぜ?」
「あんなくっついて……危ないわっ!」

群れとは少し離れたところに、ルウとリィ、ウォルたちがいる。

「うわぁ、シェラって面食いだったんだねぇ!」

暢気に感嘆の声を上げるのはルウだ。

「あの黒いの、ちゃんとシェラをリードしてるな」

ふむふむ、と頷くのはリィだ。

「どうも様子がおかしいと思ったら……。内部偵察はおとりで、本当はシェラの恋人が拝みたかっただけか?」

ウォルが呆れたように言う。

「恋人じゃないよ。友達。たぶん、シェラがエディと同じくらい大切だと思ってる友達」

ルウがふふ、と笑う。
しかし、和やかな雰囲気は離れたここだけだ。
他の《ヤギ》たちの目は殺気立っている。
それはそうだろう。自分たちの存亡がかかっているのだから。
この群れの連中を鎮めるためにも、シェラには『スパイ』という役目が必要だった。
おそらくシェラも、ルウの言葉の矛盾に気付いたはずだ。

「僕は、友達になるのに種族の違いなんて大した問題じゃないと思ってる」
「おれもだ。ただ、生きるためには、《オオカミ》は《エサ》を狩らないといけない」
「それをどう乗り越えるか、ということか?」
「そうだね」


「あ~あ、ちょー可愛いじゃん。あのお嬢ちゃん」

岩場に隠れている《オオカミ》たちから少し離れたところで、レティシアは呟いた。
仲間に示しがつかないから処刑だ何だと言ったものの、彼はヴァンツァーが《ヤギ》と仲良くしていようが別にどうでもいい。
ヴァンツァーは群れの情報を外に漏らしたりはしない。
それほど愚かな男ではない。
それでも、あの生真面目な性格の友人は、お友達の《ヤギ》と毎日のように会っていたがために、ここ数日まともに《エサ》を狩っていない。
だからこそ、自分の一撃であっさり沈んだのだ。

「選り好みはすんな、って言ってやったのになぁ」

ま、あんな極上の《ヤギ》見たら、他のに食指が動かなくなるのも分かるけど、と胸中呟く。

「許せんな、あの男」

レティシアの隣に居るバルロが低く唸る。

「それならばそうと言えば、俺だとて手を出そうとしなかったものを」

苦々しく、まだ傷の癒えない肩を押さえる。

「だ~め、だめ」

レティシアはおかしそうに笑った。

「あの《ヤギ》じゃあ、理性なんか一発ドカン、だ」
「……俺はそんなに無節操に見えるのか?」
「あ? まぁ、良くて女の敵、ってなトコだわな」

バルロは苦虫を噛み潰したような顔になった。
お前にだけは言われたくない、と思っているに違いなかった。

そんなやりとりがなされているとは露知らず、シェラとヴァンツァーはあてもなく川原を歩いていた。
ふたりの間に言葉はない。
何と切り出せばいいのか分からない。
ほんの僅か、たった一度でも、相手を疑った醜い自分が嫌だから。
だから、口を開けない。
口をついて出てくるのは、きっと楽しい話ではなく懺悔と言い訳だ。
ふたりがトボトボと歩いていると、ポツリ、ポツリと止んでいた雨がまた降ってきた。

「あ……」

手をかざし、空を見上げるふたり。

「降ってきたな」

遠くに雷鳴が聞こえたかと思うと、あっという間に土砂降りだ。
林や岩場から覗いていた《ヤギ》や《オオカミ》も、雨宿りに大慌てだ。
シェラとヴァンツァーも雨宿りできるところを急いで探した。
対岸に大きな岩が張り出しているのを見つけたヴァンツァーは、「あそこへ」とシェラを誘った。

「あ、そうですね」

ふたりは川を岩から岩へ飛び移りながら、向こう岸へと向かった。

「滑りやすい。気をつけろ」
「はい」

シェラに手を差し出しつつ、ヴァンツァーは比較的飛びやすそうな岩を探す。
ふたりが助け合いながら渡っていると。

──ピカッ!

空が一瞬明るくなった。

「ひゃあ!」

シェラが思わず悲鳴を上げる。

──ガラガラゴロッ!

「──っ……」

ヴァンツァーも怯んで立ち止まる。
そのとき、雷に驚いたシェラが足を滑らせた。

「きゃっ──」
「シェラ!」

ヴァンツァーが慌ててシェラの手を引く。
軽いはずのシェラの身体なのに、いつもより力が入らない気がして、ヴァンツァーは岩の上に倒れ込むようにしてシェラを抱えた。
信じられないほど無様な己に、ヴァンツァーは秀麗な顔を顰めた。
シェラが落ちないよう腕に力を込めると、冷たい身体に相手の温もりが伝わってきた。
それは、ほっとするあたたかさだった。

「……まったく。木登りは得意なのに、足場の確認は不得手なのか?」

厭味に聞こえないのは、ヴァンツァーがちいさく笑っているからだ。

「はい……私、昔からそそっかしくて……」

シェラはへらっと笑った。

「目が離せないな」
「え?」

目を丸くするシェラには答えず、ヴァンツァーはひとつ息を吐いた。

「実は、ここへはお前を騙すように言われてきた。処刑されたくなければ、《ヤギ》の活動範囲を訊いて来い、と」

雨に打たれながら、正直に話す。
レティシアの狙いが何なのかは分からないが、本当に自分が訊き出して来るとは思っていなかったはずだ。
それでも、またシェラに会えるならいいかと思った。
見つめた紫の瞳は、いつもと変わらず澄みきっている。

「……だが、できそうもない」

こんな瞳に嘘を吐いたら、友達でいる資格もなくなる。
シェラはゆったりと微笑んだ。

「私もですよ。本当は、いろいろ《オオカミ》のこと訊こうと思ってたんです……。でも、ヴァンツァーの顔見たら、そんなことできなくなっちゃった」

困ったように笑うシェラの頭を、ヴァンツァーは撫でてやった。
雨で濡れて顔に張り付いた髪を剥がしてやる。

「秘密の友達、だからな」

ヴァンツァーがおどけたように言うと、シェラは「う~ん」と首を捻った。

「でも、もう秘密じゃなくなっちゃったみたいです」

林の中や岩陰から、いくつもの目がふたりを窺っている。
その目は、何もシェラたちに偵察をさせようとするものだけではないが、そんなことをふたりは知らない。

「おおごとになったな」
「どうします?」

急に真剣になるふたりの顔。

「行くか帰るか、どちらかだ」
「私を食べて終わり、っていうのも、ありますよ?」

仲間のことはとても大事に思っているが、そのためにヴァンツァーを騙す道具に使われるなんてまっぴらだ。
それならばいっそ。
藍色の瞳を瞠るヴァンツァー。
どうやら、今のシェラは自分の言っていることの意味を正確に把握しているようだ。
こんな衆人環視の中でそんなことをしようと言えることに、まず尊敬の念を抱く。
おそらく、よく分からずに言っているのだろうが。
仕方なさそうに苦笑する。

「──……それができれば、一番簡単だな」

シェラの額に口づける。

「え、な、何ですか?!」

何だか熱をもったようになった場所を押さえて、慌てふためくシェラ。
こんなことで動揺する相手を、どうこうしようという気になれるわけがない。

「額への接吻は、友情のキスだ」
「そうなんですか……?」

頬を染めて額を押さえているシェラをしばらく見つめていたヴァンツァーだったが、決心したように言った。

「──行けるところまで、行ってみるか……?」

ゴウゴウと流れる川に視線を投げる。
シェラに視線を戻すと、そこにはほっとする微笑みがあった。

「その覚悟なら、もうとっくにできてますよ」

ヴァンツァーも不敵な笑みを浮かべた。

「生きてまた会いましょうね」
「もちろん」

互いの幸運を祈るように頬に口づけ合うと、ふたりは躊躇いもせずに濁流に身を任せた──。  




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