あらしのよるに?

シェラとヴァンツァーは、しっかり手を取り合ったまま流された。
雨で水かさの増した川の流れはあまりに速く、ふたりの手は何度も離れそうになった。
そのたびにヴァンツァーはシェラを渾身の力で引き寄せ、最後はほとんど抱きかかえる形になった。
泳ぎは得意なヴァンツァーだったが、自分の身ひとつと、助けなければならない命があるのとでは勝手がまったく違う。
この川に滝はないと記憶しているが、どうやって止まればいいのか、そんなことすら考える余裕がない。
何度も頭まで水に浸かり、水面に顔を出し、という動作を繰り返したが、それも自力でどうこうしたというよりは、水の力によってそうせざるを得なかったところが大きい。
一緒に上流から流されてきた石が身体にぶつかり、おそらく擦過傷は無数にあるはずだ。
時折水底に足がつくこともあったが、止まろうとする前に流されてしまう。
ヴァンツァーが遠退きかける意識を引き止められたのは、シェラがいたからに他ならない。
長い間流され続け、体力は限界を迎えようとしていた。
かなり下流に流されたところで、ヴァンツァーは腕の中のシェラがぐったりとしていることに気付いた。
先程までしっかりと自分の服を握り締めていた手に、まったく力が入っていない。
血の気が引いた。
冗談ではない。
──ふとそれが見えたのは、何の力によるものか。
何でも良かった。 視線の先に大きな岩がある。
あそこにぶつかり、勢いを殺せば止まれるだろう。
上流に比べれば流れも遅くなった。
衝撃をやわらげてくれそうな小枝や干草などは岩の前になかったが、そんなことはどうでもいい。
今は、シェラの状態を知らなければならない。
みるみるうちにヴァンツァーの身の丈ほどの岩が視界一杯に広がった。
こんな下流に大きな岩があることは珍しいが、今はそれがいかなる経緯によって生み出されたものかを知る必要はない。
そこにそれがある、という事実が何よりも重要なのだから。
ヴァンツァーは何とかそこへ背を向けようと、流れの中姿勢を変えることを試みた。
それは、容易なことではなかった。
水流が弱まっているとはいえ服が水を吸っていたし、最近まともに《エサ》を狩っていないために体力も落ちている。
それでも、今だけ、今だけ力が出ればそれでいい、と念じた。
ほとんど肩からぶつかっていく。
岩にぶつかった衝撃と、水に押しつぶされる感覚に息が詰まる。
しかし、シェラを捕まえる腕には更に力を込めた。
ふたりの横を、茶色い水が流れていく。
何とか、これ以上下流に流されることはなくなったようだ。
岩の横手の岸からは木の根が伸びていて、ヴァンツァーは片腕にシェラをしっかり抱えると、その根を握った。
それを支えに体勢を整え、息つく暇もなくシェラを岸に上げた。
全身が軋むように痛むが、今は自分のことは後回しだ。

「シェラ! シェラ!!」

仰向けに寝かせ、肩を叩くが何の反応も見せない。
シェラの口の辺りに耳を当てる。

──最悪だった。

気道を確保し、首の脇で脈を調べる。
無意識に歯噛みした。
逡巡もせずに人工呼吸を行う。
肺に空気を送り込み、呼吸の有無を耳で確認、心臓マッサージも行う。
脈を計っても何の反応もない。
同じように心肺蘇生を繰り返す。
何度も。
何度も。
何度繰り返しても戻らないが、諦められるわけがない。

「死なせるか……っ」

心臓に刺激を与えながらの独白。

「……こほっ──」

シェラが水を吐いた。
ヴァンツァーは一瞬手を止め、大きく息を吸った。
数分ぶりに、呼吸をした気がする。

「シェラ? シェラ!」

水を吐きやすいように横にしてやり、背中をさする。
咳き込みながら、飲み込んだ水を吐き出すシェラ。
ゼイゼイと荒い呼吸を繰り返す。
ぐったりと地面に横になるが、呼吸は戻ったし、脈も速いが正常だ。
顔色も徐々に戻っていく。
ヴァンツァーは全身の力を抜いた。
シェラの横に倒れ込む。
仰向けになり、手足を投げ出す。
隣からは忙しない呼吸の音。
それと重なる自分の呼吸。
破れそうな心臓の鼓動。
蘇生術を施している間、ほとんど息を止めていたことにようやく気付く。

「────……」

少し、笑った。
手で顔を覆う。
何だか、泣きそうだった。


ふたりはやわらかく降り注ぐ日の光の中を歩いている。
濁流に流されている間に、日は高く昇ったようだ。
ふたりともの呼吸が戻るまでしばらくじっとしていた。
無理に動けば、余計に進度が遅くなるからだ。
かなり流されたから、森の中を縫って追いかけてくるだろう《オオカミ》たちが追いつくまで多少の時間稼ぎはできた。
だが、長くあの場所にとどまっていて追っ手に見つかっては元も子もない。
身体は疲れ切っていたが、ふたりは立ち上がったのだ。
服が張り付いて気持ち悪かったが、そんなことも言っていられない。
こんな状況でなければ、火でも熾して暖を取るのだが。

「ねぇ、あのふたり、今朝の《ヤギ》と《オオカミ》じゃない?」
「あぁ。あの後川に飛び込んだ奴らだろう?」
「よく生きてたなぁ……」

森の中から《リス》たちがささやく声が聞こえてきた。
ヴァンツァーが小声で言った。

「……この噂は、すぐに《オオカミ》たちに届く」

仮死状態にあったシェラに無理はさせたくない。
細い身体を支えながら歩いているが、シェラは足を前に出すのもやっとだ。

「そうですね……」

力なく呟くシェラ。
と、足から力が抜けた。

「おいっ!」

抱きとめて地面に膝がつくのを防ぐ。
ヴァンツァーの肩にギシリ、と激痛が走った。
奥歯を噛んで堪える。
表情には、ほとんど出さない。
シェラは「ありがとう」と微笑んだ。
顔を顰めたヴァンツァーは、シェラを抱き上げると木の根元に連れて行った。
太い幹を背にしたシェラは、少し楽になったようで表情がやわらぐ。

「どうする?」

むろんこれからのことだ。
ゆるゆると視線を上げるシェラ。

「あの山の向こうにでも、行ってみますか」

ポツリと呟く。
シェラの視線を追ったヴァンツァーはシェラの正気を疑った。
雪に覆われた大きな山。
この辺りでもっとも高い山だ。

「──パキラ山の向こうへか? あの山の向こうへは、誰も行ったことがないぞ」
「だから、行くんですよ。私たち、もう戻るとこないじゃないですか」

ちいさく笑うシェラの顔には、後悔のようなものは微塵も見られなかった。
ただ、ほんの少し、隠し切れない寂しさが滲んでいる。

「それはそうだが……」

迷うのは、あの山の情報が何もないからだ。
知った山ならばいくらでも越えよう。
かなり広範囲の地理は叩き込んである。
だが、何も分からないところへ行くことに対し、ひとりならばともかく、シェラを連れて行くことは躊躇われた。

「私、きっとあると思うんです。あの山の向こうにも、緑の森が……」

自分が生まれ育った場所と同じように、光と緑に満ちた安らげる場所が。

「緑の森……」
「えぇ。きっとありますよ。その森なら、《オオカミ》と《ヤギ》が一緒に暮らせるかも知れない」

本来決して共生は叶わない種族どうしでも、仲良く暮らせる楽園のような場所が。

「──いいんだな。頂上は、あの様子だと深い雪が積もっている。スケニアなど比べようもないくらいに寒いだろう。俺はそれでも慣れている。しかし、お前が住んでいる辺りは気候が温暖で……」
「何とかなりますよ」
「簡単に行ける場所ではない。だから、誰も行かないし、誰も来ない」
「大丈夫。行けますよ」

その根拠のない微笑みの理由を知りたかった。
濁流に飲み込まれたときよりも困難な道に違いないのに。
満身創痍と言って差し支えないような状態で、どうしてそんなことが言えるのか。
拳を握ったヴァンツァーに、シェラは変わらぬ笑みをたたえたままこう言った。

「ひとりじゃ心細くて無理ですけど、今はヴァンツァーがいるから」
「……」
「ふたりなら、何でもできそうな気がしませんか?」

川も無事に下れたし、と死に損なったことは棚に上げる。
にこにこと笑顔を浮かべ続けるシェラに、ヴァンツァーは怒る気をなくした──否、単純に嬉しかったのかも知れない。
誰かに必要とされることは、こんなにも心地良いことだったのか。
じっと見上げてくる紫の瞳を受け止め、ヴァンツァーはひとつ息を吐いた。

「……そうだな。どうせ行くしかないんだ。──きっと、緑の森はある」
「うん」

シェラは本当に嬉しそうに、満面の笑みを浮かべた。
そしてふたりは少し休み、手近な木の実を口にすると、聳え立つ山に向かって歩き出した。


シェラとヴァンツァーを追う《オオカミ》の群れは、森を抜けたところまで来ていた。
ふたりが見ていたのと同じ雪山を、レティシアは見ていた。

「困った奴だなぁ。あいつ、本気になると見境つかなくなるのな……」

レティシアが金茶の頭を掻きながらぼやく。
手下にふたりの行方を捜させているレティシアだったが、これでもかなり遅くしている方なのだ。

「おい。これ以上時間稼ぎはできんぞ」

バルロが偵察から戻ってきたようなふりでレティシアに耳打ちする。

「ったく。だから俺頭張るの嫌いなんだよなぁ……」

珍しくレティシアがぼやくのを聞き、バルロは豪快に笑った。

「何だ、お前にもそんな感情があったのか」
「あのな。俺は友達思いなんだよ」
「似合わんな」

バンバンとリーダーの細い肩を叩くバルロ。
レティシアにこうして触れることができるのは、この男とヴァンツァーくらいのものだ。

「は~あ。見つけたら処刑だぜ? 俺がやんのかよ」

がっくりと項垂れるレティシア。

「何だ、常々『殺させろ~、殺させろ~』と騒いでいたではないか」
「そりゃ個人的にだよ。公開処刑なんて、俺の流儀じゃねぇし」

純粋に決闘がしたいのだ。
見世物にする気はない。

「それに、喰うわけでもねぇのに殺しちゃあ、生態系に影響大だぜ?」

おどけた調子のレティシアだったが、その見えている方の瞳は笑っていない。
そして、群れの連中が戻ってきたのを確認すると、レティシアは重い腰を上げたのだった。


ヴァンツァーとシェラは、ようやく雪山の麓に辿り着いた。
しばらくはゴツゴツとした岩場の多い森が続くようだ。
ここに来るまでに服が乾いたのが唯一の救いか。
濡れた服で雪の中を歩けば、たちまちのうちに氷漬けだ。
たまたま休憩を取りに入った茂みに、二枚のボロ布があったことも幸運のひとつかも知れない。
しかし、そこを《オオカミ》に見つかった。
下っ端が三人。
ふたりを見つけた途端、口々に「見つけたぞ!」と叫んだ。

「追いつかれた……」

鋭く舌打ちするとほぼ同時に三人に当身を食らわせ、ヴァンツァーはシェラの手を取って走り出した。
去り際に、礫になりそうな大きさの小石を拾っていく。
こういった岩場は、ヴァンツァーにとって武器の宝庫と言っても良い。
小太刀の一本でも持ってこられれば良かったのだが、偵察を命じられた状態でそんなことができるわけがない。
状況は、かなり不利だと言えた。
それでも捕まるわけにはいかない。
ふたりは必死で森を走った。
ようやく木々が分かれて光が見えたかと思ったら、そこで道が途切れている。
──崖だ。
《オオカミ》たちが背後に迫っているというのに、ふたりの先には道がない。
それも、崖下はかなり深い谷底だ。
シェラは背後の《オオカミ》を気にしておろおろしている。

「シェラ!」

ヴァンツァーが短く叫ぶ。

「は、はい!」

慌てて駆け寄るシェラ。 崖っぷちに立っているヴァンツァーの横に立つ。

「飛べ」
「はい?!」

ぎょっとして、目が零れ落ちそうなくらい大きく見開かれた。
ヴァンツァーは対岸を指差した。

「枯れ木が突き出ているだろう? あそこまで飛ぶんだ」

言ってシェラに視線を移す。

「木につかまるのは得意だろう?」

悪戯っぽく笑う。
ヴァンツァーの笑顔は非常に魅力的だったが、それとこれとは話が違う。

「……私が得意なのは、立っている木に登ることなんですけど……?」
「ちょっと方向が変わるだけだ」
「……」
「それに、飛ばないと追いつかれる」

はっとして後ろを振り向くシェラ。
姿は見えないが、大勢の足音が聞こえる。

「──足音を立ててくれる奴らが先頭で良かった」

ポツリと呟かれた言葉は、シェラには聞き取れなかった。
そんな心の余裕がなかったのだ。
頭の中は、向こう側の木に飛び移ることでいっぱいだ。

「……ヴァンツァー」

弱々しい声で呼ばれ、ヴァンツァーは視線を落とした。

「何だ」

無理なことを言っているのは承知なので、急がせたりはしない。

「お守り」
「え?」
「おでこに……」

言って前髪をかき上げるシェラ。
言わんとしていることが分かったヴァンツァーは、クスリと笑うと白い額に口づけてやった。

「よしっ」

気合を入れたシェラは、助走をつけるために崖から離れた。
ドキドキするなんてものではない。
心臓が壊れそうだ。
失敗すれば谷底に真っ逆さま。
二度とヴァンツァーにも会えない。
それは嫌だ、と思い、腹をくくる。
ヴァンツァーと出逢ってから走ることが少し得意になった。
十分な距離を取り、走り出す。
大きく手を振り、踏み切った──。
浮遊感。
内臓が持ち上がる感覚。
谷底は見ずに、突き出た枯れ木にだけ意識を向ける。
手を、伸ばした。
ギシリッ、と大きくたわむ枯れ木。
それでも何とか木はシェラの体重に耐えてくれて、必死に木につかまったシェラは少しほっとした。
今度はヴァンツァーの番だ。
シェラは木につかまったまま、背後を振り返り友達の名を呼んだ。
ヴァンツァーは、なぜだかじっと来た道の方を見ている。

「ぜってー逃がすな!!」

レティシアの声が聞こえる。
張り上げるような大声だ。
それを聞いたヴァンツァーは、口端に笑みを浮かべた。
──普段のレティシアならば、絶対にしない行動に対して。

「ヴァンツァー、早く!!」

シェラがまだ木を抱えた状態で叫ぶ。
大きな声を出すと、木が揺れた。

「……」

これでは、ヴァンツァーの体重に耐え切れないのではないかと危惧する。
何とか向こう岸まで這って行こうとしたシェラだったが、崖下を見てしまい、底が見えない不安に駆られた。
高い木に昇ることは得意だし、怖くもないが、こんなに不安定な場所ではないし、さすがにこれは高すぎだろう、と思う。
どうしよう、とヴァンツァーを振り返ると、森の入り口の方に、ちいさく《オオカミ》の群れが見えた。

「ヴァンツァー!!」

シェラの言葉が合図だったかのように、ヴァンツァーはふわり、と地面を蹴った。
シェラとは違い、助走などつけない。
そして、枯れ木の先端に着地すると、素早くシェラの脇に腕を差し込む。
ほとんど体重を乗せずに着地できるのに、ヴァンツァーはわざと今にも折れそうな木に体重をかけて飛び上がった。
跳躍するヴァンツァーとは逆に、枯れ木は折れて谷底に吸い込まれていった。
ヴァンツァーはシェラを横抱きにした状態で空中で一回転し、今度こそ音もなく着地した。

「──……かぁっこいい……!!」

驚いたような、感動したような、惚れ惚れとした表情のシェラの声。
それににこりと笑みを返すと、ヴァンツァーはシェラを地面に降ろした。

「……でも、ヴァンツァー。もしかして、私を抱えたままでも飛べたんじゃ……」

ほんの少し恨めしげに見上げる。

「実は、高所恐怖症なんだ」
「え?!」
「足がすくんでシェラまで巻き込んだらいけないからな」

真面目な表情のヴァンツァー。

「……本当に?」
「本当に。だから、シェラが先に飛んでくれたら、それを目指して頑張って飛べるかな、と思ったんだ」

追っ手から逃げているという状況でふわり、と微笑むヴァンツァー。
瞬間的に赤面するシェラ。
ヴァンツァーはそんなシェラの手を取り走った。
そのとき、崖の向こうに《オオカミ》の群れ。

「あちゃー。大変。この距離はちょっと無理」

他の《オオカミ》たちならいざ知らず、そんなことは全然ないくせに、レティシアはわざとらしく肩をすくめた。

「回り道を探そう」

バルロも大仰に額を叩き、手下に指示を出す。
そうこうしている間に、シェラとヴァンツァーはどんどん距離を稼いでいった──。  




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