翌朝目覚めたら、シェラは元の姿に戻っていた────わけもなく。
珍しく、ヴァンツァーよりも先に目が覚めたシェラは、自分を抱いて寝ている男の顔を見た。
きめの細かい白い肌は昔から変わらず、その長身は日頃から鍛えているから四十を超えてもまったく衰えを見せない。
普段夜着を身に着けずに眠るヴァンツァーだから、今日だってシェラは裸の胸に抱きしめられて眠っていたわけだ。
けれど、やはりいつもと違うのだ。
気配や感覚に敏感でなければ、行者は務まらない。
鋭敏であるからこそ、自分に向けられる感覚というものを間違えることはない。
この男が、自分に秋波を向けてくる女性──時に男性も──を正確に把握出来るのも、いわば職業病だった。
──だから、シェラは首を傾げるのだ。
五歳児相手に欲情されても困るのだが、ヴァンツァーの中では元のシェラと今のシェラとで、正確な線引きをしているようなのだ。
それが無意識なのかどうかは本人に確認しないと分からないが、少なくとも、五歳の自分を見る目や抱きしめる腕に、欲望のかけらすら見出すことが出来ない。
元の姿であれば、ただ髪を梳くその仕草にすら、言いようもない色気と性的な匂いを感じるというのに。
良いとか悪いとかではなく、純粋に気になるではないか。
「……睫なが……」
白皙の額に落ちかかる漆黒の髪には緩やかな癖があり、驚くほどやわらかくて指触りが良い。
意思の強そうな眉や開かれるときつい印象を与える瞳も、眠っているときには威張った子どものように見えて笑みを誘う。
自惚れるわけではないが、経験上シェラは自分の容姿というものがいかに人目を引き、羨望の的となり、欲望の対象となるかをよく知っている。
それを武器に任務を遂行してきた面もある。
それでも、そんな自分の目から見ても、ヴァンツァーという男は呆れ返ってしまうほどの美形なのだ。
種類の異なる美貌ゆえに比べるのは愚かだが、シェラが知っている人間の中では、彼はもっとも艶かしい美しさを持った男と言えた。
ケリー・クーアはどちらかといえば躍動感に溢れる男性的な美の真髄を現したような男であり、ルウはそもそも人間ではない。
リィもまた微妙なところだが、彼は崇拝の対象となるような、豪奢で神々しい美貌の主だ。
妖艶と言うと女性的な印象を受けそうだが、ヴァンツァーはそうではない。
黙って座っていれば、気品に溢れた貴公子。
気だるげに伏せられた睫と物言いたげに開かれた形の良い唇、誘うように動く指先のどれを取っても、魅了されるなという方が無理だ。
「──秘密だけど、な」
くすっと笑って眠る男の鼻を軽く突付いた。
随分安心した顔をして深く眠っているようだったが、さすがに元来気配に敏感なだけのことはある。
瞼が震え、二、三度瞬きをすると藍色の瞳が覗く。
覚醒にはまだ至らないのか、しばらく瞳を揺らしていたが、やがてシェラに視線を落とす。
またもやぱちぱちと瞬きをすると、ふわりと微笑んだ。
「──……っ」
シェラが思わず赤面してしまうくらい、幸福感に溢れた表情だ。
「……おはよう」
まだ、寝起きの掠れた声。
その声にもどきどきして、シェラは思わず布団に潜り込んだ。
しかし、笑う男に「何だ」と言われながら引きずり出されてしまう。
元の身体ならばまだしも、こんなにちいさいのではまともな抵抗など出来るわけがない。
「おはよう」
「……おはよう」
「早いな。昨日は疲れたろうに」
「……不本意ながら、疲れるのには慣れている」
一瞬目を瞠ったヴァンツァーだったが、直後声を出さずに笑い出した。
思わずむっと顔を顰めたシェラの、皺の寄った眉間を指で突付く。
「怒ってる」
くすくすと笑いながらいつになく穏やかな笑顔を振りまく男に、シェラは疑わしげな視線を向けた。
「……お前、まだ寝ぼけているな……」
「起きてるさ」
「いいや、そんなわけない」
「どうして?」
「…………なんか可愛い……」
ボソッ、と本当に小声で悔しげに呟かれた声にしばし瞠目し、やはり声なき声でおかしそうに笑うヴァンツァー。
「お前こそ、だいぶ寝ぼけているようだな」
「……そうかも知れない」
はぁ、と特大のため息を吐く、少女のような美少年。
起きるか、と呟くと、彼は着ていた寝巻きを脱いだ。
昔、ソナタとカノンに作ってやったものだ。
そうして、脱いでしまってからはっと気づく。
「──服……」
当然、夫婦の寝室には大人だったシェラ用の着替えしかない。
子どもたちのちいさい頃の服は、二階にある四十畳は下らない衣裳部屋の中だ。
やはり寝ぼけているらしい、と軽く舌打ちを漏らすシェラの前で、ヴァンツァーが動く。
寝室に備え付けのクローゼットから、きちんとアイロンを掛けられた真っ白いシャツを取り出す。
そして、それをベッドの上に座り込んでいるシェラに着せ始めたのだ。
「……おい」
袖に腕を通すが、ヴァンツァーのYシャツなので当然ものすごい余り方をしている。
だが、そんなことは無視して袖から手を出させないまま、ボタンをはめる。
目の前から突き刺すような視線が向けられているが、まったく気づいていないかのように振舞う男。
「おい、こら」
どんどんと剣呑さを増す声音も耳に入っていないのか、すべてのボタンを留めると満足気に晴れやかなまでの表情で「よし」と頷いた。
「……何が良いのか言ってみろ」
「何だ?」
「それは私の台詞だ。何なんだ、この格好は」
ヴァンツァーのシャツに身を包んだ──というよりも、むしろ埋もれたシェラは、襟元までボタンを留めているはずなのにちいさな細い肩からシャツがずり落ちそうにるのを直しながら詰問した。
ベッドに腰を下ろすヴァンツァー。
銀髪に白い肌に洗いたてのシャツと、全身真っ白尽くめになったシェラの髪を撫で、至極真面目な顔で言った。
「──とりあえず」
「いや、とりあえずの意味が分からん」
「裸でいたら風邪をひくだろう」
「またこの寝巻きを着ればいいだけのことだろうが。──そもそも、なぜお前の服を着なければいけない。私のものならこんなに余らないんだ」
その台詞に、嘆息を返すヴァンツァー。
「遊び心のない男はもてないぞ」
「────…………」
思わず我が耳を疑ったシェラに、ヴァンツァーはどこまでも真剣な表情のまま口を開いた。
「それに、その格好にはちゃんと意味がある」
「え? そうかのか……?」
びっくりしてしまったシェラだが、この男がこんな真剣な顔で言うのだから、きっと何かしら自分の知らない意味があるのだろう。
学生時代は抜群の成績を誇り、大学も主席で卒業している。
この男に訊ねれば大抵の疑問が解消されることをよく知っているシェラだから、このときも驚きながら感心していたのだ。
だから、それはどういう意味なのかを訊いてみた。
ヴァンツァーは、やはり優等生のような顔で答えた。
「──男のロマンだ」
訊ねたことを、シェラは激しく後悔した。
→NEXT