Baby Love

「……おい」

子ども特有の可愛らしい声が、地獄から響くような低さで紡がれる。
耳には、先ほどからリズミカルな音。

「うん?」

画面から顔を上げずに返された声に、シェラは思わず顔を顰めた。

「何だ、この状況は……」
「何だ、とは?」

やはり軽快な音でキーを叩く男に、シェラは言ってやった。

「──なぜ私がお前の膝の上にいなければならないんだ!!」

バァン、とちいさな手が机を叩き、叫ばれた執務室に響き渡る大音声にも、ヴァンツァーは「至極当然な流れだ」と真顔で返し、「そんなわけあるか!」と怒鳴られた。
モデルをする気では来たが、この男のデスクワークにまで付き合う必要は──それも、膝の上に抱えられている必要は、まったくない。
断じてない。
それを抗議しているわけだが、いくら大声を出しても、扉も壁も厚いこのアトリエの執務室の声が外に漏れることはない。
この部屋の外で忙しく働きまわっているだろう職員たちに、ふたりのやりとりが知られることはないのだ。

「耳元で大きな声を出すな」
「お前が出させているんだろうが!」
「はいはい」

むっかー、ときたシェラだ。
天使のような愛らしい顔に、青筋浮かべて頭上の美貌を睨む。

「可愛い顔が台無しだ」

そう言って、やわらかな薔薇色の頬を撫でる。

「……湧いたか、貴様」
「その言葉遣いを何とかしろ」

呆れて嘆息する男をぶん殴ってやろうとしたシェラの耳に、ノックの音が届いた。

「入るわよ~」

どこかウキウキとした声は、このアトリエの女傑のひとり。

「は~い、『シェリル』ちゃん」

にっこり微笑むきつめの美人、エマの手には、コーヒーとジュース。

「ありがとう、お姉ちゃん」

数秒前の攻防などなかったようにはにかんだ笑みを浮かべて礼を言う『シェリル』に、エマは「まぁ、正直な子!」と喜んで頭を撫でた。
ちいさな手がコップを落とさないように気をつけてジュースを渡してやると、すっと目を眇めてコーヒーカップを置く。

「──あなた、本当にシェラに妙な薬を飲ませたんじゃないんでしょうね?」
「俺は潔白だ」
「どうだか」

キーを叩くことは止めないまま、大仰に肩をすくめるエマに反論しようとしたヴァンツァーだったが、『シェリル』の方が早い。
くいっ、とエマの服を引くちいさな手。
上目遣いの潤んだ瞳。
やわらかそうな唇が言葉を紡ぐ。

「……お姉ちゃん、違うの……──パパは悪くないの……」

──タ、タカタタタンッ?!

今まで一度も乱れなかった軽やかな音が、明らかに不自然な音を立てる。

「……」
「……」
「……」

そうして、しばしの沈黙の後、何食わぬ顔で、しかしいそいそと『BackSpace』を押す手をエマは目撃した。

「……顔面崩壊してるわよ、──パパ」
「……」

否定出来なかったのか、ヴァンツァーは無言で文章を打ち直した。


もちろん、降ってわいた天使『シェリル』は、瞬く間にアトリエの人気者になった。
双子のときもそうだが、ここの職員は可愛いもの、綺麗なものに目がない。
むろん、それは職業柄ということもある。
現に、シェラは本来モデルとして連れてきたはずのヴァンツァーを差し置いて、アトリエ職員たちの手によって着せ替え人形になっている。

「あ~ん、やっぱり色白いし顔可愛いし、ふりふりひらひらが似合うわぁ~」
「もう、ずっとシェラに子供服着せてみたいと思ってたのよ~」

夢が叶ったわぁ~、と満面の笑みを浮かべるエマに、レイチェルも賛同する。

「別に大きいままのシェラにロリな格好させてもいいんだけど、それやると誰かさんにお持ち帰られちゃうし」

──大きいまま……?

「ミニスカート穿かせると、あのすべすべの太腿に手が伸びていきそうで困るのよね~」

──え、太腿……って、ガンガン触ってるし。

「分かるわぁ~。採寸してるだけでも、後ろから抱きつきたくなっちゃうのよ!」
「そうそう! 何なのかしら、あのフェロモン!」

──いや、むしろ今現在前後から挟まれて胸に押しつぶされてますけどえええぇぇぇぇぇ……。

きゃ~~~~、と黄色い歓声を上げる女性職員たちに、以前からセクハラ紛いの可愛がり方をされている自覚はあるシェラだったが、五歳児の姿になってもその勢いは健在らしい──若干エスカレートしている気もする。

「それにしても、本当にシェラにそっくりだねー」

人好きのする笑みを浮かべ、レオンが棒読みで喋る。

「ソナタのときも驚いたが、こりゃあ本当に瓜ふたつだな」
「うん。瓜ふたつ、っていうか、ひとつっていうか」

──え。

「こらこら。本人が『シェリル』だって言ってるんだから、そこは尊重してやらないとだろう?」

──え、え?

「──あぁ、そうだったね。本当に、シェラ……っと、『シェリル』って可愛いよねー」

──…………。

レオンとリードがしみじみのんびりと会話しながら、エマとレイチェルに押しつぶされている『シェリル』の頬を突いている。
主だった職員たちの目に晒されて、アトリエに来たときは気が気ではなかったシェラだ。
着せ替えは慣れているし、女物を着ることに抵抗などあるはずもないが、ここの職員たちの目は玄人のそれだ。
いつ『シェリル』がシェラだとバレしてまうか分からない。
演技はお手の物なシェラだったが、外見的な特徴そのままに別の人物を演じることはかなり難しい。
せめて、髪か瞳の色でも違えば良かったのだが……。
いや、でもそこは元・行者としての意地とプライドにかけて────そんな風に思っていたのだが、もしかしたら全部無駄な努力というやつなのではないか、と思い始めた。
──うっかりもいいところである。

「親戚の子だって主張してる割には、ヴァンツァーのこと『パパ』って呼ぶのよ?」

本人もそれ聞いてにやけてるし、とエマがダメ人間を指すような瞳で語る。
現在ヴァンツァーはひとり執務室の中だったが、本人に聞こえていたって同じことを同じ表情で言っただろう。

「え~、それってどんなプレイなわけ?」
「四十超えた男が、五歳児に自分のこと『パパ~』とか呼ばせてよ? いつもなら十五分で終わる書類作成、打ち間違えのしすぎて倍以上時間かけてるんだから、世も末よね~」
「や~ん、イタ~い!」

ここ最近アトリエには脚を運んでいないシェラだったが、ヴァンツァーの評価がいつもこうなのかと思うと、ほんの少し気の毒に思わないこともなかった。
しかし、家庭でも職場でも似たような感想を抱かれているということは、その評価が間違っているという可能性は限りなく低い。

「んー、でも、こんな可愛い子のパパかぁ……」

レオンが、よいしょ、と『シェリル』を抱き上げる。
そうして、温和な人柄がよく表れた笑みを向けた。

「ぼくのことも、『パパ』って呼んでくれる?」
「……パパ?」

無垢な菫の瞳に不思議そうな色をたたえて、こてん、と首を傾げる『シェリル』に、一同は悶絶した。

──これは……仕方ない。

あのヴァンツァーが表情を繕えないのも、当然だ。
だって、可愛すぎるのだから。
こんなにも愛らしい子に「パパ」と呼ばれ、腕を伸ばして来られようものなら、犯罪者と謗られようと攫ってしまうに違いない──いやむしろ攫う。
ヴァンツァーに殺されようが、双子に呪われようが今攫う。
非常に仲の良い職員たちが、互いを牽制し合うかのように瞳を交わした。

「──エマ、これをパターンに」

そんな職員たちの空気を感じ取ったのかは知らないが、厚い扉を隔てた向こうからきっちりとスーツを着込んだ男がやってきた。
そう、きっちりとした黒いスーツの──しかし、薄いピンクのシャツにネクタイは締めず、ポケットチーフを挿した『どこのホストだ』的な服装の男に手渡されたデザインを見て、エマは首を傾げた。

「これ、『シェリル』ちゃんに似合いそうなんだけど?」
「当然だな。これはそれのための服だ」
「……」

思わずこめかみを押さえたエマだ。

「……あなた、クライアントのためのデザインを描いていたんじゃないの?」
「それは後で描く」

言うなり、『シェリル』をレオンから掻っ攫うようにして自分の腕の中に連れ戻してしまった。
非難がましいいくつもの視線など気にする男なわけがなく、「俺は頑張った」とでも言いたげな清々しい表情で『シェリル』の頬を撫でる。

「今描きなさい、今!」

腰に手を当ててデザイン画をビシィッ、とヴァンツァーの鼻先に突きつけたエマをちらり、と見ると、ヴァンツァーはふいっ、と顔を背けた。

「気分が乗らない」
「──あなたの仕事でしょうが!!」
「うるさい」

絶対殴る、と鼻息を荒くする美女を、男性ふたり掛りで何とか止める。
しかし、彼らもまた『出来ることなら……』と思っていることは間違いない。
一部不穏を通り越して殺伐とした雰囲気を漂わせる職場にあって、『我関せず』を決め込んでいる男は、休憩用のソファに腰を下ろし、さらさらの銀髪に指を通して遊んでいる。
楽しそうに煌く藍色の瞳が可愛くないこともないが、自由な雰囲気の職場とはいえ今は勤務中だ。

「……お仕事は?」

職員の前だからか、控えめな声を発するシェラ。
ヴァンツァーは気色悪いことににっこりと微笑むと、「休憩だ」と答えた。
若干シェラの額に皺が寄る。
何といっても、自分はこの男に必要とされていたからこそ、寂しげな顔をする子どもたちを振り切ってまでここへ来たのだ。
それなのに、自分ひとりが職員に可愛がられ、ヴァンツァーも一緒に休憩しているのでは合わす顔がない。

「……お洋服、待ってるんでしょう?」
「平気だよ」
「でも」
「何も一生描かないわけじゃない」

ちいさな身体を懐深くに抱き込みそのまま寝ようとしているかのような男に、さすがに待ったをかけたシェラだ。
とはいえ、いつもの剣幕でまくし立てては、職員の手前差し障りがある──自分は『シェリル』なのだから。
だから、きゅっと眉を寄せて『ぴとっ』とヴァンツァーの頬にそのちいさな手を当てたのだ。

「──いい加減にしなさい」

可愛らしい唇からはやはり可愛らしい声が紡がれるわけで、「んもうっ」と憤慨する様子が恐ろしいわけがない。
先ほどに引き続き表情筋を操ることが出来なくなっているヴァンツァーは、瞠目したまま手で口許を覆って横を向いた。
笑っているのか悶えているのか、おそらくその両方なのだろうが、敏腕社長が幼子相手にやに下がっているのを間の当たりにした職員たちの衝撃。
いや、実際『シェリル』は身悶えてしまうくらいに可愛いのだが、ヴァンツァーが若干とはいえ頬を染めているのを見せられた恐ろしさといったら、鳥肌程度では済まないのだ。

「……何を笑っている……の?」

低くなった前半の声音とは違い、付け足したように傾げられる首と高くなる声。

「いや」

と答えはしたものの、愛しさが溢れてならない、と雄弁に語っている藍色の瞳で見られて髪を撫でられると、どういうわけか気恥ずかしくなってくる。
春の陽だまりのような中心部とブリザード吹き荒れる周辺部と。 エマは先ほどからブツブツと、「……殴る、絶対殴る……むしろ埋める……」と繰り返しているし、広い職場空間の雰囲気は両極端に分断された。

「──あは。ヴァンツァーって、意外と子ども好きだよねー」

ほわわん、とした表情と声でそう結論付けたのは、この職場の『癒しの人』ことレオンだ。
調香師としての仕事柄、個人的には香水の類はつけていないとはいえ、彼からは常にとても良い香りがする。
ふわり、と香るやさしい匂いと表情とで、彼は生きたマイナスイオンと化しているのだ。

「あ、それとも」

ただ、一筋縄でいかないのが、ここの職員の特徴だ。

「──その昔に大人の女性には飽きちゃって、ちいさな子どもに奔っちゃったのかな?」

恐ろしいことに、子どもには聞かせられないような内容でも、善良な笑顔で語られるとうっかりスルスルと頭の中に入ってきてしまうから大変だ。

「ほら、ここには気心の知れた仲間しかいないんだし──大丈夫。ちゃんとシェラには内緒にしておくから、今後の参考までに教えてくれない?」

──『大丈夫の根拠はどこだ……』

当のシェラも含めた全員の疑問にも気づくことなく──本当に気づいていないのか甚だ怪しいが──レオンは穏やかな笑みを浮かべ続けた。  




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