Baby Love

夜中に、ふと目が覚めた。
覚めたとは言っても、覚醒にはほど遠い。
ただ、隣にあるはずの体温がなくて、ぼんやりと瞼を持ち上げた。
手を伸ばしても、冷たいシーツがあるだけ。

「……」

起き上がり、ぼやける視界の中左右を見回すが、自分以外誰もいない。

「──……はくじょーもの……」

呟くと、寝起きは良いはずなのに目覚めない身体を引きずって、シェラはベッドから降りた。
そうして、寝室の扉を開く。
薄暗いがそこには間接照明が灯されていて、本来自分の隣にあるべき人間がいた。
そこに人がいることに気づけたのは、偏に彼がちいさく息を呑む気配がしたからだ。
まったく、と眠い目を擦りながら、シェラはソファへと歩んで行った。
アルコールの匂い。
──確かにこの身体では晩酌に付き合うことは出来ないが、何も知らない間にひとりで飲むことないじゃないか、ずるい。
そんな内心を思い切り顔に出して、「膝を貸せ」と傲慢に言った。

「膝……?」

寝るなら膝枕などせず寝室で、と言わせる時間を与えず、シェラはヴァンツァーの膝の上に乗った。

「──…………」

そう、乗った。
腰を下ろした。
乗った上で、腕を首に回して肩口に頬を擦り寄せる。
これだこれだ、と慣れた体温と匂いに深く息を吸い込む。

──家にいるときは半裸に近い格好をしているくせに、ガウンを着ているとは生意気な。

本当は直接すべらかな肌と温度を感じたかったのだが、悪態をつきながらもやわらかく洗われた布の感触に頬を緩める。
何だかヴァンツァーの身体が強張っている気がするが、まぁ、そうそう寝心地が悪いわけではないからいいか、と思う。
この男の身体が硬いのは、いつものことだ。
割れた腹筋というやつに憧れるというのに、自分の身体はいくら鍛えても一向に割れる気配がない。
かといって、脂肪がついているわけでもない。
ヴァンツァーが気を抜いているときでさえ、腹を殴って痛むのはこちらの拳なのだ。

──ずるい、生意気だヴァンツァーのくせに。

ほとんど寝言のように文句を言いながら、いつもは無駄なくらいに触ってくる男が一向に抱き返してこないことに焦れたのか、硬くて重い筋肉に覆われた腕を持ち上げて腰に回させる。

「髪」

髪を撫でろ、というお願いなのだが、心得ている男はやはり多少ぎこちなくはあったものの、長い銀髪をゆっくりと梳き始めた。
そうそう、これこれ、と仄かに笑みを浮かべる口許。

──いつもと同じ、触り方。

時に煽られるけれど、とても安心出来る触れ方。
壊れものを扱うようでいながら、力強く、こちらを絡め取ろうとする腕。
ただ、慈しんで守ってくれるだけの腕ではない。
絶対の庇護下に置くわけではなく、人として、対等に扱ってくれていることが分かる腕だ。
やはり、こちらの方がいい。
大事にしてもらえることが嫌なわけではもちろんないけれど、与えられるだけのお荷物にはなりたくない。
それでなくともこの男には借りばかり作っていて、返すことが追いつかないというのに。
だから、せめて対等に。
下される幸福を手のひらで受け止めるだけではなく、渡されたものを返せる距離にいたい。
まだこの男に追いつけないことは分かっている。
それでも、この男は追いつけるだけの距離にいてくれる。
こちらを見下しているわけではなく、進むことを諦めないでいられるように距離を保ってくれている。

──それが、自分の望みだから。

ここ最近感じていなかった触れ方に安堵したからか、するりと言葉が漏れる。

「どうして、お前は」

言葉を切るシェラに続きを促すことはせず、ただ、頬に掛かる銀の髪を梳いた。
しばらく沈黙が横たわったが、元来それを苦とは思わないためにヴァンツァーは言葉を紡がず、シェラが自ら口を開くのを待った。

「……どうして、お前は……私に、やさしくする……?」

ゆっくりと辿るように、自分で自分の内側にあるものを確かめるように、言葉を声に乗せる。
どうして、この距離にいてくれるのか。
行こうと思えば、ずっと先まで歩いていけるのに。
どうして、望んだことを叶えてくれようとするのか。
閉じられた瞳。
首にまわされた腕。
意識が眠りに引きずられているのは間違いない。
もしかしたら、ほとんど意識せずに喋っているのかも知れない。
だから、こんなことを訊くのかも知れない。
常のヴァンツァーであれば、「そうしたいから」と、嘘ではないし、事実だけれど、心からの真実ではない言葉を口にすることは分かっているだろうに。
目覚めてまだ夢半ばであることを考えると、やはりこの質問に意図などないのかも知れない。
ただ、意識しないからこそ、聞きたくて仕方のなかった言葉が口をついて出たのかも。

「どうして……?」

その言葉の裏に、「どうして自分なんかにやさしくするのだ」という自嘲が隠れている気がして。
だから、ヴァンツァーはシェラのまどろみを妨げないよう、ゆっくりと銀髪に指を絡めながら、静かに、低く、『真実』を紡いだ。
『すぐに大きくなるから』と言った言葉を本当に叶えて戻ってきた、腕の中の宝物に。

「────壊さなくて、いいように……」

言葉は返らなかったけれど、それは耳を澄ませて先を促されているようで。
まるで寝物語でも聞かせるように、ヴァンツァーは口許に薄く笑みを刷いてゆっくりと話した。

「お前が、もう、何も壊さなくていいように」

何も、奪わなくていいように。
傷つけることも、傷つけられることもなく、 ただ。
欲しいものを欲しいと言えて、大切なものを手元に置いておけるように。

──全身全霊をかけて、護る。

この銀色ではない。
幼いままのシェラであれば、守ろうと思った。
力を、手に入れるまで。
見守って、慈しんで、──それだけではなく、刃も与えて。
だが、この銀色は違う。
守られることをよしとするような男ではない。
そんな気概も気骨も持ち合わせていない人間に、惹かれたわけではない。
どこまでも深く、澄んだ菫の瞳。
いつでも挑戦的に煌く、不屈の魂。
だから、シェラは自分の身は自分で守る。
それだけの力を持っている。
自身で抵抗出来るだけの力を有する者を守ってやるというのは、侮蔑と傲慢の押し売りでしかない。
いくらどんな女よりも美しい外見とたおやかな内面を持っていたとしても、間違いなくこの銀色は男なのだ。
守ることはあっても、守られることを潔しとはしない。

だから、『守る』のではなく、────『護る』。

この銀色ではなく。
この、銀色が愛し、求めた『世界』をこそ。

「もう……二度と、壊さなくていいように……」

知っていた。
この銀色が、自分を同胞だと考えていたことを。
敵として出会っても、幾度刃を交えても、迷っていたことを。
初めて同じ魂を抱える相手を目にし、喜びながら戸惑い──それを自覚する暇もなく、自分に向けられる攻撃をかわしていた。
迷っているからこそ、積極的に攻撃に転じることはなく。
けれど、死ぬわけにもいかないから大人しく防御に徹するわけでもなく。
──なぜだ、と。
なぜ、自分たちが闘わなければならないのか、と。
きっと、この銀色が本気で自分を殺す気になっていたら、もっとずっと早くに決着はついていた──どちらが、命を落とすにしろ。
上からの命は絶対で、逡巡することなどないように造られた自分たちにあって、『迷う』ということ。
自分たちを絶対的な『善』だと信じて疑わないからこそ、行者は己の行動を正当化し、殺戮兵器として存在できる。
だから、強い──自分やレティシアという極端な例外を除けば、だが。
迷っていながら刃を交える度に強くなる銀色が面白くて、遊んでいた部分は確かにあった。
しかし、たとえそうだとしても、一瞬……ほんの一瞬でも純粋な殺意を向けられたら、自分はこの銀色を殺していただろう。
そうしなかったのは、この銀色が抱え、ぶつけてくる殺意や敵意よりも大きな『疑問』の奥にある、『答』を知りたかったから。
迷っているこの銀色が弾き出した『真実』を、見てみたかったからだ。
最期のときに聞き出したそれはまだ迷いの中にあって。
それでも、「それでいい」と思った。
この銀色は、迷い、悩み、苦しみ、それでも強く在れるのだ、と。
それも、決して悪くないと思った。
迷いのなさが強さなのではなく、迷っているからといって、自分のように諦めたわけでも、そのことで弱くなるわけでもなく。
それが強さになるのなら、その新たな道をこの銀色が行くというのなら、それも悪くないと思ったのだ。

「だから、お前は安心して眠れ」

今、自分の目に映る世界を必死で、全力で守ろうとしているのなら。

「お前の世界は……俺が、護るから」

シェラ自身ではなく、世界を。
その、空間を。
目覚めたときに、落胆し、悲痛に顔を歪めることがないように。
また、一歩を踏み出して、どこまでも強くなれるように。

「お前は、振り返らなくていい」

ただ、前を。
己の信じるもののために、真っ直ぐに進めばいい。

「真っ直ぐ」

迷いながら。
傷つきながら。
──それでも。

「創っていけばいい」

壊さなくていい。
守りたいものは何も。
失いたくないものを喪う必要は、もうない。
──だから。

「お前の見ている世界を……創ろうとしている世界を、────俺にも、見せてくれ……」

やさしい、と。
甘やかしている、と。
この銀色はそう言うけれど、それは違う。
これは、自分のためだから。
光を、未来を望む、自分のためだから。

「……俺は、振り返ることしか出来ないから」

だから、背中合わせに。
離れることはなく。
いつでも存在を感じられる位置に。
そうすれば、シェラが前に進むことで自分の世界も変わる。
きっと、少しずつ明るい方へ。

「ゆっくりで、いいから」

自分のような存在には、眩しすぎて光を直視することは出来ない。
甘えているのはむしろ自分の方。
明るい場所を求めながら、恐れて手を伸ばすことを躊躇う自分の方。

「だから、今は……────おやすみ」

そっと、額に唇を押し付ける。
良い夢が、見られるように。
夢見たその世界が、叶えられるように。
そっとぬくもりを引き寄せた腕の中、いつの間にか静かな寝息を立てているシェラの頬は、微かに、濡れていた────。 




END.

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