学園祭の出し物とはいえ、『美女と野獣』でダンスシーンがないのでは様にならない。
ダンスは、その後仕事がひと段落したということで顔を出したヴァンツァーが手ほどきをした。
さすがに運動部に在籍しているだけあって、キニアンは呑み込みが良かった。
カノンは普段から社交ダンスの手ほどきを受けているけれど、今回は女性パートだ。
そちらはシェラが教えてくれることになった。
「もし時間が許すようだったら、うちに来て練習してくれても構わないから」
そのシェラのひと言が引き金となって、その週末にキニアンはファロット家へと赴くこととなった。
「……は? もう敷地内?」
その日も、キニアンはエア・カーでやってきた。
待ち合わせ場所でカノンを助手席に乗せると、彼の誘導に従って車を走らせた。
木立の林立する道をひた走っていたかと思ったら、そこはもう自宅の敷地内だというのだ。
「山一個分あるから、身体を鍛えるにはちょうどいいよ」
真顔でそんなことを言うカノンに、若干眩暈を覚えたキニアンだった。
連邦大学に通っているくらいだから、キニアンだとてそれなりに裕福な家の子息である。
それでも、ウォルナット・ヒルの豪邸にも勝る家に呼ばれたのは初めてだった。
「デザイナーって、そんなに儲かるのか?」
「デザイナーは趣味」
「……趣味?」
「そう。シェラを着飾らせるためにやってるだけ。父さんの事業はかなり手広いよ」
まぁ、その手広い事業の大半も、本物の糸や宝石を入手するために行っていることではあるのだけれど。
ふぅん、と半分考えることを放棄したキニアンは、カノンに訊ねた。
「それ、継ぐのか?」
「どうしようかと思って。シェラは、あんまり忙しくすると身体壊すからやめなさい、って言うし」
「親父さん、忙しいのか?」
「本人無自覚だから性質が悪いよね。あ、でも、あんまり働くとシェラに怒られるから、ぼくたちが生まれた頃くらいからだいぶ仕事量減らしたらしいよ」
「……へぇ」
何とも言えない顔つきになった茶髪の少年は、ふと思いついたことをそのまま口にしてみた。
「まぁでも、シェラさんみたいな綺麗な人が奥さんだったら、早く家に帰りたいっていうのもあるんだろうな」
「──シェラみたいな人が好みなわけ?」
「は?」
「じゃあ、ソナタみたいな子がいいわけだ」
「いや別に」
「あっそ」
「……何か怒ってないか?」
「別に」
「ふぅん……」
そうする間に母屋に辿り着き、笑顔のシェラに「まずは腹ごなし」とばかりにたっぷりと昼食を振舞われ、休憩をしてからダンスホールへと向かった。
男性パートを踊れるカノンだったので、キニアンに教えてやることも出来る。
女性パートに関してはここ最近シェラに教えてもらっていたので、そちらに関してもあまり問題はない。
「……おい」
「……」
「カノン」
「……」
「──カノン」
脚を止めると、下から菫の瞳が見上げてくる。
「なに」
「……俺も人のことは言えないが、その仏頂面をどうにかしろ」
「ダンスの練習に、顔とか必要なくない?」
「気分の問題だよ。不機嫌そうな顔してるやつと、踊る気分になんかならない」
「じゃあやめれば?」
「……あのなぁ」
はぁ、と大きくため息を零すキニアンに、カノンは自分でもよく分からないが苛立っていた。
こんなのは自分らしくない、と思うのだが、どうも上手く笑顔が浮かべられないのだ。
ちいさい頃から『天使の笑顔』と評判のそれが、どういうわけかキニアンの前だと出せない。
それがまた、ちいさな苛立ちを生むのだ。
キニアンは俯いたカノンの髪をぐしゃぐしゃと撫でた。
その、子どもにするような対応に、カノンはちょっとむっとした顔を向けた。
見上げた端正な顔が苦笑しているのに、目を丸くする。
「やりたくないなら、今からでも上演を取りやめるか?」
「……え?」
「最初から気乗りしてなかったんだろう? 半分悪乗りみたいなものだし、女子たちには何とか納得してもらえばいい」
「……それって、キニアンがやりたくないってこと?」
「は? 違うだろう?」
「ぼくと、やりたくないってことでしょう?」
「だから」
「──いいよ!」
「おいっ!」
ホールに響くような大きな声を出してキニアンを突き飛ばすと、カノンは出て行った。
残されたキニアンは「参ったな」と呟いて頭を掻くと、とりあえず来たときに通されたダイニングへと向かった。
そこでは、同じ顔をした親子がお茶をしていた。
ひとりで入ってきたキニアンにきょとん、とした目を向けた。
「あれ。カノンは?」
ソナタが訊ねると、キニアンは肩をすくめて苦笑した。
「どうやら、怒らせたらしい」
これにはびっくりしてしまった親子である。
ぽかん、としているシェラに代わってソナタが口を開く。
「怒る? カノンが怒ったの?!」
えー、ちょっと待ってよ、と額を叩く美少女。
「なに? え、なに? カノンのこと押し倒したとか?」
「は? 何で俺がそんなこと」
「じゃあなに? 何でカノンが怒るわけ?──あ、私かシェラの悪口言ったとか!」
「……言うかよ」
「えー、それ以外でカノンが怒るとか、あり得ないんですけど」
頭を抱えているソナタに、キニアンはため息を吐いた。
「……とりあえず、お前の言葉だったら聞くだろうから、どうにかしてくれ」
「それはいいけど……でも、本当にどうしちゃったんだろう……」
「知らん。あんまり仏頂面だったから、気乗りしないなら上演やめるか、って言っただけなんだけどな」
参った、とぼやく少年に、シェラは「おや」と眉を上げた。
「お芝居、やりたくなくなっちゃったの?」
「え? あ、いえ、俺じゃなくてあいつの話で」
「うん。きみは、やりたくなくなっちゃった?」
「いいえ」
きっぱりと首を振る少年に、シェラはふふっ、と聖母のような微笑みを向けた。
「じゃあ、それをそのまま伝えればいいと思うよ」
「……え?」
「部屋にいると思うから行ってみてごらん。廊下出てすぐ左のドアがカノンの部屋だから」
「はぁ……」
よく分からない、という顔をしていたキニアンだったが、とりあえず言われるままにダイニングを出た。
シェラ? と声をかけてくる娘に、嬉しそうな、それでいてちょっと寂しそうな笑みを浮かべた。
「そうかぁ。聞き分けのいい子だと思ってたけど、カノンは結構私に似てるんだな」
「シェラ?」
不思議そうな顔をしているソナタににっこりと微笑むと、 「自分のことって、分からないものだよね」 とシェラは呟いた。
──行けと言われても……。
そう思いはしたが、キニアンはダメ元でカノンの部屋の戸を叩いた。
「カノン」
何の反応もなかったが、再度コンコン、とノックして呼びかける。
「……なに」
ドアの向こうから声が聞こえてきて、どこかほっとしたキニアンだった。
「あー……何か、勘違いしてるみたいだったから」
「勘違い?」
「別に、俺は芝居をしたくなくなったわけじゃなくて」
「……じゃあなに」
「なに、って……お前が気乗りしてなさそうだったから」
「そんなこと言ってない」
「まぁ、それはそうだけど……楽しそうじゃなかったからさ」
「そんなことも言ってない」
「……いや、まぁ……」
どうしたものか、と頭を掻く。
「……俺は、最近お前と芝居の稽古したり、ダンスしたりするの楽しかったんだけど、お前は違うのかな、って思って」
「……」
「だったら、無理させるのも悪いかな、って」
しばらく沈黙が横たわったが、カノンがゆっくりと口を開いた。
「……楽しかった?」
「え? あ、あぁ。うん。バスケしてるのと同じくらいには、楽しかったかな」
「……それって、かなり楽しかったってことだよね」
「あ? あぁ、まぁ」
そう、と呟くと、カノンはドアを開けた。
そこには相変わらずの仏頂面があったが、何だか久々に顔を見た気分になるキニアンだった。
「で? ぼくとお芝居するの、しないの?」
「は? 俺はやめる気なんてないけど」
「やめるって言い出したのはキニアンだ」
「……まぁ……でも、それはお前が」
「だから、ぼくはそんなこと言ってない」
「……あぁ、うん」
またもやため息を吐くと、キニアンはとりあえず、といった感じで右手を差し出した。
「……なに、これ」
「あー、よく分からないけど、……仲直りの、握手?」
きつめの美形であるキニアンがそんなことを言い出し、カノンは思わず吹き出した。
何だか、とても身近にこういうのがいるなぁ、と思いつつ、その右手を握ってやった。
「反省してるなら、仲直りしてあげてもいいよ」
ふふん、と顎を逸らす様子に、「やっぱり女王様だよなぁ」と内心呟くキニアンなのであった。
そして、学園祭当日。
『美女と野獣』が上演されるのは午前中の最後。
朝から舞台の準備をするスタッフたちとは別に、キャストはメイクと衣装への着替えに追われていた。
他校の学生や保護者の来場も許されているので、毎年かなり賑わう。
シェラやヴァンツァーも来る予定だったが、見知った顔を見つけてソナタは歓声を上げた。
「ルウ! どうしたの? ひとり? リィは?」
矢継ぎ早に訊ねてくる少女に、ルウはふふっと微笑んだ。
「あとから来るよ。ぼくは、さしずめ『ベル』に魔法をかけにきた魔法使いかな」
「……それ、洒落にならないけど」
「うん。冗談のつもりもないしね」
何だか物騒な笑みを浮かべるルウは、ソナタにカノンの居場所を聞いた。
そうして、ひとり着替えに勤しむ少年を訪ねたのだった。
「ルウ! どうしたの? リィは?」
「ソナタにも同じこと訊かれたよ。ドレスは着られたみたいだね」
「うん。家でもこれ着て練習したりしたし。──学校では初めてだけど」
苦笑するカノンに、ルウは片目を瞑って見せた。
「じゃあ、ぼくが仕上げの魔法をかけてあげる」
「──え?」
きょとん、と菫の瞳を丸くすると、耳元でパチン、と指が鳴らされた。
ふわり、とやわらかいものが頬に触れる感触。
若干頭が重くなった気がして、カノンはルウに向かって首を傾げてみせた。
「──ほら。可愛い」
どこから出したのか差し出された手鏡を見て、カノンは目を真ん丸にした。
「……ルウ」
「お化粧もばっちりだ。元がいいから、すんごい美少女になってるよ」
「……ありがとう」
カノンが苦笑すると、コンコン、とドアをノックする音。
どうぞ、と声をかければ、そこには共演者の姿。
カノンの姿を認めたキニアンは、ぴたっ、と脚を止めたまま数秒間動かなかった。
キニアン、とカノンが声をかけると、ようやく気づいたように歩み寄って来た。
「……また、だいぶ化けたな」
「失礼だな」
「髪は?」
「……あー、ウィッグ?」
ルウと顔を見合わせて片目を瞑るカノン。
そうか、と呟くと、キニアンは手にしていたものをカノンに差し出した。
「なに、これ?」
「絹の靴下だそうだ。女子たちに持たされた」
「うわぁ、ガーターリングまであるよ。本格的だなぁ!」
青い瞳をきらきらさせているルウに目を向けるキニアン。
親戚だよ、とカノンが紹介すれば、軽く頭を下げる。
「これ、ぼくに穿けってことだよね」
「だろうな」
「こういうものは、ドレスに着替える前に渡して欲しいなぁ。この格好じゃ、穿けないよ」
嘆息して靴下を受け取ったカノンは、ルウに視線を向けた。
「ルウ、穿かせて」
「え? 何で?」
「だって、ぼく自分じゃ」
「うん。そこの彼氏に穿かせてもらえばいいんじゃない?」
これにはカノンもキニアンも目を瞠った。
「こういうのは、彼氏が穿かせて、ついでに脱がせるって相場は決まってるから」
「ルウ!」
「あはは! じゃあ、ぼくエディが待ってるから行くね~」
ひらひらと手を振ると、魔法使いの青年はさっさと出て行ってしまった。
残されたカノンが痛む頭を抱えていると、「貸せ」という声がした。
「──キニアン?」
「自分じゃ穿けないんだろう? 貸せ」
「……やり方、分かるの?」
「懇切丁寧に、女子たちが耳元で喚いてくれたよ」
「……」
カノンを椅子に座らせたキニアンは、その足元に跪いた。
ヴァンツァーがデザインした夜会服はとてもよく彼に似合っていて、本当に王子のよう。
「そんなに言うなら自分たちがやればいいだろう、と思ったんだが」
スカートを持ち上げさせたキニアンは、「え?」と見下ろしてくるカノンに視線を向けると、白くすんなりと伸びた脚に手を添えて僅かに口端を持ち上げた。
「──これは、他のやつらにやらせるわけにはいかないな」
するり、と絹の靴下を穿かせると、その上からガーターリングで留めた。
少し冷たいキニアンの手が、時々肌を掠める。
慣れないその感覚に、カノンはちょっとだけシェラの気持ちが分かった気がした。
──……これは、すさまじく恥ずかしい。
これから、あんまりこの手の会話でからかうのはやめようかな、と思うカノンだった。
両足とも絹の靴下を穿かせ、ガーターリングで留めたキニアンは、化粧のせいだけではなく頬を染めているカノンを見上げた。
なに、と淡く色づいた唇が動く。
「いや────今日も、舞台に立つ前に見ておいて良かったな、と」
その台詞に、カノンは一瞬目を丸くし、ゆっくりとその美貌に笑みを乗せた。
「言っておくけど、本気を出したぼくは、こんなものじゃないよ……?」
とてもではないが『天使の微笑み』とは言えない嫣然とした微笑を浮かべたカノンに、キニアンは立ち上がると手を差し伸べた。
「──……とりあえず、舞台の上では手を抜いてくれ」
「『妥協』って言葉、嫌いなんだよね」
にっこりと笑ったカノンは、キニアンの手にそっと手を重ねて立ち上がった。
軽くダンスのホールドの姿勢を取って、長身の『野獣』は『美女』の耳元でささやいた。
「──他の男が寄ってきたら困るんだよ」
常より甘さを増した低音に、ぞくり、と背中が騒ぐ。
これは、本格的にシェラの気持ちが分かってしまったカノンだったが、ここで負けることは彼のプライドが許さない。
「まぁ、頑張ってみたら?」
しばらく見詰め合っていたふたりだったが、先に視線を逸らしたのはキニアンだった。
そして、彼は誰に教わったのか、優雅に礼を取るとカノンの指先に唇を寄せた。
「……Yes, Your Highness.」
そうして、この日の『美女と野獣』は、午後一番に上演された演劇部の舞台よりも好評を博したのであった。
カノンの女装を笑ってやろうと会場へやってきた同級生の男子たちは、そのあまりの美しさに言葉を失い、魂を持っていかれるどころか下半身の制御すらも持っていかれたとか。
キニアンに対して演劇部からの怒涛の勧誘が始まったとか、それにはもちろんカノンもセットで、という女生徒たちの強い強い希望があったとか。
いつもはソナタとばかり一緒にいるカノンが、それからはキニアンと話す機会が増えたりだとか。
そういう諸々の事情は、また別の機会に述べるとしよう。
「もう一度訊くけど。──どうしてぼくを相手役に選んだの?」
きらり、と菫の瞳を悪戯っぽく輝かせたカノンに、キニアンはゆったりと唇を持ち上げた。
「──直感」
以前と似たような返事だというのに、カノンはそれはそれは、満足そうな笑みを浮かべたのだった。
END.
【おまけ】
「そういえば、キニアンってファーストネームは何ていうの?」
「……妹に聞いてないのか?」
「うん。教えて」
可愛らしく首を傾げるカノンに、キニアンは端正な容貌を歪めてしばらく悩んでいる様子だったが、「教えて、教えて」とせっつかれ、特大のため息を零した。
額を押さえたまま、カノンの方を見もしないでボソッ、と呟く。
「──え?」
「だから…………ス」
「──え、ごめん、ぼく、よく聞こえなかった」
「嘘だ」
「えー、ぼく嘘とか吐けないし」
「……もう、それが大嘘だろうが」
にっこりと微笑むカノンに、キニアンは観念したように肩を落とした。
「アリスだよ。アリス・キニアン」
もう、どうにでもなれ、と言わんばかりの口調。
しかし、彼は釘を刺すことを忘れなかった。
「……絶対に、そっちで呼ぶなよ……?」
「え? アリス?」
「……本気で勘弁してくれ」
「え~、いいじゃん。アリス」
「カノン、頼むから」
「だって、ぼくだけなんでしょう? アリス、って呼ぶの」
「……」
凶悪なまでに可愛い顔で微笑まれ、キニアンは思わず言葉に詰まった。
この銀髪の少年を天使だなどと思ったことは一度もないし、これからもきっと思うことはないだろう。
「だから、ぼくはアリス、って呼ぶよ?」
いいでしょう? と、ちっとも『No』が返ると思っていない顔で笑う。
じっと、緑の目で菫の瞳を見つめていたキニアンだったが、やがて諦めたようにため息を吐いた。
「……Yes, Her Majesty.」
「何か、だんだん仰々しくなっていってるけど。ってか、ぼく女性じゃないし」
「……お前は、間違いなく『女王様』だよ」
「あぁ、うん。じゃあ、アリスはあれだね。──『下僕』」
「……せめて『執事』とかにしてくれないか?」
「気が向いたらね」
にっこりにこにこと微笑む天使の皮を被った女王様に、今後一切勝てる気がしないキニアンなのであった。