St. Valentine’s Day

ここは連邦大学惑星、イリ・ヤウラ大陸の中央に栄える商業都市サン・スーン。
その郊外にある閑静な住宅街は、政財界の大物や映画女優などが好んで住むような最高級の立地条件を誇っていた。
街の美観を守るため、都市部のような高層住宅は建設できない。
どの家も一戸建てである。
しかも、とかく敷地面積が広い。
その住宅街の一角、二階建ての白い豪邸の一階部分にある台所では、銀細工のような美しい青年が夕食の用意をしていた。
青年といっても、抜けるような白い肌に菫色の瞳が美しく、長い銀髪が目に眩しい少女のような可憐さを持つ容貌だ。
ドアが開く気配がした。
コンロの火を消し玄関へ向かう。
背中で束ねた美しい銀髪を揺らしパタパタ小走りで行くと、そこには最早見慣れて久しい顔があった。

「おかえり」

にこやかに笑みを浮かべるその様子は、どこからどう見ても清楚な美少女だった。
立ち居振る舞いや声の高さも、とても男性のものとは思えない。

「ただいま」

対して、ふわりと微笑む青年は、白皙に黒髪がよく映えるほとんど暴力的なくらいの美貌の持ち主だ。
しかもしなやかな鞭を思わせる、鍛え上げた長身の持ち主である。
ダメ押しとばかりに、連邦大学文系最高峰とされるダラスト校を主席で卒業するような頭脳まで持ち合わせている。
天から三物も四物も与えられた羨ましいことこの上ない人間だった。
以前は表情のない顔ばかり見せていたが、最近銀色の青年の前限定の『やわらかく微笑む』という必殺技を会得し、目下向かうところ敵なしだった。
もしこの黒髪の青年にこんな表情で微笑まれたら、どんなに自分の容姿を誇る女性でも間違いなく赤面するだろう。
即座に虜になるに違いない。
見慣れているはずの銀細工の青年ですら、慣れてくれない心臓に困惑していた。

──前は怖いだけだったのに……。

まだ自分が中学生だったころ、成り行きでこの男が『にっこり微笑む』顔を見たときは、ただただ空恐ろしいだけだったのだ。
どうやらここ数年で自分の体質は変わってしまったらしい。

「良い香りがする」

ひた、っと真っ直ぐに臆することなく見つめてくる瞳は深い夜空の藍色で、思わずどきり、とした。

「あ、ああ。今日はパイ包みシチューを作ってて……もうすぐできるから待って──」

半身で台所を振り返っていたシェラは、微かに首筋にかかる息に飛び退きかけた。
阻むのはヴァンツァーの手。
頭を押さえられて、動くことができない。
耳のすぐ下に鼻が、首筋に唇が触れそうで触れないくすぐったさ。

「やはり俺の見立てに間違いはないな」

満足そうに体を離して呟くヴァンツァーに、速くなってしまった鼓動と朱に染まる頬がばれないよう、シェラは足早に台所へ戻っていく。
この家はダイニングと台所が続いており、そこから扉ひとつ奥にリビングがある。

「見立ても何も、これはうちの新商品じゃないか……」

今の行動からして、黒髪の青年が『良い香り』と評したのはシェラのつける香水のことらしい。
月下美人の花から抽出した天然の香料だけを使ったそれは、あのリィからも『いい匂い』のお墨付きをもらったありがたいものだ。
顔と同じほどに頭もずば抜けている長身の青年は、興味の赴くままに連邦大学であらゆる分野の単位を取りあさっていた。
しかし卒業すると、なぜかそれまでに学んだこととは毛色の違う服飾畑に足を踏み入れたのだ。
学生時代に当てまくった株の儲けでひと財産築き、自分で会社まで立ち上げてしまうのだからとんでもない。
おそらく自分より能力の低い人間に使われることは我慢がならないのだろうが、なにゆえデザイナーなのか。
しかもメンズ、レディースから、宝飾品や香水にまで手を出す無節操ぶりながら、ことごとくの分野で成功してしまうのだから、もう化け物である。
外科医になったレティシアがそんなヴァンツァーを見て、シェラの肩をポン、と叩いた。

「甲斐性のある旦那で良かったじゃねえか」

ニカッ、と気持ちのいい笑顔の彼にシェラが飛び掛り、その後壮絶な技の応酬が繰り広げられたのは言うまでもない。

「だから、だろうが」

そんなことを考えていたシェラは、後ろをからかけられた言葉をほとんど聞き取れなかった。

「何だ?」

再び鍋を火にかけようとして手を止める。

「お前に合うと思うから作っているんだ」
「何を?」

言われたことの意味が分からなかった。

「基本的に、俺がデザインする服も宝飾品も、それからその香水も、全部お前がモデルだ」
「は?!」

寝耳に水だった。
そんなこと、今まで一度だって言われたことがない。
ヴァンツァーのアトリエにお針子として入社『させられた』のは、高校を卒業してすぐのことだった。
別に針仕事は嫌いではないし、何よりヴァンツァーの描くデザインが自分好みで、楽しく働けそうだと思ったのだ。
思ったのだが、まさかモデルとは。
そういえばリィが「お前がもらった髪飾りといい、黒すけは見立ての才能があるし、服のセンスもいいからな」と、しみじみ言っていたのを思い出す。
そのときシェラは「あの髪飾りはそういった意味で寄越したのではないと言ってるじゃありませんか……」と言葉を返した。
盛大な勘違いである。
本人気付いてないだけ余計に性質が悪い。

「知らなかったのか? 何だ。随分気に入っているようだったから分かっていると思っていた」

呆れと驚きが半々に混じった表情でジャケットを脱いでダイニングの椅子に掛け、ネクタイを外す。
この男が外出時の服装を崩した姿は見たことがない。

「あ、いや……確かにお前のデザインするものはどれもこれも気に入っていたんだが……」

まさか自分がモデルとは思わないではないか。
金黒天使と元・死神の外科医に聞かせたら、さぞ深いため息をついてヴァンツァーに同情したことだろう。

「……だってお前私の採寸なんて、したことないだろう?」

メンズもレディースも何でもござれの青年は、デザインから縫製まで特定の人間の体に合わせて作ったりしていなかったのだ。
随分無茶苦茶なことをするものだ、とシェラは思っていたのだが、時々試着させられた服は、そういえば丁度良いサイズだった気がする。

「寸法など、測らなくても触れば分かる」

言いながら脱いだジャケットとネクタイを手にリビングの方へ向かう。
自室がそちらにあるためだ。 直後盛大な金属音が台所から響いた。

「さわ──っ?!」

一気に頭に血が上るのが自分でも分かった。
顔が熱い。

「お、お前! コレクションのモデルさんたちの寸法を、そんな風に測っていたのか?!」

ヴァンツァーの後を追って、シェラもリビングへやってくる。
恐ろしく論点のずれた赤面だったらしい。
もういい加減慣れたことではあったが、ヴァンツァーは黒髪に手を突っ込み、美貌をその手に埋めて頭痛を抑えることしかできなかった。

「お前、女の人にちやほやされるからって、いくらなんでもそれは職権乱用だ!!」

極上の美貌で片っ端から女性─時には男性─を魅了していく雇い主に非難の目を向けたのだが、逆に睨み返された。

「な……何だ……?」

過去に見慣れた排他的な雰囲気は近頃あまり見なくなった。
が、代わりというわけでもあるまいに、自分を見る目が呆れっぱなしというのも居心地が悪い。

「──誰が、いつ、他のモデルの話をした……?」

低く、押し殺したような声音だったが、不思議と怖くなかった。
やはり居心地が悪い、というのが正解だ。

「え……? あ、あれ……?」

戸惑うばかりのシェラの元に歩み寄り、ヴァンツァーは銀髪を留めていたリボンを解く。
涼しげな音とともに背中一面に月光が溢れる。

「ち、違う……のか……?」

どうにも自信のない、弱々しい声だ。
長い指で髪を梳かれているのもいけない。
背筋がざわざわする。
そもそも女性の扱いに関しては『専門家』の称号をレティシアからもらうような男だ。
短い付き合いでもなくなってきた銀細工の青年が、どんな行動にどんな反応を返すのかくらい想像がつく。
分かっていてわざとやっているのだ。
それが楽しくて仕方ないらしい。
退屈が天敵の美丈夫は、飽きを感じさせない月の精霊のような青年を、大層気に入っていた。

「表現の仕方が足りなかったか?」

そうささやく声も、壊れ物を扱うように抱きしめてくる腕も、びっくりするくらいやさしくて、シェラは混乱の極致に追い詰められていた。

──た……助けて!

まさかこんなところで第三者の救済が得られるわけもなく、シェラはカラカラに乾いた喉で何とか言葉を紡ぐ。

「や、やめてくれ!!」

意外なことに、シェラより頭ひとつ分は背の高い男は、あっさりと戒めを解いたのである。

「ヴァ……?」
「何だ。不満か?」
「──っ!! ふ、ふざけるなっ!!」

再度赤面して力いっぱい叫んだ。
そんな様子には目もくれず、口元に笑みを浮かべたヴァンツァーは、ジャケットとネクタイを手に自室へと着替えに行った。
憤懣やるかたない、とはこのことだ。
シェラは地団駄踏みたい気分だった。
一軒家なのだからやっても構わないのだろうが、いくら悔しいからといって物に当たるのは良くない。
それでも夕食の用意なんぞ綺麗さっぱり忘れて、手が白くなるまで握り締めていた。

──あいつは何であんな悪ふざけをしてくるんだ?!

やはり本人や友人に聞かれたら絶句されるに違いないことを、さも当然の疑問のように胸に抱く。

──そもそも、どうして私はここで暮らして、当たり前のように食事の用意をしてあの男の帰りを待っているんだ?!

気付くのは今なのか? と、黒天使や金色狼や猫目の死神なら、きっと全員一致でそう言ってくれるだろう。
そんな葛藤をしながら突っ立っていたシェラだが、着替え終えたヴァンツァーの気配を感じて振り返る。
ヴァンツァーの方は、着替えに行く前と同じ位置にいるシェラを見て首を傾げた。

「俺が出てくるのでも待っていたのか?」
「違う!!」

こうして犬も食わない日常が繰り広げられるわけだが、結局負けるのはシェラであることが多い。
何のことはない。
この不必要に見目麗しい男と口論─ほぼ一方的にシェラが叫んでいる─をすると、自分が馬鹿みたいに思えてくるのだ。
だから自分が大人になって我慢してやっている、と本人心から思っている。

「機嫌を直せ」

そうして手渡されたのは手のひらサイズの包みだった。

「……何だ、これ」

不審そうに、おっかなびっくりといった感じでしげしげ眺めている。
それには理由があった。
ヴァンツァーがシェラにこの手の包みを渡すときは、中にとんでもないものが入っていることが多いのだ。
気に入るとか気に入らないとかいう類の懸念ではない。
別にびっくり箱というわけでもない──いや、ある意味びっくり箱かもしれない。
大抵、目を疑うほど高価なものが入っているのだ。

「開ければ分かる」

渡すだけ渡して気が済んだのか、台所へ行きコーヒーと紅茶を淹れて戻ってくる。
インスタントやティーパックは絶対に使わない完璧主義者だから結構な時間がかかっていたはずだが、紫の瞳は箱と睨めっこを続けていた。

「爆発したりしないが?」

何をそんなにびくついているのかよく分からない青年は、居間のテーブルにふたり分のカップを置くと、ゆったりとソファに腰を下ろした。

「似たようなものだ! お前がうちの商品以外で私にくれたものの総額を言ってみろ!!」
「だから、気に入らなかったら捨てろと言っただろう?」
「捨てられるような値段か! それに気に入らなかったわけじゃ──」

──って、それじゃまるで気に入ってるみたいじゃないか!!

自分で自分の言葉を訂正して、悠然とカップに口をつけている男を睨み付けた。

「今日はヴァレンタインデーらしいからな」

ふと気付いたように、唐突に一言それだけ口にした。

「ヴァレンタイン? じゃあこれ、チョコ……?」

少し安心したのかシェラもソファに腰掛け、包みを開け始めた。
白い箱に赤、ピンク、白の細いリボンがかけられていて、男の子へのプレゼントにするチョコレートの包装としては異色だ。
しかし、最近は男女問わず、友人にも贈り物をするようになってきたということでシェラも別段変に思ったりしなかった。

「かわいい……」

リボンを解き箱を開けると、予想に違わずきちんと正方形にカッティングされた生チョコレートが入っていた。
三粒がミルクチョコレートで、一粒だけホワイトチョコレートだ。
四粒のチョコレートで、さらに大きな正方形が形作られている。
シェラの言葉通り、チョコレートそのものもラッピングも本当にかわいらしいもので、おそらくは女の子のうけを狙っての商品ではないかと思われた。

「気に入ったか?」

この言葉には、さすがのシェラも素直に頷いた。
特に甘いものが好きというわけではないが、目に楽しいこういったものは、見ているだけで心が軽くなる。
それは良かった、と言ってくる青年が淹れてくれた紅茶はおそらくこの贈り物のためのものだろう。

「あ……ヴァンツァー。ありがたいんだが……食事の用意が途中で……」

せっかくの紅茶が冷めてしまうのは惜しいが、自分が休憩するのはそれが終わってからだ。

「構わん。それを食べてからでいい」

ほとんど表情が動かなくとも口調はやわらかく、シェラは笑顔を返した。

「……ありがとう」

ミルクチョコレートの方を一粒つまみ、口へ運ぶ。
とろりとした素晴らしい口溶けで、甘味を抑えたほろ苦さが丁度良い。
カカオの香りは濃厚だが後味もしつこくなく、本当においしかった。
もしかしたら、今まで食べたチョコレートの中で一番おいしかったかもしれない、と思ってしまったら値段が気になりだした。

「……これも、高いな」

もう疑問形ですらなかった。
そうだった。
この男が渡してくるものは、どんなに小さなものでも一級品ばかりで、卒倒しそうなくらい高価だったのだ。
金銭感覚がないのかもしれない。

「さあ? ものを買うときに値段なんか見ないだろう?」

ごく当たり前のことのように聞かれて、シェラは血の気が引いた。

「お前……浪費もいい加減にしろよ……?」

怒鳴る気力すらなかった。

「俺は金を無駄に使ったことは一度もない」
「嘘をつくな!! 誕生日にはアメジストのピアス、クリスマスには紫のミンク! どっちも家一軒買えるものだ!  この間もらったリボンだって一級品の絹だったじゃないか!!」

この時代天然素材は恐ろしく高価で、絶望的といっていいくらい手に入らない。
特に宝石は、市場に出回っているものはほとんど精巧な複製品だ。
上流階級の人間ですら、普段使いに天然石など間違っても使わない。

「それがどうして無駄になるんだ?」

本当に分からないらしく、秀麗な美貌には困惑の色しなかい。

「……私なんかに金を使うなと、もう何十回も言ったはずだ。他のことに使えばいいだろう?」

眩暈を覚えながら、押し殺すように言葉を紡ぐ。寝込んでしまいたかった。

「家も車も持っているし、会社は順調株価も上昇傾向。服もきちんとした縫製のものを着ているし、食材も無農薬だが、まだ何か足りないのか?」

衣食住すべてにおいて、彼らの年齢では考えられない暮らしをしている。
贅沢をしているわけではなかったが、自然なままの天然素材にこだわることは、ある意味一番の贅沢かもしれない。
絢爛豪華さとは無縁だったし、そんなものに何の興味もなかったが、人間体が資本である。
清潔な居住環境と栄養バランスの取れた食事、衛生的な衣服が得られるなら多少の出費は厭わない、というのがヴァンツァーの哲学だった。
ちなみにこの家にはトレーニング設備も充実していた。
広い庭は射撃や鉛玉の訓練にもってこいだし、ロッドができる広さの地下施設もある。
平和な世の中とはいえ、自分の腕以上に信頼できるものなど彼らにはなかった。
この世界の武器は便利だし威力も高いが、やはり体に馴染んだ戦い方というものがある。
加えて警察の捜査能力は高いが、どこか間の抜けた防犯設備しかなく、デザインが命の仕事をしている以上、それを守るための力は必要だった。

「ああ、じゃあ次は聖霊のいる船だな」

本気か冗談か口端を吊り上げている男は、やるといったらやる男だった。
宇宙船なんか手に入れてどうするというのか。
度々惑星間の行き来が必要なほど、自分たちはこの世界に多くの知り合いを持っているわけではない。
数少ない友人たちも、みなこの大陸に住んでいる。

「……頼むからやめてくれ」

本当に恐ろしいことだが、宇宙船くらい買えてしまう財力を持っていそうだから、ここは必死で止めなければいけない。

「うちで扱う布地も宝石も香料もすべて天然素材の一級品だ。それがうけて人気が出ているのだから、使うところに使って悪いということはなかろう?」
「もちろんそうだ。仕事でも食事でも訓練施設でも、何に金をかけようと構わない。が、私に使うのだけはやめてくれ、と言っている……」

怒ってはいない。
むしろ困惑していた。

「私はいくらお前が高価なものをくれたって、返すことができない…… 今日だって、お前はこうしてチョコレートをくれたのに、私は何の用意もしていないんだ……」

それが嫌だった。
この男とは、対等でいたいのだ。
それなのにいつも自分は追いつけない。
いつまでたっても隣に立てない。

「以前にも言ったが、俺がやりたくて勝手にやっていることだ。お前が気負うことはない」
「でも──」
「それでも、迷惑だったらもうやめる。悪かった」

ポン、とシェラの頭に手を置き、カップを片付けに台所へ行く。

「………………」

違う。 謝らせたかったわけじゃない。
ヴァンツァーのくれたもので、気に入らなかったものなどひとつもない。
値段だって、わざと高いものを選んでいるのではないことくらい分かっている。
『本物』を贈ろうとするから、必然的に桁が変わってしまうだけなのだ。
分かっては、いるのだ。
でもそれは、本来自分がもらうべきものではないことも分かっている。
本当だったら、あの男の伴侶になるような人間が贈られるべきものだ。

「銀色」

呼ばれても振り向けなかった。
ともすれば泣き出しそうな顔をしているのが、自分でも分かったから。

「シェラ?」

今度はすぐ背中から聞こえた。
足音も気配も、まったくしない。

「……座れ」

振り向きもせず、固く握りすぎて血の気の失せた手を見つめて呟く。

「…………」

ヴァンツァーは何も言わず、シェラの左側に腰を下ろした。
シェラは瞳を閉じて深呼吸し、瞼を開いて隣の青年を見た。
相変わらず恐ろしいくらい整った顔がある。
本当に、憎たらしいくらいの妍麗な美貌。
自分が殺したときより、ほんのわずかに年齢を重ねている。
背筋が寒くなるような艶っぽい瞳は、以前よりずっとやわらかな印象がある。
こんな顔も頭も良くて将来有望な男に、浮いた噂ひとつないのはどう考えてもおかしい。
確かにヴァンツァーは自分に言い寄ってくる女性は嫌悪していたが、アトリエのスタッフのように普通に接せる人間もいるのだ。

──それでも、楽だから私といる……。

必要だからではなく、楽だから。
知らず自嘲の笑みが漏れる。

「……こういうものは、恋人にあげた方がいい」

ため息とともに、押し出すように言った。 藍色の瞳を真剣に見据えて。

「……?」

途端にヴァンツァーの首が傾げられる。

「私なんかじゃなくて、もっとお前を必要としてくれる人に……」
「…………?」

更に困惑を深めた表情でシェラを見ていたが、不意に相手の瞳が逸らされた。

「こんな風にプレゼントを貰わなくたって、私はお前の仕事を手伝う。強くなりたいから訓練だって一緒にしたい。 だから、私に構ってないで、もっときちんと周りを見て──」
「おい」

そこまでは黙って聞いていたが、とうとう我慢できなくなったのかシェラの言葉を切った。

「何だ?」

紫の瞳は真剣そのもので、自分の考えが正しいことを信じて疑わない。

「お前、何を言っているんだ?」
「私相手にこんなことをしていたら、お前を必要とする人との出逢いを逃す、と言っているんだ」

僅かに怒ったように、それでも幾分か寂しそうにシェラは言った。

「………………」

ヴァンツァーの胸に、一瞬本格的に殺意が芽生えた。
藍色の瞳に冷たい炎が見えるようだ。

「どうした?」

慣れた感覚である殺気を読み取れないはずもなく、シェラは顔を横に向けた。
これが他の人間の放ったものだったらすぐさま戦闘体制に入るところだが、あまりにも警戒していなかったし、それにほんの一瞬で霧散してしまった。

「──……いい」

それだけ言うと、立ち上がって寝室へ向かう。

「ヴァンツァー?」

声をかけても振り返りも立ち止まりもしない。

「待て!」

それでも呼び止めようとするのは、立ち上がる直前に見た男の瞳が、以前のように無機質な光を帯びているのが気にかかったから。
月のない夜のような、昏い色だった。

「何だ」

声にも何の感情も含まれていなかった。
淡々とした、事務的で機械的な声音。

「あ……し、食事……」

あまりに人間味を感じない口調に、言おうとしていたことを忘れた。
慌てて取り繕うが、大失敗だ。

「いらん」

ひどく冷ややかで鋭い、突き刺さるような視線と口調。 縫い付けられたように、シェラは微動だにできなかった。
バタン、といつもより乱暴に寝室のドアが閉められても、まだ状況が理解できなかった。

──怒らせた……?

分かったのはそれだけだ。
理由も何も分からない。
だって、自分は当たり前のことを言っただけなのだ。
それなのに怒るなんて、全く理解できない。
男の自分から見てもあんなに魅力的なのに、恋人のひとりもいないなんておかしいじゃないか。
そりゃあ自分を見て熱を上げる女性があまりに多くて辟易している─間違ってもモテない男には聞かせられない─のはよく知っている。
でも、全部の女性が全部、そうじゃないことも知っている。

──私が女だったら放っておかない……だったら、実際女性たちはみんなそう思っているはずだ……。

事態を深刻に考える才能に卓越した銀色の天使然とした青年は、一度考え込むとどんどん内向的になる癖を持っていた。

──大体、私なんかといつも一緒にいるから、みんな変に誤解するんだ!!

リィやルウやレティシアがアトリエの連中に吹聴して回ってるのも、それをヴァンツァーが否定しないのもいけないのだ。
好きか嫌いかと問われたら、決して嫌いの部類に入るわけではないから、嫌いじゃない、と答える。
するとまたみんな面白がってワイワイ騒ぐから悪循環なのだ。

──そうか……私がいけなかったのか……。

結局そこへたどり着いたらしい。
自分がはっきりしないからいけないんだ。
可憐な美貌のせいで格段に男性から声をかけられることの多いシェラだから、ヴァンツァーと一緒にいると変な男が寄ってこなくて楽なのは確かだ。
まさかあの長身と美貌に挑もうなどという奇特な人間がそうそういるわけもなかった。
利害が一致していると想像していたが、もしかしたら、それは間違いだったのかもしれない。
ヴァンツァーは自分の裁縫の腕を高く買ってくれて、住む場所まで提供してくれているのに、自分にできることは家事くらいしかない。
もちろん仕事も家事も一所懸命やっているし、腕に自信もあった。
それでも、あの男がしてくれることに比べたら、そんなのは極些細なことではないのか。

「…………」

チョコレートひとつとってみても、こんなにいいものを探してくれるのに。
そう思って開いたままの箱に目をやる。
自分がここを出て行くのは一向に構わなかった。
今まで働いた分の給料はほとんど手付かずだし、ひとりで暮らすのに支障ないくらいの生活能力はある。
でも、あの男の機嫌を損ねたまま出て行くのは何となく気が引けた。
謝罪して、甘いものでも食べて気分を落ち着けてもらおう、と判断し、箱を手にして寝室へ向かった。  




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