St. Valentine’s Day

──コンコン。

一応ノックしてみるが、やはり何の反応もない。
ドアの前で呼吸を整え、ゆっくりとドアを開ける。
今宵は満月なのに、郊外とはいえ月の光は遠く、室内は間接照明がやわらかな光を放っているだけだった。
ヴァンツァーは言葉どおり横になっているが、背を向けているため実際眠っていうかどうかは分からなかった。
行者であったシェラは足音を立てずに歩くが、もしも起きているならヴァンツァーが気付かないはずがない。
ノックもしたし、ドアを開ける気配も感じたはずだ。
それでもまるで動く様子がない。

「……ヴァンツァー?」

ひどく弱々しい声だった。
枕元に辿り着くが、背中越しに寝ている男の表情は見えない。

「あ……あの……私は、近いうちに……ここを出て行く、から……」

いつまでも世話になっているわけにはいかない。
いつかはこの男も結婚するのだろうし、何より自分自身が自立しなければいけない。
ここに住んでいなくとも、鍛錬に付き合ってもらうことは可能だ。

「それで?」

シェラの言葉に反応してか、ゆっくりと寝台に身を起こし、手をついて上体を支える。
抑揚のない声に無感動な瞳。
僅かに吊り上げられた唇も、どうでもいいと言いたげだった。

「だから……その、機嫌を直してくれないか? あ、ほら、このチョコレート、食べて……」
「いらん」

視線は外さないままの、ひどく機械的な声。
絶対零度の氷の刃だ。

「……おいしいんだ、これ……とっても」
「ならお前が食えばいいだろう?」

ほとんど吐き捨てるように言われ、シェラは反射的に身を縮めた。
怖いわけではなかったが、そんな言い方をされたことがなかったから驚いたのだ。

「あ……ヴァ……?」
「寝るなら寝ろ。用がないなら静かにしてくれ」

そう言うと、再び背を向けて布団をかぶる。

「──っ!!」

カチン、ときた。
自分は譲歩しようとしているのに、何なんだその態度は。
元はといえばこの男が、高いものばっかり持ってくるからいけないんだ。
そりゃあ確かにもらったものはどれもこれも好みだった。
そこは否定しない。
でもことがあろうとなかろうと贈り物をしてくる男の神経が心底理解不能だった。
一体何がしたいのか説明してくれたっていいじゃないか。
ヴァンツァーのような頭脳は持ち合わせていないが、それでも自分だってそれなりに高い理解力は持っているのだ。

「食え!」

チョコレートの箱をずいっと差し出して大声を出す。
まったく反応が見られなかった。

──ムカッ。

「ヴァンツァー!!」

寝台に乗り上げるようにして食ってかかっても、振り返りもしない。

──ムカムカッ。

怒り心頭のまま箱からチョコレートを一粒取り出すと、横たわるヴァンツァーの肩を思い切り掴んで自分の方を向かせ、抗議の声を上げさせる間もなくそれを食べさせた──口移しで。
意趣返しだ。
嫌がらせである。
男同士でこんなことをするのはどうかと思ったが、自分だって頭にきているのだということを思い知らせてやらなければいけないと思った。

ここまでやれば、この男に一泡ふかせてやれるだろう。

「──っ」

突然のことに珍しく動揺するヴァンツァーだったが、シェラの力には容赦がなく、ほとんど身動きが取れなかった。
相手の口の中に黒い塊を押し込んで満足したシェラは唇を離そうとしたが、その動きはヴァンツァーの手によって阻まれた。

「──っ!!」

今度はシェラが激しく狼狽する番だ。
横たわる男に覆いかぶさるようにしていたシェラの腕と頭を押さえて、離れていくことを許さない。
いくらもがいてもびくともしなかった。
やがてチョコレートが溶けてなくなると、やっと解放されたが、足に力が入らず床に座り込んだ。

「──何をする?!」

全身茹でダコ状態のシェラは、口元を手の甲で押さえて抗議の声を上げる。

「それはこっちの台詞だな」

寝台の上に身を起こす相変わらずの美貌に、先ほどまでとは違って楽しそうな笑みが浮かんでいる。
その瞳も、もう冷たくはなかった。

「私は食べさせようとしただけだ!!」
「俺も食べようとしただけだが?」

ああ、と付け加える。

「思ったより甘かった」

からかうような、それでいて太刀打ちできない妖艶さを孕んだ微笑。
天使や狼や死神がいたら、「甘かったのは本当にチョコレートか?」とささやいてくれたことだろう。

「私はお前に、あんな高いものをもらう気持ちを分かってもらおうと──」
「うまかっただろう?」

これも、旧知の仲の三人に聞いてもらえれば、「どういう字を当てるんだ?」と言ってくれたことだろう。

「そ、それから! お前も食べれば、ツケが少しでも払えるかと……!!」

裏返りそうになる声を必死に抑えて噛み付くように言った。

「ツケ?」
「今まで買ってもらった分のツケだ! 返さないわけにいかないだろう?!」

大真面目に突っかかってくる姿に、ヴァンツァーは絶句した後、ごく小さくだったが吹き出した。
吹き出したのだ、ヴァンツァーが。
どうしても我慢できなかったらしい。
そのまま、天然記念物でも見るように混乱するシェラを尻目にひとしきり笑った後、「律儀だな」 と呟いた。

「──借りたままでいるのは、嫌なんだ……」

ボソッと口にした言葉は、しっかりヴァンツァーの耳に届いていて、藍色の瞳がやわらぐ。
半ば強制的に女性を虜にする、脳天まで痺れるようなものではなく、あたたかく、やわらかなものだった。

「続き」

そんな笑顔だったからシェラもしばらく見惚れていたわけで、頭上の美青年が何を口にしたのか聞いていなかった。

「──あ、何か言ったか?」

床に座り込んだまま口を開く。

「今の続きで、ツケを払って釣りが来る」
「続きって──」

考えなければよかった。
言葉の意味など、分からないままでいればよかった。
そもそも聞き返すべきではなかった。
自分の失態を激しく非難し、シェラは思わず寝台のふちに頭を埋めた。
もう頭痛などという生やさしい症状では済まなかった。
頭そのものを、取っ払ってしまいたかった。

「……だから……そういうことは、恋人とやれと……」

そんな状態でこれだけ多くの言葉を紡げたのだから、これはもう賞賛に値する。

「俺はそのつもりだが?」

全っ然分からない。
何だその暗号は。

「それじゃあまるで、私がお前の恋人みたいじゃないか」

真顔で言いのける。
無意識とは恐ろしい。

「違うのか?」

とうとうショートした。
いや、今までよくもったものだ、といってやるべきかもしれない。
ショートしつつも、指先までが心臓に早変わりしていた。
やっと顔色が元に戻りつつあったのに、また全身を炎に包んでいる。
しかし怒りのためではない。
とにかく体中が熱いのだ。

「困ったな」

寝台の上から座り込んでいるシェラの髪を梳く。

「泣いている女は押し倒せと、レティーに言われているんだ」

正確には「泣いてるお嬢ちゃん」だった。
が、言われていても言うことを聞く気のない青年は、何度も何度も銀髪を撫でた。

「──私は、男だ」

泣いているとはいっても、頬を一筋涙が伝っているだけ。
嗚咽で言葉が紡げなくなるようなことはない。
それでも、この涙の理由は本人もよく分かっていない。

「だから困っている」
「?」

理由を問うように、目線だけ頭上に向ける。
間接照明に浮かび上がる美貌はぞっとするくらい妖艶で、目を逸らしたいのに繋ぎ止められる。

「どう慰めたらいい?」
「……私に訊くな。お前『専門家』だろう?」

挑むような目だった。
やれるものならやってみろ、といわんばかりの煌めき。

──誰が誑し込まれてなんかやるものか!

生来が負けず嫌いのシェラは、高鳴る胸も紅潮する頬も無視して、そんなことを考えた。

「お前が女だったら話は簡単なんだ。微笑んで、ちょっと甘い言葉をかけてやればいい」
「私は男だからな。無理だ」
「言い寄ってくる男相手でも、似たようなものだ」
「……言い寄ってない」

嫌そうな顔で返す。

「だからお前は楽しい」

シェラの頬を包み込むようにして、瞼に口づける。
それを憮然とした表情で受け止めて、シェラがおもむろに口を開く。

「……『専門家』も、大したことないな」

何が不満だったのか自分でもよく分からない。
口にした自覚もなくぼやいていた。
視線を外しての一言だったから、銀の月は藍色の瞳がどんな凄絶な光を放ったかを知らない。

「…………」

無言のままシェラを抱き上げ、乱暴に寝台に横たえる。
スプリングが利いているため、衝撃はほとんどない。
あっという間に世界が反転して驚いた紫の瞳は、藍色の瞳に射抜かれた。

「──後悔、するなよ」

掛け値なしの本気だった。
全身全霊かけて、挑んでいた。
相手はそこら辺にいるような雌犬とは違う。
微笑みと甘言でなびいてはくれない。
だから、愛用の武器を手にして闘うときと同じくらい、真剣だった。
シェラは首筋がちりちりと焼け付くような感覚に身を浸していた。
ほとんど殺気や闘気と変わらない気配を、全身で受け止める。

「後悔するな?」

クスクスと小さく笑って、自分を見下ろしてくる青年の首にするり、と腕を巻きつけた。

「らしくもない。私が後悔する間もないくらい、満足させてみたらどうだ?」

人が変わっていた。
赤くなったり青くなったり白くなったりを繰り返していた人間は、もうそこにはいなかった。
このギリギリの緊張感を楽しんでいた『行者』のころに立ち戻ったようでもある。
今こうしている瞬間だけは、この男と対等でいられるような気がするのだ。
追っても追っても届かない──否、届きそうで届かない相手に、近づけたかのような気が。
負けたくなかった。
でも、負かしたいわけではなかった。
何と言えばいいのかまとまらないが、一番大きく心を占める言葉は『悦び』だろうか。
今初めて、自分が必要とされている気がしたのだ。
他の誰でもなく、この自分が。

「……悪くない、考えだ」

対する夜色の瞳も、ひどく楽しそうだ。
指通りの良い眩い銀糸に手を梳き入れ、照明に反射する瞳の色彩を楽しむ。
極上のアメジストにも勝る、深く澄んだ瞳。
なめらかでしみひとつない白磁の肌は、どんな絹にも劣らずすべらかだ。
ふと新しい服のデザインが湧いてきたがそれを頭の隅に追いやり、眼前の女神然とした美青年にのみ意識を集中する。
他のことを考えながら相手できるほど甘くない。
どんどん強く、どんどん美しくなっていく。
末恐ろしい存在だった。
それなのに本人は、こちらが勝手に贈っているものをツケにしているような、何とも面白い人間だった。
ふたりといない特別製だ。

「私の顔に見惚れているのか?」

からかうように喉の奥で笑う。
品のある容貌ながら、なぜこうまでゾクリとするのだろうか。
天使の皮を被った悪魔がここにいる。

「──余裕の理由を、聞かせてくれないか?」

少女のような赤い唇を指でなぞり、それこそ魔物をも魅了しそうな蠱惑的な笑みを浮かべる。
その微笑だけで天にも昇れそうな錯覚を覚える。

「企業秘密だな」

負けじと薄く微笑み、瞳を逸らさないようにしながらヴァンツァーの額にかかる黒髪を梳く。
思いのほかやわらかな感触で、小さな驚きを表に出さないようにするのに苦労した。

「……そんなに仕事熱心とは知らなかった」
「手は抜かない主義なんだ」
「──……それは楽しみだな」

その言葉が合図だったように、ふたりは揃って瞳を閉じた。

──ピーンポーン

「…………」

今にも触れそうになっていた唇が、互いの直前でピタリ、と止まる。

「──あ」

何かを思い出したように、シェラが玄関の方向に目をやる。

「……何だ?」

無表情ながら麗しい美貌には、親しい友人が見れば『不機嫌全開』と書いてあるのが分かっただろう。

「今日三人が来るんだ」

言い忘れてた、と苦笑する。
三人とは、言わずもがなの面々だ。

「それは、言い忘れるようなことなのか?」

寝台に身を起こそうとしているシェラの邪魔にはならないように自らも起き上がったが、舌打ちすらしそうな表情である。
断っておくが、その怒りは玄関先の三人に向けられたものだ。

「だって、お前が怒るから……」
「怒ってない」
「怒ってたじゃないか。寝室に引きこもるし」

口を尖らせて文句を言う姿はとんでもなく愛らしくて、本当に男かどうか判然としなくなる。

「あれは怒っていたわけではない」

相変わらず多くを語らない男は、寝台の端から脚を投げ出しているが、動き出す気配はまったくない。
これも間違いなく玄関先の三人のせい。
できれば顔も合わせたくなかった。

「じゃあ拗ねてたんだ」

苦笑しながらささやかれた言葉は聞き捨てならないもので、ヴァンツァーは相手をちろり、と睨めつける。
そんな青年とは対照的に上機嫌──本人にもなぜだか分からないが──のシェラは、まったく意に介した様子がない。

「もしかして図星か?」

勝ち誇ったような、それでいて蕾がほころぶような微笑は、『里』の生活から遠く離れた今でも、少女よりも少女らしかった。

「……もういい。早く行け」

渋面で退室を促すが、少女のような美青年は動こうとしない。
二度目のチャイムが鳴る。

「何をしている? 早く行かないと王妃かレティーが玄関を蹴破るぞ?」

その様子と、ルウが必死でふたりを止めようとしている姿が容易に想像できて、シェラは楽しげに微笑んだ。
対するヴァンツァーはまだ苦い顔をしていて、せっかくの美貌が台無しである。

「でもまずお前の機嫌を直さないと……」

そう言って、ごく軽く、触れるように唇を重ねた。
今度は嫌がらせのつもりはなかった。
こうすれば機嫌が直ると、なぜか確信していたのだ。
一瞬驚いて目を見張ったヴァンツァーだったが、すぐに渋面が戻ってくる。

「これで? 機嫌を直せ?」

冗談じゃない、と言いたげだ。 その様子に三度苦笑し、

──可愛いかもしれない……。

と、シェラは本人には絶対に聞かせられない一言を、胸中そっと呟いた。

「今はそれで我慢しろ。本当に蹴破られるかもしれないだろう?」

そう言うと、ひらりと寝台から離れ、軽い足取りで友人たちを出迎えに行った。

「…………」

残されたヴァンツァーは、あれだけのことで本当に機嫌を直してしまいそうな自分に対し舌打ちした。
どうしても、あの銀色に勝てる気がしない。
そもそも、あちらの世界で殺されたときも、その瞬間まで死ぬのはあの銀色だと思っていたのだ。
勝負に絶対はないが、おそらく自分が銀色を殺すことになるだろうと考えていた。
しかし、どんな時の運が味方したのか、実際命を落としたのは自分だった。
それから『仕立て屋』と呼んでいるルウに半ば強引に体を造られ、こちらの世界に来て十年を超える。
その間一度だって、あの銀色に口以外で勝ったことがない。
全然嫌ではなかったが、それを肯定するのは癪だったので、せいぜい渋面を作り続け、ちょっとやそっとのことでは機嫌を直してやらないのだ、と心に決めた。
それから、また明日からどんどん贈り物をしよう。
あの銀色は負けず嫌いだから、借りたら必ず返そうとするだろう。

「面白いな……」

一生かかっても返せないほどのものとなると、なかなか簡単には思いつかない。
真剣な表情で優秀な頭脳をフル回転させる彼の耳に、途端に賑やかな話し声が聞こえてきた。

「…………」

後で考えよう、とひとつ息をつき、とりあえず無表情で旧友たちの元へと向かった。
踏み出した足が思いのほか軽いことに、本人も気付いていなかった──。




END.


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