溺愛

ヴァンツァーは十六歳の少年として生き返り、二十二歳からシェラと暮らし始めた。
二十七で結婚式も挙げた。
その間に十年以上の月日が流れている。
彼の二度目の人生において、シェラという存在を欠かしたことはほどんどなく、彼の感情はシェラの存在とともに動いていると言っても過言ではない。

──何が言いたいかといえば、シェラにとっても、ヴァンツァーという男が何を考えているのか、長い年月を過ごすうちに分かるようになってきた、ということだ。

生き返った頃はほとんど表情など動かさなかった男だ。
それは、シェラと暮らすようになってからもしばらくは続いた。
いつからだろうか。ヴァンツァーがシェラの前以外でも表情を変えるようになったのは。
いつから、自分の想いをシェラに伝えることを、躊躇わなくなったのだろうか。
シェラはそれを覚えていない。
それでも、最近は本当によく表情を動かす。
一番印象的なのは、やはり笑顔だろうか。
自嘲的なものでも、皮肉なものでもなく、楽しそうに、また嬉しそうに笑う顔。
元が非常に整った顔立ちをしている男だ。
笑顔も当然美しい。
少しきつめの、精悍な美貌。
それが和らぐことに最初は違和感を覚えた。
一緒に暮らすうちに、それにも慣れてきた。
今では好きな表情のひとつに数えられる。
気配に敏く、敵には容赦しない男が無防備に微笑む姿を見るのは、何とも言えない優越感をシェラに与える。
それだけ、ヴァンツァーがシェラに気を許しているということになるからだ。
細かい表情の変化だとて、他の人間よりも早く、また正確に読み取れると自負してもいる。

──だから、今日のヴァンツァーがおかしいことも分かる。

表情がほとんど動かない。
必要最低限の会話しかしない。
仕事場でもそうだった。
ただ、職場の人間は何も感じなかったようだ。
シェラだけが首を傾げた。
そしてそれは、仕事を終えて自宅に帰ってきた時、確信に変わった。
絶対におかしい。
ヴァンツァーとシェラは、口数が多い方ではない。
家にいても、会話のない時間というものはもちろんある。
テレビもなく、音楽も流さない家だから音がない。
それでも、人の気配はある。
ふたりにとっては、それで十分だった。
しかし、そんな生活の仕方を差し置いても、今のヴァンツァーが常と違うことがシェラには分かった。
食事をしている時も、何かを考え込んでいるような顔つきだった。
シェラが話しかけると、一瞬間が空く。
どこか、上の空なのだ。
そして、いつも食後はリビングでお茶を飲む。
ヴァンツァーがコーヒーと紅茶を用意するのだ。
一緒に生活をするようになってからほとんど欠かしたことのない習慣だった。
それなのに、ヴァンツァーは仕事があるから、と自室へ向かってしまった。
いつもならば、自宅でまで仕事をしようというヴァンツァーをシェラは咎める。
だが、今日はそうしなかった──できなかった、という方が正しい。
仕事に対して真摯な態度を崩したことのない男だが、今日のヴァンツァーは真剣というよりも、むしろ焦っているように見えたのだ。
止めてはいけない、という声を、聞いた気がしたのだ。
倒れる程仕事をさせるのは嫌だと思っているシェラだが、ヴァンツァーの邪魔をするのはそれ以上に嫌なのだ。
足枷にだけは、なりたくない。
協力できることならしようと思う。
だが、焦燥の原因も、今携わっている仕事の内容も、ヴァンツァーは語ってくれない。
どうしようもないやるせなさだけが、シェラの胸を締めている。
ひとりリビングでソファに腰掛けていても、隣の部屋にいる男のことが気になって仕方ない。
それでも、部屋に入ることで気が散ったらと思うと、声を掛けることも躊躇われるのだ。
今の自分にできる最善のことが、何もしないことなのかと思うと、無力感で押しつぶされそうだ。
しばらく前に、時計は日付を変える音色を奏でた。
ヴァンツァーが自室に引きこもってから、既に四時間が経過しようとしている。
その間シェラは、ずっとリビングにいる。
ヴァンツァーが部屋から出てきたら、すぐにでも何か対処ができるように。
お腹が空いたのならば軽い食べ物を用意するし、コーヒーが欲しいと言えばすぐに淹れられるよう、豆は炒って挽いてある。
疲労感で眠りたいと言えば暖かい布団で眠れるように、布団乾燥機で寝床を暖めてもいる。
だが、シェラに思いつくのはそこまでだった。
他に何ができるのか分からない。

── 悔しい……。

きっと、今ヴァンツァーが目の前にしている仕事の内容は、シェラには理解できない類のものだ。
株や経営の勉強も始めたが、一朝一夕でどうにかなる分野ではない。
記憶力も理解力も並みではないと自他共に認めるシェラだったが、それらの分野に関しては、やはりヴァンツァーに一日の長がある。
難なく会話できる程、シェラの知識は多くない。
そして、デザイン画を描いている時のヴァンツァーはあんな険しい顔をしないから、おそらくは自社の経営や、株に関することなのだろう。
シェラではまったく役に立たない。
助けたいのにその術を知らないというのは、何と苦しいことなのだろう。
頼ってもらうだけの資格がまだないと分かっていながら、強欲にも寄り掛かって欲しいと思ってしまう。
自分なんかに頼ったら、一緒に倒れることは目に見えているというのに。

「……人を殺すことでしか、お前と並べないのかな……」

音のない静かなリビングで呟いた声は、笑ってしまうくらい掠れていた。
ソファの上で膝を抱える。
ふと視界の端に入ったアンティークリングを、目の前にかざした。
不透明なムーンストーンの表面を撫でる。

「四時間だって、こんなに長いのに……」

永遠なんて、持て余してしまう。
春だというのに、広いリビングは何だか寒くて、シェラは膝を抱える腕に力を込めて顔を埋めた。

──と、斜め後ろでドアの開く気配。

「──まだ起きていたのか?」

少し驚いたようなヴァンツァーの声。
この男の声を聞くのが久しぶりな気がして、シェラは泣きそうな顔で背後を振り返った。

「……どうした?」

僅かに眉をひそめ、ヴァンツァーはソファの後ろに立った。

「仕事……終わったのか?」
「……あぁ」

目に見えて疲れた表情をしているが、部屋にこもる前よりは幾分落ち着いた顔になっている。

「そうか……。訊いてもいいか?」
「何をだ?」

ヴァンツァーはシェラの隣に腰を下ろした。
息を吐き出し、力を抜いて、深く、ソファに身を沈める。

「今していた仕事の内容。……たぶん、私には理解できないと思うけど、聞かせてくれないか?」
「面白い話ではない」
「すぐに眠りたいのでなければ、聞かせてくれ」
「……ただの俺の失敗談など、聞いてどうする」
「──え?」

苦笑するヴァンツァーに、シェラは見開いた目を向けた。
この男が失敗。
考えたこともなかった。

「……どういう、ことだ?」

身を硬くしたシェラの肩に、ヴァンツァーは凭れるように頭を乗せた。
そのまま瞳を閉じる。
だが、眠りたいわけではないようだ。

「別に……。工場のひとつで、トラブルがあっただけだ」
「トラブル……?」

訊ねるシェラの首筋に額を擦りつけるようにし、腕を伸ばして腰を抱く。

「ヴァンツァー?」

シェラは困惑の表情で肩口にある秀麗な美貌を見つめた。

「どうした? どんなトラブルが……?」
「だから、聞いても面白くない」

僅かに顔を上げ、シェラの首に唇を押し当てた。

「おい」

そのままそこを軽く吸い上げる。

「こら! 誤魔化すな!」

言ってみて、シェラははっとした。

「……お前、何を隠そうとしている?」
「何も」
「嘘を吐くな!」
「耳元で大声を出すな」
「なら答えろ」

頑ななシェラの様子に、ヴァンツァーは仕方ない、といった雰囲気で吐息を漏らした。

「若い工員のひとりが、工場の金を持ち逃げしたらしい」
「……」

シェラは紫の目を瞠った。
にわかには信じ難いことだ。

「もち──だって、工場長はきちんと面接して」

信頼の置ける人物に任せたというのに。

「工場で働く人間も、身元確認をしていた──」

言いかけて、シェラは息を呑んだ。 ソファに腰掛けているというのに、奈落の底まで落ちていくような感覚。
絶望感とは、これを言うのだろうか。
血の気が引く。

「──……すまない」

掠れた声で謝罪する。
顔は真っ青になっており、震える口許を手で覆った。

「シェラ」
「すまない……私のせいだ。私が、人に任せられる仕事は任せろなんて言ったから……」

だから、最近の人事は各工場や農場に任せていた。
ヴァンツァーがすべてを管理していた頃には、こんなことはなかったのに。

「違う」

ヴァンツァーはやんわりと、しかし即座に否定した。

「私のせいだ。私が、仕事を減らせ、なんて……余計なことを……」

迷惑を掛けた。
それも、最悪の形でだ。
仕事には誇りと絶対の自信を持っている男の経歴に、泥を塗るような真似をした。

「違う、と言っている」
「すまない……どうし……すま……」

それしか知らないように、同じ言葉を繰り返す。

「シェラ、違う。お前のせいではない」
「私のせいだ! お前が綿密にしていた計算を、私が崩したんだ!」
「そんなことはない」
「下手な慰めなんかいらない!」
「シェラ、落ち着け」

ヴァンツァーは半ば恐慌状態に陥ったシェラを、きつく抱きしめた。
あやすように背中を軽く叩いてやる。

「……私は、お前の役に立てないどころか……足手纏いだ……」

嗚咽が漏れた。

「すまない……私のせい……」

触れ合った身体から、不規則な呼吸が伝わってくる。
ヴァンツァーは、長い銀髪を何度も梳いた。

「お前が悪いわけではない」
「……でも、私が仕事を減らせと言ってから、人事を任せるようになった……」
「たとえそれが原因だったとしても、それを決めたのは俺だ」
「……なに?」
「俺が、それでも大丈夫だと判断した。工場長の人を見る目は確かだと、思わなかったら任せたりしない。──かといって、工場長が悪いわけでもない。あの人は、きちんと人間を見る目を持っている」
「でも……」
「誰にだって、魔が差すことはあるだろう? 皆、真面目な男だったと口を揃えている」

まるでこどもに言い聞かせるように、ヴァンツァーはシェラの肩を撫でながら話を続けた。

「工員の行方は捜させているし、大した額でもない」
「……お前のその言葉だけは、信用できない。それに、金額の問題じゃない」

ヴァンツァーは、ちいさく笑った。

「とにかく、自分のせいだと思い込むな。謝罪すべきなのも、罪悪感に駆られなければならないのも、お前ではない」

シェラは眉を寄せた。
奥歯を噛み締める。

「……頼むから、責めてくれ」
「シェラ?」
「どうして、怒ってくれないんだっ」
「……」
「私が、ダメな人間になる……お前に迷惑を掛けても何とも思わない、最低の人間になる……」

それだけは嫌なのに。

「そんなの、やさしさじゃない……」

頭を撫でてくれる手が心地良いから。
時折、それに溺れてしまいそうになる。
何もしなくても、何も考えなくても、この腕の中にいればいいのだ、と思い込んでしまう。

「甘やかさないでくれ……」

そう言いながらも、ヴァンツァーの背に腕を回す。
あたたかいから。
さっきまであんなに寒かったのに、今はとてもあたたかいから。
触れ合った身体から感じる鼓動が気持ち良い。
眠りに落ちてしまいそうな心地良さだ。

「──……随分と、難しい注文だな」

低くて静かな声が、やさしく紡ぎ出される。

「俺が最終的に自分で判断したことをお前のせいにしたら、それこそ俺が最低の人間になる」
「そんなことにはならない。実際私が悪いんだからな」
「人事を任せたことが原因だったかどうかも分からないのに、お前のせいにしろというのか?」
「しておけ。そうすれば、少なくともお前のミスじゃなくなる」
「そんなことはどうでもいい」
「良くない。完璧主義のくせに」
「挫折を知らない人間は脆いぞ」
「骨は拾ってやる」

生真面目なシェラの声に、ヴァンツァーは声なく笑った。
気配と振動でそれに気付いたシェラは、ふと顔を上げた。
藍色の瞳が、やわらかく笑みを浮かべている。
ほっとした。

「──まぁ、この話はもういい。どうにかなる目途はついたからな」
「いつもそうやって、自分ひとりで何でもかんでも……」

どれだけ大変だったのか、とか、どれだけ疲れたのか、とか、一言でも言ってくれればいいのに。
愚痴も零してくれない。

「……夜食でも作るか? コーヒーが欲しいなら、もう豆の用意はしてあるぞ」

言うと、ヴァンツァーは僅かに目を瞠った。

「……何だ、その顔は。私だってちょっとは役に立ちたいんだ」

憮然とした表情のシェラを見て、ヴァンツァーは口端を吊り上げた。

「悪いがいらない」
「……そうか」

悄然として項垂れるシェラ。
やはりこんなところでも役に立てないらしい。

「お前の作った料理には悪いが、どちらかというと──今は、お前が欲しい」

思わずポカンとしてしまったシェラだ。

「……言っておくが、もう二時近いんだぞ……?」
「一晩くらい寝なくても、支障はないだろう?」
「寝かせない気かっ」

頭を抱えてしまったシェラだ。

「安心しろ。寝る気も起きないようにしてやるから。──あぁ、それか気絶だな」
「──っの馬鹿! 恥ずかしいこと言うな!!」

相変わらずこの手の会話になると顔を赤くするシェラを見て笑うと、ヴァンツァーはソファから立ち上がった。

「冗談だ。さすがに疲れた。今日は寝る」
「──……しないのか?」

驚いたような、それでいて期待はずれのようなシェラの声に、ヴァンツァーは苦笑を返した。

「お前こそ、俺を寝かせない気か?」

からかわれたことが腹に据えかねるのか、シェラは唇を尖らせた。

「──腹立つなぁ! 布団あたためてやるんじゃなかった!!」

苛立たしげに立ち上がると、シェラはドスドスと寝室に向かった。

「俺のだけか?」

後からついてくるヴァンツァーは、シェラの背中にそう声を掛けた。

「だったら何だ!」

振り返りもせず、シェラは乱暴に寝室のドアを開け、さっさと中に入っていった。
と、手を引かれたを思ったら、次の瞬間にはヴァンツァーに抱き上げられていた。

「──こら降ろせ!」
「せっかくあたたかい布団があるんだから、一緒に眠ればいい」
「寝ない! お前なんか知るか、馬鹿!」
「あぁ、分かった分かった」
「こども扱いするな! こら、降ろせ!」
「夜中に近所迷惑だろうが」
「一番近い家までエアカーで十分かかる! 何なんだ、この無駄に広い家は!」

口では喧々囂々と罵ってはいるが、シェラはヴァンツァーの腕の中におとなしく納まっている。
それが分かっているから、ヴァンツァーも軽く受け流しているのだ。
ベッドに座らされたシェラは、天使の美貌をきゅっと顰めたままヴァンツァーに厳命した。

「次の休みに、出掛けるぞ」
「どこへ?」

シェラの隣に身を横たえたヴァンツァーは、有無を言わさず自分の腕の中にシェラを迎え入れた。

「買い物」

腕枕をしてもらい、銀髪を梳かれる。
それだけで、どういうわけが急激に眠気が襲ってくるのだ。

「何を買いに?」

その上、耳にやわらかい低音の美声が流し込まれるのだ。
旋律のない子守唄のようだ、と思う。
あんなに昂ぶっていた神経が落ち着き、睡眠へと導入される。
とろとろとまどろみながら、シェラは呟いた。

「……新しい、ベッド……」
「ひとつ?」

返事をするのも面倒なのか、シェラはちいさく頷きを返した。
もう瞳は閉じてしまっている。

「分かった。おやすみ」

額に唇を落とされ、また頷きを返したシェラの表情は満足げで、ヴァンツァーはクスリと笑った。
そして、あたたかい布団の中であたたかな身体を抱きしめ、自らも瞳を閉じたのであった──。  




END.

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