いつもは絶え間なくささやかれる言葉が一切ないため、シェラの上げる声だけが支配する室内。
触れられてもいないのに、口づけだけで昇り詰めさせられる。
こうして抱き合うようになって、シェラはこの男が生きているのだと実感した。
広い背に手を添わせるのは、何も快楽を追うためだけではない。
力強く脈打つ心臓の音を聞き、熱を持つ肉体を肌で感じるため、もっと近くに、と引き寄せるのだ。
──それなのに、今日はそれが叶わない。
抱き返そうとした手は、頭の上で一纏めにされてしまっている。
自分から触れられないもどかしさと切なさに抗議の視線を送っても、目など合わせてくれない。
それでなくとも視界は滲んで何も見えないし、嫌だ、と言おうとすれば唇が塞がれた。
力を抜こうと息を吐けば、その瞬間を見計らったかのように直截的な刺激が与えられる。
一方的に抱かれている感覚。
しつこいくらいにゆっくりと……だから、だろうか。
いつもより、ずっと感じる。
恐怖を覚えるくらい、緩やかに、しかし確実に追い詰められる。
嬌声も、涙も、自分の意思で止めることなどできない──この、行為さえも。
揺らされるまま、求められるまま、何度も。
けれど、本当に嫌ならば跳ね退ければいい。
非力な女性とは違い、それだけの力があるのだから。
快楽の波に揺られるこのときが心地良くて、自ら甘んじて溺れている。
それでも、シェラの身体を知り尽くした男の与えてくる快楽は強すぎて、身体は勝手に跳ね上がって限界を訴える。
しかし爪を立てることも、目で訴えることもできず、その他のどんな行為にも応じてくれない男に、シェラは仕方なく羞恥に全身を染めながら言葉を紡いで強請った。
──その瞬間、ようやく、ヴァンツァーが薄い笑みを浮かべたのが見えた。
心地良いまどろみとはお世辞にも言えない、重い身体。
瞼は涙のせいで腫れているのだろう、上手く開けられない。
まだ身体の奥に熱が燻っている気がして、それでも起きなければ、と枕元の置時計に向けられた菫の瞳が瞠られる。
「────冗談……!」
子どもたちを起こすどころか、既に幼稚園に到着していなければならない時間だ。
飛び起きようとして、脚に力が入らず倒れ込みそうになった。
舌打ちを漏らして何とか立ち上がり、ローブを出して羽織る。
リビングを通ってダイニングへ向かおうとし、その間の扉にメモが貼ってあるのを見つけた。
『『 だいすきなシェラへ
おやつつくってまっててね
ソナタ・カノン 』』
上手くはないが、何とも微笑みを誘う子どもたちの字だ。
ヴァンツァーが食事を用意し身支度を整えてくれたのだろう。
ほっとしながらも、起こしてくれなかった男に微かな憤りを覚えた。
「……気配が読めないのも、考えものだな」
ため息を吐くと、シェラはバスルームへと向かった。
──そして、鏡に映った自分の有様に、愕然とした。
幼稚園バスを降りた双子は、ポカンとして先生に挨拶することも忘れている。
苦笑したシェラが「ご挨拶は?」と言うと、ようやくふたりは振り返って、「せんせいさようなら」と頭を下げた。
走っていくバスを背に歩き出した三人だったが、双子は心配そうな顔でシェラを見ている。
「……シェラ、おかぜ?」
カノンが眉を下げ、澄んだ菫の瞳を揺らしている。
「……ううん。違うよ」
「じゃあどうしてながいのきてるの? きょうあついよ?」
ソナタが、薄手とはいえ長袖のカーディガンを羽織っているシェラの手をきゅっと握った。
こちらも、カノン同様心配そうに藍色の瞳を揺らしている。
「カノン、はんそででもあついよ?」
「ソナタ、スカートでもあついよ?」
長ズボンに長袖のシェラは、季節外れもいいところである。
いや、夏場に長袖を切る人がいないとは言わないが、さすがに今のシェラのようにタートルネックを着ている人間はいないはずだ。
タートルネックはノースリーブなので、普通はこれ一枚で十分なくらいの気候なのである。
実際、昨日子どもたちを迎えに出たとき、シェラはノースリーブ姿であった。
「えっと……」
答えに窮したシェラは、ダメ元でこう言ってみた。
「──ファッションショー、やってたんだ」
双子の目が丸くなる。
「おうちのなかで?」
「ひとりで?」
「う、うん。ヴァンツァーがたくさん服を作ってくれるでしょう? ソナタとカノンが帰ってくるまで暇だったから、色々着替えて遊んでたんだ」
「おむかえのときはぬげばよかったのに」
なかなか鋭いことを言うのは、利発なカノンである。
内心冷や汗もののシェラだ。
「それが、やってたら楽しくなっちゃって……お迎えの時間ギリギリだったから、そのまま出てきちゃった」
じっと見上げてくる二対の瞳を恐ろしいと思ったのは初めてだった。
「そっか」
「じゃあしかたないね」
にっこり微笑む双子に、シェラはほっと息を吐いた。
「おうちかえったらぬげばいいもんね」
「ね~」
「……」
無邪気に微笑むカノンとソナタにギクリ、と身を強張らせ、シェラは力なく笑った。
そして、クーラーが効いているから、という理由で、室内でもカーディガンは大活躍なのであった。
「──どういうつもりだ?」
帰宅したヴァンツァーに、シェラは詰め寄った──とは言っても、子どもたちの前で喧嘩するわけにはいかないので、着替えるヴァンツァーの私室についていったのだ。
着替えているヴァンツァーの背に、鋭い視線を向ける。
「何がだ?」
「とぼけるな! あんな、……全身!」
羞恥に頬を染めるシェラを見て、ヴァンツァーは「あぁ」と相槌を打った。
「どうしてそんな格好をしているのかと思ったが、なるほど」
「なるほどじゃない! しばらく消えないんだぞ?!」
「だから?」
青い長袖のシャツを脱ぐと、均整の取れた背が現れる。
何とはなしに、直視できずに目を逸らすシェラ。
「……夏に長袖は暑くて可哀想だな、とか思わないのか?」
「脱げばいいんじゃないか?」
本気で言っているようなので、シェラは眩暈を耐えるのに必死だった。
「私にだって、羞恥心というものがある! タートルネックなんて着てるから、子どもたちにはおかしいと言われるし!」
「隠すから余計恥ずかしいんだ」
「……どこの裸族の台詞だ、それは」
大きなため息を吐いたシェラは、ビシッと言ってやった。
「とにかく、見えるところに痕をつけるな」
「断る」
「こ……?」
間髪入れずに返った言葉に我が耳を疑い、菫の瞳をぱちくりさせた。
「嫌だ、と言った」
ネクタイまで締めた堅苦しいスーツ姿から幾分ラフな格好に着替えたヴァンツァーは、ようやくシェラに目を向けた。
「見せておけばいい」
「……」
至極当然のような顔でとんでもないことをのたまう男である。
思わず、シェラは絶句してしまった。
「なぜ、俺が我慢しなければならないんだ?」
いっそ可愛らしいくらいの様子で首を傾げてみせる。
「……お前、本気で言っているのか?」
「あぁ」
「私は……迷惑しているんだ」
「それで?」
「……」
表情ひとつ動かさず淡々と喋るヴァンツァーに、戸惑うシェラ。
「もう、飽きた」
「……なに?」
ポツリと呟いた男に、シェラは怪訝な顔を向けた。
「我慢するのに、もう飽きた」
「ヴァンツァー……」
「俺だけ妥協しなければならないなんて、フェアじゃない」
「……」
ようやく、この男の言いたいことが分かったシェラだ。
「……髪を切ったことは悪いと思っているが、そういう問題じゃ──」
「後悔は、もっと考えた結果に対してしてくれ」
「……」
「良くも悪くも、お前は勢いで行動しすぎる」
「……」
反論できず唇を噛み締めて俯いたシェラに、ヴァンツァーは淡い微笑を向けた。
「お前のそういうところは嫌いじゃないし、正直羨ましいと思うこともある。──でも、時々殺したくなるよ」
喉元に指を這わされ、耳元に落とされた言葉に目を瞠ったシェラの横をすり抜け、ヴァンツァーは自室を出た。
異様に速くなった鼓動、背を伝う汗。
──本当に、殺されるかと思った。
冗談などでないことは、シェラが一番良く知っている。
あの男は、それができる男だ。
元々、自分があの男に勝てたことはただの偶然だったのだから。
実力の差など、歴然としていた。
手が届きそうではあったが、暗殺の玄人である行者にとって、その差は万にひとつの勝機もないような差なのだ。
生き返ったあの男から退廃的な雰囲気を感じることはほとんどなかった。
子どもたちの前では笑顔でいることが多いから、そんな男であったことすら忘れかけていた。
「……馬鹿だな」
ポツリと呟く。
あの男の月に──光になると決めたのに。
シェラは、一度深呼吸をすると、部屋を出た。
「おい」
ヴァンツァーはリビングで子どもたちに捕まっていた。
ソファで横になり、腹の上にきゃっきゃと笑う双子を乗せている。
三人とも実に楽しそうである。
一瞬で表情も感情も切り替えるのは、行者にとって至極簡単なことだ。
「話の途中で勝手に切り上げるな」
「……まだ何かあるのか?」
「子どもじゃないんだから、人の話はきちんと最後まで聞け」
ソナタとカノンの方がずっとおとなしく話を聞く、と揶揄すると、ヴァンツァーは子どもたちの頭を撫でながらポツリと呟いた。
「──子どもだよ」
「開き直るな」
腰に手をあてて呆れているシェラに目を向けるヴァンツァー。
「好きな子に意地悪しかできない、子どもだよ」
わざと薄く微笑んでみせるのだから性質が悪い──どこが子どもだ、と余程言ってやりたかった。
「パパのすきなこは、シェラだよね」
「パパ、いじわるじゃないよ。やさしいもん」
シェラの次に好きなヴァンツァーにきゅっと抱きつく双子。
子どもたちを見つめる男の目は、驚くほどやさしい。
「ソナタ、カノン、ちょっとそっちのソファに座っててくれる?」
にこりと微笑んだシェラが言えば、双子はほとんど無条件に頷く。
ちょこん、とふたり並んで座った双子は、仲良く手を繋いでいる。
「せっかく遊んでたのに」
不服そうなことを言っているが、顔に「これ以上話は聞きません」と書いてあるのがどこか可愛い。
シェラは、そんなヴァンツァーの襟をグイッと引いた。
吐息すら触れそうな距離で、嫣然と微笑む。
「──過去は他の女にくれてやるから、お前の 現在 と 未来 は私に寄越せ」
藍色の目が瞠られる。
子どもたちはきょとんとして互いの顔を見、首を傾げた。
「シェラ?」
察しのいい男も首を傾げているので、シェラは仕方なく言葉を続けた。
「私がプロポーズしているんだ。──まさか、断ったりしないだろうな?」
聞き慣れない言葉に、双子は声を揃えて言った。
「「……プロポーズ……?」」
これには茫然としているヴァンツァーではなく、シェラが答えてやった。
「ずっと一緒にいて下さい、って約束することだよ」
きょとんとしてしまった双子である。
「シェラとパパは、ずっといっしょじゃないの?」
「カノンとソナタも、ずっといっしょじゃないの?」
にっこり笑ってシェラはしゃがんだ。
「一緒だよ」
しっかり頷いてやると、双子は嬉しそうに天使の笑顔を浮かべた。
ヴァンツァーに顔を向け、がらりと表情を変えるシェラ。
「ほら、返事」
まったく言っていることと態度が噛み合っていない。
「……他の女?」
しかしヴァンツァーの口から出たのは、プロポーズに対する返事ではなかった。
「は?」
「他の女が、何なんだ?」
「山ほどいる、お前の昔の女だ。忘れてやると言っている。私は寛大だからな」
「……人を色魔みたいに……子どもの前でする話でもない」
「させたのはお前だろうが」
両親の間に流れる不穏な空気に、双子は不安げに眉を下げた。
「……けんか?」
「なかよくしないと、ダメなんだよ?」
「ねぇ。私は仲良くしたいのにね」
ダメなパパだね、と茶化してみせる。
ヴァンツァーは鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしている。
「……どこか悪いのか?」
「お前、時々ものすごく失礼だぞ?」
「お前がおかしなことを言い出すからだ」
「私は当たり前のことしか言っていない」
確かにそうなのだが、その『当たり前』のことを当たり前のように口にすることがおかしいのである。
「イエスか、ノーか。どっちなんだ」
「……ひとつ、聞かせてくれ」
シェラは「いいだろう」と偉そうに頷いた。
「なぜ、他の女が出てくるんだ?」
「……またそれか」
「答えろ」
普段あまり強い物言いをしない男が、僅かに語気を強める。
シェラは藍色の瞳をじっと覗き、そしてふっと微笑んだ。
「やっぱり秘密だ」
ヴァンツァーは鼻を鳴らした。
「それなら俺も答えない」
「別に構わない」
シェラはソファから立ち上がり、子どもたちに向かって腕を伸ばした。
満面の笑みでトコトコ駆けて来る子どもたちを抱き上げ、ヴァンツァーを見下ろす。
「──どうせ、イエスだろう?」
にやりと笑い、食事の用意をするのだろう、双子を抱いたままキッチンの方へと言ってしまった。
「……」
取り残されたヴァンツァーは、大きくため息を吐き、髪をかき上げ、──そして、ふっと笑った。
立ち上がり、家族の待っているダイニングへと向かう。
──今夜は、楽しい夕食となりそうである。
→NEXT