desire

夕飯の後、カノンは席を立つとヴァンツァーの袖を引いた。

「何だ?」

ふわふわとした銀色の頭に手を乗せてやり、にこりと微笑めば、カノンは手招きして父に耳打ちした。

「あのね、ナイショのおはなしがあるの」
「ここじゃダメなのか?」

こくんと頷くカノンの表情は、年齢に似合わず実に深刻そうである。

「分かった」

いつもならば食後はヴァンツァーの淹れたお茶で団欒のひと時を過ごすのだが、ヴァンツァーはカノンとともに自室へ向かった。
それを、シェラとソナタが怪訝そうな顔で見送る。
リビングを通って父の部屋に着くと、カノンは可愛らしい顔を一生懸命難しくして言った。

「……パパ、どうしておこってるの?」

これには、思わず目を瞠ったヴァンツァーである。

「カノン?」
「カノン、わるいこ?」
「……」
「あさ、パパこわいおかおしてたよ」
「……」

子どもだからか、自分たちの子だからか、カノンは気配に聡いようである。
そんなに表情や態度に出しているつもりはなかった。
しかし、この世界に生き返ってからは、段々と自分の言動というものを意識しなくなってきた。
行者であった頃のように、指一本動かすことにも神経を使うようなことがない。
その無意識を、感じ取ったか、見て取ったのだろう。

「カノン、わるいこだった? パパもシェラもおこらないから……いつもやさしいから」

じっと見上げてくる菫の瞳に、みるみるうちに涙が溜まる。
抱き上げ、デスクの前の椅子に腰掛ける。

「……そうだな。怒ってた」
「ごめんなさい……」

ぐしっと手で涙を拭うカノンに、ヴァンツァーはティッシュを渡してやった。

「どうして怒っていたか、分かるか?」

銀色の頭を撫でながら、やさしく問い掛ける。
頭を振って否定する。
それはそうだろう。
子どもたちは何も悪いことなどしていない──シェラも、何もしていない。

「俺は、お前たちになりたかったんだ」

赤い目できょとんと見上げてくる血を分けた子ども。
自分と同じ容姿、シェラと同じ色彩を持って生まれた。

「パパ、カノンとソナタになりたいの?」
「そう」
「なんで?」

カノンの頭を抱え、ヴァンツァーは天井を見た。

「……シェラは、お前たちのことを大切にしているからな」
「シェラ、パパのこともすきだよ? だって、さっきずっといっしょっておやくそくしてたもん」

そうだな、とちいさく笑い、ヴァンツァーはカノンを抱き直した。

「でも、シェラは髪を切ったから」
「きっちゃダメだったの? シェラ、かわいいよ?」
「長い方が、もっときらきらしていて綺麗だろう?」
「うん。ながいのも、きれい。シェラきれい、すき!」

楽しそうに笑ってぎゅっと抱きつく。

「……」

無邪気に笑顔を振りまく我が子を、可愛いと思う。

「シェラがいなくなったら、嫌だろう?」
「──え……?」

今まで明るく笑っていたカノンの表情が、一瞬で固まる。
強張り、青ざめた天使の顔。

「シェラ、いなくなっちゃうの……?」

再び涙が浮かんでくる。
可哀想だと、思う。

「さぁ、どうかな」

ひどく残酷なことを言おうとしている自分がいる。

「やだ! シェラ、いないのいや!」

温和なカノンにしては珍しく、大きな声。

「……」

こんな風に大きな声で、こんな風に涙を流して、そうして子どもたちが縋ってきたら、シェラは絶対に抱き返す。
ありったけの言葉と抱擁で、自分の愛情を示すに違いない。
いなくなったりしない、愛してる、大好きだ、とこの子たちが分かるまで。
泣き止むまで頭を撫でてやるのだろう。

「だったらもう、言うな」

こんなところを見られたら、怒鳴られるどころか殺されそうだ、と思っても言わずにいられない。

「……なんて?」

不安げに見上げてくる、まだ上手く善悪の判断もつけられない子。
本当は、ありとあらゆる我が儘を、と言いたい。
シェラに何も求めるな、と。
けれど、そんなことを言っても、どうせシェラは甘やかすから。
我が儘を言わない我が子に、「いい子だね」なんて、絶対に言わない。
逆に、要求しない分だけ与えるに決まっている。

「……髪だけは、絶対にダメだ」
「かみ? きってっていっちゃダメなの?」
「あぁ。絶対に、だ」
「……いったら……?」

こちらの顔色を伺うように、瞳を覗いてくる。
こんな子どもでも、大人との距離を測ろうとするのだ。
そうして、どこまで我が儘を言ったら怒られるか、どんなことをしたら叱られるのかを学んでいく。
ヴァンツァーは、カノンに向かって微笑んだ。

「──シェラを、取り上げるよ」

丸くなる紫の目。
澄んだ瞳と、青みがかった白目。
どこまでも純粋で、まだほとんど疑うということを知らない子ども──だからこそ、今のうちに教えておかないといけない。

「シェラは、俺のだから」
「……パパのシェラなの?」
「そうだよ」
「ソナタとカノンのシェラじゃないの?」
「ソナタとカノンを産んだ人だけど、俺のだ」
「シェラは、カノンとソナタのことすきじゃないの……?」
「好きだろうな」
「……よくわかんない」

唇を尖らせるカノンに、ヴァンツァーは言ってやった。

「シェラが誰を好きかじゃなくて、誰がどれくらいシェラを好きかなんだ」
「……う~んと、ソナタとカノンより、パパのがシェラすきなの?」
「カノンたちが生まれるずっと前からね」

ほわぁ、と新しい発見をしたように口を開けるカノン。

「パパのシェラなのに、カノンたちがかみきってってわがままいったから、パパおこったの?」
「カノンは頭がいいな」

笑顔で頭を撫でられ、カノンは嬉しそうに微笑んだ。
褒められて喜ばない子どもはいないのである。
ヴァンツァーは、それをよく知っている。

「約束だ。もう、シェラに髪を切って欲しいって言わないな?」
「うん! やくそく。シェラはパパのだもんね!」

指切りをし、カノンは「じゃあね」と部屋を飛び出した。
そうして、そのあとから部屋を出るヴァンツァー。
リビングには誰の姿もないので、おそらくまだダイニングなのだろう。
扉を開けると、嬉しそうにシェラと話しているカノンの姿があった。

「でね、シェラはパパのなんだよ! だから、もうかみきらないでね!」

にこにこと足に纏わりついてくる息子を茫然と眺め、ちいさな音を立てて開いた扉に目を遣り、シェラは顔を赤くした。

「お前──!!」

突然の大きな声に、シェラの足元のカノンも、椅子に座っているソナタも目を見開いた。

「誰がお前のだ!!」

思わずシェラから離れたカノンである。
それを幸いと、シェラはヴァンツァーに詰め寄った。

「俺がお前のものだったら、その逆も真だろう?」
「……なに?」
「今とこれからの俺が欲しいんだったな。やるぞ」
「……」

思わず黙ってしまったシェラである。

「まさか、子どもたちの前で言ったことを覆したりしないだろうな? 男に二言はないだろう?」

意地悪く口端を吊り上げる男を睨みつけ、カノンとソナタに視線を移す。
ふたりともじっとこちらを見てくる。
紫と藍色の澄んだ瞳。
綺麗な目だ。

「……シェラ? うそついちゃいけないんだよ?」
「……」

カノンの言葉にぐっと詰まる。

「シェラとパパは、ずっといっしょなんでしょう? ソナタとカノンもいっしょなんでしょう?」
「……」

ソナタの言葉にも、何も返せない。
ヴァンツァーはソナタとカノンを抱き上げ、何をどう言えばいいのか悩んでいるシェラに一言言った。

「──昨夜だって、欲しいって言うからやったのに」

ボソッと呟かれた言葉に腕を振り上げかけたシェラだったが、子どもを抱いた男を殴るわけにもいかない。
こうやって鉄壁の防御を固めてから口を開く最悪の性格をした男に、どうして自分はあんなことを言ってしまったのか。
子どもを楯にするなど、男としてというよりも人間として最低だ。

「……何て男だ、お前」
「今更」
「……」
「知らなかったわけじゃあるまいし。──それでも、俺がいいんだろう?」

非常に魅力的な微笑みを浮かべる男を前に、シェラは思った。

──確かに、自分は勢いで行動しすぎるきらいがある、と。

ファロット一家は、今日も平和……な、はずである──。  




END.

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