the best remedy……?

鬼の霍乱──という言葉をご存知だろうか。
鬼のように無類の強さを発揮する存在が、霍乱、つまり日射病にかかるくらい信じられないことを譬えた言葉だ。
鬼ではなかったが、ここにひとりの人間が体調を崩して寝込んでいる。
ヴァンツァー・ファロットだ。
伝染性の強い流行り風邪に倒れたようで、高熱とひどい頭痛に苛まれている。
関節は音を立てそうなくらい痛むし、喉は飴玉を飲み込んだような異物感を感じるくらい腫れている。
高熱は、この喉の腫れからもきているはずだ。

と、ここでほんの少し、時を遡る──。

シェラ・ファロットは、鼻歌を歌いながら台所に立っていた。
野菜を刻む包丁の音も、何だか踊りだしそうなほどにリズミカルだ。
もう二十年以上も台所仕事をしている彼は、お料理教室の先生も真っ青なくらい鮮やかな手際をしている。
まな板の上には刻んだ野菜。
コンロの上には二種類の鍋。
ひとつは完熟トマトと角切りの野菜がたっぷり入ったスープで、 もうひとつは鶏ひき肉を団子状に丸めて茹でている。
肉団子はこれから焼く白身魚と合わせてメイン料理になるようだ。
あとは付け合せの人参を砂糖とバターを入れた湯で茹で、蒸かしたじゃがいもとメイン料理に添え、食べやすく刻んだ生野菜をサラダボウルに盛り付けて出来上がりだ。
今日は天然酵母で発酵させたパンも焼いた。
もうすぐ焼きあがるだろうオーブンからは、何とも言えない良い匂いがする。
我ながらいつになく素晴らしい出来映えの料理たちに、シェラは思わず微笑みかけた。
短くなっても美しい銀髪は、彼の心を映すように照明に煌いている。
花が綻ぶような笑みを浮かべ、アメジストの瞳を満足げに細めると、左手の薬指にはめられた指輪に口付けた。
もうすぐ同居人が帰ってくる時間だ。
特に時間に煩いわけでもないが、やたら正確なタイムテーブルで動くその同居人は、「帰る」といった時間に帰ってこなかったことは一度もない。
だからシェラはいつもその報告された時間に合わせて料理を用意して待っている。
せっかく作るのだから、一番おいしいときに食べて欲しいと思うのは、当然のことだからだ。
もちろん腕には自信があったが、それでも「おいしい」の一言を貰えたときの喜びは格別だ。
それがお互いに大切に思っている存在からのものだったら、どんな苦労も厭わない。
はたから見たら不自然なほどに満面の笑みを浮かべて今か今かと、調理の手は休めずに、それでもちらちら時計を気にして待つ。

──カチャリ。

玄関のドアが開いたのはそのとき。
尻尾でも振りそうな勢いでコンロの火を消し、シェラは小走りで玄関に向かう。

「おかえり」

何がそんなに嬉しいのかよく分からないが、とにかく上機嫌な美少女然とした青年は、 スーツをきっちり着こなした黒髪長身の青年に近寄り声をかけたのだ。

「……ああ──」
「え──」

帰宅の挨拶もそこそこに、長身の青年は彼としてはあるまじきことだが足元をふらつかせて倒れ込んだ。

「──っ?!」

覆いかぶさるように前のめりになる身体を何とか受け止め、シェラは相手を抱きとめたままゆっくりと膝をついた。

「おい──」

どうした、と声をかけようとして、相手のあまりに高い体温に一瞬頭が真っ白になる。

「お、まえ……熱が──」

服を通してもそれと分かるほどの高熱など、そうそうお目にかかるものではない。
特に彼らのように日ごろから身体を鍛えている者には、およそ縁のないものと言えた。
少なくとも、シェラはヴァンツァーが体調を崩した現場なんぞ見たことがなかった。
だから余計に驚いたのだ。

「……何でも、ない……」

荒い息は体温以上に熱く、いつもはふてぶてしいくらいに余裕の男の口から漏れる言葉は、信じられないくらい弱々しかった。

「──そんなわけあるか。とにかく着替えないと……歩けるか?」

舌打ちしたいくらいに苛立っていたが、病人相手に怒鳴るわけにもいかない。
とりあえずネクタイを弛め、シャツのボタンを二つほど外す。
自分よりもずっと体格のいい男を何とか立ち上がらせ、足元に気をつけながら寝室に連れて行く。
シェラ自身鍛えているので、これくらいの重量を運ぶのは何でもなかったが、 見たことのない相手の様子に動揺しているためか、思ったよりも時間がかかった。
上掛けをどけてとりあえず横にさせると、着替えを取りにヴァンツァーの自室へ向かう。
そうする間も心臓はバクバクいっていた。
手は心なしか震えている。
そんなに取り乱すことでもないし、おそらくはただの風邪だろうが、分かっていても震えは治まらなかった。
汗の吸収が良い寝巻きを手にし、寝室へ戻る。
ベッドに沈み込むようにして目を閉じているヴァンツァーは苦しげに眉を寄せ、時折咳き込んでいた。

「……起き上がれるか?」

返事をするのも億劫そうな男は、半身を起こすとシェラに視線を向けた。
藍色の瞳は熱で潤み、そのえもいわれぬ艶と気だるげな様子に、一般女性ならば誰もが心を奪われたことだろう──が、生憎シェラは『一般』的でも『女性』でもなかった。
ただただ初めて経験する事態に、愕然とするばかりだ。

「自分で、できる……お前は、傍に寄らないほうが、いい」

喉も痛めているのだろうことが、その掠れた声で分かる。

「何でそんなになるまで帰ってこなかった……」

渋面を作り、ヴァンツァーに替えの服を渡す。
渡したときに触れた手が、また異常に熱い。

「さっきまで、何でもなかったんだ……アトリエを出たら急に……」

よく車を運転していて事故を起こさなかったものだ。
そう考えたら、シェラの眉間の皺がまた深くなった。

「体調の変化くらい、感じていただろうに……」

病人相手に詰問するのは褒められたことでないのは自分でも分かっていたので、呟くような一言だった。
が、五感すべてを鋭敏に鍛えてある男の耳には、どんなささやきも聞き取れてしまうようで、ちいさな笑みが漏れるのが分かった。

「心配、してくれるのか……?」

言いながら覚束ない手でネクタイを外し、ジャケットとシャツを脱ぎ捨てる。
いつになく緩慢な動きで、ついついシェラは手を出したくなったが、本人がやめろというのだから手伝いはしない。
代わりにこんなときまで軽口を叩ける相手に、半ば賞賛の目をやり口を開いた。

「あんまり可愛いから苛めたくなっているところだ」

思いがけない言葉に目を瞠り、ヴァンツァーは手を止め眼前の天使を凝視した。
次いで呼吸をするのも苦しいだろうに、ちいさく、しかし長く笑った。

「だったら、今のうちに思う存分、苛めておけ……たぶん、もう、二度とない……」
「馬鹿なことを言ってないで早く着替えて寝ろ。それから、喋るな」

自分の言葉は棚に上げ、シェラは薬を探しに行こうとして振り返った。

「薬を持ってくるが、何か口にできるか?」

薬を飲むにしても、空腹時に服用するのは良くない。
自分が用意していたものは病人食としては妥当ではないが、スープくらいならば飲めるかもしれない。

「……水……」

いつものヴァンツァーならば自分の言葉の意図を汲み取れないことはあり得ないので、余程頭が働かないのだろう。
もしかしたら、本当に水以外は摂取したくないのかもしれない。

「分かった」

ひとつ息を吐くと、シェラは寝室を後にした。


とは言ったものの、風邪薬の常備薬があったかが問題だ。
訓練によって擦過傷はよくできるため、傷薬の類は豊富に置いてあるのだが、自分もあの男も風邪などひいたことがない。
なければ救急で病院に搬送したほうが良いだろう。
いざとなったらレティシアに対処法を聞いてもいいが、外科医に内科のことを聞くのもどうかと思う。
薬の扱いならば自分だってかつては専門としていた。
こちらの薬剤には詳しくないが、自家栽培している薬草の類に何か役立つものがあるかもしれない。
薬箱をひっくり返しながらそんなことを考えていたわけだが、奥底に風邪薬と解熱剤、体温計を見つけてほんの少し安堵した。
食事を摂れないようならば、多目の水を飲ませなければいけない、と思い、シェラは続いて台所へと向かった。
冷蔵庫からボトル入りのミネラルウォーターを取り出しコップを添え、一応スープもよそって寝室に戻る。
ヴァンツァーはきちんと着替えを済ませて横になっていた。
さすがに脱いだ服はそのままだったが、一箇所に纏めて置いてある辺り、病人らしくない。

「…………」

そんな様子に眉宇を曇らせると、シェラは盆を手にヴァンツァーの枕元へ向かった。

「ヴァンツァー」

静かに呼びかけると、閉じていた瞼がゆっくりと、重たそうにもたげられた。
薄暗い間接照明の中では、藍色の瞳が黒く見える。
開いたときには天井を見ていたその目が、数度の瞬きの後、顔ごとシェラに向けられた。
本当に、驚くくらい覇気のない表情だ。
熱で常より幾分頬が上気しているのが、落とされた照明の中でも見て取れる。

「悪い。起こしたか?」

ベッドの横にあるチェストに盆を置き、シェラはとりあえず体温を測ることにした。
解熱剤はある程度の体温がないと飲ませられない。
体温が極端に下がりすぎてしまうからだ。
それは高熱が続くのと同じくらい人体に悪影響を及ぼす。

「いや……目を開けているのもだるくて……」

起き上がろうとするのを制し、そのまま体温を測る。
測定部分を耳に当てると、すぐに電子音が鳴った。
表示された数字を見て、シェラは絶句した。

「……シェラ?」

怪訝そうな顔でヴァンツァーが見上げてくる。

「あ、ああ……」

体温計とヴァンツァーを交互に見やり床に膝をつく。
汗で額に張り付いた黒髪を払い、視線を合わせた。

「──病院、行こう」

疑問形ではなかった。
シェラは車を運転できない自分の不甲斐なさを、今日ほど苛立たしく思ったことはない。
いや。その言葉は正しくない。
シェラも、運転ならばできる。
免許は持っていた。
しかし、如何せん車がない。
ヴァンツァーはエアカーを所持していたが、シェラは持っていなかった。
買ってくれようとしたのを、慌てて押しとどめたのだ。
ならば、ヴァンツァーの車を使えばいい、と思うかも知れない。
しかし、それこそが大きな間違いであり、大問題なのである。
大体、この男の車は車検をどうやって通過しているのか首を捻りたくなるくらいに改造を施している。
この男以外には運転できないだろう。
もちろん自分にはできない。
だから、今現在この家にシェラの運転できる車はない。
こんなことなら、ローンを組んで自分の金で買っておけば良かった、と思う。
ほとんど歯噛みするような面持ちで、救急車の手配をするため居間へ向かおうとする。
あの男が、自分の前だとはいえあんなに苦しそうな態度をとっている時点で気付くべきだった。
虚勢を張れないくらい、病状は深刻だったのだ。

「シェラ」
「喋るな。苦しいんだろうが」

当たり前だ。
四十度を軽く超えている。
このままの高熱が続けば命に係わる。

「シェラ……」

それなのに、寝室のドアに手をかけている自分に、なおもヴァンツァーは声をかけてくる。

「…………」

舌打ちしたい心境で、しかし足音をさせず静かに枕元に寄ると、再び膝をつく。

「何だ?」

内心は綺麗さっぱり隠して、やさしく語りかけた。
本心を取り繕うのは、行者生活が長かった自分には簡単なことだ。

──そう、簡単なこと……。

妙に心拍数が上がっている気がするのは思い過ごしだ。

「すまない……水を……」

言われて、そうだった、と自身を罵倒したくなった。
落ち着け。
病人に謝らせてどうする。
言い聞かせても、動悸は治まりそうになかった。
カタカタ小刻みに震える手を何とか制し、ボトルからコップに水を移した。
ベッドの脇のパネルについているスイッチを押し、上半身部分の傾斜を変える。
これで口をつけ易くなったはずだ。

「ほら。飲めるか?」

言う声も、わずかだが震えて上擦る。
ヴァンツァーは無言でシェラの手に己の手を重ねてコップを口許に持っていく。
その手もやはり熱くて、シェラは反射的に身を引きそうになるのを何とか抑える。
目を閉じて無心に水を飲むヴァンツァーは何だか子どものようで、こんな状態の相手に気を使わせたことをシェラは恥じた。
こんなときくらい、自分が支えになりたい──ならなければいけないのに。
情けなくて辛くて、シェラはきつく瞳を閉じた。

「──シェラ?」

ほとんど声にならない声が耳に届く。
その声で瞼を上げると目が合った。
やはりそこには気遣わしげな色。

「何だ? もっと飲むか?」

喉の奥に引っかかったような声と、無理矢理作った笑顔。
自分でも呆れるくらい出来が悪い。
気付かれる。
心配よりも不安を。
支えを与えることよりも欲していることを。
何より、相手に対する気遣いよりも、自身への嫌悪を。
人一倍気配に敏感な男だから、意識せず目を逸らした。
朦朧とする意識でも、そんな自分の心の内を悟ってしまうかもしれないから。
本当は、そんな自分の態度こそが、相手に不信感を抱かせるものだと分かっていたけれど。

「──いい……少し寒い、な……」

気付いている。
間違いなく分かっている。
それでもこの男はそれを指摘したりしない。
そのことで、シェラがどんなに自分を責めるか知っているから。
しかし、どちらにしろ同じことだ。
今のヴァンツァーの態度で、シェラは相手が自分の思いに気付いていることが分かってしまったのだから。
それでも何も言わず、知らない振りを貫こうとする。
病気なのに。
一番辛いのは自分なのに。

「────────……っ」

だめだ。
もう、耐えられない。

「寝ていろ」

短い一言だった。
何をするからとも言えず、何が必要かを聞くこともできず、シェラはコップをチェストの上の盆に乗せると慌てて寝室を出た。
瞬間、涙が零れた。

怖い。

恐い。

こわい──。

どうしたらいいか分からない。

────誰か、助けて……。

そのまま通信端末に駆け寄り、ほとんど無意識にダイヤルする。
相手が出るまでのたった三コールが、恐ろしく長く感じられた。
通信が繋がると同時に、相手の顔が画面に映し出される。

「──お嬢ちゃん。どうした?」

思いがけない相手からの連絡に、受けた本人がもっとも驚いているようだった。

「たすけて……」

嗚咽で声が紡げない。
それだけ口にするのがやっとだった。

「おい。ほんとにどうした? 何かあったのか?」

やや切羽詰った声音。
こんなに取り乱したシェラを見たことがなかったし、何より自分に連絡してきたことこそが異常だった。

「ヴァン、ツァーが……」
「落ち着け。ゆっくりでいい。深呼吸しろ」

短い言葉とゆっくりとした口調で噛んで含めるような言い方をする。
混乱した相手の言葉ほど理解しがたいものもない。
時間は惜しかったが、何よりも正確な情報が欲しかった。
シェラは言われた通り深呼吸を繰り返した。
その呼吸も嗚咽で途切れ途切れだったが。
それでも、通信を始めた頃よりは平静を取り戻したのだろう。
頭を整理してレティシアに状況を伝え始めた。

「熱が、四十度超えてて……水は、飲ませたんだが、薬、呑ませていいのか、分からなくて……」
「救急車は?」
「まだ……」

言いながら首を振る。
また涙がこみ上げてくる。
どうしてしまったのだろう、自分は。
こんなに泣く人間ではなかった。
そもそも、『任務』で必要とされる場合以外に涙を流したことなど、数えるほどだ。
それなのに──。

「呼吸は?」
「……浅い。脈も速かった」

涙を呑み込んで呟く。
懸命に症状を思い出そうと努める。

「何か言ってたか?」
「寒いって……まだ、熱上がるのか……?」

言いながらまた泣きそうだった。
これ以上は、本当に命に係わる。
四十二度以上の熱には、人間の体内の酵素がもたない。
血液が凝固を始める。
その先にあるのは──死だ。
そう考えたら背筋が寒くなった。
あの男は死ぬのだろうか。

「大丈夫だ。今すぐ行くから」

見透かしたようにレティシアの声がかけられる。

「救急車……」
「今からなら俺の車の方が速い」

言うが早いかレティシアは行動を開始する。
通信機を携帯用に切り替え、医療器具の入った鞄を手に駐車場へと走る。
医者には緊急用に速度制限免除の特権が与えられている。
その上レティシアの乗るエア・カーは速度の点では最高の部類に入るものだ。
救急車がこの場所を特定して出発し、この家の門のセキュリティーを解除して入ってくることを考慮すれば、 生体情報を入力してあるレティシアが自宅から来たほうが断然速い。

「いいか。お嬢ちゃん、よく聞け」

神妙な面持ちで口を開くレティシアを、今のシェラは全面的に信用している。
あの男を助けるには、無理にでもこの男を信用するしかない。

「とにかく水分摂らせろ。そんだけ熱ありゃ脱水症状起こす危険がある。 それから、寒いってんなら、布団増やせ。暖房かけてもいい。熱は一度上げきってからじゃねえと、下げる意味がねえ」

初めの頃より早口になっていたが、シェラはそのことごとくに頷きを返し、頭に叩き込んだ。

「それから──」
「レティシア?」

不意に言葉を区切った男に、シェラは目尻の涙を拭って声をかける。

「せっかくお嬢ちゃんが連絡くれたんだ。絶対助けるから安心しろ」

そう言って見せた笑顔は、自信に満ちた、信頼に足る医者の顔だった。

「ありがとう……」
「はは。その礼は成功報酬の前払いってことで、ありがたく貰っておくぜ」

端末の向こうで車が発進する音が聞こえ、そこで両者は通信を切った。
ほとんど気力で涙を止め、一度深呼吸すると、水分補給をさせようと寝室へ戻る。
レティシアが来るまでは余計な薬を飲ませない方がいいだろう。
頼むから、死なないでくれ。
それは願いか祈りか。
どちらでもいい。
助かるなら。
もう一度、共に過ごす日々が送れるなら。
何でもいいから──。

「──今度お前が私の許可なく死んだら、私も死んでやるからな」

随分めちゃくちゃなことを言っているが、掛け値なしの本気だった。
また勝手に死ぬ。
そんなことは絶対に許さない。
かつては自分も死神と評された。
それもかなりの腕利きだ。
だったら、この男の元に訪れる冥界からの使者は、自分が叩き伏せてやる。
だから速く──。
自分では救うことのできない命を、たったひとりの存在にかけ、シェラは自分のやるべきことを思い返した。
さきほど言われた通り、クローゼットから毛布と布団を取り出し、埃をたてないように重ね、暑くなりすぎない程度に暖房も入れた。
加湿器をつけることも忘れなかったのは、後で思い返して自身を褒めたところだ。
この高熱では眠ることすらできないだろう男の傍らに膝をつき、尋常でない熱をもった手に両手を添えて、そこに自らの額をつけた。
自分の想いが伝わるように。
自分の願いが届くように。
そんなときうっすらとヴァンツァーの瞳が開き、わずかに口許に笑みが刻まれた。
さすがにこの男よりは体温の低い自分の手は、冷たくて心地よいのかもしれない。
意識が覚醒していることを確認したシェラは、水をコップに移しゆっくりと飲ませることを繰り返した。
自分にできることはこれしかない。
ならば、できる限りのことをしよう。
後は、資格を持った専門家に任せればいい。

「大丈夫……」

それは誰に向けた言葉だったのか。

「大丈夫だから……」

繰り返し言い聞かせる。
そうして、駆け込んできた元・死神の医者を迎え入れ、 驚異的な手際のよさで診断と処置をしていく様子を見て、シェラはようやく安堵したのだった──。  




NEXT

ページトップボタン