「──明日の夜、卒業祝いの集まりがあるんだが、行ってきてもいいか……?」
大学の卒業式を翌日に控えたその夜、銀色の天使のように可憐で美しいシェラは、一緒に暮らして久しい夜色の美青年にそう声をかけた。
「──……わざわざ俺に許可を取る必要もないだろう?」
僅かに目を瞠って、ヴァンツァーはとんでもなく高価なコーヒーカップを置いて答えた。
「ああ……でも一応。ほら、食事の用意とか、あるだろう?」
何だか言いにくそうなシェラに、ヴァンツァーは他の人間にはほとんど見せないやわらかな笑みを浮かべた。
「俺なら大丈夫だ。行って来るといい」
「……ああ」
それだけ言うと、シェラは自分が飲んでいた紅茶のカップを片付けようと立ち上がった。
「──シェラ」
「何だっ?」
呼び止められて、シェラはどういうわけか顔を綻ばせて振り返った。
「? ああ、いや……どこでやるんだ、その集まり」
そう言うと目に見えてシェラの表情が暗くなったので、ヴァンツァーは首を傾げた。
「……確か二番街の『エリザ』って店だ。それが?」
何だか不機嫌にも見える天使に、ヴァンツァーは緩く首を振ることで答えた。
「迎えが必要なら行くが?」
「いい」
余りにも簡潔な一言に、シェラは慌てて言葉を付け加えた。
「お前、最近あまり寝てないだろう? ひとりで帰れるから気にしなくていい」
それに対して、ヴァンツァーは、 「分かった。あまり飲むなよ」 とだけ忠告した。
──そして翌日。
広すぎるリビングには、男がひとり。
自分では気付いていないのだろうが、ヴァンツァーはもう何度も何度も時計を見ている。
現在時刻は午後十時半。
さっき時計を見てから、秒針しかその位置を変えていない。
シェラの帰宅予定時刻は午後十時。
正確なタイムスケジュールで動くヴァンツァーから見れば、気になる遅れなのかもしれない。
いや、別に帰宅が遅れることそのものは構わないのだ。
シェラだって子供ではない。
ただ、あの律儀な青年が、連絡一本寄越さないでいることが気がかりなだけだ。
あの銀色天使は、行者としては一流の腕の持ち主だが、実はあまりアルコールに対する耐性がない。
飲めないわけではないが、強いとはお世辞にも言えない。
薬品や毒物には体を慣らしていたが、酒ばかりはある程度体質がものを言う。
「……」
また時計を見て嘆息すると、ヴァンツァーは音もさせずに立ち上がった。
何のことはない。
やはり迎えに行こう、と思い立っただけだ。
行き違いになるならそれでいい。
もちろん生体情報を登録しているシェラは、この家に入ることができるのだから。
車庫に向かい、記憶の中から店の名前と所在地を引っ張り出すと、いつも通り静かに車を滑り出させた。
『エリザ』は、上品ではないが若者に人気の、安くて騒げる店だ。
現在も卒業式を終えた若者たちや、会社帰りの男女が楽しく酒を飲んでいる。
──カラン……。
ドアベルの音に気付いた幾人かがそちらに目をやり、思わず手の中のグラスを落としそうになった。
店内はアップテンポの曲が煩くない程度に流れていて、普通の人間には気付けないだろうが、無表情で店内に歩を進める青年はまったく足音をさせていない。
だが、たとえそれが分からなくとも、青年の容姿は目を瞠るに十分すぎるものだった。
僅かに癖のある黒髪は首筋を隠す程度の長さで、薄暗い店内では黒くも見える藍色の瞳に前髪がかかっている。
何とも不思議なことに、色白とはいえ長身で鍛えられた身体つきの男性であることは一目瞭然なのに、彼の美貌はなぜかなまめかしい印象を与えてきた。
女性客はことごとくぽーっとなり、一瞬でも彼から目を離すのが惜しいかのように熱視線と秋波を送り続け、男性客はそんな女性の視線を何とか自分たちに戻そうと必死だ──無駄な努力であることは言うまでもない。
そんな客の様子には意識のかけらも向けず、ヴァンツァーはまるでどこに誰がいるかが分かっているかのように、悠然と店の奥に向かう。
視線の先には、男性ばかりが七人ほどで飲んでいる一角。
その中に、非常に目立つ色彩をした人物を見つけ、彼は嘆息した。
「シェラ」
傍に寄り、机にうつ伏せている人物にそう声をかけると、銀色の頭がピクリと動き、次いでムクっと起き上がった。
「──はにゃ……?」
何とも情けない声である。
だが、それもそのはず。
彼は強くないのに、周囲の学友に勧められるままどんどんカクテルを空けていったのだから。
飲みやすいからついつい手を出してしまうが、カクテルに使われるアルコールは、決して弱いものではない。
おそらくこんなことだろうと思っていたヴァンツァーは、自分を見て呆然としている青年たちに冷ややかな一瞥をくれてやった。
──ビクゥッ!!
いたいけな青年たちが、その余りの殺気に怯んだことは言うまでもない。
「シェラ、帰るぞ」
そんな殺気は微塵も感じさせない声音でもう一度声をかけると、シェラは声がしたと思われる方向に目を向けた。
「あはは。ヴァンツァーのまぼろしがみえるぅ……」
どうやら笑い上戸らしいシェラは、ケラケラと笑いながらヴァンツァーを指差している。
「──本物だ」
自分が酒を飲んだわけでもないのに痛む頭を押さえ、ヴァンツァーはシェラの肩に手をかけた。
「おい! あんた、何なんだよ?!」
勇気あるひとりの若者が、無謀にもそう言い募り、掴みかかろうとした。
が、指一本動かさないヴァンツァーのひと睨みだけで、すごすごと引き下がった。
何とも気の毒である。
「ほら、行くぞ」
「やらっ! かえらない! ひとりだけかえるなんて、みんなにわるい!!」
こんなところでも彼の律儀さは健在らしい。
ろれつもまわらないのに、言うことはまともなようだ。
「そんな酔っ払いにいられる方が迷惑だ」
その言葉にシェラはピクリと反応する。
「──……みんな、めいわく……?」
酔ったせいか潤んだアメジストの瞳で首を傾げるシェラにこんなことを言われて頷ける人間が、一体どれほどいるというのか。
まず間違いなくヴァンツァーは頷けない。
しかし、この時ばかりは話が違った。
その場にいた六人の青年全員が、勢い良く首を縦に振ったのだ──他ならぬ、藍色の鋭い視線が光っていたために。
何と可哀相な青年たちだろうか。
彼らは『ただ』以前から目をつけていた美貌の青年が、滅多に来ない酒の席に付き合ってくれたのが嬉しくて、思い切り飲ませていた『だけ』なのだ。
その後、『あわよくば』不埒な真似を働けるのでは、と期待していなかった、とは言えないが……。
「だ、そうだ。帰る気になったか?」
そう言って、今まで青年たちを脅していたのが嘘のようなやわらかい笑顔を、ヴァンツァーはシェラに向けたのだった。
「……まだのみたいのにぃ……」
それでも駄々をこねるシェラに、ヴァンツァーは妥協案を提示した。
「家に帰ったら、俺がいくらでも作る」
俯いて口を尖らせていたシェラの耳が、ピクッと反応した。
「作る……? お前が作った、カクテル……?」
「ああ」
だから帰るぞ、と言われたシェラは、青年諸君を一発で虜にするようなとろける笑みを浮かべたのだった。
「かえる!!」
と言って、ヴァンツァーの腰の辺りに勢い良く抱き付き、それを押しとどめようとする学友たちにこう言ったのだ。
「ごめんねぇ? ここのもおいしいけど、うちのおさけがいちばんおいしいんだぁ」
「当たり前だ。そもそも使っている酒が違う。こんな安物飲むから悪酔いするんだ」
何とも容赦のない一言だ。
ここで飲んでいる人間や、店のことなどは微塵も考慮に入れていない。
そんな男の様子にかなりむかっ腹が立っている青年たちだったが、追い討ちをかけるようにヴァンツァーは財布を出した。
「迷惑料だ」
たった一言そう言ってテーブルに置いたのは、この席にいる全員が大酒を飲んで心行くまで食べても、まだ釣りが来る程の額だった。
しかもいつもはカードしか使わないくせに、今日はなぜか紙幣を持参している。
「…………」
絶句するしかなかった。
顔も身長も経済力も、到底敵うものではなかった。
「歩けるか?」
「ばかにするなっ!!」
そう言い放って勢い良く立とうとしたシェラだったが、言葉も上手く操れないのに足腰が立つわけもなく、ヴァンツァーの胸に背を預けた。
「──相変わらず、世話のかかる……」
嘆息すると、そのままシェラをふわりと抱き上げた。
「ばか! おろせ! あるけゆっ!!」
「騒ぐな。周りに迷惑だ」
たいして大きくもないその一言に、シェラは押し黙った。
先ほど青年たちから『迷惑』のレッテルを貼られたことが堪えているらしい。
これを見越して台詞を選んでいるのだから、この男かなり人が悪い。
「ごめんらさい……」
悄然として項垂れるシェラに、
「俺はいい。怒っていない」
と、自分を擁護することも忘れない。
「……ごめんらさい……」
今度はシェラは青年たちに頭を下げた──と、言ってもヴァンツァーに抱かれたままだったので、かなり頭上からだったが。
「……」
青年たちはどうすることもできなくて、互いに顔を見合わせた。
「謝っているようだが?」
と、ヴァンツァーは鋭い視線を飛ばした。
『一体どうしろと?!』
というのが青年たちの偽らざる本音であったに違いない。
しかし彼らは保身のため、口々に「そんなことないよ」とか「迷惑だなんて、そんなことあるわけないじゃないか」とか言わされる羽目に陥ったのだ。
先ほどは迷惑だと言えと強制し、今度はそれを否定しろと脅す。
何と我が儘な男なのだろう。
全員がそう思っていた。
しかし同時に、シェラを抱いているその姿は、ちいさいころ読んでもらった童話の姫と騎士のように絵になっており、誰も何も言えなかったのだ。
「失礼する」
女の子が見たら間違いなく赤面して心を奪われるような微笑を残し、ヴァンツァーとシェラはこの店を後にした。
駐車場に来るまでに眠ってしまったシェラを倒した助手席に寝かせると、一瞬迷った後、シートベルトは締めずに自分は運転席に乗り込んだ。
相変わらずまったく振動を感じさせない運転だ。
しばらくすると、
「ふにゃ?」
という、またもや情けない目覚め方でシェラは起き上がった。
「寝ていろ」
前方を見据えたまま、ヴァンツァーは簡潔にそれだけ口にした。
「やらっ!」
「シェラ」
「だって、ねたら、おまえ、ぜったいおこしてくれないだろぉ?!」
「…………」
その通りだった。 店ではああ言ったが、もうこれ以上飲ませる気はない。
──酔っ払いのクセに、なかなか鋭いことを言う。
「きょうは、めいっぱいむんだからっ!」
「──どうしてそんなに飲みたいんだ?」
強くないことを自覚しているにもかかわらず、シェラがこんなに飲むことが不思議だった。
「らって、そつろんがAプラスだったんだぁ」
その言葉に、ヴァンツァーは僅かに目を瞠った。
別にシェラが卒論でAプラスを取得したことに驚いたわけではない。
彼は非常に優秀な学生だ。
A以下を取ることはほとんどない。
だから驚いたのは、そんな理由でシェラがこんなに飲むとは思えなかったからである。
「それが、理由か?」
「らって、おまえのしごとがみとめられたみたいで、うれしいだろぉ?」
まったくろれつのまわらない状態で、ケラケラ笑っている。
本人は何を言っているのか、理解してもいないだろう。
「……」
それでもヴァンツァーは何だか息苦しいような思いがして、車を停めた。
いつもより、わずかに乱暴な停車の仕方だった。
酔っ払った状態であってもそれに驚いたのか、シェラは大きく目を開いてヴァンツァーを見た。
しかしすぐにまた笑いだした。
「いいしごとしてるねぇ、ってほめられたみたいで、うれしいだろぉ?」
天使の笑顔とはこれを言うのかもしれない、と思えるほどに、その微笑みは美しかった。
「──……参ったな」
ほとんど声にならないささやきを漏らすと、ヴァンツァーは仰向いて額を押さえた。
耳ざとくもそれが聞こえたシェラは、今までの人生でおそらく一番嬉しくなって歓声を上げた。
「ヴァンツァーがまいったっていった!!」
手をぱちぱち叩いて喜ぶと、動かないヴァンツァーの黒髪を梳いてやった。
何度も、撫でてやった。
しばらくそうしていたが、「でもなぁ……」
と呟くと、ヴァンツァーの肩に頭を乗せて、唐突に寝入ってしまった。
「……」
その姿に苦笑すると、ヴァンツァーは静かにシェラを横たえてやった。
そして、まるで礼を言うかのように、額に口付けたのだ。
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