その後やはり起こしてもらえなかったシェラだったが、翌朝起きるとひどい頭痛に苛まれたことは言うまでもない。
しかし、なぜか仕事人間のヴァンツァーが休みを取ったらしく、二日酔いの看病をしてくれたことにしばしの間頭痛を忘れた。
食欲のないシェラのためにスープまで作ってくれたようで、しかもそれが美味しかったのでまた頭痛を忘れそうになった。
シェラがダイニングで軽い食事を取って一息ついていると、端末に呼び出しがかかった。
後片付けに動いているヴァンツァーの代わりに対応に出ると、レティシアだった。
「……何だ。お前か……」
その顔を見て、シェラはまた頭痛を覚えだした。
「ひでえなあ、お嬢ちゃん。ま、今日は気分がいいから気にしないでいてやるけどよ」
いつも気にしないくせに何を言う、と思ったシェラだったが、気分がいいという言葉が気になった。
「頭に花でも咲いたか?」
かつて自分が言われた言葉だったが、そんなことは覚えていない。
「はは。最高級ホテルの食事とプラチナスイート蹴ったヤツの台詞とは思えねえなあ」
「──……何だと?」
大きく目を瞠ったシェラだったが、そんな様子に気付かないレティシアでもあるまいに、
「ヴァッツに礼言っといてくれ」
と、それだけ言うと慌しく通信を切った。
二日酔いとはいえ、それを見ていたらしいヴァンツァーが、
「余計なことを……」
と呟くのを聞き逃すシェラではなかった。
「……どういうことだ?」
「……」
「ヴァンツァー」
大きくはない、けれど強い声でそう言われ、ヴァンツァーは仕方なさそうに肩をすくめた。
「お前の卒業祝いに予約しておいたんだ。ひとりで行くのもどうかと思って、女と会うというレティーに譲った」
それを聞いたシェラは、赤いのか青いのか分からない顔色で、ワナワナ震え出した。
「おま……何で言わないんだ!!」
叫ぶとひどい頭痛がして、思わず座り込みそうになった。
「落ち着け」
気遣わしげに近寄ってくるヴァンツァーを、シェラは頭を押さえながらも思い切り睨みつけた。
「どうして、行っていいなんて、言ったんだ?!」
頭は痛くなる一方だったが、それでも訊かなければいけないことだった。
「止める理由もないだろう?」
不思議そうに首を傾げるヴァンツァーを、シェラは殴りたくなった。
「あるだろうが!! わざわざ予約までしたクセに!!」
「? 予約したと言っていたら、お前は昨日あちらに行かなかったのか?」
「当たり前だ!!」
これにはヴァンツァーが驚いた。
藍色の瞳は、いつになく大きく開かれている。
「仕事だと思ったからいいかと……そうだ……お前仕事まで休んで……」
愕然とした。
今やっと気付いたのだが、『あの』ヴァンツァーが、仕事まで休んでくれたのに。
泣きそうに歪んだ顔をして、シェラはいつになく乱暴な様子で椅子に腰掛けた。
「ああ……もうっ!」
頭を抱えているのは、何も頭痛のせいだけではないようだ。
半分自己嫌悪も混じっている。
「馬鹿だ……お前……」
言われてヴァンツァーは首を傾げた。
「どうして前もって言っておいてくれなかったんだ……驚かせようとでもしていたのか……?」
この言葉にヴァンツァーは首を振った。
「自分でも驚いていたんだが、お前が他に約束を取り付けてくることを予定していなかったんだ」
まさかこの銀色が、友人との飲み会に出席すると言い出すとは。
相変わらず、この銀色の考えていることは分からない。
「…………」
あまりに信じ難い一言に一瞬言葉を失ったシェラだったが、いけない、と思って頭を振ると、また頭痛がして呻いた。
「何をやっているんだ、お前は……」
呆れたようにヴァンツァーが呟く。
「それは私の台詞だ……」
横目で睨みつけると、ぽつりと言った。
「行くな、って言えば良かったじゃないか……」
これにもヴァンツァーは首を傾げた。
「別に、また予約すればいいかと思った。友人と交流を深めることを悪いとは思わん」
こんな風に理解があるようなことを言っているが、本当は、ただ単に余裕のない男だと思われるのが嫌だったのかも知れない。
だがまあ確かに、あの青年たちを友人にしておくのはどうかと思った。
あのまま酔い潰れていたら、どうなっていたことか。
もう少し自覚を持って行動してくれると、自分の心労も多少は軽減されるのだが、とヴァンツァーは内心嘆息した。
「そうじゃない!!」
きょとんとしているヴァンツァーの様子に、シェラはいつになくイライラした。
いつもはこちらの意図を汲み取ってくれるのに、どうして今日は分かってくれないのか。
「お前が私の卒業のことなんか全然気にかけてくれていないと思ったから、厭味のつもりでああ言ったのに……」
これにもしばしきょとんとしていたヴァンツァーだったが、しばらく考えてからゆっくりと口を開いた。
「──……それは……つまり、止めて欲しかったのか?」
昨日の車中での「でも」の後には、これが続けられる予定だったのだろうか。
「お前、自棄酒飲んだのか?」
「半分」
「?」
「もう半分は、卒論が認められて嬉しかった」
昨日のことは、ほとんど記憶にないようだ。
ぶっきらぼうな口調と憮然とした表情ながら、シェラの顔には晴れ晴れとした色も見て取れる。
「──呆れたヤツだな……」
ぽつりと呟く男に、シェラは目を剥いた。
「お前に言われたくない!! 人の気も知らない──」
怒鳴りつけようとしたシェラだったが、ヴァンツァーの顔に、思わず言葉を止めてしまった。
言葉どころか、呼吸まで止まってしまいそうなくらい、やさしくて、やわらかで綺麗な笑顔だったからだ。
見たこともないくらい幸せそうで、満足そうな顔だった。
気付かないうちに頬が熱くなる。
酒を飲んだ時のように、心臓が煽っている。
いや、これはこの男が珍獣に見えたからそうなっているだけで、他に理由はないのだ、とシェラは自身に言い聞かせた。
「──埋め合わせを、させてやってもいいぞ……」
成功していないが、照れ隠しに視線を外してボソボソ言う様子に、ヴァンツァーはさらに目を細めた。
「おめでとう」
「…………」
たった一言だった。
一流ホテルのレストランでの食事も、最上階のスイートもない。
元々シェラはそんなものに興味はないからどうでもいい。
でも……だからこそ、その一言が何より嬉しかった。
『一番嬉しい日』は、簡単に塗りかえられた。
卒業を祝ってくれる。
それは、ヴァンツァーがシェラを学生ではなく、一人前として扱ってくれることになるからだ。
これでまた、一歩近づけたような気がするではないか。
「……ありがとう」
ありがとう。
自分の前を歩いてくれて。
ありがとう、立ち止まらないでいてくれて。
お前が高みを目指してくれているから、自分も高いところまで飛んでいける。
そう思えるようになったのは、いつからだったろうか。
もしヴァンツァーの方が多くの才能を抱えているとしても、たとえ万能なのだとしても、彼もまだ到達者ではないのだ。
『やはり追いつけなかった』と嘆くのは、彼が到達してしまってからでもいいのだ。
それまではどこまでもついていって、一緒に成長すればいい。
決して言葉にはしないけれど、ヴァンツァーはそれを教えてくれた。
押し付けがましくない、『態度』という名の『言葉』で示してくれた。
「……お前、イイ男だな」
嘆息と共に呟かれた言葉に驚くと、ヴァンツァーは再び微笑んだ。
「お前が惚れるくらいだからな」
これにはシェラがびっくりした。
なぜならば、それは自分を褒めるようでいながら、明らかにシェラを褒める言葉だったからだ。
「あー……もう……何か……」
頭を抱えて呻いたシェラだったが、ほとんど頭痛は感じなかった。
「全面降伏だ……」
たとえ──あくまでたとえ、だが──相手に惚れたのはヴァンツァーが先だったのだとしても、完全に折れるのは自分が先というのはとてつもなく悔しかったが、仕方がなさそうなのも確かだ。
この男になら、負けてもいい。
いや、本当は全然まったくこれっぽっちも良くないのだが、どうやら自分は自分が思っていた以上に、この男に弱いらしいのだ。
──顔が良いだけの男だったら良かったのに。 そうしたら、こんなことは考えないのに。
そう思ったシェラの隣に、ヴァンツァーは音もなく立っていた。
そのまま身をかがめると、シェラの耳元でちいさく笑った。
「俺はその指輪を渡したときからそう思っている」
そうささやいて、シェラのこめかみに唇を押し付けた。
「……じゃあ、やっと、私はお前に勝てたのか……?」
呆けたように、ヴァンツァーと瞳を合わせて呟いた。
「違うな」
菫色の瞳を覗き込んでヴァンツァーは言った。
「俺は、一度もお前に勝ったことがない」
そう言うとシェラの顎に手をかけ、そっと口づけた。
それは甘く痺れるような、お祝いの『
告白
』だった──。
END.