「えー、どうしよう!!」
晴れた冬の日、寒くはあるが冴えた空気が気持ち良い朝のこと。
寮から校舎へとやってきたキニアンは、廊下まで聞こえるクラスメイトの声に首を傾げながら教室に入った。
「あと三日しかないんだよ?!」
「でも、インフルエンザじゃ仕方ないよ……」
「じゃあどうしろって言うの?!」
朝っぱらから大声で喚いているクラスメイトに、いつもより少し耳のボリュームをちいさめに設定するキニアン。
若干耳が痛いが、すぐに治るだろう──これ以上、ヒートアップしなければ、の話だが。
「せっかく州大会に出られることになったのに!!」
「そうだけど……教員って、出ちゃいけないんだっけ?」
「ダメよ! 生徒だけ。あー、もう! 今回の曲難しいんだから。三日やそこらで弾ける人間探すなんて無理!」
曲だの弾くだの、キニアンには慣れた単語が耳に入ってくる。
そういえば、この学校の合唱部が州大会に出るとか言っていた気がする。
ということは、話の流れ的にピアニストがインフルエンザで倒れたということだろう。
気の毒な話である。
「──おっはよー」
こちらも朝から元気いっぱい教室に入ってきたのは、黒髪に藍色の瞳の美少女だ。
「おはよ、アル」
「おはよう」
ソナタの挨拶に対してにこりともしないが、彼はこれが標準装備。
機嫌が悪いわけではないし、ソナタもそれをよく分かっている。
「どっかにピアノの巧い生徒いないわけ?!」
ひと際大きくなった声に、キニアンはまたボリュームを下げた。
ソプラノ担当の彼女の声は、華やかではあるがやわらかさに欠け、非常に頭に響く。
思わず顔を顰めてしまった。
「どうかしたの?」
ソナタが、騒いでいるクラスメイトの元へ向かう。
些か迷惑そうな顔をした女子生徒だったけれど、苛立ちをそのままソナタにぶつけるようなことはなかった。
けれど、ちょっと不貞腐れたような顔と声で、経緯を話したのである。
「ピアノ弾ける子がいればいいの?」
「まぁ……」
「どんな子でもいいの?」
「うちの生徒なら──あ、結構難しい曲だから、経験者じゃないとダメよ」
言うことを言った少女は、またあーでもないこーでもないと周りの合唱部の子たちと話を始めた。
ふぅん、と思ったソナタは、背後でこめかみを押している少年に訊いてみた。
「土曜日って、部活?」
「え? いや、今週は休み」
「カノンとデート?」
「……予定は未定です」
「人助けする気ある?」
「え?」
「ピアノ、弾けるよね?」
「…………」
何だか、とても嫌な予感がする。
ものすごい既視感だ。
ここでうっかり「はい」とか答えると、えらい目に遭う気がする。
「…………はい」
けれど、正直者の少年は若干頬を引き攣らせ、タラタラと冷や汗を流しながらも頷いたのである。
「あ、でも、俺ピアノは専門じゃ」
「とりあえず楽譜見てみるとか」
「…………」
分かった、分かった、分かりました、と言わないまでも顔に書いている少年は、席を立ってクラスメイトの元へ向かった。
「……楽譜、ある?」
「え?」
「合唱コンクールで歌う曲の楽譜」
「あるけど……何で?」
「え、あー、まー、少しなら、ピアノ弾けるから」
ポリポリ、と頭を掻いた長身の少年を、胡散臭そうな目で見上げる少女たち。
バスケ部に所属しているのは知っているし、ハンサムではあるが、無条件で好意を寄せるにはだいぶ愛想というものが足りない少年だった。
ピアノを弾けると言っているが、ちょっとやそっとで弾ける曲ではないのだ。
先ほどから喚いていたソプラノのパートリーダーでもある合唱部の部長がジロリ、と睨むように見つめてくるのに居心地悪そうにしていたキニアンに、アルトの少女が楽譜を差し出した。
こちらは、藁でも掴もうという表情である。
パラパラと楽譜をめくったキニアンは、ほっと息を吐き出した。
「大丈夫、弾ける」
「「──え?!」」
「これくらいなら弾けるよ」
ありがとう、と言って楽譜を返す。
「これくらい……って」
インフルエンザで倒れた伴奏担当者は四歳からピアノを習っていると言っていたが、それでも四苦八苦していたのだ。
それを、チラッと楽譜を見ただけで弾けるかどうか分かるわけがない。
「……弾けるの?」
アルトの少女の言葉に、もう一度頷くキニアン。
「あぁ、もう覚えたから。たぶん、二、三回弾けば大丈夫」
「はぁっ?! 覚えた?!」
「二、三回……」
当然のような顔をしているクラスメイトに、少女たちはぽかん、とした顔を向けている。
「大丈夫そうなの?」
ソナタの言葉にも頷く。
「あぁ、平気。難しいっていうから、ショパンとかリストみたいなの出されて初見で弾け、とか言われたらさすがにどうしようかと思ったけど」
お前の兄貴の無茶振りより全然楽、と苦笑して見せる。
「そっかー。カノンの『お願い』で鍛えられたのね」
何だか仲が良さそうに話しているふたりの周りに、合唱部の少女たちが集まってくる。
「あの……本当に弾けるなら、お願いしたいんだけど……」
「うん。構わないけど、でも俺も部活があるから」
「この際贅沢なこと言ってられないし、昼休みにでも、ちょっと聴かせてもらえない?」
「分かった」
頷くキニアンの隣に立ったソナタが、ぽつり、と呟いた。
「先輩たちに、カノンから『お願い』してもらおうか?」
「──やめてくれ」
即座に否定が返る。
『カノン天使教』の敬虔な信者である先輩たちは、きっとふたつ返事で頷くに違いない。
練習に参加するのを遅らすことも、休むことも、きっと文句は言わないだろう。
けれど、自分はあくまでバスケ部員だったし、ピアニストでもない。
まして、カノンをダシに使うような真似は絶対にしたくなかった。
「うん、分かった」
ごめんなさい、と頭を下げるソナタに、キニアンは慌てて首を振った。
別に謝ることではない。
この双子はとんでもない言動をする割にとても礼儀正しく、素直に自分の非を認めることが出来る。
過剰な自信が服を着て歩いている思春期の少年少女とはとても思えない。
「合唱コンクールって、一般人も聴いたり出来るの?」
ソナタの問いかけに、アルトの少女は思案顔になった。
「問題ないけど、一階席は出場する生徒たちが座ることも多いから、二階とかになっちゃうかも……」
「あぁ、全然平気」
「……おい」
嫌な予感がしたキニアンは、まさかと思ってソナタに声をかけた。
にっこりと綺麗に微笑んだ少女は、わくわく、と満面に書いて言った。
「カノンとふたりで見に行くね!」
人助けだというのに、何だかとんでもない罰ゲームのような気分になったキニアンだった。
昼休み。
少々慌しく昼食を摂ったキニアンは、音楽室へと向かった。
楽譜はコピーしたものを受け取っておいたので、教員に許可を取ってピアノの前に座る。
一応譜面を置き、軽くさらってみる。
「──うん、平気だな」
ピアノの音だけを聴かせるわけではなく、あくまで伴奏ならば、そう気を張ることもない。
もちろん、これまで懸命に練習してきたであろう合唱部の生徒たちに失礼のないようには演奏するつもりでいたが。
「──あ、もうやってる」
音楽室の入り口からひょっこりと覗いた顔に、キニアンは目を丸くした。
「……何してんの?」
「カノン連れてきた」
「いや、そりゃ見れば分かるけど……」
ソナタの隣には、彼女よりいくらか背の高い銀髪の少年。
「アルがピアノ弾くって話したら、行くって言うから」
「……やっぱり来るのかよ」
「え? あぁ、本番も行くけど、練習の話」
ちょっと勘違いをしているらしい同級生に、訂正を入れる。
「カノンの好きそうな超絶技巧曲じゃないぞ?」
「聴いちゃいけないわけ?」
ツン、と顎を逸らしている女王様に、キニアンは軽くため息を零した。
「俺は構わないけど、合唱部のやつらが……」
「邪魔しないもん」
ね、とソナタに確認を取る。
ソナタは、自分より背の高い兄が何だかちいさな弟か何かになったかのような愛しさが込み上げてきた。
この、ちょっとばかり素直でない双子の兄は、彼氏のことが好きで好きで、大好きで仕方ないのだ。
だから、彼氏が何かをするときには自分も一緒にいたいし、それを内緒にされたりするとちょっぴり傷付いたりもする。
頼りになるお兄ちゃんだとずっと思っていたのだが、最近のカノンは本当に可愛い。
「うん」
だから、にっこりと笑って頷いてやった。
ほら、とばかりに、カノンは腕組みをして見せた。
ソナタは、その様子をくすくす笑って見守っている。
「もう来てたの」
そこへ、合唱部の生徒たちがやってきた。
昨年までは男子生徒も所属していたらしいが、卒業してしまい女子のみになってしまったらしい。
今回の曲は、女声三部合唱だ。
部長兼ソプラノのパートリーダーの少女はちらっ、とカノンたちの方に視線を向けたが、すぐにキニアンに向き直る。
「早速で悪いけど、弾いてみてくれる」
「あぁ、うん」
腕組みをし、キニアンの腕を見極めようと表情を険しくしている彼女の周りでは、少し不安そうな顔をした少女や、期待に満ちた目をした子、部長と同じく険しい顔をしている子など様々だ。
「あ……あの、あたし、譜捲り担当で……」
「あぁ、そうなんだ。よろしく」
ちょっと顔を赤らめている少女にも、キニアンは相変わらずにこりともしない。
もちろん、機嫌が悪いわけではない。
約二十名の人間からの視線を浴びながらも、キニアンはいつも通りの無表情だ。
普段制限をかけてある耳のボリュームは、音楽室に入ったときから演奏モードにしてある。
軽く息を吐き出し、鍵盤に指を置く。
生み出された音に、合唱部の少女たちは皆目を瞠った。
伴奏担当の子は、学校でも家でも、何時間も練習してようやく弾けるようになったと言っていた。
指が攣りそうだ、と零していたが、今目の前にいる少年が演奏する様子からはそんな苦労は微塵も感じない。
よく見れば、かなり大きな手をしている。
指も長い。
その手で、涼しい顔をしてあちこちに音の飛ぶ伴奏を弾きこなしている──そう、弾きこなしているのだ。
ほぼ初見だというのに。
三分ほどの演奏が終わると、キニアンは部長に訊ねた。
「こんな感じでいいか?」
「…………」
「やっぱり前の伴奏と違うか?」
「──え?」
ぼーっと聴いていた少女は、はっとして目をぱちくりさせた。
「とりあえず楽譜通りに弾いたんだけど。伴奏っていっても、タイミングとか慣れないと歌いづらいかも知れないな」
「……あなた、本当に弾けるのね……」
「え?」
「初見じゃないの?」
「初見だけど?」
「……何で弾けるの……?」
何でって言われても、とキニアンは頭を掻いた。
「難しいって言っても、これ伴奏だからなぁ。ピアノの音を聴かせるための曲じゃないから、ピアノ曲に比べたら難しくないし……あぁ、でも、女子の手だと、ちょっと大変かもな」
うーん、と唸っている少年に、突如少女たちの間から歓声が上がった。
慌てて耳のボリュームを下げたキニアンである。
すごーい、すごーい、と言って寄ってくる少女たちに、「え? え?」と目をぱちくりさせているキニアン。
何がすごいのか彼にはよく分からないのだが、少女たちは興奮した様子でしきりに褒めてくる。
親からも──特に父親からは──滅多に褒められたことがないので、困惑してしまう。
「すごいねー!」
「キニアンがピアノ弾けるなんて意外!」
「運動部なのに、芸術系もいけるんだ!」
「何かかっこいい!!」
そんなことを口々に言ってくる少女たちに、やはりどう対処していいのか分からないキニアン。
え、え、とキョロキョロしていると、カタン、と席を立つ音が聴こえた。
「──カノン?」
音のした方に目を向ければ、椅子に座っていた少年が席を立って音楽室の外へ出ようとしている。
キニアンも椅子から立ち上がった。
「どうした?」
「別に。もうすぐ昼休み終わるから。帰る」
ふいっ、と顔を背けるカノンの横で、ソナタが「あちゃー」と呟いて額を押さえている。
何だかよく分からなかったけれど、時計を見れば休み時間は残り十分ほどだ。
確か、次は移動教室だったはずだ、と思い出す。
「悪い。次の授業の用意しないと」
キニアンは合唱部の少女たちにそう告げた。
「放課後って、やっぱり部活よね?」
「あぁ。練習、何時までやってる?」
「みんな寮なの。だから、遅くまでやってることもあるし、寮のプレイルームを使わせてもらうこともあるわ」
「あぁ、じゃあ部活終わってまだやってそうなら、そっちに合流するよ」
「分かったわ。よろしく」
「あぁ」
じゃあ、と楽譜のコピーを手にしたキニアンは、音楽室を出て行ってしまったカノンたちを追いかける。
スタスタ歩いているカノンの少し後ろを歩いているソナタに、そっと耳打ちした。
「なぁ、何であいつ怒ってるんだ?」
ソナタはとても珍しい生き物でも見るような目で、長身の少年を見上げた。
「……怒ってるのが分かるのに、その理由が分からないからじゃない……?」
キニアンは、とても不思議そうな顔で首を傾げたのだった。
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