喜びの歌

「ダメ」
「何で」
「何でも」
「いーじゃん」
「ダメ。暗いし、危ないでしょうが」
「危なくないもん。ここ連邦大学惑星だよ?」

治安の良さは折り紙付きだ、と眉を吊り上げるカノンに、キニアンはダメの一点張り。

「まーた喧嘩してるの?」

ひょっこりやってきたソナタに、カノンはぷくっと頬を膨らませて見せた。

「だって、放課後の練習見ちゃダメって言うんだもん」
「練習? あぁ、合唱部?」
「夜遅くなると暗くて危ないから、とか訳分かんないこと言うし」
「ぷっ。連邦大学惑星で? しかもカノンが?」

自慢ではないが、護身術や体術の類は両親からみっちり手ほどきを受けている。
大の男が四、五人束になってかかってきても楽勝だ。
そうそう危険な目に遭うはずがない。

「でしょ? 言ってやってよ」
「何があるか分からないだろう」
「じゃあ父さんに迎えに来てもらう!」

伝家の宝刀を抜くカノンに、「またそれか」と呟くキニアン。
何かというと父さん、父さん、そんなに父さんがいいなら早く家に帰ればいいだろうが。
そうは思っても、まるでやきもちを妬いているようでかっこ悪いので口を噤んでいたキニアンに、カノンはなおも言葉を続けた。

「エアカーならすぐだもん」
「お前、この間もそれやっただろうが」
「いーじゃん。父さん嫌がってないもん」
「嫌がってるとか嫌がってないとか、そういうことじゃないだろう?」
「何なの? アリスのくせに、何でそんな我が儘なの?」
「……お前に言われたくないよ」
「ぼく我が儘言ってないもん!」

放課後の教室。 まだまだ生徒たちはたくさん残っている。
そんな中で、天使か王子か、という容姿のカノンが愛想の悪い男子生徒に喰って掛かっている。
よく見る光景ではあるが、しかし、たとえ目の前で展開されている出来事なのだとしても、いつもにこやかに微笑んでいるカノンが柳眉を吊り上げているところがどうもしっくりこないのだ。
影武者なのではないか、と疑うものすらいる。
こんな美貌がそうそう転がっているわけもないのでやはり本人なのだろうが、そうするとどうしてもしっくりいかないのだ。

「とにかく、帰れ。本番見に来るんだろう? じゃあそれでいいじゃないか」
「…………」
「パート練習したり、二、三回通して歌ったり、そんなんだと思うぞ」
「…………」
「ピアノだったら、また弾いてやるから」

だから聞き分けろ、と暗に告げてくる彼氏に、カノンはみるみるうちにその菫色の瞳にぷっくりと涙を溜めた。
ぎょっとしたキニアンは、慌てた様子で「ちょ、おま」とか「なん、えぇ?!」とか言っている。
そんなキニアンを涙目で睨みつけたカノンは、

「──みんなと練習頑張れば!」

と叫んで教室を出て行った。
呆然とその様子を見送ったキニアンに、「ないわぁ」と呟く少女がひとり。

「……何だよ」
「うちの大事なお兄ちゃん、泣かせないでくれる?」
「…………」

俺のせいかよ、と思いはしたが、きっと自分のせいなのだろうな、とため息を零すキニアン。

「……なんなんだよ、あいつ。昼間から怒ったり、泣いたり」
「あー、じゃあそれが分かるまで出禁ね」
「はぁ?」
「カノンが恥ずかしがったり嬉しかったりして泣いてるなら何も言わないけど、あれ本泣きだから」
「…………」
「死ぬほど反省してね」
「……だから、何が悪いんだよ」
「それを考えろって言ってるの」

いつだって太陽みたいな笑みを浮かべている花丸元気印の美少女が、嘘のように冷たい瞳をしている。
カノンを追いかけるため教室のドアを開けながら、ソナタは振り返って言ってやった。

「どうしても分からなかったら、ライアンに訊いてもいいわよ」

それだけ告げて、カノンを追ったのである。
小走りにカノンに駆け寄ったソナタは、何も言わずにきゅっとカノンの手を握った。
キニアンに対する態度が嘘のように、シェラ譲りの美貌には心配そうな色が浮かんでいる。

「……目、擦ったでしょ」

赤くなってるよ、とハンカチを差し出す。
ありがと、とちいさく呟いて受け取ったカノンは、ソナタの手をぎゅっと握り返した。
自分のものより、更にほっそりとした手。
硬くて、節の高い男の手とは全然ちがうやわらかな手だ。

「──ごめんね」

ふと、ソナタは言った。
顔を上げたカノンは、ほんの少し下にある藍色の瞳をじっと見つめた。
苦笑したソナタは、もう一度「ごめん」と言った。

「私が、ちょっと面白いかなー、とか思ってアルに伴奏勧めたのがいけなかったね」
「そんなこと……」
「カノンと一緒にいるときのアルがあんまりヘタレてるから、彼が割りとイケメンなんだってこと、すっかり忘れてたわ」
「…………」
「しかも、楽器弾かせれば三割り増しだし」
「…………」
「女の子たちにきゃーきゃー言われてるの見て、ちょっと嫌だったんでしょ」
「……別に、ぼく……」
「邪魔しちゃうと思って、『ぼくのだよ!』って、言えなかったんだよね」
「…………」

黙ってしまったカノンの頭を、空いた手で撫でてやる。

「大丈夫だと思うよ?」
「……でも、女の子ばっかりだもん」
「カノンが一番可愛いよ」
「…………我が儘だと思われた」
「やきもちだったのにね」
「違うもんっ」

ぷくっと頬を膨らませるカノンに、ソナタはくすくす笑った。

「でも、やっぱり大丈夫だと思うよ?」
「アリス、超鈍感なうっかりだもん。押し倒されたって気づかないもん」
「いやいや。たぶん、合唱部の子たちはそれどころじゃないと思うんだよね~」

何か含むものがあるような言い方をするソナタに、カノンはこてん、と首を傾げた。
そんな兄に、ソナタはにんまりと笑って教えてやったのだった。


コンクールが間近に迫っている高揚感とは別に、年頃の少女たちははしゃいでいた。
それは、同じ部活の伴奏者が流行り風邪で倒れてしまったために、急遽別の伴奏者が決まったためである。
その伴奏者というのは、バスケ部に所属する二年生で、かなり長身な上にハンサムと評判の少年であった。
顔立ちは整っているのだが、いかんせん愛想がないため取っ付きにくい印象を与えてくる少年で、話しかけてみたい、とは思ってもなかなか実行に移せないでいる女子が多かった。

──しかし、チャンスは訪れたのだ。

数日間とはいえ一緒に過ごす時間があるのだから、ピアノの腕を褒めながら、さりげなく近寄って、話しかけたり、あわよくば触っちゃったりなんかしちゃったりしてしまおうか、と考える部員は少なくなかった。
話してみると意外と気さくで、無愛想ではあるが礼儀正しい少年だということが分かって、余計に少女たちの興味を煽った。

──これは、もしかするともしかするかも知れない。

そう、思っている少女もいた。
だから、本番前の緊張や興奮とは別のところで、寮内にあるプレイルームは異様な熱気に包まれていたのだ。
少年は自身の所属する部活の練習に出るため、少女たちは部活の時間は伴奏を録音したものを流して練習をしていた。
部活の時間が終わって夕食を摂り、プレイルームに移ってからも、しばらくの間は録音したものでのパート練習が続いていたのだ。

「──悪い、遅くなった」

そこへ、背の高い少年が現れた。
ちいさい歓声が上がりキニアンは軽く首を傾げたが、とりあえずピアノの前へと向かった。

「えっと……どうしたらいい?」

ソプラノのパートリーダーも務める部長に、伺いを立てる。

「パート練習していたの。あなたさえ良ければ、合わせたいんだけど」
「あぁ、分かった」

頷くと、キニアンはピアノの前に譜面を置いた。
プレイルームのピアノは音楽室のものと違ってグランドピアノではなかったが、贅沢は言っていられないだろう。
音響効果も、良いとはお世辞にも言えないが、悪くもない。
州大会に出場するような強い合唱部だから、伴奏者が変わっても特に問題はないだろう、と思ったキニアンだった。

──が、しかし。

「…………」

思わず、演奏の手を止めてしまった。

「ちょっと、どうしたの? 昼間は弾けてたのに」
「あ、いや……弾けるんだけど……」

伴奏することには何ら問題はない。
あるとすればそれは。

「……顧問って、この練習には付き合わないのか?」
「これはあくまで自主練習。部活の時間は終わってるわ」
「まぁ、そうなんだけど」
「何よ。何か言いたいことがあるの?」

腕組みをしている少女に、キニアンはポリポリと頭を掻いた。

「あんたたち、いつも通り歌ってるか?」
「え?」
「いつもと同じように声が出て、いつもと同じように歌えてるか? 違和感とかないか?」

この空間で唯一の少年の存在に、少女たちは顔を見合わせた。

「何を言っているのかさっぱり分からないんだけど、いつも通りだと思うわよ。人数も、伴奏以外は欠けてないんだし」
「そうか……」
「だから、言いたいことがあるなら言ったら? 練習時間が減るわ」

大きな大会の本番前で少しピリピリしているのだろう、苛立った様子の少女に、キニアンは軽く息を吐き出すと告げた。

「じゃあ、遠慮なく」

それから、無口で無愛想と評判の少年が口にしたこと細かな指摘と指示に、少女たちは目を真ん丸にした。
ひとりひとりの歌い方の癖から声の出し方、ブレスの位置、ビブラートのかけ方にスタッカートのタイミングなど。
二十名以上いる部員のほぼ全員分の指摘事項を、ひと息に言ってのけた。

「──特に、あんただ」

視線を向けるのは、部長であるソプラノのパートリーダーに対してだった。

「たぶん、あんたが一番上手い。声もよく通る。──だから、あんたの声だけやけに聴こえるんだ」
「…………」
「この曲で一番低い音は、女子が出すにはちょっと低い。なのに、アルトの人数が少なくてソプラノが一番多い。テナーがいれば違っただろうけど、圧倒的に低音の支えが足りないんだよ。アルトはメインじゃない。でも、アルトが支えないと高音が上滑りする。かといって、低音を豊かに出すには声帯と身体の鍛え方が足りない」

呆然とした様子で耳を傾けている少女たちの中で、部長だけはキニアンを睨みつけるような視線を送っている。

「……何が言いたいわけ?」
「出来れば、ソプラノからメゾソプラノに、メゾからアルトに人数を振り分け直した方がいい。ソプラノは、そんなに必要ない」

あの、とアルトの少女が軽く手を挙げた。
おそらく一年生だろう。
上級生に対して意見することに、戸惑った様子がある。

「あの……わたしたちの声が、ちいさいってことですか……?」
「そうじゃない。低音は丁寧に歌わないと土台にならない。声を大きく出しても、音を支えきれないんじゃ意味がないんだ」
「えっと、じゃあ、どうすれば……?」

キニアンは苦笑した。

「本当は、もっと身体を作らないといけないんだ。でも、あと数日しかないのにそんなことは無謀だろう? だったら、もう少し人数を」
「人数の振り分けだって一緒だわ! あと三日しかないのよ? 新しいパートで満足に歌えるかどうかなんて」
「だったら、あんたがアルトを歌うんだ」
「──……何ですって?」

懐疑的な顔つきになった部長に、キニアンは平然とした顔で言った。

「あんたが、アルトのパートを歌うんだ」

出来るだろう? とでも言いたげな口調に、少女はわなわなと拳を震わせた。

「わたしはソプラノのパートリーダーなのよ?! それなのにどうして!」
「別にアルトをそのまま歌えなんて言ってない。アルトの旋律を、オクターブ上で歌うんだ」
「……え?」
「それでもきっと、ソプラノ全員の声とあんたの声は張り合える。オクターブ上だけど、アルトの旋律も引き立つはずだ」
「…………」
「もちろん、本当に時間がないから判断は任せる」

部外者が口出して悪かったな、と謝罪する少年をしばらく見つめていた少女は、ひとつ質問をした。

「……あなたは、その方がいいと思うのね?」
「たぶんな。少なくとも、今のままじゃバランスが悪い」
「でも、このメンバーで州大会まで残ったわ」
「別に下手なわけでも、悪いわけでもないんだ。むしろあんたたちは上手いと思う」

ただ、と少し困ったようにキニアンは頬を掻いた。

「んー……俺の耳が、ちょっと特殊なんだと思う……」
「初見で弾いてたし、ピアノを習ってるの?」
「いや、ピアノは専門外。やってるのはチェロ」
「──チェロ?」

あれだけのピアノの腕を持ちながら専門外だと言い切り、更に専門はチェロなのだ、と言う少年に、少女たちはこそこそとややさきあった。

「両親が音楽家でね。まぁ、なりゆきで」

父親に聞かれたら殺されそうな台詞だが、昔は確かにそうだったのだ。

「音楽家……」
「──あ、チェロでキニアンって、もしかしてエルバート音楽院の?!」
「あぁ、うん。なんだ、知ってるのか?」
「知ってるもなにも、現代最高のチェリストじゃない! じゃあ、お母さんはヴァイオリニストの……」
「あぁ──」
「──あの、『天国の聖母(マリア)様』!」
「…………」

何だ、そのふたつ名は……と頭を抱えたキニアンだった。
比類なき音楽の才能を持つ母の奏でる音は確かに天上の音楽と呼ばれることもあるが、実物を見たらそんな感想は吹き飛ぶぞ、とため息を零す。

「有名な音楽一家なのね」
「あー、うん。親はね」

自分の才能にはとことん無頓着なこの少年は、いつもの調子でそう言った。

「もし、あなたの言うようにしたら……入選できる可能性もある、ってこと?」
「さすがにそれは分からない。他の出場者の歌を聴いたことがないからな」

肩をすくめる少年の言葉に、少女は大きく息を吐き出した。

「──分かったわ。とりあえずやってみて、それから判断する」
「アルトのパート、歌えるのか?」
「馬鹿にしないでちょうだい。わたしは部長よ? 他のパートだって全部覚えてるわ」

その威勢の良い台詞に、キニアンはちょっと笑った。
無愛想な少年の笑顔に、少女たちは一様にどよめいた。

「じゃあ、とりあえずやってみよう」

それから二時間ほどの練習で、少女たちは夢も見ないで眠れるほどくたくたになったのだった。




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