彼氏と喧嘩をした翌日、カノンは授業以外の時間は妹にべったりくっついていた。
彼なりの、情緒を安定させる手段のひとつであった。
ソナタに否があるはずもなく、「可愛いなー、可愛いなー」と子どものように自分にくっついてくる兄の様子に目を細めていた。
ソナタと同じクラスに問題の彼氏もいるわけだが、目が合うたびにふいっと視線を逸らすと、ショックを受けたような顔になっていた。
自分は女の子に囲まれて鼻の下を伸ばしていたに違いないのだから、いい気味だ。
カノンに冷たくされたのが余程堪えたのか、その彼氏は昼休みになると肩を落としてしょんぼりした様子で教室を出て行った。
「──ちょっと」
昼食は一緒に摂ることが多かったけれど、知るものか、とぷりぷり怒っていたカノンは、少し険のある口調で声を掛けられ、そちらに目を向けた。
合唱部の部長だ。
僅かに眉間に皺を寄せるようにしている少女に、カノンも常より表情を険しくする。
「……なに」
「彼って、いつもああなの?」
「……はい?」
「彼よ、キニアン。あなたたち、付き合ってるんでしょう?」
「……だったら、なに?」
まさか別れろとか、身を引けとか、そういう話だろうか、と身構えるカノン。
「嫌にならない?」
「──は?」
腕組みをした少女の言葉に、カノンは菫色の瞳を真ん丸にした。
「いつもあんなに口煩いわけ?」
「くち……うる……?」
誰のことだそれは、と目をぱちくりさせているカノンに、少女は大きなため息を零した。
「顧問より厳しいんだけど。二、三小節歌ったら止めて注文つけるし、音が当たらないと当たるまでやらせるし」
「…………」
「失礼かも知れないけど、あんな細かいこと言う人と一緒にいて、疲れない?」
「…………」
「みんな、練習終わってあんなにぐったりしたことないわよ」
いよいよ誰の話をしているのか分からなくなってきたカノンだった。
ぽかん、として聞いているカノンの隣で、ソナタがくすくすと笑っている。
「ほら、ね? 大丈夫でしょう?」
どうやらこの合唱部の少女は、キニアンが彼女たちの歌に対してこと細かな指導を行ったことで、かなり疲れてしまったらしい。
ソナタは、こうなることが分かっていた、ということだろう。
「……よく分からないけど……ごめんなさい……?」
一応自分の彼氏のことなので、謝ってみる。
「別にあなたに謝って欲しいわけじゃないし、彼に腹を立てているわけでもないわ。むしろ、彼の言うように歌ってみると確かに前より綺麗に響くの」
「あぁ……そう」
音楽のことはさっぱり分からないカノンは、曖昧に相槌を打つ。
「でも、普段あまり喋らなさそうなのにあんなに喋るから、あなたといるときもそうなのかと思って」
「そんなに喋る方じゃないよ。教室にいるときと一緒」
ただ、とカノンはちいさく笑った。
「アリス、音楽馬鹿だから」
「あぁ、それはよく分かったわ」
頷いた少女は、言いたいことは言ったのだろう、自分も練習のために教室を出て行った。
「ね? 女の子たちは、キニアンと仲良くなるどころの話じゃなかったでしょう?」
「犬並みの耳だからね」
ふん、と鼻を鳴らすカノンに、ソナタは微笑みかけた。
「カノン」
「うん?」
「ほっとした顔してるよ?」
「…………」
即座に「違う」と否定しようとしたカノンだったけれど、何だかうまく言葉が出てこなくて結局黙ってしまった。
それを見て、ソナタはやはりにこにこ笑っていたのだった。
本番前日。
最後の練習日とあって、部活後の自主練習の時間にも、合唱部の顧問は付き合っていた。
「──すごいわ!」
たった二、三日で様変わりした生徒たちの歌に、顧問は瞳を輝かせた。
「うん、いいな」
キニアンも、珍しく晴れやかな表情を浮かべている。
伴奏が交代してからというもの、ダメ出しはされても褒められたことなんてほとんどなかった少女たちは、喜びの歓声を上げた。
確かに、自分たちで歌っていてもこれまでとはまるで違う歌に聴こえるくらいだった。
何より、伴奏が支えてくれるということが、こんなにも心強いものだとは思わなかった少女たちだ。
顧問ですら、この曲は弾けないと言っていた。
本来伴奏であった子も、コンクールが始まった当初は歌に合わせるので精一杯という感じだった。
最近ようやく慣れてきたのだ。
けれども運動部に所属している少年の伴奏は、出過ぎることがなく、また引っ込むこともなく。
中庸と言えば聞こえは良くないかも知れないが、それこそが与えてくる安心感というものは喩えようもなかった。
しかも、この少年は合唱曲の中では難しいとされる伴奏を見事に弾きこなしながら、少女たちの歌声をひとりひとり聴き分け、指示を出せるほどに発達した耳の持ち主だった。
──これは、もしかするともしかするかも知れない。
少年に対して抱いていたのとは別の意味で、少女たちはそう思っていた。
「ありがとう、ミスタ・キニアン。伴奏の子が熱を出したって聞いたときは、半分以上諦めていたのよ」
「いえ。俺も自分の部活があるので、あまり参加出来なくて申し訳ないです……」
「とんでもない! わたしの指導の行き届かなさを痛感していたところよ」
「差し出がましいかとは思ったのですが」
どうしても、耳が『嫌だ』と訴えてきたのだ、というのは伏せておいた。
『やだやだ、この音じゃヤダ! もっと綺麗じゃなきゃヤダ!』と耳が我が儘言うんです、とはさすがの彼も言えなかったのだろう。
──とにもかくにも、緊張と興奮と期待が高まる中、カイン校合唱部は本番の日を迎えたのである。
どきどき、わくわく、そわそわ、ルンルン。
そんな表情を浮かべて会場入りしたのは、ファロット一家の面々だった──いや、多少語弊があった。
遠足前の子どものような顔をしているのはシェラだ。
自分の子どもの晴れ舞台でも見るかのように、その頬は紅潮し、紫水晶のような瞳はきらきらと輝いている。
「アー君すごいね、こんな大きな会場で!」
「すごいのは合唱部だよ。アリスはただの代理」
ご丁寧に訂正を入れたカノンだったが、彼の表情も数日前とは打って変わって明るい。
「でも、きっとアー君かっこいいもん」
「鬼指導してたらしいよ」
「真剣な顔したアー君も、かっこいいんだろうなぁ」
「女の子たちも、最初はきゃーきゃー言ってたんだけどね」
シェラとソナタはくすくすと笑い合っている。
カノンはしれっとした顔をして二階席の最前列、中央に腰を下ろした。
「……大したことないっていうの」
ぶつくさ言っているカノンの右側で、ヴァンツァーがちいさく笑った。
むぅ、と唇を尖らせてそちらを軽く睨むと、思いがけずやさしい色をした藍色と出会った。
ちょっと怯んだカノンである。
「お前は可愛いな」
「……知ってます」
何だか悔しかったので、悪態をついてみた。
そんなカノンの様子にも、ヴァンツァーは喉を鳴らして笑うのだった。
「何組目?」
「んーと、最後から二番目だね」
午後二時から行われるこの合唱コンクールには、全部で十五組が出場する。
各校、課題曲と自由曲の二曲を歌うことになっている。
課題曲は、高校生についてはア・カペラだ。
「何だか緊張するなぁ~」
手を擦っているシェラたちの耳に、コンクール開始五分前のベルが届いた。
──第三控え室。
出場校それぞれに与えられた控え室の一室では、本番用の衣装に着替える生徒たちの姿がある。
午前中に音楽室と本番が行われるホールでの声出しを兼ねた練習およびリハーサルがあった。
緊張感を持ちながらも、カイン校合唱部の少女たちは期待と興奮に満ちた表情をしている。
その明るさが歌声にも良い影響を与えることは言うまでもない。
カイン校に制服はないが、少女たちはひと揃いの衣装を身に着けている。
上は白のブラウス、リボンとスカートは灰色と水色のチェックだ。
本来は伴奏も同様の衣装を着ているべきだが、急遽代理になったキニアンにそんな用意はない。
彼は、グレーのスーツを身に纏っている。
いつもは下ろしている前髪も、今日は額を出すようにセットしている。
「さすがだな、ぴったりだ」
ちょっと嬉しそうな顔で、キニアンは呟いた。
実はこのスーツ、ヴァンツァーに頼んだものである。
寮にはスーツなど置いていないから、困った彼は本職に相談したのだ。
そうしたら、快く貸してくれた、というわけだ。
身長はともかく、骨格はまったく違うので、これはヴァンツァーの服というわけではないのだろう。
よくこんな急に合うサイズが見つかったなぁ、と思ったキニアンだったけれど、仕事柄様々なサイズの服を作っているのだろう、とひとり納得していた。
むろん、彼はメンバーで唯一の男なので、着替えは控え室でなく手洗いで済ませた。
何とも色気のない更衣室だったが、バスケ部の部室だとて染み付いた汗臭さのおかげで大差ないと言えた。
「しっかし……全員来るのか……」
はぁ、とため息を零し、控え室へ戻る。
ノックをして、入室の許可をもらうと中へ入った。
入った瞬間、ちいさな歓声が上がった。
端正な容貌と、仕立ての良いスーツに身を包んだ長身に、少女たちは鬼のような指導をされたことなど忘れてしばし見入った。
きつめの顔立ちながら、美少年──否、美青年の部類に入る男ではあるのだ。
ただ、当の本人はいつものようにきょとん、とした顔をしていたのだが。
それでも練習初日のように彼に纏わりつく少女がいないのは、指導の厳しさを思い返してのことだろう。
いくら美形でも、口煩いのはちょっと……と思っているに違いない。
音楽さえ絡まなければ、彼はとても誠実でやさしい男なのだが、そんなことは付き合いの短い少女たちの知るところではない。
また、彼自身も騒がれることを望んでいない。
可愛い恋人ひとりが傍にいれば十分なのである。
──まぁ、その恋人にすげなくされて落ち込んでいたわけだが。
午後になって本番まであと少しとなった今、後ほど会場にやってくるのだろうカノンたちのことを思うと、何だか胃が痛くなる思いがした。
チェロだろうがピアノだろうが、演奏をするときに緊張したことなどほとんどない。
それなのに、バスケの試合前のように、手に汗握る心地がする。
──……何て言って謝ろうかなぁ……。
合唱部の生徒たちにとっては大事なコンクール前だというのに、キニアンはそればかりを考えていた。
合唱コンクールは、地区大会の予選・本選、地方大会、州大会、大陸大会を経て連邦大会が行われる。
各大会上位三校が次の大会に進むことが出来る。
カイン校の合唱部は歴史のある部活で、かつて連邦大会に出場したこともあったほどだ。
地方大会の常連であり、州大会に出場することもあるが、ここ数年入選はしても大陸大会まで行くことはなかった。
圧倒的な実力差があるならばまだしも、芸術系の大会というものは審査員の好みで結果が決まってしまうことが少なくない。
運動部のように、タイムや得点を競うわけではないのだ。
納得行かない結果になることがないとは言わないが、その分審査員は音楽大学の教員であったり、プロの演奏家であったりして、大会後には講評もしてくれる。
それを糧に、少年少女たちはまた歌声を響かせるのである。
「──え、アドバイス?」
残すところあと五組、というところまでコンクールが進んでいる会場の控え室。
スーツに身を包んだキニアンは、少女たちに囲まれてたじろいでいた。
何だか異様な熱気のこもった瞳で見つめられ、脅されている気分にすらなってしまった。
「最後のアドバイス! 下さい!!」
部員のひとり、メゾソプラノの少女が拳を固めてそんなことを言う。
顧問を差し置いてなぜ自分に、と思ったキニアンである。
「いやぁ……もう、別にないけどなぁ……」
リハーサルや会場に着いてからの練習では少し緊張していた少女たちだったが、昨日までの練習通りに歌えるのであれば特に言うことはない。
本当にそう思っていたキニアンだったが、あと僅かでも何かプラスになることを、と思っているのだろう少女たちの無言の気迫に押されて、苦笑しながら口を開いた。
「あるとすれば……」
すれば?! という瞳に、僅かに視線を落とした。
「──耳を、澄ませること……かな」
顔を見合わせている少女たちの様子が見なくても分かるキニアンは、言葉を続けた。
「お互いの声、気配、会場の空気……そういうの全部に耳を澄ませて、受け入れること。俺は、チェロを弾くときはひとりでやることが多いけど、それでも相棒の声に耳を傾ける。そうすると、向こうから話しかけてきてくれているのが分かる。──あとは、お喋りをするんだ」
お喋り? と誰かが呟いた。
顔を上げたキニアンは、ちいさく笑みを浮かべた。
「うん。お喋り。演説なんて難しいこと、俺には出来ないし、やっても疲れるだけだから。音楽って音色を楽しむものだけど、まず演奏している人間が楽しくないと絶対に伝わらないと思うんだ。俺が相棒の音に耳を澄ますように、あんたたちは仲間の声に。それで、楽しんで歌えば、それでいいんじゃないかな?」
やわらかい光を浮かべる翡翠の瞳に、少女たちはこの一見無愛想な青年が心から音楽を愛していることを知った。
そうして、緊張で忘れかけていた大切なことを思い出させてもらって、何だか嬉しくなった。
「今日は、あなたも仲間よ」
勝気な表情を浮かべた部長にそう言われ、キニアンは少し驚いた表情をし、それからゆっくりと笑みを浮かべて頷いた。
──幕が、上がる。
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