「──ふぅ、間に合ったかな?」
残すところあと三組というところで、ファロット一家はもうひとりの聴衆を迎えた。
三組ごとに十分の休憩が入るため、現在客席には人の姿がまばらだ。
人が集まっても彼らの席の周りだけ背後と左右に二、三席ずつ空きが出来ているのだが、合唱よりも遠巻きにファロット一家を眺めることに忙しかった聴衆たちはその五人目の登場にも度肝を抜かれた。
「あ、ライアン。うちの学校次の次だよ」
「ほんと? 良かった~」
黒髪の美少女の隣に、金髪碧眼の美女が腰を下ろす。
かなり長身で、モデルでもやっているのだろうか、と思わせる均整の取れた身体と美貌の主が男だとは、誰も気づかない。
「どんな感じ?」
「今さっき終わった学校、連邦大会常連の強豪なの。メンバーは変わってるだろうけど、もう、すんごい迫力! 音が、ドンッて身体を突き抜けるみたいに!」
「へぇ。じゃあ、あとの組は歌いづらいかも知れないねぇ」
「歌声があんなに重いとは思わなかったー」
最後のスーパーブローを喰らった気分だわ、と話すソナタに、ライアンは明るく笑った。
「『ギャラクティカ・マグナムっ!!』みたいな?」
「ううん、『ギャラクティカ・ファントムっっ!!!!』だった!」
これには大笑いして涙まで零したライアンだったが、周りのファロット一家は目が点になって首を傾げている。
「火の玉かぁ。それはすごいなぁ」
あはは、とまだ笑っているライアン。
「じゃあ、それを超えるには『ブーメラン・テリオス』しかないねぇ」
「唯一永遠のライバルだし」
「いいねぇ。青春って感じだ」
しかも、と美形カップルは顔を見合わせた。
「「──セコンドは最強の菊姉ちゃん!」」
と言う割には、ふたりの脳内に浮かんでいるのは無愛想ながらどこか温厚な大型犬を思わせる心やさしい青年。
彼がセコンドについて「立て! お前は黄金のニホンJr.だ!!」とか言ってもまったく迫力がない。
これっぽっちも迫力はないが、しかし、こと内容が音楽になると、普段口を閉ざしているのは小宇宙を高めるためなのではないか? と思うくらいに饒舌になる。
「アー君の口を開かせるな!」
「五感がことごとく剥奪されるぞ!」
言いながらきゃはは、とおかしそうに笑っているふたりを、やはりファロット一家の面々は不思議そうな顔で見ている。
今度どういうことなのかソナタに聞いてみよう、とカノンは心に決めた。
「──でも、おかげでセブンセンシズに目覚めちゃうかも知れない」
ちょっと冗談っぽく言ったライアンに、ソナタもにっと笑った。
「──火時計の炎は、あと三つよ」
知っているものが聞けば「あと三組どこいった」と言うだろうが、周囲にはまったく分からない会話を続ける美女カップルは、わくわくしながらそのときを待った。
──続きまして、カイン校合唱部。
アナウンスに呼ばれて袖からステージに向かう少女たち。
最後に伴奏者がピアノの脇に立つのを見て、審査員のひとりは「あら」と眉を持ち上げた。
段差のついたステージに少女たちが並んだとき、会場からちいさくはない歓声が上がって合唱部の少女たちは若干怯んだ。
しかし、思い当たる節があったので顔を見合わせ、声には出さずちいさく笑った。
きっと、原因となっている青年は相変わらずきょとん、とした顔をしているに違いない。
笑ったら、何だか肩の力が抜けた。
大きく深呼吸をし、会場を見渡す。
大きな会場だ。
照明のおかげで客席は見えないが、そこには多くのライバルがいる。
自然と、気分が高揚するのを感じた少女たちであった。
──課題曲『君をのせて』。自由曲『青葉の歌』。
課題曲は、有名なアニメ映画の主題歌だ。
本来は伴奏のある曲だが、どこか物悲しく、けれど美しい旋律を人の声だけで表現する。
課題曲に選ばれる曲は、元々ア・カペラでないものも多い。
今年の曲は誰でも知っている歌、だからこそ歌い手の力量が試される曲だ。
曲目の次に、指揮者と伴奏者が紹介される。
次に、部長が自分たちの活動内容と、自由曲を選んだ経緯などを話す。
そうして、位置につくと指揮者が伴奏者に合図を送る。
課題曲のア・カペラのため、最初の音を出す。
ごくちいさな音を、各パート分。
ハミングで音を取り、指揮者の合図で止める。
さっと手を上げる指揮者に合わせ、脚を肩幅に開く。
緊張の中にも笑みを浮かべる指揮者に、ソプラノからアルトまで、二十数名の少女たちも目を大きく開き、頬骨を高く上げた。
指揮者の手が、拍子を刻む。
──あぁ……綺麗だ。
ピアノの前に座る青年は、そう思って笑みを浮かべた。
二十数名では、会場を覆うほどの声量はない。
圧倒的な技工があるわけでもない。
それでも、少女たちの奏でる音楽は、胸が締め付けられるほどに美しかった。
ソプラノが主旋律を歌い、アルトが支え、メゾソプラノが伴奏部分を歌う。
ア・カペラは、声だけ。
旋律と、声量と、響きのバランスが純粋に表に出る。
声だけの勝負。
微分音すら聴き取る青年の指導でこの三日間練習を続けた少女たちの歌声は、決して大きくはなかったがよく響き、よく通った。
それは、彼女たちの思いが集約されているからに他ならない。
心をひとつにして、仲間の声に耳を澄ませる。
──本番に強いな。
くすっと笑みを浮かべた青年。
リハーサルのときは緊張していた少女たちだったが、今はどの練習のときよりも声が伸びている。
真っ直ぐに響くその歌声を正面から受け取るのは二階席の正面辺りか、とキニアンはそちらに目を向けた。
きらり、と何かが光った気がして、まさかそんな目立つところに? と思ったが、気にしないことにした。
自分には、すべきことがある。
自分の力が必要とされている。
余計なことは考えず、今素晴らしい声を聴かせてくれた少女たちのために、自分も出来る限りのことをしよう。
そう考えたキニアンの耳に、拍手が届いた。
その力強い拍手は、とてもお義理には聞こえない。
──さて、俺も行きますか。
軽く息を吐き出し、本日限りの相棒に目を移す。
──よろしくな。
ちいさく微笑みかけ、鍵盤に触れる。
指揮者を見、ひと呼吸。
────ふっ。
そんな風に手を振り下ろす指揮者の息遣いすら聴こえてきそうな静寂の中、光が生まれた。
「「──……音が違う」」
自由曲の前奏が始まったとき、ごくごくちいさな声で双子が同時に呟いた。
何がどう違うのかは分からなかったけれど、今までの十三校の伴奏者が弾いていたものとは違う楽器なのではないかと思うほど、その違いは明らかだった。
「そうなの?」
今までの出場校を知らないライアンも、演奏の邪魔にならないように小声で訊ねた。
ソナタはこくり、と頷いて返事に代えた。
すぐに歌が始まったので、それ以上は誰も口を開かなかった。
たとえるなら、ピアノの音は春の木漏れ日。
歌声は萌えいづる若葉。
──煌めけ
歌詞の通り、まさに大樹の下から太陽を見上げるような、そんな歌声と伴奏だった。
ファルセットで声を出すと、どうしても音が篭もりがちになる。
すると、歌詞が聞き取りづらくなってしまう。
かといって地声で歌ったのでは音にやわらかさが出ず、また個々の声質ばかりが強調されて綺麗なハーモニーとならない。
また、この曲は音の上下が激しく、特に急に音が下がることがあるために低音を当てることが難しい。
しかし、本来混声ながら女声のみで歌われているカイン校合唱部による歌は、歌詞のフレーズひとつひとつまで聞き取ることが出来、また低音だろうと高音だろうと、音が外れることもない。
だからこそ、美しいハーモニーが生まれていた。
何より、どこかのパートが出すぎてしまうということがなかった。
誠実な歌い方ではあるが、決して技巧的ではない──けれど、高校生という、きらきらと輝く生命そのままの勢いと明るさをもって歌われるこの合唱部の歌の方を好ましく感じる者も少なくないはずだ。
テクニックをひけらかすでもなく、声を張り上げるわけでもない。
授業の合間の休み時間や昼休み、放課後など、少女たちが何気ない話に微笑み、さざめくように笑い、友人と過ごすかけがえのない今日という日に感謝する。
そんな、特別でないことが特別な毎日を想像出来るような歌声だった。
歌声だけでなく、伴奏も。
譜面や鍵盤にはほとんど視線を落とさず、指揮者と、歌う少女たちに目を向けている伴奏者。
ほぼピアノの最低音から最高音までを使うというのに、大きな手による伴奏は危うくなることを知らない。
難しい曲というのは、弾くことに集中してしまうから、どうしても歌声とのバランスが取りづらくなる。
無駄な力が入ってしまうことで、時に歌声を殺すほど大きくなってしまったりするものだ。
けれど、登場するなり会場からちいさくはない歓声を浴びた青年は、眉間に皺を寄せるどころか、どこか楽しそうな表情を浮かべて演奏していた。
少女たちの歌声に耳を傾けながら、出すぎることも、引っ込むこともなく最良の伴奏を提供する。
伴奏はあくまで伴奏であって主旋律ではないということを改めて認識させられる音だった。
だが、印象が薄いわけではない。
きらきら、と。
高音部分は本当にそんな風に聴こえる音だった。
低音は豊かに。
どっしりと根を張った大樹が、その下で休む若者たちを見守るように。
──どこまでも響け!
そう思って歌い、伴奏していることがはっきりと分かる合唱に、会場からは惜しみない拍手が送られた。
歌い終わった少女たちも満足そうに微笑んでいる。
キニアンもまた。
伴奏者が起立し、指揮者が客席に向かって礼をする。
講評をする審査員たちも手を叩いており、その表情は評価を下す審判というよりも、純粋に演奏を楽しむ音楽家の顔だった。
全十五組の演奏が終わり、審査員による評価と講評の準備のため、休憩となった。
ホール内や外の待合部分で、出場者と観覧者が今日の感想などを話している。
そこでひとり、ものすごい勢いで質問攻めにあっている青年がいた。
少女たちに比べると頭一個分以上は背の高い青年だ。
曲のこと、伴奏のこと、同じ地区大会に出場していた学校の生徒からはなぜ伴奏者が変わったのか。
少女たちの勢いに気圧されながらも律儀にひとつひとつの質問に答えていた青年だったが、「メアドと携番教えて下さい!」には目を丸くした。
「へ? え……メアド……?」
何でそんな話になったんだ、という顔をしている青年の目の前で、少女たちは「ずるーい!」「あ、じゃああたしも!」「わたしにも!!」などと口々に言ってはキニアンを押しつぶさん勢いだ。
その勢いと大人数の声のボリュームに、発達しすぎた耳の機能を最小限までちいさくする。
それでも頭痛を覚えそうになっているキニアンの耳に、名前を呼ぶ涼やかな声が届いた。
どんなに耳のボリュームを下げていたって、この声だけは聞き逃すことはない。
「──カノン」
良かった、助けてくれ、という安堵の表情を浮かべている青年に、銀髪に菫色の瞳の天使のような美少年はにっこりと微笑んだ。
「モテモテじゃん」
「いや、あの……」
微笑んでいるというのに、目が笑っていない。
怖い……ひたすら怖い。
正直迷惑しています、と言いたいのだけれど、少女たちのことを考えるととても口には出来ない心やさしい青年。
それが更にカノンを苛立たせることになるのだけれど、キニアンにはどうしようもない。
少女たちは、突然現れた美少年に驚いて目を丸くし、まじまじとその美しい顔を眺めている。
それでも、カノンからキニアンまでの距離は縮まらない。
内心舌打ちしたカノンは、最終手段だ、とばかりにある人物を後ろ手に手招きした。
呼ばれた人物を見て、少女たちは息を止めた。
漆黒の髪に、夜空のような藍色の瞳、白い肌に通った鼻梁。
非の打ち所のない美貌と、鍛えられた長身。
そして、漂うというよりは無駄に垂れ流されている大人の色気。
ぽーっと少女たちが見惚れている男は、その妍麗な美貌に笑みを浮かべた。
それだけのことで腰が砕けそうになっている少女たちに構わず、その人物は口を開いた。
「アル、時間があるなら、少しいいか?」
紡がれる低音の美声に、少女たちの頭からキニアンのことなど吹っ飛んだ。
当の青年はこれ幸いとばかりにヴァンツァーとカノンの元へ向かった。
そうして、夢見心地な様子でヴァンツァーを見ている少女たちを残し、その場を去ったのだった。
「……はぁ~、助かった~」
ほっとして胸を撫で下ろすキニアンに、シェラがくすくすと笑う。
「アー君、かっこいいもんね。今日スーツだし」
「ピアノ弾くと三割増だし」
「お兄ちゃんがやきもち妬くのも仕方ないね」
「──妬いてません!」
ぷくっと頬を膨らませるカノンは、頭を撫でられて隣を見上げた。
「可愛い」
「……だから、知ってます」
ヴァンツァーの言葉に憮然とした表情を浮かべるカノン。
そんな様子にも、ファロット一家+α(- キニアン)は、にこにこと微笑むばかり。
「アー君、お疲れ様」
「ほんとに、全員で来たんですね……」
シェラの労いの言葉に苦笑するキニアン。
「そりゃあ。うちの未来のお婿さんが出るんだもん」
ちょっと嫌そうな顔をするカノンを尻目にくすくすと笑ったシェラは、「私には音楽のことはよく分からないけど」と前置きをした。
「カイン校の歌が、一番やさしかった」
「え?」
「耳にも、心にも。一番、やさしかった」
何となくシェラの言わんとしていることが分かったキニアンは、その端正な容貌に笑みを浮かべた。
「今日は、俺が知っている中で一番綺麗だったんです」
「うん」
「午前中の練習のときは少し硬かったんですけど、女子ってやっぱり肝が据わってるなぁ、と」
「うん。アー君が楽しそうだったから、よく分かったよ」
シェラの言葉に、晴れやかな笑みを浮かべる青年。
「大陸大会、行けるといいね」
ライアンの言葉に、頷いたものの少し首を傾げたキニアンだ。
「今回一回きりかと思うと、少し寂しいけどな……」
自分はあくまで代理であって、正規の部員ではない。
本来の伴奏者の体調が戻れば、役目は終わりだ。
「また鬼指導すればいいじゃない」
「え……?」
「もし次の大会に行けたらの話だけど。間一ヶ月くらいあるんでしょう? その間に、また鬼指導すれば?」
ソナタの言葉に、ぱちぱちと瞬きをする。
「鬼って……俺、そんなに厳しくしたつもりないけど」
まるで自覚のないキニアンに、ソナタは呆れた表情を向けた。
けれど、本当に鬼のような父親の指導を受けているキニアンにとっては、今回の自分は基本的なことを伝えたに過ぎず、特別なことは何もしていない。
音を外さずに当てる方法と、相手の声を聴いて美しいハーモニーを生み出す方法。
そんなことしか言っていないのだ。
不思議そうな顔をしているキニアンに、ソナタはとても真面目な顔で言った。
「さっきの女の子たちにも同じように指導してあげたら? 三十分で波が引くと思うわ」
けだし、至言である。
審査の結果、カイン校は二位であった。
一位はソナタが『最後のスーパーブロー』と称した学校であったが、自分たちの学校名がアナウンスされたとき、カイン校の生徒たちの喜びと歓声はすさまじいものがあった。
涙を流している生徒もいる。
キニアンは、一階席の自分たちの席で、どこかほっとした表情を浮かべている。
──続きまして、講評です。
アナウンスの声で、ステージに用意された審査員席に袖から審査員たちがやってくる。
──今回は、特別審査員といたしまして……
最後にステージに現れた人物に、キニアンは瞠目した。
「──……マリア……?」
そこには、彼の母親が立っていた。
ということは、母は今日ずっとこの会場にいて、カイン校の歌も、自分のピアノも客席で聴いていたことになる。
そんな話はまったく聞いていなかったので、心臓が妙な煽り方をしている。
冷や汗まで流れている。
──やばい……。
やばい、まずい、ちょっと用事を思い出したから今すぐ帰ろうそうしよう。
そんなことを考えているキニアンだったが、会場は大物音楽家の登場にどよめいている。
心底逃げたかったが、キニアンは並んだ席の真ん中に座っており、抜け出すには左右どちらか、人の前を通って行かなければならない。
大興奮の会場でそんなことが出来るわけもなく、非常に居心地の悪い思いを味わっていた。
──どうしよう、どうしよう、どうしよう……。
そんなことばかり考えているキニアンの前で、七名いる審査員たちは次々に講評を進めていった。
各校良いところと、手直しすべきところを挙げ、すべての出場校に労いの言葉と次への期待を述べていく。
最後に、マリアの番となった。
「出場校の皆さん、今日は素晴らしい演奏をありがとうございました」
可愛らしいまでの容姿とは正反対にその性格は容赦のないマリアだったので、その言葉に嘘偽りは一切ない。
浮かべられた笑顔も、彼女が心から満足していることを表していた。
「わたしは専ら演奏をするばかりで教鞭をとったことがないので、他の先生方のように上手く言葉を纏められないかも知れませんが、今日の感想を述べさせていただきます」
思わずゴクリ、と喉を鳴らしたキニアンであった。
周囲の少年少女が皆期待に瞳を輝かせているのとは対照的であった。
マリアは上位三校までを後に残し、それ以外は演奏順に講評を行った。
「特に一位と二位に関しては、審査員の評価は真っ二つだったと言っていいくらい、差がありませんでした。演奏スタイルも、表現もまったく違う二校なので、評価をつけること自体がナンセンスですが……」
苦笑したマリアは、ひとつだけはっきりと言えることがある、と静まり返る会場に向けて言葉を発した。
「一位のグラード学院は、ほぼ完成された歌声でした。おそらく、プロの声楽家を目指している学生さんもいるのでしょう。高校生とは思えないほど、完成度の高い演奏でした」
第一線で活躍するプロの音楽家からの高い評価に、学院の生徒たちは誇らしげな表情を浮かべた。
カイン校の生徒も、他の学校の生徒も、納得の表情である。
「二位のカイン校ですが……」
どきっ、と心臓が跳ねるのを、キニアンは止められなかった。
意外とまともなことを言っているな、と肉親に対してとはいえ失礼なことを考えていた青年だったが、自分が携わった演奏に対する評価を受けるのは何だか居たたまれない。
ゴクリ、と息を呑むキニアンとカイン校合唱部の面々。
マリアは、にっこりと微笑んだ。
「わたしは、皆さんの歌が一番好きでした」
これには目を瞠ったキニアンである。
それは少女たちも同じだったのだろう。
一瞬して、言われた言葉を理解したのだろう、ちいさな悲鳴のような歓声が上がる。
「今回のこの州大会だけでなく、先のことを考えると、おそらく現時点から一番伸びるのがカイン校の演奏だと思います。はっきりと言えばひとりひとりが高い技術を持っているわけではないでしょう。それでも、たくさん練習したのだろうことが分かる演奏でした。人数の関係でしょうか、オクターブ上のアルトというのも、面白い発想だな、と思いました」
何より、と天上の音楽を奏でる芸術家は言葉を続けた。
「歌うことが好きで好きで、楽しくてたまらない。そんな気持ちが強く伝わってきました」
──とても楽しいひと時を、ありがとう。
そんな風に微笑まれ、また思わず涙ぐむ生徒もいた。
キニアンも、口端を持ち上げた。
思えば、音楽は楽しむものなのだ、と教えてくれたのは、この母だった。
いつだってそう。
どんな超絶技巧曲でも、子守唄のように静かな曲でも、演奏することそのものに喜びを見出し、楽器を道具ではなく友人のように扱う。
──嫌々やるくらいならやめてしまいなさい。
幼い頃たった一度だけ、巧く演奏出来ないことに苛立って、ヴァイオリンの弓を床に投げつけたことがあった。
そんな自分に、マリアはひと言そう言って弓を拾った。
そのヴァイオリンと弓は、マリアが普段使っている高価なものとは比べ物にならない無銘のものだったけれど、彼女が音楽と出会うきっかけになった大切なものだったのだ、と後から知った。
殴られるより胸が痛んで大泣きして謝った記憶がある。
過去の思い出に苦笑したキニアンの前で、マリアは講評を終えた。
会場からお礼代わりの拍手が起こり、彼もまたそれに倣った。
「ありがとう」
会場を出るとき、合唱部の部長がそう言ってきた。
その口調がどこかつっけんどんなのは、おそらく彼女の癖なのだろう。
「あなたのおかげだわ」
「良かったな。次の大会に進めて」
「それもあるけど」
首を傾げたキニアンに、少女は軽く目を伏せて言った。
「突然のことに焦って、不安で……楽しいって気持ち、忘れそうになってた」
だから、ありがとう。
そう言って微笑む少女に、キニアンも笑みを浮かべた。
「役に立ったなら、良かった」
「でも……」
「うん?」
「審査員に、あなたのお母様が……」
「あぁ。俺も知らなかった」
知っていたら何が何でもこの話は断っていた、というのは内心に留めた。
「……じゃあ、別にあなたがいたから、ってわけじゃないのね……?」
どこか不安そうな顔をする少女に、キニアンは少し表情を引き締めた。
「あの人は、音楽に関しては絶対に身内を贔屓したりしない」
「あ……ごめんなさい。失礼なことを言ったわよね……」
「いや、そういうことじゃなくて……」
何て言うのかな、と頬を掻く青年。
「音楽が絡むと、周りが見えなくなる、っていうか……」
呟きに、少女は一瞬目を瞠り、くすくすと笑った。
「似たもの親子なのね」
「……残念なことに、よく言われます」
本当に残念そうにしているキニアンに、また笑みを誘われる。
「アル~! 車乗ってけばー?!」
離れたところから、自分を呼ぶ少女の声が聞こえる。
振り返ると、眼福を通り越して目の毒でしかない一家が揃ってこちらを見ている。
「あ、じゃあ俺行くから」
「えぇ。また学校で」
「うん──あ、そうだ」
駆け出そうとして振り返った青年に、少女は首を傾げた。
「あんた、さっきみたいに笑ってる方がいいぞ?」
それだけ、と言って手を振って行ってしまった。
残された少女は、しばらく言われたことを頭の中で反芻して、ようやくそれを理解した途端に顔を真っ赤にしたのだった。
END.