─桜の精だと、思った。

Blossom

今年は例年よりも桜の開花が遅く、ちょうど入学式の頃満開の花が新入生を迎えることとなった。
カイン校は少人数制の授業も売りなら、学校の設備や景観に関しても自慢にしている。
特に、樹齢三百年を数える桜の木は、この時期になると校外から見物に来る人々もいるくらい、見事なものだった。
アリス・キニアンは、入寮を済ませ、自室の窓からその天を覆わんばかりの大樹をぼんやりと眺めていた。
入学式まではまだ日がある。
寮生活をする学生たちは、各寮独自の規則に慣れるために他の学生よりもひと足早く高校生活を始める。
とはいえ、授業はまだないので、主に寮生どうしで親睦を深めることがその最重要事項だった。
キニアンの両親は中央座標では割と高名な音楽家で、家を空けることが多かった。
だから、寮でひとり暮らすことになったからといって、特に不満も不安もなかった。
逆に、今までの家政婦との生活と異なり、同じ寮に暮らす人間が増えるだけ、賑やかになるだろう。
どちらかと言えばあまり人付き合いが得意な方ではないから、人が周りにいることに慣れるのは大変かも知れない。

「……持って来て、良かったな」

苦笑して、ベッドサイドに置いてある大きなケースに目を遣る。
手に馴染んだ、彼の相棒のようなものだ。
昔は大嫌いだったのだが、最近では考え事をしたいときや落ち着きたいとき、腹の立ったときなど、決まってそれを手に取っていた。
父親からそれを与えられたときは、「毎日、触るだけでもいいから、必ずケースから出せ」と言われていたが、今では一日に一度は触れないと落ち着かないくらいだ。
桜を見ていたら頭の中に音が溢れてきてしまい、隣室の迷惑にならない程度に弾こうか、と思いもう一度桜に目を戻す。
──息を、呑んだ。
強い風が吹き、桜の花弁を宙に舞い上げていく。
その花霞の中に、真っ白い桜の精霊がいた。
こちらに背中を向けているため顔の造作や瞳の色は分からなかったが、銀色の髪に白い服で大樹を見上げる様は、さながら天女だった。

「ぁ……いや、男、か……?」

細身だが、その身体は少女のものではないし、髪も短い。
すらりと背の高い少年だが、自分がかなりの長身のため、キニアンは「バランスのいい身体だなぁ」と何となく羨ましく思った。
長身であることにコンプレックスを感じたことはない。
むしろ、中学時代もそうだったが、バスケ部に入部することを決めている彼にとって、百九十近い身長は大きな武器だった。
それでも、周囲からすればかなり目立つ存在であることは言うまでもない。
また、本人の自覚は置いておくとして、キニアンはかなり端正な容貌をしており、中学時代はファンの女の子たちからよく追いかけられた。
だから、あの少年くらいの身長であればそうそう目立つこともないだろうに、と思ったのだ。
じっと見ていると、少年が振り返った。
思わずどきり、としたキニアンだった。
見ていることに気づかれたのか、と思ったが、大樹から寮まではニ十メートル近くある。
それだけの距離があって、視線に気づきはしないだろう──少年が本当に精霊だったら話は別だが。
今まで後ろ姿だけだったものが、横顔を目にすることとなり、また心臓が騒いだ。
やはり、少女ではない。
間違いなく、それは性別としては男の顔だ。
けれど、こんなに美しい生き物を、彼は見たことがなかった。
今も瞳の色までは分からないが、色白で、ふわふわとした銀髪が風に揺れて頬をくすぐっている。
その、同じ人間とは思えない幽玄的なまでの美貌に、ふわり、と笑みが浮かべられた。
何が起こったのか、と一瞬思ったが、すぐにその理由が分かった。
少年の視線の先から、ひとりの少女が駆け寄ってきた。
こちらも抜群の美少女だ。
少年とは正反対の、黒髪に黒いワンピース姿の少女。
少女に向かって微笑みかけた少年は、ごく自然な動作で手を差し出した。
黒髪の少女は躊躇うことなくその手を取り、ふたりは手を繋いだまま花霞の中を歩いて行ってしまった。

「……」

今のは夢か幻か、と思っていたキニアンだったが、何だか無性に相棒と語りたくなった。
精霊か人間か、それも気になるけれど、もしかしたら同じ年頃の少年たちだったから、ここに入学する学生かも知れない。
そんなことを思いながら、彼はケースからチェロを取り出した。
チューニングを済ませ、楽譜もなく、思いつくままに弓を滑らせる。
ゆったりとした旋律。 小川のせせらぎのような、清涼な音。
目を閉じ、瞼の奥に思い描くのは、薄紅色の大樹と、そこに佇む銀色の少年。
美しい旋律に乗せて、彼は思いを馳せた。
──あの少年に、また会えるだろうか、と。

それから一週間後、彼の願いは叶うところとなった。
入学式の日、新入生代表の挨拶をしたのはあの少年と少女だった。
双子だというのに似たところのないふたりだったが、男女の双子だからそうなのかも知れない。
そんなことよりも、キニアンは何だかわくわくしている自分に気づいておかしくなった。
妹とは同じクラスで、少年は昼休みや放課後には彼女を迎えに来るから顔を合わせることもあった。
けれど、口をきいたことはほとんどなかった。
お互い、名前くらいは知っているが、面識はないと言ってもいいくらいだ。
別にそこに不満を覚えることもなかったが、ひと月、ふた月と高校生活が進むうちに、キニアンは気づいたことがあった。
少年──カノンは、妹とそれ以外の人間の前だと表情も態度も違う。
まったく違う人間だ、と思うくらい、顔つきが変わるのだ。
別に、仏頂面になるわけではない。
むしろ人当たりは良い方だろう。
それでも、妹の前で微笑む彼と、同級生たちに笑顔を向ける彼は別人なのだ。
クラスメイトや同級生相手にも綺麗に微笑んでいるというのに、見えない壁があるように感じられた。
妹以外の人間には、にっこり笑った次の瞬間には真顔に戻っている。

──……あ、ほら……。

また、笑っている『フリ』をしている。
なぜそう思ったのかは分からなかったが、たぶん間違いない。
いつも妹と一緒にいて、自他共に認めるシスコンだという話だが、それだけなのかな? と少し気になった。
けれど、特に話しかける理由も、話題も見つからなかったから、半年近く経っても『顔見知り』程度にもならなかった。
だから、自分でも不思議だったのだ。

「──あいつが……兄貴の方のファロットが『美女』を演るなら、『野獣』を演ってもいい」

チェロとピアノは弾くが、芝居は演ったことがない。
そんな自分が、クラスメイトに頼まれたからといって、なぜあんなことを言い出したのか。
よく分からなかったけれど、部活の最中に呼び出されたときに気づいた。

「どういうつもりなのかな」

そう言って見上げてくる菫の瞳は、いつもの彼とは違って作った笑みを浮かべてはいなかった。
怒っているわけでもないのだろうが、少なくとも『王子』だの『天使』だの言われている彼の表情ではない。

「どうして、ぼくを相手役になんて指名したのかな」

ほんの少し、眉間に皺が寄った。
あぁ、こういう表情も浮かべるんだな、と思った。
自分は女でもないし、背も低くない、と見上げてくる様子が、何だか少しおかしかった。
だから、ごく自然に笑みが零れたわけだが、それが気に入らなかったらしい。
はっきりと眉が顰められて、表情には出さなかったがキニアンは自分が『楽しい』と自覚していることに気づいた。

──何となく、分かった気がする。

わざと、挑発するようなことを言ったらどうなるだろう。
そう思って、「さっさと断ればいい」と言ってみた。
そうしたら、案の定機嫌を損ねたらしく、『天使』には程遠い表情になった。
挑むような菫の視線がどこか心地良くて、再度相手役に選んだ理由を訊かれたときも、 「何となく」 とだけ答えた。

「──その台詞、忘れないように」

そう言って傲然と顎を逸らす様子は、『天使』というよりも『女王様』で。

──……こっちの方が、『天使』よりずっと綺麗だと思うんだけどなぁ。

と、キニアンは思った。
そしてやはり、ドレスに身を包んだカノンは傲慢なまでに美しくて、自然と彼の前に跪いている自分に気づいて苦笑した。
きっと、カノンは分かっていないのだろう。
それならば、それでもいいか、と思った。

──しばらくは、無自覚な女王様を独り占めするとしよう。

そう、こっそり口許に笑みを浮かべたのだった。




END.

ページトップボタン