──その日ふたりはいつものように、口論をしていた。
「乗る!」
「ダメだ」
「乗るったら乗る!」
「危ないからダメだって」
ほら、とカノンをエア・カーの助手席に──半ば押し込むようにして──座らせるキニアン。
ぶっすー、っと頬を膨らませているカノンに、彼は嘆息した。
「ぼく、運動神経いいんだよ」
いいなんてものではない。
むしろ『人間か?!』というレヴェルの身体能力だ。
「知ってる」
キニアンだとてスポーツマンだ。
それでも、本気を出したカノンには運動で勝てないことを知っている。
「別に危なくないし」
「……誰も、お前の運動神経の心配なんてしてない」
エア・カーを運転しながら、カノンと一緒にいるとため息しか吐いていないキニアンは呟いた。
じゃあ何だ、とカノンが訊ねれば、ちらり、と視線が向けられ、すぐに前方に戻された。
「乗せるのは俺なんだ。俺が運転を誤らなくても、相手の過失で事故に遭う可能性だってある。バイクは車と違って生身で走ってるようなもんなんだよ」
だからダメだ、と頑なに言い続けるキニアンに、カノンは言ってやった。
「じゃあぼくもバイクの免許取る」
「──はぁ?!」
「それで、ツーリング。後ろには乗らない。それなら」
「ダメだって!」
「──何なの?! いいじゃん、ぼくがバイク運転するんだからさ! アリスのくせに、何でそんなに我が儘なわけ?!」
むかつく、と食って掛かってくる女王様に、キニアンは『何で分からないんだ』という顔になった。
「原付ならまだしも、自動二輪の死亡率は自動車の五~六倍、重症の怪我を負う可能性は十一倍。だからダメだ」
「意味分かんない。だったらアリスもバイク禁止」
「何でだよ」
「はぁ? 当たり前でしょ? そんな話聞かされて、『はいそうですか、じゃあぼくだけ乗りません』なんてなるわけないでしょう?」
馬っ鹿じゃないの、とご立腹の女王様に、キニアンは少し考える顔つきになって訊ねてみた。
「……お前、まさか心配してるのか?」
いや、まさかそんな青天の霹靂、と驚愕しているキニアンに、カノンは提案した。
「一回。ぼくを一回バイクの後ろに乗せるのと、バイク禁止。どっちがいい?」
「…………」
「一回乗せてくれたら、ぼくからはもう『乗せて』って言わない。アリスもバイク乗り放題」
さぁ、どっち、と突きつけてくる女王様に、言うまでもなく、結局折れたのはキニアンだった。
脅迫に近い約束を取り交わしたのが土曜日。
翌日の日曜はキニアンが部活に出るため、バイクに乗るのは次の金曜まで待つこととなった。
すべての授業が終わり、カノンは意気揚々と妹たちのクラスを訪ねた。
「迎えに来てあげたよ」
にっこりと笑ってそんなことを言う女王様に、キニアンは今の今になっても気乗りしない表情でため息を吐いた。
「……やっぱり」
「──男に二言はないよね?」
「…………」
そこを突かれると痛い。
何せ、かっこつけたがりの高校生。
『男』とか、『プライド』とか『面子』といった単語を持ち出されると非常に弱い。
「……分かったよ」
そして、諦めたように項垂れるその姿こそが情けないのだと気づいていない辺りが、青い証拠である。
女王様に付き従う従僕を見送ったクラスメイトの女子たちは、こぞってささやきあったものだ。
「なんかさぁ、カノン君と付き合う前のキニアンって、もっとかっこよくなかった?」
「ね~。何か、ふたりで一緒にいると、カノン君の方が大きく見えるよね」
「あ、分かる!! 二十センチ近く身長差あるとは思えないよね!!」
「カノン君、犬の散歩してるみたいだもんねぇ」
「惚れた弱みってやつかなぁ?」
「そうだよねー。ものすごく、『キニアンの片想い』って感じだもんねー」
そんなことを言い合っているクラスメイトたちを横目に、ソナタはこっそり呟いた。
「──みんな、まだまだ青いわねぇ」
ガレージに停められているバイクを見て、カノンは菫の目を丸くした。
「──うっわぁ、かっこいい~」
漆黒の機体はかなり大型でありながら、意外と車体の高さは低い。
その、地を這うような美しいフォルムが、この車種の大きな魅力だ。
実に三百kg近い重厚感のある機体と比べると、普通の高校生では見劣りしてしまう。
しかし、さすがに細身とはいえ百九十センチの長身を誇るだけのことはある。
黒と銀を貴重とした機体に寄り添うキニアンは、カノンの目から見ても通常の三割増でかっこよく見える──ただし、今カノンが褒めたのは純粋にバイクのみだ。
「──だろう?」
けれど、愛車を褒められたキニアンは、本当に珍しいことながら、新緑色の瞳を輝かせてこの車種の解説を始めたのだ。
こんなに多弁な彼を、カノンは見たことがなかった。
『DRUG STAR 』と銘打たれたこのオートバイは排気量別に生産され、キニアンの愛車は実に千百ccを誇る。
「四百もあったんだけど、どうしてもこっちが良くて」
「自分で買ったの?」
「さすがに全額は出せなかったから……」
半分母親に出してもらったのだ、と苦笑する。
「父親に話したらバスケ始めたときみたいに猛反対されるの分かってたからな」
「お母さんは、心配してなかった?」
「してたよ。でも、最後は笑って『人生、楽しみなさい』で済ませてくれる人だから」
カノンはにっこりと笑って、「いいお母さんだね」と言った。
頷いたキニアンは、「ほら」と言ってヘルメットを手渡した。
フルフェイスタイプのそれを受け取ったカノンは、しげしげと眺めてから、キニアンに向かって差し出した。
キニアンは若干顔を顰めた。
「被らないと乗せないからな」
「被るけど、分からないからやって」
あぁ、そうか、とヘルメットを受け取り、銀色の頭にすぽん、と被せてやる。
顎の下でベルトを締め、シールドを上げてやる。
「……結構重いね。ふらふらする」
「我慢しろ。そのタイプが一番安全なんだ」
「──アリスは?」
「装着義務は、初心者だけだ」
「でも、いつもは被ってるんでしょう?」
「日によってかな」
それでも、車と違って身体が直に風に晒されるため、ゴーグルはつける。
カノンは「ふぅん」と呟き、手渡されたグローブも受け取った。
「これも?」
「そんなに速度出さないけど、それでもバイクで走ると直接風を受けるからかなり寒い。夏はともかく、他の季節は春でもつけておいた方がいい」
「アリスは?」
同じことを訊いてくるカノンに、キニアンは「ないんだよ」と返した。
「人乗せないから、用意してない」
「──ぼく、初めて?」
「初めてじゃないけど」
「……なぁんだ」
フルフェイスのヘルメット越しのくぐもった声に、キニアンはちいさく笑った。
「──女じゃないぞ」
「は?」
「何だ。妬いたんじゃないのか?」
「──はぁ?! 妬く? ぼくが? 何で!」
冗談じゃない、と言いたげな口調と瞳に、キニアンは肩をすくめた。
人を乗せて走るのは初めてではないが、この愛車に人を乗せるのは初めてだ。
だが、それは言わなかった。
言っても、どうせ「ふぅん」で済ませられてしまうと思ったのだ──KYだから。
バイクのシートに跨り、エンジンをかける。
ゴーグルを下ろしてリアシートを叩き、ここに座れ、と示す。
「早くグローブつけろ」
「ぼく、いいや。やっぱりアリスがつけて」
反射的にグローブを受け取ってしまったキニアン。
「馬鹿言うな。つけないなら」
乗せないからな、と言おうとしたときには既に遅く、カノンはひょい、とリアシートに腰を下ろしていた。
「あぁ、こっちのが高いから、アリスと同じくらいの視界だね」
「お前なぁ……」
無邪気な声で話し掛けてくる女王様に、グローブを再度手渡そうとしたが、カノンは首を振った。
「ぼく、こっちでいい」
そう言って、カノンはキニアンのライダージャケットのポケットに手を突っ込んだ。
「────っ……」
背中に抱きつかれ、キニアンは一瞬言葉を失った。
振り返り様に見たカノンは、目許しか見えないもののにっこり笑っているのが分かった。
「こっちもあったかいから。グローブは、アリスがつけてね」
「…………」
天使の微笑を浮かべる女王様を前に、キニアンの心臓は破裂しそうになっていた。
いや、別に抱きつかれるのは初めてではないし、キスだってするが、これはいくらなんでも唐突だろう、と思うのだ。
バイクを走らせるときになってから「掴まってろ」と言うつもりだったし、どうせカノンのことだからジャケットを握るくらいのことしかしないだろうと思ったのだ。
──何だ? 誰だこいつ? あれか? これがデレ期ってやつか???
固まってしまったキニアンに、カノンは不満そうな声で「はやくぅー」と催促した。
ポケットに手を突っ込んだまま腹をポンポン叩かれ、はっと我に返る。
「早くしないと、陽が沈むまでに海岸行けないよー」
「…………」
カノンに他意はないのだ。
女王様は、いつも通りの女王様。
いつだって、ドキドキしたり慌てたりするのは自分だけなのだ。
出発する前からぐったりしてしまったキニアンだったが、確かに週末とはいえ、あまり遅くならないうちにカノンを家に送って行きたい。
「……ちゃんと、掴まってろ」
キメ台詞にするつもりだったそれを、ため息とともに告げたキニアンなのであった。
さすがに、ほんのちょっと緊張していた。
真剣を使って訓練をすることもあるから、怖いという意味ではなくて──興奮していた、と言った方が正しいのかも知れない。
父ほど頼り甲斐があるわけではないが、自分よりは広い背中に身体を預けていれば、安心出来た。
服を通して感じるぬくもりが、嬉しかった。
エア・カーに乗っていたのでは、絶対に感じられない温度と距離。
こんな風に抱きついていたって、誰もおかしいと思わない。
いくら女子顔負けの美貌を誇っていても、カノンは男の子だ。
本人だって、そこを気にしていないわけではない。
「──か?」
何か話しかけられたようだが、風が強くて上手く聴こえない。
「え! 何!!」
フルフェイスのヘルメット越しでは自分で喋っている声を聴き取るのも大変なのだ。
「大丈夫か!!」
キニアンも負けずに大きな声で返してきた。
カノンは思わず微笑んだ。
「うん、大丈夫! 風、気持ちいいね!!」
そう返せば、ほんの少し笑ったことが、背中越しに伝わってきた。
ほら、やっぱりいいな。
この距離、すごくいい。
キニアンの身体に回している腕に少し力を込めれば、──ほんの一瞬だけ、片手を離したキニアンが、ポケットの中にある手を服の上から叩いた。
ヘルメットの中、カノンは頬を染めて嬉しそうに微笑んだ。
制限速度よりも遅い速度で走っていたが、それでも車のときとは感じるスピードがまったく違う。
キニアンの背中があるからこそ、カノンはドライブを楽しめた。
もしも、キニアンが感じているのと同じスピードを感じることになったら、運動神経抜群の彼といえども多少は身体に力が入っただろう。
一時間半ほどドライブを楽しみ、ふたりは人のいない海岸へと訪れていた。
夏になれば海水浴客で賑わうが、今の時期はサーフィンをする人の影もまばらだ。
陽が長くなったので夕暮れ前には海に着くことが出来、バイクを降りたカノンは、ヘルメットを取ってもらって大きく息を吸い込んだ。
「──ぷはぁ!」
身体を伸ばすカノンに、キニアンは苦笑して訊ねた。
「疲れたか?」
「ううん、全然!! すっごい風が気持ち良かった!!」
「そうか?」
「うん。ちょっとヘルメットが苦しかっただけで、すっごいすっごい楽しかった!!」
エア・カーに比べればバイクの方がずっと速度は遅いはずなのだが、体感スピードはバイクの方がずっとある。
リアに乗っているから前方は見えないし、強い風が当たれば身体が持って行かれそうになる。
カーブに合わせて身体を傾けることも必要で、『一緒に乗っている』という感覚もバイクの方がずっと強い。
「ぼく、一度でいいから、アリスがどんな景色見てるのか見てみたかったの」
「…………」
「アリスがバイク好きなの、ちょっと分かった気がする」
作り笑いではない。
この女王様は、今、心からの満面の笑みを浮かべている。
まだ興奮が冷めないのか、頬は薔薇色に染まっているし、菫色の瞳はいつも以上にきらきらと輝いている。
「行こ?」
そう言って手を差し出すカノンの手を反射的に握り返して、駐車スペースから砂浜へと降りていった。
夕暮れまではまだ多少時間がある。
金色に輝く水面と、風が運んでくる潮の香り、人の気配のない寄せる波音だけが支配する場所。
「ん~、気持ちいい~」
ね、と笑顔を向けて見上げてくる女王様に、キニアンも微笑を返した。
「……バイク乗ってたからかな。何か、アリス機嫌いいね」
「そうか?」
「うん。何か……笑った顔が、やさしい」
言われて首を捻るキニアン。
普段はそんなに仏頂面なのかと思い、反省しかけたのだが、はたと気づいた。
「──あぁ、それ違うぞ」
「え?」
「バイク乗ってたからじゃなくて、お前が笑ってるからだ」
「……え……」
「お前が嬉しそうに笑ってるから、俺もつられたんだろうな」
「…………」
目を真ん丸にしているカノンに、キニアンは「何だ?」と首を傾げた。
「……天然って、こわぁい」
「はぁ?」
「かっこつけて言ってるんじゃないんだもんなぁ……」
「何言ってんだ、お前」
「ちょっとだけ、父さんがシェラで苦労してるの分かった気がするよ」
「だから、何訳の分からないこと言ってるんだよ」
よく分かっていない彼氏に、カノンは言ってやった。
「アリスがぼくのこと大好きだって話」
みるみるうちにキニアンの顔が赤く染まっていったのは、太陽が水平線へと沈み出したせいというわけでもないだろう。
百九十ある男を可愛いと思ってしまうのだから、自分も相当キているな、とカノンは内心で嘆息した。
それでも、絶対無敵の女王様は、そんな内心は綺麗さっぱり隠してにっこりと微笑んだ。
「キスして」
「──はぁ?!」
「キス。して」
「ば、馬鹿言うな! こんなところで出来るわけないだろう?!」
「いいじゃん。誰もいないし」
「そういう問題じゃなくて」
「沈む夕日を背に、都会の喧騒を離れ波音だけを聴いて、ちょー可愛くてちょー美人でちょーキュートな恋人と一緒にいるのに、ここでキスしないなんて男が廃るよ?」
「…………」
ぐっ、と詰まったキニアンである。
何だかんだ言ったって、彼もこういったシチュエーションは頭の中でシミュレートしたクチなのだ。
それでも、せがまれてキスをするというのが何だかイタダケナイ。
黙っていると、女王様はもうひとつ提案してきた。
「自分からキスするのと、ぼくに砂浜へ押し倒されて砂だらけの状態でキスされるのと、どっちがいい?」
どっちにしてもするんですか……と思ったキニアンである。
当然だ。
女王様の言葉は絶対なのだから。
ほら、と夕日に銀髪を赤く染めて目を瞑るカノンは、それはもう、文句ナシに可愛いわけで。
こんな脅迫めいたおねだりさえなければ、『イイ雰囲気』を作って自分から、と考えないでもなかったわけだが、どうしてこの女王様はいつも自分の先を行くのか。
しばらく迷っていたキニアンだったが、やがて諦めたように嘆息し、素早くカノンの頬に唇を落とした。
「──……アァァリィィィスゥゥゥゥゥ……」
そこじゃないだろう、と目で語るカノンに、キニアンは「勘弁してくれ」と首を振った。
カノンは深くため息を吐き、己の頭の中の『調教リスト』に、『乞われたら喜んでキスをする』という項目も付け加えた。
まだまだ、前途多難の『彼氏改造計画』である。
父によく似た雰囲気を持っているキニアンなのだから、ああいう風に立派な下僕に仕立て上げることが可能なはずなのだ。
ただ、今はちょっと思春期特有の無駄なプライドが邪魔をしているだけなのである。
──ぶち壊してやる。
と、物騒な決意を固めたカノンであった。
「じゃあ、お姫様抱っこ」
「え……」
「お姫様抱っこで、アリス海の中入っていって」
「えっ!」
「最低、膝まで水に浸かってね?」
「──えぇっ?!」
「だって、せっかく綺麗な海なのに、ここからじゃよく見えないんだもん」
「……夏にでも来ればいいだろうが」
「混んでるからヤだ」
「仕方ないだろう?」
カノンは頬を膨らませた。
「……分かった。上半身裸の海水パンツ一丁で波打ち際で水遊びしてるぼくが男どもの悪しき欲望の的になっちゃえばいいって思ってるんでしょ」
「──はぁ?! 何だよ、それ」
「盗撮とかバンバンされて、闇で売り払われて、あーんなことや、こーんなことに使われちゃうんだ」
「…………」
「ぼくの知らないところで、ぼくの身体が穢されていっても、アリス平気なんだ!」
うるうると涙目になって震えているカノンを見てキニアンはさっさと靴や靴下を脱ぐと、身長の割りに軽いカノンの身体をひょい、と抱き上げた。
若干驚いて目を瞠ったカノンだったが、見下ろした緑の瞳が真剣そのものでそちらの方がびっくりした。
「ちゃんと掴まってろよ」
「……うん」
こくり、と頷くと、カノンはキニアンの首にきゅっと抱きついた。
静かに打ち寄せる波に、足首まで浸かる。
その冷たさに、カノンを抱き上げる腕に力を込めた。
「……アリス、怒ってる……?」
「怒ってないよ」
「ほんと……?」
「ほんと」
「…………」
じっと恋人の顔を見つめたカノンは、耳元で呟いた。
「……嫌いになっちゃ、やだよ?」
唐突なその台詞に、目を瞠るキニアン。
「アリスの一番は、ぼくじゃなきゃダメなんだからね……?」
何を今更、と思わないでもないキニアンだったが、もう半ば以上水平線に沈んだ夕日を真っ直ぐに見つめて答えた。
「──Yes, Her majesty.」
言えば、カノンは顔を上げて微笑んだ。
そして、ちゅっ、とキニアンの唇に己のそれを重ねたのだ。
危うくバランスを崩しかけたキニアンだったが、寸でのところで何とか堪える。
「──あっぶないな!」
「だって、したかったんだもん」
「陸地ならともかく、こんなところでするなよ!」
「さっきアリスしてくれなかったもん」
ぷくっと頬を膨らませる女王様に、キニアンは呆れた顔を向けた。
「お前も相当俺のこと好きだよな」
「うん」
「──…………」
「何そのびっくりした顔。ぼくが好きでもない男と付き合ったり、バイクのリアに乗せてくれ、とか言うと思ってたわけ?」
ちょー傷つく、とご立腹の女王様に、「悪い」という言葉が自然と口をついて出た。
抱き上げている身体から伝わるぬくもりに、キニアンはちいさく身震いした。
身体が冷えてきたから、と告げ、女王様のお許しを得て砂浜に戻る。
濡れた足に砂が張り付いて気持ち悪い。
手足を洗う場所があったので、そこへ赴き足を洗って靴を履く。
そこからまた波打ち際まで戻って、しばらくは夕日が沈む様を見ていた。
「あ~あ、沈んじゃった」
夕日は、沈み出すと水平線から引っ張られているかのような速さで沈んでいく。
空は、瞬く間に藍色に染まった。
「でも、綺麗だった。──ありがとう」
素直に礼を言って笑顔を向けてくる女王様に、キスをした──今度は、ちゃんと唇に。
何で今更、という顔をしてくる女王様だったが、なるほど、と気づいたらしい。
「暗くなってからするなんて、アリスや~らし~」
「…………煩いな」
ぶっきらぼうな口調でそう返すと、キニアンは「帰るぞ」と踵を返した。
不満そうな声を上げるカノンだったが、キニアンには『シェラさんが心配しないうちにカノンを無事に送り届ける』という大事な使命があるのだ。
来たとき同様ヘルメットを被せてやろうとすると、カノンが俯き加減で服の裾を引いてきた。
「何だ」
「うん……あのね、ちょっとだけでいいから、遠回りして帰ろ……?」
「シェラさん、心配するぞ」
「だから、ちょっとだけ」
「でも」
「……だって、これ、最後なんだもん」
バイクに乗せてもらえるのは、これが最後。
約束したのだから、それは守らないといけない。
恋人の見ている景色と風を感じることが出来るのは、これが最後。
だったら、もう少しだけ。
裾を握る手に力を込めれば、頭上からため息が落ちてきた。
怒られるのかな、と唇を噛んだカノンだったが、頭を撫でられて顔を跳ね上げた。
「……また、乗せてやるよ」
「──え?!」
「あ、でも、基本は車だからな」
「……いいの?」
「楽しかったんだろう?」
「──うん、すごく!!」
もう暗くなっていたが、それでもカノンのきらきらとした笑顔ははっきりと見えて。
──この顔には弱いんだよなぁ……。
どんなカノンにだって弱いキニアンだったが、女王様の笑顔が無敵であることは間違いない。
「じゃあ、帰るぞ」
「うん。──でも、遠回りはするんだからね?」
もうちょっと一緒にいよう? という女王様の言葉の裏をどれだけ汲み取れているのかは分からないが、キニアンはヘルメットを被せたカノンを抱き上げてリアに乗せると、バイクに跨りエンジンをかけた。
「──Yes, Her majesty.」
背中にぬくもりを感じての小旅行に、彼自身も大きな満足と幸福を覚えていた。
END.
【おまけ】
帰宅すると、開口一番シェラに言われた。
「──あれ? 泊まって来なかったの?」
ぱちくり、と瞬きをするカノンとキニアンに、シェラは不思議そうに首を傾げた。
何とも言えない微妙な空気が三者の間に流れたが、キニアンはこほん、と咳払いをした。
「えっと……俺、ちゃんと送って帰ります、って言いましたよね?」
「うん。言ってたけど、バイクで海行って、沈む夕日見て、暗くなってキスとかしちゃったりしたら、イイ雰囲気になって帰りたくなくなったりしちゃうんじゃないかなぁ、って思ってたんだけど」
「「……」」
絶句する高校生相手に、シェラはにっこりと微笑んだ。
「なんだったら、うちにある好きな建物使ってくれても構わないから」
うん、そうだ、そうだ、それがいい、と手を叩いてはしゃいだシェラは、とりあえずキニアンにも夕飯を振舞うべく、キッチンへと向かったのであった。
今度こそ、END.