部活も終わり、校舎の明かりも、グラウンドのそれも消えた頃。
時々、まだ体育館に皓々と明かりが灯っていることがある。
ダム、ダム、と規則的な音と振動。
きゅっ、という小気味良いシューズと床が擦れる音。
近づけば、パサッ、という軽い音も聞こえてくる。
明るい館内を覗けば、背の高い少年がひとり。
自分を見ている人間がいることになど気づかない風で、何度も何度もバスケットボールのリングだけを相手に、シュートの練習をしている。
何十本そうやってボールをリングに通したのだろう。
上がった息を静めるように脚を止め、膝に手をついて肩で大きく息をしている。
やがて、壁にぶつかって転がっていったボールを追いかけようとして振り向き──新緑色の目を瞠る。
「──カノン……?」
まったく気づかなかった。
それは、彼自身が練習に集中していたこともあるが、問題の人物が気配を読ませないことが一番の原因だった。
耳の良さには自信があるから、ごくごくちいさな音でもすれば必ず気づいたはずなのに。
「……何してるんだ、こんな時間まで……?」
体育館に備え付けの時計を見れば、既に十九時三十分。
寮生以外はよほど遅くまで委員会等の仕事がない限り、帰宅している時間である。
「……練習?」
カノンはそれには答えず、足音ひとつさせずに体育館の中に入ってきた。
そして、キニアンが拾おうとしていたボールを手にし、チェストパスを送る。
反射的に受け取りはしたものの、キニアンの目はボールではなくカノンを見ている。
「大変だね。こんな遅くまで」
「いや……好きでやってることだし、それに地区予選も近いから」
「そっか。アリス、エースだもんね」
「……それより、お前こそ」
どうしてここに? と訊こうとして、何だかカノンの様子がおかしいことに、今更気づく。
そもそもこんな時間にここにいること自体がおかしいのだが、大部分の生徒たちには『笑顔がトレードマークの天使様』で通っているカノンに、表情がない。
「……カノン?」
何だか胸が落ち着かなくて、キニアンはバスケットボールを集めておく籠に向かって手にしたボールを投げた。
ほとんどそちらを見てもいなかったというのに、綺麗に放物線を描いたそれは籠の縁に当たることもなく、あるべきところに収まった。
長い脚で大股に近寄り、そっとカノンの顔を覗き込む。
身長差もあってよく見えないのだけれど、自分にとっては女王様なカノンが俯いているというのが腑に落ちない。
「カノン? どうした?」
自然と、声が甘くなる。
この女王様が、やたらと気位が高いくせにひどく寂しがりやだということを、キニアンはよく知っていた。
だから、ふわふわとした銀髪に向かって手を伸ばしたのである。
「……お願いが、あるんだけど」
手が髪に触れそうになる直前、そう聞こえてきた。
珍しいこともあるものだ、と緑の目が真ん丸になる。
カノンのお願いが珍しいのではない。
わざわざ、『お願いがある』と前置きをすることが珍しいのだ。
キニアンにだけ我が儘放題な女王様は、いつもなら『これしろ、あれしろ』と命令はするけれど、『お願い』と口にすることは滅多にない。
「……なんだ?」
だからこそ、キニアンも身構えた。
この女王様がわざわざ『お願い』だと言うのだから、相当とんでもないことなのだろう、と。
いや、もう、「別れる」とか言われたらどうしよう、いや、何だかそんな気がするすごく嫌な予感がする、あぁ、自分はフラれるに違いない、とぐるぐるそんなことを考えていた。
「──ぎゅっ、って……して」
「──へ?」
「……ぎゅっ、って……」
「……えっと……?」
「抱きしめて」
ぼそぼそと呟かれる言葉の意味がよく分からなくて、キニアンはぱちくりと瞬きをした。
しばらくぼけーっとしていたのだが、やがてカノンの顔が歪んだ。
「……してくれないなら、いい」
それだけ言って、踵を返そうとする。
「──ちょ、待てって!」
慌てて手を引くと、真剣な、けれどどこか泣きそうな菫の瞳が見上げてきた。
一瞬、息を呑んだ。
妙に心臓が煽っている。
シュート練習をしていたときに流したものとは違う汗が、背中を伝う。
「……カノン?」
「なに」
「…………」
静かすぎる口調に、背中が寒くなる。
何かが、違う。
「……何か、あったのか?」
「別に」
いつものぶっきらぼうな口調のようだが、いつもと違う。
どこまでも、平坦な声。
感情のかけらも見えない、嵐の前に凪いだ海のような声。
「……ちょっと、顔見たくなっただけ」
「…………」
「じゃあね」
振り切って行ってしまおうとするのを、何だかそのまま行かせてはいけないような気がして、掴んだ手を引いて抱き寄せた。
よくよく考えれば汗だくでシャワーも浴びてないし、思い切り引っ張ったから痛かったんじゃないか、とか色々考えることはあったのだけれど。
そのときは、何も考えず、──ただ、引き寄せていた。
どれくらい、そうしていただろうか。
時計を確認すると、せいぜい2、3分だったのだが、もっと長いことそうしていた気がする。
「……心臓の音、する」
ぽつり、と呟く声が、直接身体の内側から聴こえるようだった。
「まぁ、生きてるからな」
当たり前のことを答えてみて、馬鹿なことを言ったものだ、とため息が零れる。
けれど、カノンは軽く背中に回していた腕に力を込めた。
普段なら間違ってもしてもらえない可愛らしい仕草に、キニアンは煩く喚く心臓をどうしようか、と狼狽した。
これだけ密着しているのだから、気づかれたら、「ばっかじゃないの」とか言われるに決まっている。
「……落ち着く」
けれど、返ってきたのはこれまた可愛らしい台詞で、我が耳を疑ったものである。
もう、本当にどうしていいのか分からず、一生懸命回らない頭をフル回転させ、少ない語彙の中から何か良さそうな単語を引っ張り出す。
「……それは、何より」
けれど出てきたのは自分でも言った直後に「最悪だ……」と絶望するくらい馬鹿馬鹿しいものだった。
これは真剣にイロイロ本を読んで勉強した方がいいんじゃないだろうか、そうだ、確かライアンが「詩集を読むと女の子にモテる」と言っていた、じゃあ今度読んでみよう、とか思った。
「──ぷっ」
けれど、そんな必死なキニアンの思考すら笑うように、カノンが吹き出した。
「……え?」
「ちょーウケる」
「…………」
言葉のわりにはやはりあまり元気がないのだけれど、それでも、笑ってくれてほっとした。
女王様は女王様だけれど、カノンはやはり笑っている顔が可愛いと思うのだ。
「──あー、すっきりした! ありがと」
そう言って上げられた顔にはトレードマークの笑顔があって、それが作ったものでないと分かったからこそキニアンも僅かに表情を緩めた。
「……いや……別に、何もしてないけど……」
「落ち着いた」
「そっか」
「うん」
にっこり笑ったカノンは、そっと身体を離した。
名残惜しい気もしたキニアンだったが、そこは大人しくしておいた。
「じゃあ、ぼく帰るね」
「妹は?」
「ソナタ? とっくに帰ったよ?」
「え、じゃあお前ひとりか?」
「うん。もちろん」
「…………」
少し考える顔になったキニアンは、「ちょっと待ってろ」と言った。
しかし、「待ってろ」と言ったきり黙々と使ったものを片付けているキニアンに、カノンは「何で」と声をかけた。
「送ってく」
すべてのボールを籠に入れ終え、倉庫へと運んでいくキニアンに、カノンは目を真ん丸にした。
「い、いいよ!」
慌てて後を追うが、キニアンはボールを所定の場所にしまうと倉庫の扉を閉めた。
自動的に、倉庫には鍵がかかる。
この体育館もそうだが、扉が閉まると鍵がかかるのである。
「送ってく」
「いいったら! ひとりで帰れるよ、女の子じゃないんだし!」
その辺の女の子よりよほど可愛い顔をしている見た目は天使な女王様に、キニアンは常と変わらぬ無表情で返した。
「俺が送っていきたいんだよ。──たまには俺の我が儘にも付き合え」
「……」
言うだけ言うと、キニアンは体育館後方にある主電源盤へと向かった。
「消すぞ」と言うなりすべての明かりが消えた。
月の明るい晩だから、電気が消えても足元くらいは見える。
眼の良いカノンにとっては、何の支障もなく動き回れるほどに明るい晩だった。
「ついて来い」
「……何で今日はそんなに偉そうなわけ」
「女王様には負けますよ」
「……むかつく」
そう言いながらも、カノンは大人しくキニアンのあとをついていった。
「着替えてくるから、五分だけ待ってろ」
「…………」
むすっ、とした顔をしているカノンに向かって、キニアンはゆるり、と唇を持ち上げた。
「──ひとりで待ってられるか?」
言いながら銀色の頭を撫でると、「当たり前でしょう?!」と怒鳴られた。
「早く行っちゃえ!!」
噛み付くような勢いに、キニアンはちいさく笑ってもう一度ぽん、とカノンの頭を叩くと部室へと入って行った。
撫でられた頭を押さえているカノンは、むぅっ、と唇を尖らせていたけれど、その表情はどこか嬉しそうだった。
たった五分でどうやってシャワーまで浴びたのか聞かせて欲しいところだが、キニアンはTシャツにジーンズという出で立ちで部室から出てきた。
「お待たせ」
「ちょー待った」
「はいはい、ごめんなさい」
「……むかっ」
並んで駐車スペースのある寮の方へと向かう。
エア・カーへ向かうのかと思ったら、キニアンは寮の方へと向かった。
「──アリス?」
「あと一分くれ」
「……」
あとをついていくと、キニアンは寮の入り口にいる寮監に外出の旨を告げた。
「2-Aのアリス・キニアンですけど。友達送ってくるんで、ちょっと出て来ます」
色白でぽっちゃりとした丸顔の女性寮監は、紫のセルフレームの奥の瞳を丸くした。
「あら。今から出ると、食堂しまっちゃうわよ?」
「あぁ……いいです。適当に食べますから」
「そう?」
「はい」
聞いていたカノンは飛び上がりそうになった。
「やっぱりいいよ! ぼくひとりで帰る!」
「馬鹿言うな。お前の家、ここからどれだけあると思ってるんだ」
「バ、バスあるもん!」
「だったら俺が車で送った方が早いだろうが」
「……」
睨み合いを始めそうになったふたりに、寮監は朗らかな笑みを浮かべた。
「カノンちゃん」
「──え? ……ぼくの名前……」
「知ってるわよー。あなた有名だもの。『双子の天使のお兄ちゃん』でしょ?」
校内だけでなく、寮にまでその名前は行き届いているらしい。
「彼氏がかっこつけたがってるんだから、送らせてやればいいのよ」
「──なっ、俺は別に」
「高校生男子なんて、所詮は見栄と豆粒みたいなプライドが服着て歩いているようなもんなんだから」
「……まめっ……」
眉を顰めたキニアンが文句を言う前に、寮監はにっこりと笑った。
「消灯までには戻ってらっしゃいね」
「……はい」
ぺこり、と頭を下げてカノンを促そうとした長身の少年に、寮監は声を投げた。
「送り狼になっちゃダメよ~」
「──なっ、なりませんよ!!」
頭を金槌で殴られたような衝撃を受けたキニアンは、真っ赤な顔で反論した。
ったく、とぶつぶつ言うキニアンに促されたカノンは、一瞬寮監に視線を送った。
ひらひらと手を振ってくるその寮監の胸のネームプレートには、『T』の文字があった。
エア・カーの車中は、いつものようにふたりとも無言だ。
家まで距離があるとはいえ、時速数百キロ出るエア・カーであればものの数分で着く。
無事にファロット邸まで女王様を送り届けた端正な容貌の騎士は、真面目な性格なので出迎えてくれたシェラに頭を下げた。
「……すみません。こんなに遅くまで」
それを見て、シェラはくすくすと笑った。
「別にアー君が悪いわけじゃないでしょう? カノンが、アー君の練習終わるまで待ってる、って言ったんだし」
「え……?」
「──シェラ!!」
何で言うの?! と顔を真っ赤にしている愛息子に聖母の微笑を向けたシェラは、「それより」と言った。
「この時間じゃ、食堂終わってるでしょう」
「あ、はい。帰りに何か買って帰ろうかと」
「だーめ。うちで食べて行きなさい」
「──え?」
「買うと栄養偏るんだから。それに、申し訳ないけど私たちは食べ終わっちゃってるから、カノンの夕飯に付き合ってあげて」
「……あ、でも……」
「遠慮ならしないでね。料理が趣味なの、知ってるでしょう?」
人に食べてもらうのが嬉しいのだ、と微笑まれては、頷かないわけにはいかない。
そんなわけで、キニアンはファロット家で夕飯を食べることとなったのである。
食事の間もむっつりしているカノンに、若干傷ついているキニアンであった。
さっきはあんなに可愛かったのに……と思わないでもない。
そして、空腹が満たされたところで、時計を確認して「やばっ」と呟いた。
「シェラさん、すみません。俺、消灯までに戻らないと」
「あ、そうか。ごめんね、引き止めて」
「いえ。すごく美味しかったです。ごちそうさまです」
にっこり微笑んだキニアンを見送りに立つシェラ。
カノン、とシェラに呼ばれたから、ぶすっとした顔の天使は渋々席を立った。
「それじゃあ。本当に、美味しかったです」
「ありがとう。またいつでも来てね」
「……来るな」
呟くカノンに、シェラは「こら」と嗜める口調になった。
「ごめんね……」
眉を下げるシェラに、キニアンは首を振った。
「カノン」
「……なに」
「あー……待っててくれるのは嬉しいんだけど」
「別に待ってない」
「……あー、えーと……今日は、放課後も顔見られて嬉しかったんだけど」
「当然」
「……」
なかなか手強い女王様に、キニアンとシェラは顔を見合わせて苦笑した。
キニアンは、先ほどしてやったように、ポン、と銀色の頭を叩いた。
「うん。でも、これからは、出来れば一本連絡くれよ。遅くまで残ってると、心配だからさ」
「……」
ジロリ、と睨んだカノンである。
「携帯鞄の中じゃん。ぼく、メール入れたもん。部活終わる時間にも、連絡したもん。でも、返事ないから体育館行ったんだもん」
「……」
これには冷や汗を流したキニアンだ。
それでは、カノンは何度も連絡を入れたのに、返事ひとつもらえない状態のまま、ずっと待っていたことになる。
──この、寂しがりやの女王様が、だ。
「──っ、悪いっ」
「いいよ、別に」
「ホントごめん!」
「いいってば」
顔を顰めていたカノンだったが、ふっと息を吐いた。
「……頑張ってるアリス見るの、嫌いじゃないから」
苦笑に近い微笑を浮かべた天使に、キニアンはしばし無言になった。
シェラは微笑ましくふたりを見つめている。
「……シェラさん」
「はい?」
「三秒だけ、後ろ向いてて下さい」
「──はぁい」
心得たシェラがくる、っと後ろを向いた隙に、キニアンは素早くカノンにキスをした。
「──ちょっ!! アリス!!」
真っ赤になって怒鳴りつけてくるカノンに、キニアンは珍しくあはは、と声を上げて笑った。
「じゃ、シェラさん。また来ます」
「来るな!!」
「いつでもどうぞ。──今度は、泊まりにおいで」
部屋いっぱいあるし、と言うシェラに、キニアンは「あー……」と情けない顔になった。
「……もうちょっと、修行してから来ます」
「だから来るなっ!!」
蹴散らすようにしてキニアンを追い出すカノン。
礼儀正しく頭を下げて出て行く好青年に、シェラはにこやかに手を振った。
そして、キニアンの運転してきたエア・カーが行ってしまうと、真っ赤になっているカノンを見て微笑んだのだった。
END.