「……帰ってきて下さい」
「やだ」
頭を下げ、大きな身体をちいさくしている青年に、銀髪の美青年はにべもなく言い放った。
べーっ、と舌を出すと、傍らにある細身だが逞しい身体に抱きつく。
ピキッ、とソファの向かいに座る青年の気配が硬質化したのを感じ取り、ヴァンツァーは珈琲カップで口許を隠しながらそっと口端を吊り上げた。
試しにむぎゅっ、と抱きついてくる息子の髪を撫でてみると、青年が膝の上で拳を握る。
──あー、面白いかも。
そんなことを無表情の裏で考えつつ、ヴァンツァーは細くやわらかい髪に指を絡める。
ゴロゴロと甘えてくるのが彼に見せつけるためだというのは分かっているのだが、ちいさい頃と違ってこうも素直に甘えられることは少なかったから、気分は悪くない──向かいの青年は最悪だろうが。
「……悪かった。ごめん。謝る」
「当たり前じゃん。悪いのアリスだもん」
「……」
ですよねー、と思いはするのだが、だったら他にどうしろと言うのだ。
機嫌を損ねたのは自分が悪いのだし、カノンをこうして実家に迎えに来ることも、頭を下げることもやぶさかではないのだが……──どうして、そこであえて父親に抱きつくのか。
「原因は?」
涼しい顔をした美貌の男が、静かな調子で口を開く。
珈琲を飲む間も、そう訊ねる間も、長い指は銀髪に絡んだまま。
父親が子どもを可愛がるのは当たり前のことだと思うが、なぜだか彼がやるとそこはかとないいやらしさを感じる。
これは自分の中で何か良くないフィルターがかかっているのだろうか? と疑ってしまうキニアンだった。
「ぼく悪くないもん」
分かって、という風に父を見上げるカノンに、『顔が近い!』と言いたくなってしまうのも、きっと自分がいけないのだ。
──……しかし、腹が立つ。
何に対して苛々するのかよく分からないが、何か、もう、こう、むかむかする。
ヴァンツァーのことは兄のように慕っているが、それとこれとは話が別だ。
相棒がいれば上手く表現出来るのかも知れないが、まさかこの緊迫した雰囲気の中でチェロを取り出して『俺は今何を考えているんだろう?』とやるほど馬鹿ではない。
「誰が悪いとか、悪くないとかじゃなくて、どうしてこうなったのか。それを解決しないと、このままだぞ?」
喧嘩したままは嫌だろう? と言外に訊ねるのだが、カノンはぷくっ、と頬を膨らませたまま口を開こうとしない。
キニアンに目を向けても黙ったまま。
さて、どうしたものか。
「──ふふっ。珍しいね。喧嘩するなんて」
そのとき、シェラが茶菓子の乗ったトレイを手に戻ってきた。
キニアンは『いえ、全然珍しくないんです、いつもなんです』と言いたかったが、余計なことを言うと更にカノンの機嫌を損ねてしまうかも知れない。
であれば、カノンの口から言ってもらうしかない。
「シェーラーーーーー!」
ヴァンツァーとカノンを挟むようにしてソファに座ったシェラに、がばっ、と抱きつく。
はいはい、と頭を撫でたり、背中を撫でたりしてやっているのを見ていたキニアンだったが、不思議だ、なんともない。
親子というよりは仲の良い兄弟か何かのようだ。
姉に甘える弟といった感じもする。
何これ楽園みたい。
不思議だ。
イラッとしない。
「酷いんだよ、アリスってば酷いんだよ!」
「んー? どうしたの?」
キニアンがとてもやさしい青年だということをよく知っているシェラとしては、全面的に彼が悪いわけではないのだろう、と思っていた。
きっと、何かがどこかですれ違ってしまってのではないか、そんな風に考えていたのだ。
「アリスが演奏会でしばらく家空けてたから、ぼく帰ってくる日起きて待ってたんだよ! そうしたら、怒るんだもん!」
「夜中になるから寝てろって言っただろう?」
「いいじゃん待ってたって! 普通喜ぶでしょ?!」
「お前だって仕事で疲れてるのに、そんな無理することないんだよ」
「無理なんかしてないもん!」
………………………………────。
………………………………────。
思わず絶句したシェラとヴァンツァーだった。
ここは呆れるところなのか、笑うところなのか、真剣に悩む。
これはあれか?
所謂『痴話喧嘩』というやつなのか?
そう、互いに視線を交わす。
「ぼく可愛くない? ちょー可愛いよね? 出張行ってた旦那さんのこと起きて待ってる奥さんって、ちょー可愛くない?!」
ヴァンツァーに詰め寄るようにして訊ねる。
どうなの?! と力強く訴えてくる菫の瞳からそっと視線を外し、「シェラ、パス」と呟く。
「──えっ?! 困る!!」
思わずそう言ってしまったシェラだったが、カノンがやはり『どうなの?!』と訴えてくるので狼狽する。
──そのとき。
「「ただいま~」」
元気なハーモニーが玄関の方から聞こえてきた。
ピカッ、と良案を閃かせたシェラは、声の主──ソナタとライアンを迎えに行って、経緯を説明した。
そうして、あとのことはすべて、ライアンに丸投げすることに決めたのだった。
経緯を聞いたライアンは顎が外れそうなほどあんぐりと口を開け、その碧眼は『ばーかーだーねー』と雄弁に物語っていた。
そんなことは百も承知のキニアンは、居心地悪そうにするどころか逆に開き直って腕組みしている。
「……お兄ちゃん、赦してあげたら?」
「やだ」
「そりゃあ、アー君いなくて寂しくて、帰ってきたらいっぱいえっちして可愛がってもらおうとしてたのに全部台無しにしちゃったのはアー君が全面的に悪いけどさ」
「~~~~~~~~っ!!」
ぽりぽり、と頭を書いて何でもないことのように爆弾発言をする、あえて空気を読まない青年に、カノンの白い顔は真っ赤になった。
他の面々は「「「「──は?!」」」」という顔をしている。
「『待っててくれたんだ、ありがとう』って言ってもらって、たくさんキスして、いい子いい子って頭撫でてもらって、いっぱい抱きしめて欲しかったのに、全部、全部ぶち壊したのは、そりゃあもう、救いようがないくらいアー君が悪いと思うんだけどさ」
「……………………」
絶句してしまったキニアンである。
何だ、この男は。
一体何を言っているのだ。
よく分からないが、話を捏造しているにしては、カノンが怒り狂わないのが気になる。
ということは、それは事実だということか?
おいおい、ちょっと待て、何でこの男にそんなことが分かるんだ。
そんな風に考えていたキニアンに、ライアンが呆れたように言った。
「えー、見て分からない? 今お兄ちゃん、身体が開いた状態なんだけど」
こことか、ここの筋肉とか、と説明してくれるのだが、そんなもの一般人が見て分かるわけないだろうが、と額に青筋立てたキニアンであった。
「うそー。身体の状態分からなくても、これだけフェロモン出してれば、普通分かるよね?」
皆に同意を求めるが、両親と妹が家族のフェロモンなんぞに頓着するわけもなく、キニアンに至ってはフェロモンのなんたるかすら分かっていない。
ライアンは、だいぶカノンが気の毒になってきた。
「……可哀想に……」
呟き、そっとカノンの頬を指で撫でる。
それだけのことにびくっ、と反応する華奢な身体に、キニアンは思わず「触るな」と言っていた。
「だからさー、さっさと仲直りして、欲求不満解消してあげなよー」
女の子のような綺麗な顔で、骨格フェチで不思議発言連発のくせに、全部分かったような顔をしてそんなことを言ってくるのが気に食わない──もう、ほとんど八つ当たりだ。
「……やだ、知らない、帰らないっ」
うる、と瞳を潤ませたカノンは、またもやヴァンツァーに抱きついた。
キニアンの眼が据わる。
一触即発の雰囲気を感じ取ったライアンは「じゃあこうしよう」と提案した。
「──腕相撲で勝負だ」
『名案だ』とばかりににっこり笑っている青年に、一同『おいおい』という顔をしている。
「……分かった」
しかし、キニアンはいつもより酷い仏頂面で頷いた。
「えーっと、ソナタちゃんは女の子だから外れるとして、シェラさんとパパさんとおれとお兄ちゃん、四人と勝負して、アー君が勝った数が多ければ、仲直りね」
「あれ? でも四人だと引き分けちゃうよ?」
ソナタの言葉に、ライアンは「大丈夫」と笑みを浮かべた。
「お兄ちゃんはラスボスだから、ポイントふたつ。これなら大丈夫でしょう?」
「あー、うん。おっけー、おっけー。ソナタ審判するねー」
きゃっきゃ、と身内の夫婦喧嘩──らしきもの──に直面しているとは思えないほど楽しそうだ。
「じゃあ、まずはシェラさん」
あれよあれよ、という間に話が進んでしまったが、乗りかかった船だ。
何より、カノンたちに早く仲直りしてもらいたいという思いは、もしかしたら一番強いかも知れない。
「お手やわらかに」
にこり、と微笑んだシェラに、「よろしくお願いします」と頭を下げるキニアン。
少なくとも、シェラとライアンには勝たないと危ないかも知れない、と思うからこそ、力が入る。
いつもは団欒に使われる平和なはずのリビングのテーブルが、さながら戦場と化す。
「はい、手を組んで~」
ソナタの声で、シェラとキニアンは茶器をどかしたテーブルの上で手を組んだ。
緊迫した雰囲気。
手を組んだだけで、少女のような顔をしたシェラが見た目以上の握力と腕力であろうことは分かったキニアンだ。
しかし、この勝負、負けるわけにはいかないのである。
「Ready──Go!」
ソナタの掛け声とともに、ぐっと腕に力を入れる。
現在はチェリストでも、中高と運動部で鍛えていた身体だ。
──タンッ。
静かな音とともに、シェラの右手の甲がテーブルに触れる。
「あー、負けた~」
眉を下げてそんな風に言うシェラに、ヴァンツァーがちらりと視線を向ける。
ぺろっ、と舌を出す様子に、軽く息を吐いた。
「じゃあ、次はおれかな~」
常に笑みを絶やさない青年は、「やるぞ~」と言って腕まくりをした。
本当に、顔の造作同様女の子のように細い腕だ。
さすがに綺麗に筋肉がついているが、シェラ同様折れそうに細い。
「どっちも頑張れ~」
ソナタの声援に、「は~い」と返事をするライアン。
キニアンは、黙ってこくり、と頷いた。
「Ready──Go!」
ぐっ、と腕に力を込める。
「あー、やっぱり結構強いね~」
にこにこと笑っている青年とは逆に、キニアンは内心ものすごく動揺していた。
──めちゃくちゃ強い!!
ちょっと待て、俺は全力だ! と煩く脈打つ心臓と焦る脳と、限界近くまで力を込めた腕とでいっぱいいっぱいのキニアンだ。
目の前にいる金髪碧眼の男は、全然まだまだ余裕といった感じ。
──……やばい。
思った次の瞬間には、手の甲がテーブルに触れていた。
「ライアンつよーい」
「あ、おれ握力七十あるから」
──それを先に言え!!!!
腕相撲に握力は直接関係しないとはいえ、勝てるかそんなもの!!!! と文句を言いたくなったが、負けたことは事実なのでそれに難癖つけるような真似は出来ない。
こうなると、ヴァンツァーに勝てるかどうかがポイントだ。
ここで負けると、後がない。
「……」
悠然とソファに腰掛ける男を睨みつけるようにして、キニアンは気合を入れ直したのだった。
もしヴァンツァーに負ければ一勝二敗。
カノンに負ければそこでおしまいだ。
恐ろしくて考えたくはないが、きっと離婚まではいかないだろう……と思いたい。
だが、しばらく会ってもらえないかも知れない──それは避けたい。
──……この勝負、負けられない。
しかも、相手はヴァンツァーだ。
同じ男として、およそ望むべきすべてのものを持っている人物だから、尊敬出来る人であるのは間違いない。
けれど、何かといえばカノンの口から零れる名前に、面白くないものを感じるのは事実。
「アル」
呼ばれて「はい」と返事をすれば、カノンによく似た、けれど雰囲気はまったく違う美貌にゆるりと笑みが浮かんだ。
「──男の嫉妬は見苦しいぞ」
「~~~~~~~~っ!!」
分かってるよそんなこと! と言いたくなったキニアンは、代わりに表情を引き締めてこう言った。
「……負けません」
「いい眼だ」
どこか愉しそうな表情になった男は、テーブルに肘をつけた。
キニアンもそれに倣う。
大きさはさして変わらないが、硬い手だ。
鍛え方が違うのだろう、と漠然と思いはしたが、それでも挑まなければならない。
もしヴァンツァーに勝つことが出来たら、自分の中で何かがひとつ変わる気がする。
「Ready」
ソナタの声に、ふぅ、と息を吐き出す。
「──Go!!」
──タンッ。
──……え……?
何か信じられないものを見るような目で、眼前の美貌を凝視する。
口許に薄っすらと笑みを浮かべた男は、静かに口を開いた。
「言い忘れていた。──手加減はしない」
右手の甲に感じる硬く、冷たい感触に、キニアンは呆然となった。
「はやっ!!」
「……大人気ない」
ソナタの驚いた声にも、シェラの怒気を孕んだ呟きにも、涼しい顔を崩さない。
「本気でかかってくる相手に手加減するのは失礼だからな」
「……貴様、どの口がそれを言う」
かつては、一度だって本気で戦ってくれたことなどなかったくせに。
そう、恨みがましい視線を向けるシェラ。
「俺は、負けるつもりで戦ったことは一度もない」
「……」
「勝たせてやったところで、納得しないだろう」
まだぼーっとしている青年に、ヴァンツァーは珍しく年長者らしいあたたかみのある瞳を向けた。
「──あとは、ふたりの問題だ」
そう、残すはカノンひとり。
二度負けているキニアンは、ここでカノンに確実に勝たなければならない。
憮然とした表情のままでいるカノンに目を向ける。
「やるよ」
「……カノン」
「言っておくけど、負ける気ないから」
「…………」
糾弾するように真剣な瞳を向けてくる青年に、キニアンはため息を零して左の肘をテーブルにつけた。
ぴくり、とカノンの眉が寄る。
「……なに?」
「お前左利きだろう?」
「だから、なに?」
「フェアじゃないから」
「馬鹿じゃないの? そんなことしたらアリス負けるよ? ぼく、ほとんど両利きだし」
「うん。でも、言い訳したくないから」
むっとした表情になったカノンだ。
「ぼくが利き手じゃなかったから負けた、って言い出すってこと?」
「違うよ」
これには苦笑したキニアンだ。
「全力じゃないお前に勝ったって、俺が納得出来ないから」
「…………」
「気乗りはしないけど、帰ってきて欲しいのは嘘じゃない」
困ったように眉を下げる端正な容貌。
カノンはやはり仏頂面で「分かった」と呟いた。
「──本気でいくから」
「あぁ」
──最後の戦いが、始まろうとしていた。
緊迫した空気を醸し出すカノンとキニアンとは正反対に、周りを囲む面々はほのぼのとした様子でふたりを見守っている。
「「ふたりとも頑張れ~」」
シェラとソナタが声を揃えるが、がっちりと手を組んだふたりは周囲の音など耳に入っていないようだ。
キニアンを瞬殺したヴァンツァーはソファに戻って長い脚を組み、ライアンは相変わらずにこにこしていて何を考えているのかよく分からない。
「ソナタ。レフェリー」
「はいはーい」
兄の言葉に動いたソナタは、テーブルで開始の合図を今か今かと待っているふたりの手に軽く触れた。
「泣いても笑っても、これが最後だからね」
「……あぁ」
「──叩きのめす」
何やら物騒な発言をしている兄に苦笑しつつも、ソナタは最後の勝負の開始を告げた。
「Ready──Go!!」
双方ぐっと力を込める。
その力はほぼ互角。
右手であれば、キニアンが勝ったかも知れない。
けれど、鬼のような楽譜をいとも簡単に弾きこなす左手は、本来戦うためにあるものではない。
力の入れ方が上手くいかないが、『負けられない』という気持ちが力を呼び起こす信号となる。
徐々に、キニアンが押していく。
けれど、負ける気はない、と言っていただけあって、カノンも諦めてはいない。
日頃から鍛えている身体だ。
更に力を込めようとして──。
「──いっ……」
ピクッ、と寄せられる眉。
途端に、キニアンがはっとした表情になる。
「──あ、悪い……」
────タン……
静かな音が、開放的なリビングに殊更大きく響いた。
「「「「──あ」」」」
外野四人が、一斉に呟く。
視線の先には、目を大きく見開いたまま固まっているキニアンと、睨むようにして相手を見据えているカノン。
テーブルについているのは、キニアンの左手だ。
「──……え?」
ヴァンツァーのとき以上に信じられないものでも見るような目になったキニアンに、カノンは傲然と顎を逸らした。
「──お人好し」
「…………え?」
同じことしか繰り返せないキニアンに代わって、なぜかこの男が口を開く。
「あ~あ、やっぱりお兄ちゃんの勝ちか~」
「──ライアン?」
ソナタの問いかけに、ライアンは金色の頭をぽりぽりと掻いた。
「いやぁ、シェラさんはアー君に勝ちを譲ると思ったんだよね。たぶんおれは負けないし、パパさんもきっと本気出すだろうから、あとはお兄ちゃんの気持ち次第、とか思ってたんだけど……」
「え……? なに……? どういう……?」
疑問符だらけの頭と顔で呆然として呟くキニアン。
「アー君はやさしいからなぁ」
「……は……?」
まだ意味が分からない、という顔をしているキニアンに、カノンが訊ねた。
「──チャンスだったのに、どうして力抜いたの?」
訊ねる、というよりは詰問する、と言った方が正しいかも知れない。
カノンの言葉に、目をぱちくりさせたキニアン。
「どうして……? え? 何が?」
「あのまま倒しておけば、アリスの勝ちだったのに」
「え……? だって、お前痛がって」
「芝居に決まってるじゃん」
「…………」
「ほんと、お人好しだよね」
ツン、と顎を逸らしているカノンに、キニアンはまだショックから立ち直れないでいるようだ。
しばらく呆然としていたが、やがてふと自分の左手に視線を落とした。
「……そっか」
痛みを堪えるような表情で、端正な容貌に笑みを張りつける。
「……そっか……」
目を閉じ、拳を握ると、ゆっくりと、深く息を吐き出した。
肺の中を空っぽにするようして息を吐くと、顔を上げてカノンを見つめた。
「……分かった。俺の、負けだな……」
「そうだね」
「……うん、分かった……」
ゆっくりと立ち上がるが、どこかふらふらとした印象を受ける。
深く項垂れた青年は、消えそうな声で告げた。
「……もし、赦してくれる気になったら……連絡くれれば、迎えに来るから」
「帰らないって言ったら?」
「──っ…………」
思わず唇を噛んだ。
かっこ悪い。
シェラには勝ちを譲られ、ライアンとヴァンツァーには完敗し、カノンにも負けた。
ここにいる男の中で、最弱だということだけが証明された。
それは力そのものということもあるが、精神面でも負けたということだろう。
言い訳はしたくない。
それは、最初に言ったこと。
だから、ここは引き下がるしかない。
「……待ってるよ」
それしか言えない。
悪いのは、自分だ。
カノンの気持ちも考えず、自分の考えを押し付けてしまった。
カノンが何を望んでいるかなんて、全然分かっていなかった。
怒るのも当たり前だ。
それでも、もし帰ってきてくれるのなら、そのときは今度こそ間違いなく抱きしめて迎えよう──今考えられるのは、それだけ。
「──ばっかじゃないの?」
『ば』をやたら強調した台詞に、顔を上げる。
やはり不機嫌全開の女王様は、立ち上がると腰に手を当てた。
「ぼく痛がるフリしたんだよ? ずるくない? それこそ『フェアじゃない』って言えばいいじゃない。そうしたらこの勝負無効でしょう?」
「……負けたのは、事実だよ」
「ぼく、ズルして勝ったんだよ? 納得出来るの?」
「……帰りたくないから、やったんだろう?」
「本気で帰って欲しいなら、首に縄でもつけて引っ張っていけばいいじゃない」
これには、大きくため息を吐いて首を振るキニアンだ。
「俺、お前が我慢してるの見るの、嫌なんだ」
「…………」
「上辺だけの笑顔張りつけてるの、見たくないんだよ」
「…………」
「ほんと、ごめんな……何で俺、こんな空気読めないんだろうな……」
情けない、と零すキニアンに、カノンは「はぁぁぁぁ」と、特大のため息を零した。
「ヘタレ」
「……はい」
「わんこ」
「……ごめんなさい」
身長差はだいぶあるのに、ふんぞり返ったカノンとちいさくなったキニアンでは、あまり大きさが違うようには見えない。
腕を組んだ女王様は、別に、と言って顔を逸らす。
「悪いとは言ってないけど」
「──え?」
新緑色の瞳を丸くするキニアンに、ちらり、と視線を向ける。
「反省してる?」
「──はい」
「もう二度としない?」
「今回みたいなことは……出来るだけ」
「約束する?」
「…………善処、します」
生真面目な青年は、出来ないことは口にしない。
だからこその精一杯であろう台詞に、カノンはもう一度ため息を吐いた。
「じゃあ、ただいまのキスして」
「──は?!」
「してくれなかったじゃん。してよ」
「……ここで……ですか……?」
「当たり前」
「…………」
えーっと、と周りを見るが、四人が四人とも一斉に目を逸らした。
「…………」
黙認します、という合図に、それでも恥ずかしさで死にそうになったキニアンだ。
カノンとその他四人とを見比べ、葛藤に葛藤を重ね。
──ちゅっ。
「……あのさ。いつも言ってるんだけど、何で頬なのかな?」
「……家……家に帰ったら、ちゃんとします」
「ここだっていいじゃん」
「いや、だいぶ良くないと思うんですけど」
「じゃあ帰らない」
「~~~~カノン!」
「して」
梃子でも動きそうもない女王様に、キニアンはやはりまた葛藤を重ね。
──ちゅっ。
軽く、本当にごく軽く、触れるか触れないかのキスを唇に。
お前ふざけんなよ、という表情で額に青筋立てたカノンだったが、『もうこれが目いっぱいです!』というキニアンの訴えに、やわらかな銀髪をガリガリと引っ掻く。
「……はいはい、分かりました。ぼくってば大人だから、今はこれで勘弁してあげる」
「ごめんなさい」
「本気で反省してね」
「……はい」
恥ずかしさと反省とで豆粒のようにちいさくなってしまったキニアンに背を向け、カノンは行儀良く顔を逸らしていた面々に向き直った。
「──そういうわけなので、帰ります」
こうして、とても平和な痴話喧嘩騒動は幕を閉じたのであった。
END.